Ⅲ.標的-Target-
その出逢いが後に、君と彼を追い詰める事になるなんて。
――その時は誰も、想像していなかった。
「そんな所で座り込んで、どうしたんだ?」
長い茶髪を後ろで纏めている、炎のような紅い目が印象的な男性。 彼は、璃王が座っている手摺りに歩み寄ると、璃王に声を掛けてきた。
え、何で男に声を掛けられてんだ?
璃王はそんな事を考えて、思い出す。
そう言えば今、女の姿だっけ?
自分の身体に呪幻術を掛けて身体を改造しただけであるが、鏡を見た自分は本当にそれだけで女になっていて、ナルシストではないがそこそこ男ウケの良さそうな顔をしていた。
それもこれも、先祖からの隔世遺伝だろう。
「人に酔ってしまったから、風に当たっていたんだ。
君こそ、こんな所でどうしたんだい?」
璃王は、男性に同じ質問を投げ返す。
すると、同じ質問を返されるとは思っていなかった男性は、言葉に詰まった。
まさか、「見惚れていたらふらっと来てしまった」なんて、言える筈がない。
「もしかして、見惚れていたらふらっと来てしまった、とか?」
ポロリと落とされた言葉に、男性は豆鉄砲を喰らった鳩の様な驚いた顔をした。
璃王の言った言葉は今、正に自分が考えていた事だからだ。
璃王は男性の反応に「やってしまった」と口に手を当てる。
璃王は、無意識に相手の考えを読み取る厄介な能力を持っていた。
それが呪いによる作用なのかは解らないが、常に他人の深層心理や思考を読み取れてしまう為、璃王は普段は意識的にそれを制御している。
しかし、その制御は完全ではないので、何も考えていなかったり別の事に気を取られていたりすると、その制御が出来なくなってこうして、相手の思考を読み取ってしまうのだ。
璃王は内心で焦っていた。
どうしよう、どうにか何でも良いから誤魔化さないと――!
「冗談だよ、面白い顔」
「自覚はないが、よく言われる」
クスッと口元に手を当てて微笑む、璃王。
その笑みが何故か懐かしく感じる。
男性は、既視感を覚えた。
男性はつられて微笑むと、璃王に手を差し出した。
「折角の夜会だ。 ここで良いから一曲、踊らないか?」
「え? あ……」
どうやら、誤魔化せたようだ、と考えていた璃王は、男性の突然の申し出に素っ頓狂な声を落とす。
差し出された手から男性の顔へと視線を移すと、微笑んでいる男性と目が合った。
何故だろうか、凄く懐かしく感じる。
自分を射貫くような、綺麗な真っ赤な目。
恐らく、会った事があるのなら、忘れないだろう。 しかし、思い出せない。
璃王は、何故か感じる懐かしさに思わず頷いた。
「喜んで」
男性の手を取ると、璃王は手摺りから降りる。
別に、断る理由がなかった訳じゃない。 ただ、暇なだけ。
(そう、ただの暇潰しだ)
一礼をして、璃王は男性のステップに合わせ、踊り出す。
緩やかな夜風が2人を包むように吹き流れた。
―― ――
―― ――
一方その頃、弥王の方は、グランツに人気のない燭台の明かりがぼうと灯っている部屋に通されていた。
こうもあっさりと部屋に通されると思っていなかった弥王は、ほくそ笑む。
初めてハニートラップという物を使ったが、それにしては上々の出来だろう。
ぶっつけ本番でこんなに上手くいくなんて思っていなかったが。
もし、今、姉貴が近くに居るなら、感謝していただろう。 自分に姉貴が居て良かった――。
弥王は、今は居ない姉に頭が上がらない。
さて、部屋に入った次は何をしようかな。
最低限、変死事件の事は吐き出させるとして。
自分としてはこのまま、さっさと殺ってしまいたいのだが。
そんな事を考えていた弥王の耳に、グランツの声が聞こえた。
「ひとつ、訊きたい事があるのだけれど、いいかな?」
「えぇ、どう――ッ!?」
弥王が頷こうとした時には、弥王の視界が揺らいだ。
一瞬、何が起こったのか、弥王は反応が遅れる。
あ――、やばい。これは非常にマズイ。
想定外だった。まさか、初対面の女を突然押し倒すなんて思わないじゃん。
いや、誘ったのは自分だけど。
だけどさぁ、こういうのはもっとこう……雰囲気重視じゃん、普通はさぁ……。
弥王は、ベッドの上に押し倒されたのだ。
目の前にはグランツの顔と、その背後に仄暗く天井が映っている。
幾ら自分も男の子とは言え、力になると成人男性には力になると敵わないよなぁ、これ。
今は貞操の危機よりも命の危機を感じる。
弥王は考えを巡らせた。
「正直に答えて貰おう。 君はファブレットの何だ?」
紺碧の瞳が自分を射貫くように見つめてくる。
その質問で、弥王は彼が変死事件の容疑者――切り裂きジャック2世であると言う事の可能性を切り捨てた。
彼が狙うのは、無差別の10代から20代半ばの女性だ。
その代わり、別の事件の犯人である可能性が浮上した。
変死事件とは別に、婦女子失踪事件が起こっていたのだ。
その調査も同時に依頼されていて、筋金入りの男嫌いで定評のある女王陛下からは、「もし見付けたら、市警察なんぞに渡さずに死刑で良い。 女に危害を加えるようなクソは、ポリ公のマズ飯すら食う資格もない、殺れ」と、殺し屋の目で命じられていた。
グランツがその婦女子失踪事件の犯人であると言う可能性が出てきたのだ。
婦女子失踪事件の被害者は何れも10代後半から30代前くらいのグレア・ファブレットと関わりのある女性。
先程のグランツの質問は、自分が犯人であると言う事を暗に言っていた。
「それを訊いてどうするの?
彼に近いと知ったら……例えば私が、彼の恋人だとでも言えば、私を殺す?」
「!?」
無表情に問う弥王の言葉に、グランツは狼狽した。殺気を孕んだ冷たい目。
今にも殺されそうな緊張感が身体を戦慄わせた。
何だ、この恐怖にも似た緊張感は? まるで、死宣告者――それも、スラムにいるような、ちゃちな死宣告者を自称するチンピラのような連中以上――と対峙しているかのようだ。
彼女が死宣告者なら、グレア・ファブレットと一緒に居た事を考えると裏警察?
裏警察で紫の長髪の死宣告者と言えば――。
グランツの口から、言葉が零れた。
「もしかして君は……悪夢の伯爵……!?」
言い終わる頃には、その目には畏怖の念が籠もっていた。
こんな所で不吉な死宣告者に会ってしまうなんて……!
「ふっは……はは……っ」
グランツの恐怖に染まった目を見た弥王の口から、乾いた笑いが零れた。
そんな馬鹿な、と、グランツは零す。
「悪夢の伯爵は男だと聞いていた……君は女だ……もしかして、悪夢の伯爵は……女、だったのか……?」
狼狽えて、グランツが弥王から手を離したその時に、弥王は渾身の力でグランツを蹴り飛ばした。
よろめいたグランツが体勢を立て直さない内に弥王は素早く起き上がり、チェストの上に置いてある果物ナイフを取り上げて、それをグランツの胸に深々と突き刺す。
少しして、白いシャツの下から赤い染みが広がって、グランツは力なくその場に倒れた。
弥王がパチン、と指を鳴らせば、弥王の姿が男性的なシルエットに戻り、弥王は髪を解いて、ドレスの下に仕込んでいたいつもの白いシャツを取り出し、ドレスを脱ぎ捨てて着替え始める。
「……冥土の土産に教えといてやるよ」
冷たくなっていく息絶えた骸に、弥王はゆっくりと語りかける。
その声は、底冷えするような冷たさを感じた。
「呪幻術師と幻奏者は呪術と幻奏術によって、自分に呪いを掛ける・幻術を掛ける事で性別を変えたり、他人から見た自分の性別を騙す事が出来るんだよ」
ユリアの呪幻術師――通称、呪幻術師と呼ばれる者、それと、アウラの幻奏者――通称、幻奏者と呼ばれる者。
その者達は文字通り、呪術・幻術を黒魔術として扱う者と、音を奏でる事により幻術を扱う者の事で、彼らは俗に言う【裏の力】と言う物を持つ人間――つまり、「裏社会の人間」に分類される者。
そんな者達の中でも一際、その力が強いのが弥王と璃王である。
とは言っても、時代と共に呪幻術師は増加しているが、幻奏者は減少している。
それは、最近では呪幻術師と幻奏者が同一視されて来ている事と、幻奏術を使う時に必要な特殊な声質、【O.C.波】と呼ばれる声質を持つ人間が少なくなってきている事が原因の一つとなっている。
「――まぁ、オレが悪夢の伯爵だと気付いた事だけは認めてやらんでもない。
それと――」
ポケットからオイルを取り出して、ドレスにそれを染みこませ、残りをグランツの亡骸を中心に部屋に撒いていく。
オイルの独特の臭いが鼻を付いたが、ホールの中を漂っていた香水の匂いよりはマシだと思う。
弥王は途中で言葉を止め、グランツが生前に訊いてきた質問を思い出した。
『君はファブレットの何だ?』
「オレは――」
弥王は、先のグレアの言葉を思い出す。
『彼女は私の恋人だよ』
別に、気にしている訳ではない。
解っている。 自分と彼との間にそんな関係は有り得ない。
今までも、そして、これからも。これはただの憧憬だ。
弥王としてはグレアの事は、ちゃんと上司として尊敬して、憧れているつもりだ。
確かに殺意を抱く事もあるが、それはただの反抗期なだけで。
弥王は火の付いているカンテラを床に置くように落とした。
すると、オイルが染みついたカーペットや亡骸に火が燃え移り、あっという間に小さな部屋は紅蓮の炎で満たされる。
弥王は、グレアの言葉を掻き消すように言った。
「――グレア・ウォン・ファブレットの部下だ」
―― ――
―― ――
「……逃げた方が良いな……」
「え……?」
バルコニーに居た璃王は、ポツリと呟いた。
隣にいた男性は、璃王の呟きが聞こえていたようで、璃王が何を言ったのか聞き返す。
風に流れてくる鼻を付くようなオイルの臭いを感じ取り、璃王は確信する。どうやら、グランツは弥王が仕留めたようだ。
弥王は大抵、標的の屋敷やアジトに潜入した場合、その根城を燃やす変な癖がある。
それは、標的の虫の息の根を確実に止める為と腹癒せに行っているらしい。
どうやら、グランツは弥王の逆鱗に触れたようだ。
マズイな。 璃王は考える。
自分一人なら、今この場で姿を戻して飛び降りて脱出する事が出来るが、一般人である彼の前でそれは流石に出来ない。
と言うのも、裏警察では――否、璃王達の居る裏社会では、基本的に表社会の人間に裏の力を見せつけない。と言う、暗黙のルールがあるのだ。
裏警察はそれを特に強く取り締まっている。
なので、それを破ったら例え璃王でも重刑は免れないだろう。
それだけは勘弁したい所だ。
そんな事を考えていると、他の招待客が異変に気付いたらしく、会場内が不穏な空気を孕みつつ、騒然とどよめいた。
そんな中、一人のホールスタッフが招待客に注意と避難を促す。
「二階から火の手が上がっています!
皆さん、慌てずスタッフの指示に従って避難して下さい!」
冷静に避難するように呼びかけるスタッフの声は虚しく、騒然とパニック状態に陥った会場内では、我先にとホールから出て行こうとする人混みでごった返した。
「逃げるぞ」
「あ……あぁ」
男性はスタッフの声を聞くが早いか、璃王の手を引いて足早にバルコニーから会場へ入ると、玄関ホールを目指した。
弥王の姿をホールの中に探していた璃王は、少し反応が遅れて、半ば男性に引き摺られる様に小走りで走る。
ドレスの重たさに、ヒールの走りにくさ。 璃王は苛つきながら床を踏む。
あぁ、クソッ! 今すぐにスカートを短く裂いてヒールを脱ぎ捨てて走りたいッ!
しかし、今は淑女だ。 そんな事は出来ない。
「うわっ!」
璃王は踵で床を踏んだ時、上手く体重を乗せられずに足を滑らせ、体勢を崩した刹那に白い床に倒れる。
その拍子に男性に引かれていた手が離れた。
この瞬間を利用すれば、バルコニーから脱出できる――!
しかし、男性は手が離れた事に直ぐに気付いて、立ち止まると振り返った。
「大丈夫か!?」
男性の言葉に、璃王は起き上がりながら冷静に頷いた。
足首に鈍い痛みが走る。どうやら、足を挫いた様だ。
こんなにパニックになっている状態なら、呪幻術でどうにか出来そうだ。
しかし、それを使うにはこの男が邪魔だ。
璃王は男性を見上げて、言った。
「足を挫いただけ。 足手纏いはごめんだ。 だから――」
しかし、男性は璃王が言い終わらない内に璃王をひょい、と軽々と抱き上げた。
一瞬、何が起こったのか解らず、璃王は驚いた表情で固まった。
「え――」
状況が飲み込めない。 誰か、説明プリーズ。
気が付いたら、男性の顔がグッと近くに来ていた。
その状況に次第に璃王は内心でテンパる。
――これは、この状況はなんだ!?
顔近い! 床からの距離が遠い! 何なんだ、この状況!?
何、この少女漫画的で、今日日の年頃の女が喜び勇んで、はにかみながら浮き足立ちそうな状況!?
璃王がフリーズしていると、男性は言った。
「なんだ、ドレスが重いのかと思ったら……普通に余裕だな」
自分を見上げながら言ってくる男性は、少しだけ微笑んでいる。
「え? あ……は、離せッ!」
男性の言葉で我に返った璃王は、男性を咎めるような強い口調で言った。
何でこいつはこんなに構ってくるんだ!? すごくやりにくい!
うすら殺意さえ沸いてくる、と、璃王は内心で舌打ちする。
こう言う自分が危機的状況に陥っているなら、他人を押し退けてでも自分が助かろうとするのが普通なのではないのか?
実際、自分は任務でアジトやハウスを襲撃した時に、自分が不利になると、我先にと逃げ出す人間しか見てこなかった。
璃王の言葉を聞いた彼の目つきが鋭いモノへと変わって、璃王は驚いて瞠目する。
「死にたいのか、お前は?」
「死にたいなら、置いて行ってやる」、と男性は付け足す。
すると、璃王は何も言えずに言葉を詰まらせた。
自分一人で逃げられる方法は幾らでもあるが、それを男性に言った所で怪しまれるだけだ。
そもそも、その方法まで根掘り葉掘り聞き出されそうである。
その力を一般人に口外する事は禁忌である為、勿論、それを隠さなければならない。
となると、何の説明も出来ないし、怪しまれるのも面倒くさいと思ったので、言葉を詰まらせたのだ。
男性は歩き出しながら言う。
「そうじゃないなら、大人しくしてろ」
男性の言葉に璃王は何も言えなくなり、諦めて大人しくする事にした。
別に、男性から逃げる方法が無い訳ではない。 幾らでもある。
しかし、今の璃王はそれを考える余裕がなかった。
見れば見る程、何処かで会った事があるような雰囲気。
不思議と嫌悪感もないし、寧ろ、何処か安心感すらある。
何だ?初対面の筈――なのに、どうしてこんなに懐かしい?
璃王は戸惑いながら、そっと男性の顔を盗み見た。
何処か精悍さを漂わせる顔は、割と整っている方だろう。
あぁ、もう、いいや。
何か考えるのも馬鹿らしくて、面倒くさい。
璃王は、考える事をやめた。
―― ――
―― ――
璃王は屋敷から離れた、雑木林の入り口に降ろされた。
男性は「失礼」と璃王に断ると、璃王のヒールを脱がせる。
ヒールに覆われていた腱が赤く切れていて、痛々しい傷口から血が滲み出ていた。
道理で痛い筈だ、と、璃王は息を細く吐く。
「靴、履き慣れてなかったんだな」
「まぁ・・・・・・」
持っていたハンカチで、手慣れた様に処置をしてくれている男性の手元を眺めながら、璃王は曖昧に返す。
普通なら、夜会に履き慣れない靴で出向く人間は居ないだろう。
だが、男である璃王は当然、今までヒールなる物を履いた事はないのだから、履き慣れていなくても仕方のない事だ。
男性はそんな璃王を訝しむ様子もなく、「これでよし」と、ハンカチの端と端を結んだ。
男性が顔を上げると、紅い目と目が合う。
「お前、名前は?」
何故、彼女に懐かしさを感じるのか解らないが、きっとこれも何かの縁だろう、と、男性は璃王に名前を訊く。
色恋なる物は元より、どんな女にも興味は持たないが、何故か男性は璃王の名前を知りたいと思ったのだ。
少しの沈黙が過って、璃王は口を開いた。
「リオン。
リオン・ヴェルベーラ」
璃王は、自分の名前を口走って、我に返る。
偽名を名乗ろうとした口が何故か本名を名乗ってしまい、璃王は口を手で覆った。
一度零した言葉は元には戻らない。これぞ正に、覆水盆に返らずだ、と璃王は思う。
思わず本名を名乗った事に焦りを感じる璃王を他所に、男性は言った。
「リオン、か。 また、縁があれば何処かで会おう」
「じゃあな、リオン」と、男性は立ち上がって、璃王の頭をクシャッと撫でた。
頭を撫でた大きな手に不快な感情は不思議と起こらず、璃王は男性をただ、見上げる。
そして、立ち去って行こうとした男性の燕尾服の尾を咄嗟に掴んで、男性を足止めする。
男性は振り返った。
「どうした?」
「まだ、名前聞いてない」
見下ろしてくる紅い目を藍色の隻眼で見つめ返せば、男性は思い出した様に「あぁ……」と零す。
どうやら、忘れていた様だ。
「俺は──」
―― ――
―― ――
少し時間は戻り、弥王は、避難する人垣の中にグレアの姿を見付けた。
「公爵!」
「神南!」
背後から声を掛けると、グレアは走りながら振り向いて、弥王の姿を認めると安堵の表情を零す。
「よくやった。 神谷は?」
「先祖とお茶会したくなかったら、話は後だ! 思ったより火が回るのが早いから、ここもいつ燃えるか解らんぞ!
彼奴なら、猫より早く危険を察してさっさと逃げてるだろ。 五感と第六感だけは良いからな」
走りながら、弥王はグレアに逃げる事を最優先にしろと促す。
広いホールを出口へ向かい走っているが、人の多さやホールの広さの所為か、まだ、ホールを抜けきれていない。
鼻を付くオイルの臭いがホール内にも流れてきている。
結局、オレ一人が嫌な役回りをしたんじゃないか。 これなら、深夜に忍び込んで殺ればよかった。
弥王は、逃げながらそんな事を考えていた。 まぁ、殺せたので結果オーライとしようか。
弥王は、上機嫌に真っ黒い笑みを零した。
さーて、来月の給与査定が楽しみだな。 給料が入ったら、JNYの新作を買うんだ。
―― ――
―― ――
弥王の上機嫌な真っ黒い笑みを見て、グレアは、彼が余程嫌な目に遭ったのだと容易に想像が付いた。
弥王が上機嫌に真っ黒な笑顔を見せるのは、標的に嫌な思いをさせられて、それを自分で殺せた時だ。
弥王がグランツにハニートラップを仕掛けていた所を目撃したグレアは、その後でグランツが弥王に何をしようとしたのかは想像に難くない。
大方、手込めにされ掛けたのだろう。何たって、奴は守備範囲ばり広の女好きだしな。
女装して着飾った弥王は、男の自分から見ても綺麗で、一瞬性別を忘れる位だった。
自分がグランツなら、初見でコロッと騙されてただろう。身内でそれだから、初見のグランツが落ちても仕方がない。
そりゃ、上機嫌な真っ黒い笑みを浮かべるな。
男の弥王からすると、同性に迫られる程気持ち悪い事はなかっただろう。
「女子にゲロ甘い女尊野郎」。 それが彼の学生時代のあだ名である。
そのあだ名は今でも、王室でも時折、彼女を取られたという男が弥王に向かって吐き捨てる蔑称として呼ばれる事もある。
本人は至って気にも留めていない様子ではあるが。
まぁ、そんな彼が男相手にハニートラップを使うというのは、麻酔無しで腹をかっ捌き、内臓を手術するくらいの苦痛を精神面に伴っただろう。
もし、自分がそんな状況に陥ったなら。 きっと自分は、暗黙のルールなぞ知るか!と言う勢いで標的を堂々と殺すだろう。
まぁ、そんな事があったら、堪ったモンじゃないが。
そんな事を考えながら、ふと、隣を併走している弥王を見てみる。
はっきりした目鼻立ちに、吸いこまれるように綺麗な翡翠の左目。
一見すると、全体的な線の細い、中性的な顔立ちの美少年だが、よく見ると色白でまるで女みたいな顔立ちをしている。
弥王の走るリズムに合わせてふわふわと舞う紫の髪は、綺麗に手入れされているようで、撫でるとサラサラとした手触りが楽しめそうだ。
有り触れた一言で表すなら、“綺麗”の一言に尽きる容姿。
これで彼が女ならば、即口説き落としていたであろう。 しかし、残念な事に彼は男である。
――それにしても、何故、あの時……。
グレアは、ふと、先程の――ナタリアとの会話を思い出す。
『彼女は私の恋人だよ』
何故、私はあんな事を言ったのだろうか。
あの時のグレアは、無意識に弥王を『恋人』と紹介してしまっていたのだ。
確かに神南は、昔会ったミオンに似てはいるが――。
そこまで考えたグレアは、まさかな、と首を振る。
そんなワケがない。
神南は男で、あの子は女だ。
確かに年齢は同じくらいだが、神南があの少女である筈がない。
だって、あの少女は――。
そこまで考えてグレアは、それ以上の事を考えるのを辞めた。
―― ――
―― ――
「レイナス……」
璃王は、屋敷より離れた雑木林に座り込んでいた。
靴擦れを起こして挫いてしまった足は、綺麗に手当てされている。
ふと、璃王は先程の男性とのやり取りを思い出して、名前を呟いた。
それにしても、自分はさっき、どうして彼にあの名前を教えてしまったのだろう。
二度と名乗る事がないと思っていた、本当の名前。
そう、彼の名前である「神谷璃王」も、偽名の一つなのだ。
今日はどうやら、調子が悪いらしい。あのレイナスとか言う青年に出会ってから、ずっと。
自分らしからぬ行動ばかりを取っている。
おそらく、いつもの自分なら、警戒心を剥き出して近寄らせる事さえしないだろう。
それが、今日はどういう事だ。近寄らせないばかりか、ダンスも踊って、挙げ句に抱き上げられるなんて。
警戒心が解けて消えて行くような感覚。
こんな感覚は初めての事だった。
それもこれも、きっとこんな格好をしている所為だ。
「あぁ、クッソ……うぜぇ……」
璃王は無造作に髪を解いた。
綺麗に結われていた髪は、癖を残したまま風に攫われる。
言葉に反してその内心では、全く嫌な感情はない。
そんな感覚に戸惑いながら、璃王は睨み上げるように夜空を見上げた。
漆黒の天穹には、蒼白く輝く下弦の月と、宝石箱をひっくり返したような星屑が広がっていて、眩い光が綺麗だった。
「璃王!」
暫くそこでじっとしていれば、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。 声の方に目をやれば、いつの間にか変装を解いていた弥王が走り寄ってくるのが見える。
そう言えば弥王は、ちゃっかりスカートの裏に着替えを用意していたんだったな。 と璃王は思い返す。
弥王のドレスは比較的装飾が少ない為、重量がさほど無かったので、着替えをスカートの裏に隠せた。
璃王の方は、ドレスが重いからと着替えを仕込むのは断念したのだ。
弥王の後ろには、グレアの姿も見えていた。
「弥王!ファブレット公爵!」
「無事だったか、神谷」
璃王の姿を確認したグレアが安堵する。
どうやら、何処にも異常は無さそうだ。
「まぁ、精神的にも全体的な身体的にも無事みたいだが……嗚呼、間違えた。
足が大惨事になったようだな、璃王?」
弥王がニヒルな笑みを張り付けて、璃王の足元を見ながら言った。
訳知り顔で苦笑している所を見ると、グレアは何かを知っているようだ。
「あぁ、まぁな。靴擦れして、足も捻っただけだ、何ともない」
「立てるか?」
璃王の説明を聞いたグレアが、璃王に手を差し出して肩を貸そうとした。
――パァン!
グレアの手が近付いてきて、璃王は思わずその手を払う。
思ったより強く叩いたらしく、結構大きな音が響いた。
グレアは目を大きく見開いて、驚いた様な顔をする。
それもその筈。いつもの璃王ならば、何も気にせずにグレアの手を借りているのだから。
レイナス、と名乗った青年の手の温度が未だに残っている感覚。
この感覚を上書きされるような気がして、グレアの手を払ったのだが、璃王はそんな自分の心境の変化に気付かない。
ただ、何となくグレアに触られたくなくて払った、と言うのが璃王が認識している感覚だ。
「神谷?」
「あ……っと……大丈夫、だ、これくらい……」
グレアに声を掛けられると璃王は我に返り、立ち上がろうとした。
当然、無理に立ち上がろうとした足は捻っている為力が上手く入らず、璃王はその場に頽れる。
その瞬間にビリっと足に痛みが走った。
「――っ!」
「何やってんだよ、璃王?ったく、仕方ないなぁ」
一部始終を見ていた弥王は呆れた口調で言いながらも、璃王をひょい、と抱き上げた。
彼より多少小柄な璃王の体は、いとも簡単に抱き上げられてしまった。
璃王の心境の変化に弥王は気付いたのだ。
グレアを拒むほどの璃王の心境の変化に――。
おそらく、先程の夜会でグレアを拒むほどの何かがあったのだろう。
そうでないと、ある一線まで信頼を置いている上司の手を拒む理由が璃王にない。
例えば、先程の夜会でベタな表現をすれば“運命の恋”でも見つけたのだろうか。
そう思えるのは、今の璃王はまるで――。
そこまで考えて、弥王は頭を振った。
余計な憶測はやめよう。それでなくても璃王からは「キング・オブ・悪趣味」と称されているのだ。
これ以上その名を欲しいままにしても、虚しくなるだけだ。
「さて、グランツ殺して屋敷も大炎上させて任務も終わったことだし、帰るとするか。
さっさと寝て、今日の事は忘れたいし」
弥王の言葉に、璃王は弥王が任務中にキレた事が何となく解った。
弥王が屋敷を燃やすのは、大抵は逆鱗に触れた標的を跡形もなく灰にしたい時。
それほどの事をグランツは弥王にしたのか……と、璃王は思う。
「それにしては、中々良い仕事をしていたと思うのだが?」
弥王の愚痴を拾ったグレアが弥王を振り返り、言う。
どうやら、弥王がハニートラップを使っていた所をばっちり見たらしい。
弥王はグレアに詰め寄る。
「何処から見ていたっ!?」
「“美しいだなんて、そんな事はないですわ。想像していたよりも、貴方の方がずっと素敵でしてよ?”だったか?
あーあと、“素敵な貴方に一目惚れ”……とか随分と大胆な事も言っていたな?
ハニートラップなんか、何処で覚えたんだ?」
「全部じゃないか!今すぐ忘れてもらおうか、公爵っ!」
グレアが激白すると、弥王は顔を真っ赤にして声を荒げる。
グレアの話に、璃王は石で頭を殴打したかのような衝撃を受けた。
──弥王がハニトラを使った、だと……!?男相手に……!?
璃王にとってそれは、ある日突然、超生物が月を爆破した犯人だと告白し、自分の担任になったと告げられ、来年には地球も爆破すると言われたよりも衝撃的な事だった。
―― ――
―― ――
「――で、今回の標的……ウルド・グランツは、|切り裂きジャック2世《ジャック・ザ・リッパー セカンド》ではなかったが、婦女子失踪事件ではクロだったワケだ」
それから、弥王、グレア、璃王は裏警察の本部に戻っていた。
弥王は、デスクに座って話を聞いているグレアに、先程の任務の報告をする。
「奴はオレに、公爵との関係を聞き出そうとしていた……狙いはやはり、公爵と関係のあった女性の様だった。
きっと、今までの被害者も同じ様な手口で狙われていたのだろう。
これを聞いて、何か心当たりはないか、公爵?」
弥王の報告を聞いて、グレアは頭を抱えた。
「──ない、筈だ。私は彼とは面識は──」
「それはねぇぞ、公爵」
グレアの言葉を遮って執務室に入ってくるなり、璃王がデスクに書類を投げる。
その璃王は、先程の可憐な姿から一転、いつものメランコリックな表情を浮かべた少年に戻っている。
璃王は続けた。
「ウルド・グランツ。享年22歳。11月22日生まれのノースアイランド出身。
私立の寄宿舎学校に首席で入学し、それ以来の活躍は目覚ましく、天才と持て囃されていた。
だが、同じ年の後期になると、彼の存在はある一人の“天才”の登場によって、揺らぐ」
璃王の話に、璃王の言わんとしている事が解り、グレアはハッと璃王を見る。
目の前には藍色の眼光が、自分を射抜く様に見ていた。
「彼の才能も努力も、その天才には及ばず、荒れた彼は退学……もう、解っただろう。
グランツは嫉妬していたんだよ。
何でもこなしてしまえる天才の名を欲しいままにしてきた公爵に。
それが憎しみに変わって、今回の事件が起こった。
恨みを買う理由はないが、妬みを買う理由はあったんだよ」
璃王の刺々しい物言いに見兼ねて、弥王は「璃王……」と、璃王を制止する。
璃王の言葉にグレアはどんどん落ち込んでいる様で、彼はデスクに項垂れた。
事件の被害者の中には、学生時代にグレアと仲の良かった女性も何人か居たらしく、グレアがショックを受けている事は解った。
「それだけの為に……か?」
弱々しいグレアの問いに、璃王はキッパリと言い放つ。
「公爵にとっての「それだけ」が、彼にとっては大きかった。 それだけだ。
彼女たちは、公爵への理不尽な復讐に利用されたワケだ 」
本人に手が届かないなら、本人に近い人間を貶めよう。そんなグランツの考えで、犠牲になってしまった女性達。
自分が目立ち過ぎた所為で、巻き込まれたのだと知り、グレアは尚、俯く。
弥王は「言い過ぎだ」と、璃王を咎めた。
「そんな……それでは、彼女達に申し訳──」
「公爵」
グレアが呟くのを遮って、弥王がグレアに声を掛ける。
弥王は続けた。
「彼女達の事は残念だと思う。でも、悔やんだ所で時間は戻ってくれないのだから、彼女達に悪いと思うなら、顔を上げろ。
裏警察のボスが、そんな覇気のない顔でどうする。
元より覇気がない様な顔しているのに、それ以上そんな顔をしていると、オレ以外の隊員から呆れられるぞ。
だから、まぁ、しっかり気を持てよ……公爵」
グレアに歩み寄ると、弥王はグレアの肩をポン、と叩き、そのインディゴの目を見る。
厳しい言い様は、彼なりの叱咤激励なのだと、グレアは思った。
彼も――否、彼らは、幼少期に家族と離れ離れになったと聞いている。
そして、彼らの家族の生死も不明だと……。
それを考えたら、彼らの前でこうして項垂れるのは、どうなのだろうか。
まさか、年下の部下にそんな事を言われて元気付けられるなんて思いも寄らなかった。
ふと見上げた弥王の緑の目と、目が合う。
一瞬、弥王とあの少女の面影が重なって見えたグレアは、微笑むと頷いた。
「ああ、そうだな」
頷いたグレアの笑みに、弥王はもう大丈夫そうだな、と微笑んだ。
グレア・ウォン・ファブレット
年齢:22歳(後に23歳)
誕生日:1929年12月1日
星座:射手座
血液型:O型
身長:185cm
体重:79kg
出身国:グラン帝国
趣味:読書、剣の手入れ
特技:暗記
好き:紅茶、弟妹、“ミオン”
嫌い/苦手:警視総監/身内以外の女性、甘い物
異名:不明
武器:片手剣、短剣・カッターナイフ
名門貴族・ファブレット公爵家当主にして、グラン帝国女王直属武装警察「裏警察」のボス。
天才的な頭脳と端正な顔立ちを持ち、老若問わず女性から人気を集める。
しかし、本人は女性が苦手な為、極力避ける方向で。
ただ、身分上、寄ってくる女性(何処ぞの貴族の娘だの、何処ぞのマフィアのボスだの)を全力で避ける事が出来ない為、それが少々女誑しに見えてしまう事もあり、噂に背びれや尾びれが付きまくった結果、「女を取っ替え引っ替えしている挙げ句、何処かの国の王女にまで手を出して国際指名手配中の女誑し」と呼ばれるに至る。
更には女王から「ロリコン シスコン 女誑し」ととどめを刺される事も。
4人の妹と2人の弟がおり、兄弟の中で一番扱いが可哀相な兄さん。
弥王と璃王が活躍しだしてからと言うモノ、めっきり出番が無くなり、裏警察の本部に引き籠もるようになった。
それと同時に「絶対零度の太陽」という死宣告者が姿を消しているが、彼とその死宣告者の関係性は不明。
そして、書き忘れてはいけないのが、彼は童顔で中性的な顔をしている為、よく性別を間違えられる。
その為、彼に性別の話は禁句だ。
間違っても、「そこの麗しのレディ」と言ってはいけない。
それを言えば、100%の命中率でカッターナイフが飛んでくる。
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レイナス
年齢:18歳(後に19歳)
誕生日:9月15日
星座:乙女座
血液型:A型
身長:180cm
体重:75kg
出身国:??
趣味:昼寝
特技:ダーツ
好き:オムライス、シュークリーム
嫌い:ヒリュウの態度、法律
異名:??
武器:??
ヒリュウと同居している青年。
ヒリュウの義兄弟でよくパシリにされている。
本人は嫌がっているようだが、渋々動く。いい加減、兄貴がウゼェ年頃。
市警察を毛嫌いしているが、かと言って裏警察の肩を持っている訳ではない様子。
性格は璃王程ではないが、少々粗野。
気配とかには敏感な割りには、他の面では鈍感な所があり、初見で璃王を(高身長な事も手伝って)少し童顔の同い年くらいに見ていた。
本人は趣味にはしていないが、お菓子作りが得意だという一面もある。
夜会以来、璃王を気に掛ける素振りを見せる。
それがどういう感情なのかは今の所、謎だ。