第62話 いくら考えていても避けられない厄災はあったりする
扉をくぐったユリカたちが立っていたのはドーム状の巨大な空間の中であった。
床には赤い線が幾何学的な模様を描いており、壁には等間隔で石柱が立ち並んでいるその様子は、ここが何らかの儀式を行う場であった事を見た者に知らせてきている。
そしてその儀式の主役であったと言わんばかりに、空間の中央には奇妙な形の石造が鎮座していた。
それに近い動物を無理矢理上げるとすればオオカミだろうか。しかしながらその背には二対の羽を携え、額からは鋭い角が生えている。
この世界にこのような動物が存在するのかをユリカは知らなかったが、実際に存在する動物をモチーフにしたというよりは、人為的に格好良くなるようにいくつかの動物のデザインを混ぜ合わせた妄想の産物という印象を彼女は受けた。
(スフィンクスみたいなもの?まあ、それはそうとして・・・)
ざっくりと部屋全体を見渡した後、ユリカは横目でアザラシたちの様子を観察する。
そう、彼女には別にここを調べる理由はないのだ。何故アザラシがここに来たがっていたのかとか気になることがないわけではないのだが、それでも彼女は今までの経験から、こういうのに下手に関わってもろくな事が無いことを知っているのだ。
(さすがに帰りたいって言っても大丈夫なはず・・・)
「にゅう(あの・・・)」
未知の場所に関してわいわい話し合っているアザラシたちの様子を見て、近くにいたボスアザラシへと話しかけようとするユリカ。その判断はおおよそ間違っていなかったことだろう、しかしながら惜しむらくは彼女がもう引き返せないところまで足を踏み入れてしまっていた事だろうか。
突然聞こえた声がユリカの言葉を遮る。
「座して待たれよ」
それはよく通る低い声だった。
この一言だけでは普通その意味するところを知ることは敵わない。しかしながらユリカだけは別である。この世でおそらく彼女だけが持つであろうその能力はこういった先制攻撃に対して圧倒的な防御力を発揮する。
(これは、魔法!)
「にゅにゅっ!(みんな!)」
危険を察知したユリカがそう叫んだ瞬間、ドームの入り口に半透明の膜が出来上がる。その膜の正体を彼女は理解していた。
(結界、それも生物だけを通さないやつ・・・)
気がつけば目の前では石像からすべすべとした無機質な質感が消え去り、完全に獣へと変化していた。空想の産物だと思っていたものが、実際に目の前で動いている。これだけでも驚愕すべき事だが、いろいろな理不尽を経験してきたユリカの脳はそれに驚くよりも前に最適解を導き出すための計算を始めていた。
(逃げ道を塞がれた、間違いなく敵対行動、この距離はまずいか。)
周りの状況、それを踏まえて今どうするべきか。それらの考えが高速で彼女の頭の中を駆け巡る。
そして次の瞬間、前から聞こえてきた台詞と合わさって彼女の行動は決定した。
「死んで、ください。」
「くうっ!」
その言葉が開戦の合図であった。
直後、彼女は後ろに向けて全力で飛び退き、それに一瞬遅れて獣の前足が振り下ろされた。
「がっ・・」
回避行動を取ったにもかかわらず、声にもならない声を上げユリカが弾き飛ばされる。それでももし仮にユリカがバックステップを行っていなければ誇張抜きに地面の染みとなっていたことであろう。
しかしながら最適解を選んだにもかかわらず、そのダメージは大きかった。
「ぐっ、痛あ・・・」
石の地面をしばらく転がった後、ユリカは何とか起き上がる。今までの経験の賜か、何とか受け身は取れたようで致命的な怪我はしなかったようだが、それでも全身が軋みそこかしこにズキズキとした痛みが残っている。
しかしながら彼女に休憩する時間は無かった。
彼女が顔を上げるとほぼ同時にその場に影が差す。
(は?速すぎ・・・)
「くうっ」
影の一端が目に入った瞬間、最早その正体を類推する時間すら惜しむようにユリカは全力で転がる。回避と言うよりも怖くて反射的に体が動いたと言う方が近いような有様だが、それで正解だったようだ。
ズドッ!
ほんの一瞬前までユリカがいたところに巨大な前足が石の地面に文字通り突き刺さった。
「はあっ?」
(嘘でしょう?どうやったら足が石に突き刺さるのよ。というか出口!)
横目でその尋常ではない光景を目にしたユリカは戦々恐々としながらも、次の一手を考えていた。逃走するのがベストではあるが、彼女は見た魔法を理解出来るという自身の特性からそれが叶わないことを知ってしまっている。
(結界を破る手段がない。つまりあれを倒すしかないけれど・・・)
結論は出ても具体的な手段がなにも思い浮かんでこないユリカ。相手は今まで闘ってきた敵の中でも規格外の存在であった。そもそも反撃云々以前に、一瞬後には彼女がこの世から消えていてもなにもおかしくないような相手なのだ。もちろん魔法を詠唱する暇などあるはずもなかった。
(まずいか・・・)
そうして彼女の心を諦めが支配したとき、不思議なことが起こった。すぐにでも追撃を仕掛けてくると思われた獣の動きがなぜか止まったのだ。
「えっ?」
「何故、でしょう?殺せた、はずですが。」
獣はユリカの方を向きもせずにぶつぶつと何やら呟いている。
しかしこれは彼女にとっては千載一遇のチャンスであった。そして彼女の研ぎ澄まされた神経はそのチャンスを逃さない。
(最大火力!)
「その道程を・・・」
「こう、ですか?」
耐久力が未知数の相手に対してユリカが選んだものは自分の持ちうる最強の火力であった。しかし彼女の言葉が終わるよりも早く獣の姿が変化した。
まるでさなぎが羽化する瞬間のように、獣の背から、脇腹から無数の腕が飛び出してくる。
それも今までの毛皮に覆われたオオカミのものではない、すべすべとした橙色の人の手が。グロテスクなその光景は見た者の気分を害するには十分なものであったが、ユリカに取っては最早そんなことを言っている場合ではなかった。
先ほどまであったかに思われた時間的な猶予は既に消え失せてしまっていた。
「光が導く」
「残、念」
ユリカの詠唱が終わり光の帯が浮かび上がる。しかしわずかに遅かった。彼女の魔法はその性質上、唱え終わってから加速するまでにわずかなラグがある。その一瞬の遅れが致命打となってしまった。
(まず・・・)
ぎりぎり避けきれないタイミングで巨大な腕がユリカに迫る。その一撃はこのままでは確実に彼女の頭部を破壊することだろう。
(間に合わな・・・)
ユリカはその瞬間、自分の死を直感していた。もはや自分の力ではどうすることも出来ない、そんな本物の絶望が彼女の胸に去来したのだ。
しかしこの極限状態にあって彼女の脳はむしろ落ち着きを取り戻していた。
(これじゃあ手紙が・・・もういいか)
そして彼女が全てを諦めたとき、無慈悲な一撃が彼女の命を刈り取る・・・
「ニュウア!!」
ことはなかった。
ズザッ!
まさに一瞬の出来事であった。ユリカの命を奪わんとする巨大な腕が一刀のもとに切って落とされたのだ。
次の瞬間切断されたことでわずかに威力と軌道が変化した腕がユリカの右腕を強烈に殴りつける。
ミシッ
衝撃を受け止めたユリカの腕からはいやな音が鳴り、直後彼女は猛烈な勢いで吹っ飛ばされていく。
「が、は」
何度も床にたたきつけられ、息をすることすら出来ずに地面を転がったユリカは10メートル以上進んだ先でようやく停止していた。
幸運にもと言うべきかは定かではないが、狙いが急所から逸れたことにより彼女は奇跡的に生き長らえることに成功したようだ。
しかしその代償は当然ながら大きい。
「ぐうっ!」
(痛い、痛い、痛い。右腕、折れた?上がらない。いや、それより追撃が。)
追撃に備えようと涙を浮かべながら何とか起き上がろうとするユリカの右腕に激痛が走る。骨折の経験は彼女には無かったが、何となく自分の右手はもう使い物にならないのだろうと彼女は察する。
最早彼女の体はボロボロであり、追撃に備えるとかそんな次元の話ではなかった。そんな彼女にかろうじて出来たことと言えば、顔を上げて化け物の方の様子をうかがうことだけである。
しかしそこで彼女は予想だにしない光景を目にすることとなる。
目の前では目つきの悪いアザラシが暴力の化身とも言える獣と対峙していたのだ。
「ニュニュウニュ、ニュウニュッニュウ(次元断)」
ボスアザラシが魔法を唱えると宙に浮く斧が現れる。そしてそれはアザラシを殴りつけようとした獣の前足を切断した。
ズドオッ!
「ニュニュウニュ、ニュニュッニュ(獄閃)」
「小癪、ですね。」
今度は槍が現れて左右からつかみかかる腕を貫いた。
今、アザラシの両ひれにはそれぞれ剣が握られており、先ほどまであった斧はいつの間にか消えていた。
そして残った槍はまるで自らの意思を持っているかのように、ふわふわと空中に浮かんで相手の攻撃をいなしている。
驚くべき事にボスアザラシはあの化け物と互角の戦いを演じていた。
(つっよ・・・何がどうなったらあんな・・・)
ボスアザラシのあまりの強さに思考が停止しかけるユリカ。しかし目の前の状況はあまり楽観視できるようなものではなかった。
「ニュアッ!!」
ボスアザラシは鬼神のように暴れ回り、二つの剣で獣の体を切り刻んでいる。しかしながら獣の方もまさに無尽蔵に体を再生していた。再生にはさすがに限度があるとは思いたいユリカであったが、それでもアザラシ側は一撃でもまともに食らえばお陀仏なのだから分が悪いに決まっている。
ちなみに他の一般アザラシたちはと言うと部屋の隅に集まり旗を振って応援している。援軍にも期待できない状況であった。
そしてさらに状況は悪くなる。
「うわ・・・」
ユリカの口から思わず声が漏れてしまうのも仕方ないことであった。ここに来てまたしても獣の体格が大きく変化したのだ。腕から腕が枝分かれし、死角を無くすように目がびっしりと生えてくる。その生命を冒涜するかのようなおぞましい姿はかつて彼女が森で出会った異形を彷彿とさせた。
しかしここで彼女は一つの事に気がつく。
(あれ?今魔法使ってないわよね?)
ユリカは魔法が発動されたタイミングで相手のことを視認していれば、何となくどんな魔法が発動されたかを感じ取ることが出来る。しかし今回の場合はなにも感じ取ることが出来なかった。
(え?あの変形も再生も魔法じゃなくてただの身体機能だというの?いやでもそんな生物がいるはずが・・・あれ?もしかして最初から魔法がかかっていた?と言うよりもあれ自体が魔法なのかしら?)
異形しかり、エリサしかりこの世の中には生きている魔法がいることを彼女は知っている。存在が魔法そのものというといまいち理解しがたい概念だが、結局のところそれらは魔法の効果でしかないわけだ。つまるところ魔法の発動が終わればそれらは理論上は消え失せると言うことになる。
例えば剣の魔法であればユリカが発動を止めたら、出てきた剣は跡形もなく消えてしまうのだ。
(要するにあの魔法を終了させてしまえば良いのよね。術者が設定した効果期間を過ぎていなくても外部からのアプローチで魔法の目的を達成させてしまえば停止は可能だったわね。)
かつての経験を思いだしながら、一筋の光を見出すユリカ。しかしそれをするに当たって今回はなかなかに厳しい状況にあった。
まず、彼女に残された時間はアザラシが敵と均衡している間だけである。
そして手がかりとなりそうなものがほとんど無い。
(異形の時は目の前で自分の存在を構成していた魔法を都合良く唱えてくれてたから解析できたけど、今回初手の結界は魔法としては独立していた。体内に魔道具かなんかを後天的に植え込んだって感じかしら?後ヒントになりそうなものは・・・)
「あれか・・・」
ユリカの目線が向いたのは床に走る何本もの赤い線であった。