第64話 別れ、旅立ち、そして出会いの日
「ぐ、げほっ」
ユリカは石の地面の上に仰向けに倒れていた。前にも1度こんな経験があったなと、彼女の頭はそんなどうでも良い思考に支配されている。
いつもはせわしなくこれからのこととかを考えている彼女も、今だけはそんな気力が湧かなかったのだ。
(・・・疲れた。)
彼女は自分の体に目をやる。右腕はぐちゃぐちゃだ。まるで軟体動物のようにあり得ない方向にひん曲がっている。左手はまだ無事なようだ。足も打撲程度で済んでいる。
そして後は腹部。
穴が開いていた。大きさは握りこぶしより一回り大きいくらいだろうか。
(致命傷ね・・・)
止めどなく溢れてくる自分の血液をぼうっと眺めながらそんなことを考えるユリカ。
最早痛みはほとんど感じなくなっていた。世界から自分が隔離されていっているかのようなそんな不思議な感覚に陥りながらも、彼女は1人最後の時を待っている。
しかし、そんな彼女の最後の時間に入り込んでくる者がいた。
「遺言があるなら聞いておくわ。」
それは少女の声だ。ユリカが音源の方に目をやるとそこには、自分とそっくりの少女がいた。
「遺言があるなら聞いておくわ。」
血まみれの少女を見ながらユリカはそう声を掛ける。我ながら馬鹿な質問だとも思いながら。
そもそも返ってくる答えはもう既に知っているのだ。
「・・・不思議なことを、聞くのね。」
その目に疑問の色が浮かべながらも、ゆっくりと聞き返す少女。
その様子は息も絶え絶えであり命が長くないことは誰の目にも明らかであったが、両者ともにそんなことを気にする様子はみじんもない。
「手紙は預かって行くわ。」
倒れている少女の近くに歩み寄り、そのポケットから一通の封筒を取り出すユリカ。
言葉をかける意味は特になかったがそれでも何となく口に出してしまうのは人間の性なのだろうか。
「・・・どうぞ。」
もう既に事切れていてもおかしくないような状況でも意外にも少女は律儀に返事を返してくる。
どうやら彼女にはあと少し時間が残されているようであった。
もっとも、これ以上は本当にすることもないので、血まみれの少女はもう行けと言わんばかりに目を閉じてしまったわけだが。
しかし運命のいたずらかここでユリカは1つの事を思いついた。
「それと・・・」
そこまで口に出してその先を言うことをためらうユリカ。1度は目をつぶった少女も不思議に思ったのか再び目を開けてユリカを見ている。
そして数秒の時間が流れた。怪訝な表情でこちらを見つめてくる少女に対して色々と雑念のようなものを考えていたユリカがついに口を開く。
「お疲れ様。」
「へ?」
ありきたりな言葉だ。しかしまるで時が止まったかのような静寂が一瞬の間場を支配する。目の前の少女にとってはそれは平凡でありふれた、どこにでもある言葉ではなかった。
しかしそんな少女の様子など気にも留めず、ユリカはかがんで彼女に近づきそっと手を差し出す。
「う、うん?」
そして動けない少女に触れると、優しい手つきでその頭に触れた。
ますます不思議そうな顔になる少女に対して、ユリカは口を開く。
「私、こうされるのが好きなのよね。」
そう言いながらステラにしてもらったときのように優しく頭を撫でるユリカ。思えばこの少女はこのように優しく労られた事など無いはずである。なまじ力があった分、彼女は基本的には矢面に立ち続けてきた。
「・・・そう、だったのね。」
「意外と気がつかないものよね。」
友として接してくれる人がいようと、導いてくれる師も守ってくれる母もいなかった。そのような日々を送っているうちに彼女にはいつの間にか守るべき2人の少女がついてきていた。
疲れ、何かに寄りかかりたいと思うのはごく自然な事だろう。もっとも彼女がそれに気がつくためには生きてきた年月がまるで足りないが。
故に2人がしているの会話は実はあまり的を得ていない。しかしそれでもその行為は少女の終焉を静かな光で彩っていた。
そうしてたわいもない会話を続ける2人だったが、それも長くは続かなかった。
傷だらけの少女のまぶたが段々と落ちていく。
(まさか自分の最期を看取るなんてね・・・)
複雑な気持ちになりながらも、それでも少女の頭を撫で続けるユリカ。
いかに彼女と言えども必死に生きてきた事さえ忘れ去られる定めの少女を、最後に自分だけは労ってあげたいと思うくらいはするのだ。
そしてしばらく経ち、ついにその時が訪れる。
「えっ?」
その時ユリカは初めて困惑した。
少女の体が淡い光を放ち、崩れ始めたのだ。
思わず、この世界の人間が死ぬともしかしたらみなこのようになるのかなど、突拍子もないことを考え始めるユリカだったがすぐにその考えを棄却する。
彼女は何となく最初の内から感じていた、気持ちの悪い違和感に終止符が打たれたような気がした。
体が白い光となって崩れていく少女も、一瞬驚くような表情を見せたがすぐに穏やかな表情に戻る。つまり彼女も理解したのだ。
何故記憶が無かったのか、その真実に。
(あの白い部屋が本当に私の始まりだったという訳ね。最初から人ですらなかった。だから私は死ぬのがこんなにも怖くないのかしら?)
ふと浮かんだユリカの疑問に答える者はいない。しかしそれでもよかった。おそらくこの問に答えが出たとしても既に意味は無いのだから。
(・・・さようなら)
誰に向けてと言うわけでもないその言葉が発せられることはついぞ無かった。最後のかけらが光となって名残も残さず溶けていく。
最早彼女に関する一切のことは、1人の少女の形をしたものを除いてこの世から姿を消してしまったのだ。
こうしてユリカという少女は、未練も遺志も残さずにこの世を去ったのであった。
しかし彼女の旅は別の誰かに引き継がれる事となる。
「にゅっにゅっにゅー(あなたたちの主人に会ったわ。好きにしなさいという事だったわ。)」
「ニュニュッ、ニュニューニュウウ(そうか、ステラ様に・・・わかった。それでは達者でな。)」
戦いが終わり、適当なことを言ってアザラシたちとの関係を切り上げるユリカ。もちろんステラはそんなこと言ってはいなかったが、最早彼女はこの世にはいないのだから彼らを自由にしてやっても罰は当たらないだろう。
「にゅにゅっにゅー、にゅにゅう(それじゃあね。あまり人様に喧嘩は売らないのよ。)」
ユリカはアザラシに別れを告げ、洞窟の出口を目指して歩き出した。
幸運にもアザラシたちは道を知っていたようで、脱出経路を聞き出すことが出来たのだ。
そして約1時間後、彼女は洞窟を脱出する傍ら、新しい肉体の性能を大体把握することに成功していた。
(この体とんでもないわね・・・)
その結果彼女が抱いた感想はこの一言に尽きるものであった。
ユリカを殺した獣。その肉体と同じものを手に入れたユリカであったが、やはりというべきかそのスペックは生物の域を逸脱していたのだ。
「えいっ!」
目の前にあった彼女の身長の2倍はありそうな大岩に手を添え、力を加えるユリカ。普通であればこんな岩が道を塞いでいては諦めて迂回するほかに道はないが、今の彼女にとっては大した障害ではない。力を加えると同時に地面がぴしりと音を立ててきしみ、大岩はいとも簡単に転がった。
(重機みたい・・・それに)
「よっ。」
今度は巨大な壁を前にして軽く地面を蹴り飛び上がるユリカ。
洞窟内というのは思いのほか高低差があり、乗り越えるのには登攀の技術が必要な場所もあったりするのだが、それも今のユリカにとっては障害でも何でも無かった。
軽いジャンプ一回で自身の頭よりも上にあった足場へと飛び移る。
(当然脚力も強化されていると。)
トトトンと軽快な音を立てながら広い縦穴を登っていくユリカ。本来であればこれだけの速度で動いたりすれば自分の動きに反応が付いていかないはずだが、そんな事はなかった。
(反応速度と動体視力も上がっているわね。)
まるで今までとは違う時間を過ごしているようなそんな気分である。今の彼女であれば大リーグで打率10割も夢ではないだろう。
こうしてユリカが50メートルほどはありそうな縦穴を登り切ったとき、ふと彼女は動きを止めた。
「・・・」
「あれ?」
立ち止まったユリカは、息を潜めて耳に神経を集中させる。なにやら人の声のようなものが遠くから聞こえた気がしたのだ。
「助けてえー。」
「やっぱり。」
今度は先ほどよりもはっきりと声が聞こえてきた。どうやら音源はこちらに近づいているようである。しかしここでユリカは奇妙な事に気がついた。
(女の子の声よね?まだ地上からはかなり遠いはずなのに。)
かなり登ってきたとは言え、アザラシたちに聞いた話を信じるならここから地上への出口までは歩いて5時間ほどかかるはずである。洞窟を探検しに来たハンターならいざ知らず、かなり幼いと思われる声の主がいるにしては場違いだ。
(女の子の声をまねる魔物とか?いやそんなわけ無いか。いざとなったら逃げれば良いしちょっと見てみようかしら。)
今までの経験から何となく危険な匂いを感じ取ったユリカ。しかし化け物の体を手に入れたこともあり、好奇心が勝ったようである。
(あっちのほうよね。)
帰り道のルートから少し外れてユリカが横穴に入る。
そうして岩陰から声のした方を覗いて見ると、そこには巨大なヘビと年端もいかない少女の姿があった。
(本当に幼女だった・・・それにあれはデカヘビか。)
ここに来てユリカは街を出た本当の理由を思い出していた。そうアザラシなど元々どうでも良かったのだ。彼女はデカヘビを狩りに来ていたはずである。
(ただ働きなんてやっていられないものね。)
ユリカとて諸々の恨みや、ストレスもたまっていたようである。そこに丁度良く獲物が現れたのだからやることは最初から1つであった。
次の瞬間彼女は岩陰を飛び出した。
「きゃああ!!」
ユリカが飛び出した時、ヘビはまさに少女に飛びかかるところであった。デカヘビは動きが比較的遅いとは言え、それでも10歳にもならない少女が足場の悪い洞窟内でその攻撃をかわせるはずはない。
少女はどうすることも出来ずに目をつぶり、体を丸める。
しかし、次の瞬間やって来たのはヘビの大顎ではなく鈍い衝撃音であった。
ドガアッ!!
「あれっ?」
いつまで経っても痛みと衝撃が訪れないことを不思議に思った少女が恐る恐る目を開ける。
そして彼女は思わず小さく声を漏らした。
「ひいっ。」
それは無機質な洞窟内を鮮やかに染め上げていた。
鮮血を上げ、丁度倒れ伏すところだった巨大なヘビの胴体。それに元はくっついていたであろう巨大な頭。
そしてその真ん中に立つ、全身をべっとりとした赤い血に覆われた少女。
「ぴいいいいいい!」
(あ、やらかした・・・)
泣き崩れる少女を前に、そんな事を思うユリカ。図らずも最悪のファーストコンタクトの完成であった。