Ⅰ.日常-One day-
何故かこの時、何気なく出された名前に引っ掛かりを覚えたんだ――
「それじゃあ私、バートン先生の所に行ってくるね」
「ん?……あぁ、うん」
数冊のノートを腕に抱えて、レナは近くにいたクレハに声を掛ける。
クレハはにべもなく返事するとまた、こけしの方へ目を移し、こけしの製作に取り掛かった。
あれから、3日が過ぎた。
璃王が言ったように皆、璃王の襲撃の事はまるでなかったかのように「今まで通り」に生活している。
ただ、一つだけを除いて──。
「レナさーん、差し入れです~!」
生徒会室の扉が開けられたかと思えば、底抜けに明るい声が聞こえてきた。
変わった事、それは。
ネルが今まで以上に頻繁に生徒会室に訪れ始めたことくらいだろうか。
今までもネルは、レナの舎弟として足繁く生徒会室に来てはいたが最近になってからは昼休みだけでなく、こうして放課後にも来るようになった。
それは、いつの頃からだっただろうか──。
「彼奴なら、さっき出て行ったぞ」
「えぇ~っ!?」
誰もネルの声に応えないので、仕方なくレイナスが応える。
すると、ネルは露骨に残念そうに肩を落とした。
「最近レナさん、如何したんですか?
リグレット先輩、何か知りません?」
「俺が知るか。
って、何しれっとくっ付いてきてんだよ、離れろ!」
さり気なく隣に座り、レイナスの腕に自身の腕を絡めて引っ付いてくるネルを引き剥がそうとする、レイナス。
しかし、一向にネルは離れようとしない。
「良いじゃないですか~、減るものでもないし、ね!」
「良かねぇよ。
俺はお前の恋人でも何でもねぇぞ」
「じゃあ、今から恋人!ね?」
「そう言う問題じゃねぇし、お前に1ミリ足りと興味もクソもねぇよ」
「何だレイナス、モテ期でも来たのか?」
くっ付くネルと離れようとするレイナスの攻防戦を見て、書類の整理を終わらせたライトが珍しそうに声を掛けてくる。
その瞳には、好奇の色が隠せない。
レイナスは心底嫌そうな顔でライトを睨んだ。
「あ゛ぁ?
ただの嫌がらせだろ、これ」
「おやおや、知らぬは本人だけ、ってヤツ?
罪作りな兄貴だねぇ」
「誰がだ!」
揶揄ってくるライトに憮然と言葉を投げつけるレイナス。
すると、キッチンから璃王が出てきた。
「お前ら、いちゃつくなら他所でやれ、鬱陶しい」
レイナスにベタベタと寄り添うネルを見た璃王は、湧き上がる殺意を抑えながら、レイナスとネルがベタベタしているソファーの前のテーブルに歩み寄る。
掛けてきた声はかなり低い物で、余程レイナスとネルがベタベタしていた事が面白くないようであった。
――あぁ、もういっその事、こいつらの紅茶とお菓子は出さなくていいよな?
トレーの上のティーセットをテーブルに運びながら、「そうだ」と、璃王は手を止める。
そして、顔を上げるとにっこりと微笑んだ。
レイナスに向けられたその微笑みは、笑顔なのだろうが何処か冷たく、目が笑っていない。
更に言うと、引いた様な軽蔑の色すら垣間見える。
初めて見る璃王の冷たい笑顔に、レイナスは体の芯から冷えるような感覚を覚えた。
何を言われるのかと身構えたレイナスの耳に、璃王の冷たい声が突き刺さる。
「多数の女に粉を掛ける事は結構だが、僕はキープちゃんに成り下がるつもりはないからな。
そう言うつもりなら、初めから変な事は言わないでもらいたい。
迷惑以外の何物でもない」
「なっ、俺は別に──」
「はぁ……」
レイナスの否定の言葉は、璃王の盛大な深い溜息に遮られる。
無自覚で女誑しをしているなら、それはそれで大問題だろうが、馬鹿め。
その言葉を飲み込んだ璃王の言葉は、まだ続いた。
「こういうタイプの女は、口で言っただけじゃ効果がねぇんだよ。
実際、「口では否定してても、実は満更でもないんじゃないのー」な思考になってるぞ、そいつ。
言葉だけで否定しても、態度ではどうかな。
とにかく、風見鶏な態度をする奴は信用できん、べたつくなら、僕の視界に入らない所でやってもらおうか」
途中から睨むような視線になっているが、それに気付かないのは璃王本人のみ。
それもそうだろう、璃王本人は“嫉妬”と言う感情を知らないが故、何故、自分がレイナスとネルがべた付いているくらいでムカついているのかが分からないのだから。
強いて言うなら、レイナスは自分から璃王に「好きだ」とか何とか言いながら、ネルがべた付いても口で否定するだけ。
璃王から見れば、それが「ネルに言い寄られても満更でもない」と言うように見えてしまうのだ。
自分に言ってきたあの言葉は何だったのだ、と言う事でムカつく。
しかし、その視線を受けても尚、ネルはにやにやとした顔を隠さない。
「なぁに、リオン、嫉妬~?
嫉妬は見苦しいわよ~?」
ネルが璃王を名前で呼ぶのは、多少は場を弁えているからなのか。
しかし、煽る様な彼女の言葉が、口調が、癇に障る。
「黙れ、脳味噌快適女。
お前も、スタン先輩の舎弟なら、スタン先輩を追いかけろ」
「だって、何処に居るか解んないんだもん」
「だからって、レイナスにべた付くな、嫌がってるだろうが」
ネルとレイナスを視界に入れない様に、璃王はお茶とお菓子の用意をする。
「あら、意外とリオンさんって嫉妬深いのね」
「嫉妬……?
えっ、リー君ってリグレット先輩が好きなんです!?」
璃王とレイナスとネルのやり取りを見ていたクリスが意外そうに呟くのを聞いたレイリス。
彼女は驚いたような声を上げる。
その声に反応したリオンはレイリスの方を見た。
正確には、「睨んだ」と言った方が正しいのかもしれない。
「そんな訳……ッ、変な事を言うのをやめてもらおうか、イリス!
じゃないと、お前の分だけスパイス掛けまくるぞ!」
「そっ、それは駄目ですよー!?
甘いものは甘いまま食べるのが礼儀でしてね!?
辛い物と出会わせたらそれはもう、甘い物じゃない謎の物体Aですよー!?」
否定してレイリスに脅しをかける璃王だが、その顔は真っ赤だ。
どうやら図星の様である。
レイリスはと言うと、璃王に脅された事がショックなのか、それとも過去にどんな悪戯をされたのかは知らないが、真っ青な顔で必死に甘い物についての蘊蓄を語る。
「それにしても、中々美味しいケーキじゃない。
どこの店のケーキよ、教えなさいよ」
暫くしてレナも戻ってきて、生徒会のメンバーといつものメンバー+αが揃った所で、全員、最早恒例となっている午後の紅茶に舌鼓を打つ。
ふと、何故かそれに参加しているネルが頬を綻ばせて璃王に問うた。
「はぁ、何でお前まで食べてるんだ。
お前は、自分が持ってきた差し入れとやらがあるんじゃないのか?」
「あれは、レナさんの為に持ってきたんですぅー。
で、どこの店のよ、勿体ぶらないで教えなさいよ」
「僕の手作りだが、何か問題があるか?」
「えぇっ!?」
上から目線でしつこく質問すれば、返ってきた璃王の憮然とした回答にネルは驚きの声を上げる。
「何だ」とギロリ、と睨まれても尚、ネルは「黙る」という事を知らない。
かなりの精神力と見た。図太いと言えばいいのだろうか。
「あんた、こんなの作れたの!?」
「こんなの、作れて当然だ。
僕の母が如何いう事をしていた人間なのか、まさか従姉である、それも、頻繁にウチに来ていたお前が知らない筈はないだろう」
「ま、まぁ、そうね」
ネルは渋々納得するものの、それでも、一瞬でも璃王の作ったものを「美味しい」と認めてしまったのが悔しい。というか、腹立たしい。
「リオンちゃんのお母さんって何をしてる人なの?」
興味を惹かれたのか、レナが話題に入ってくる。
璃王は少しだけ思案した後で、にべもなく答えた。
「パティシエだ」
「近衛家令」と言えば、自分の身分までバレてしまうかもしれない。
その危険を回避する為の嘘だが――。
しかし、レイナスは首を傾げた。
「あれ、お前、前確か――」
「ある貴族に気に入られた母が、そこで専属のパティシエをしていたんだ。
業務内容が侍女と遜色なかったから、「侍女の様な事をしていた」と言っただけで。
何でも卒なくこなす人だったからな」
そこで、レイナスに少しだけ素性を打ち明けていた事を思い出して、璃王は咄嗟に言葉を被せた。
嘘は言っていない。
「近衛家令」と言うモノは、女王の身の回りの世話をする傍らで、女王を守護する役割を持つ。
なので、執事や侍女、パティシエと言っても遜色ないのだ。
当然、次期ヴェルベーラ家の当主として育てられてきた璃王も、母親に近衛家令となるに必要な技術は教え込まれた。
その璃王の説明に「あぁ、なるほど」と、レイナスは何も疑問を持たずに納得する。
「それにしても、サクラギさんとリオンちゃんが従姉妹同士だったなんて思わなかったよね~」
「まぁ、言われてみれば何となく似てる気はするな」
レナがネルとリオンの方へ話題をシフトする。
それにライトが同調した。
「似てますか~?
よく言われるんですよ、「目元がそっくり」だって!」
「そんな訳ないだろ。
僕の目元、もとい顔は父に似ていると僕の父を知っている人全員から言われるんだ。
お前と似てる所なんか、一ミリもある筈がない」
ネルの反応に寒気を催した璃王がすぐさま訂正する。
すると、弥王が紅茶を口に付けて、笑った。
「確かに、璃音の童顔は璃蓮さん譲りだな!
璃音がセシィさん譲りの顔なら、ネルに少しでも似ただろうが――あぁ、ないか。
セシィさんと雪おじさんってそんなに似てないしな。
何なら、ネルはどちらかというと、母親譲りの顔してるし。
璃音の言う通り、一ミリも似てないな!
璃音がセシィさんに似てるとこって言ったら、髪の色くらいだし」
「セシィ……?リレン……?」
弥王の口から出てきた名前、それをレイナスが呟く。
しかしその呟きは両隣に居る璃王とネルには聞こえていない様で、二人はそれぞれ、「当然だ」と憮然とティーカップに口を付けたり、「酷いですよ~、ミオンさん~!」と嘆く。
何処かで聞いた事がある様な気がする名前。
幼少期の記憶が朧げな彼にとって、引っ掛かりを覚える名前はそうない。
自分が記憶がある頃からはっきりと記憶している名前と言ったら、精々両親の名前と今の義兄弟、それと両親の知り合いだったという義弟の両親の名前くらいだ。
璃王と出会ってから、既視感を覚える事が増えたような気がする。
気のせいだとは思うが――。
「レイナス?」
と、そこで、レイナスを思考の海から引き上げるかのような璃王の声が聞こえた。
彼女は、困惑したような顔を自分に向けていた。
「あ、あぁ……どうした、リオン?」
「どうした……って、それはこっちのセリフなんだが。
さっきから、僕の顔を見て考え込んでるし。
僕は何か変な事を言ったか?」
どうやらずっと璃王の顔を凝視していたらしく、凝視されていた本人は居心地悪そうにしていた。
思考の旅に耽っていたレイナスは彼女を凝視していたとは露知らず、苦笑する。
「あぁ、悪ぃ。何でもねぇよ。
確かに、リオンとサクラギは似てねぇし、初めは従姉妹だとは思わなかったな」
「えぇ~、リグレット先輩まで!」
レイナスの言葉を聞いたネルが、唇を尖らせる。
なんでこいつ、そんなにリオンと似てる判定してほしいんだ?という疑問は湧くが、もしかしたら、リオンと仲良しアピールでもしたいのかもしれない。
仲良しアピールをする割には、かなりリオンを見下しているようだが。
ふとレイナスは、そこでリトの事を思い出す。
どちらかというと、ネルよりもリトの方が少し、リオンに似ている気がする。
それを言ったら、リトから殺されそうではあるが。
「でも、両親のどちらかに似てるって、いいなー。
私、お母さんにもお父さんにも似てないから、羨ましいです。
お母さんは綺麗な銀髪だし、お父さんはダークブラウンだから、私の髪よりも濃い茶色だし……。
髪質も、お母さんはちょっとカールが掛かってるけど、お父さんは天然パーマだし……」
「目も似てないのか?」
イリスの話を聞いた璃王が珍しく突っ込んで聞いてくる。
それに対して、イリスは頷いた。
「うん……お母さんは、目元がちょっとキツめのグレーの目で、でも、すっごく優しいんですよ!
今年はどうしても学祭は見にこれなかったみたいですけど、いつもは絶対に来てくれてたんです!」
にっこりと満面の笑みで母親の事を語るレイリスは、本当に母親の事が好きなようで、普段から母娘仲がいい事が窺える。
そんなイリスを「羨ましい」と思うのは、仕方ないのだろう。
弥王も璃王も、両親の消息は知らないのだから――。
「そう言えば、貴女のお母様って凄く美人よね。
背も高いし、気品溢れる人で。
目もキリっとしててカッコいいし。
お父様の方も高身長でイケメンだし、なのに何で貴女だけそんなミニマムなのかしら?」
「そっ、それは言わない約束ですよ!?
私だって、あと5年もすればきっと、バリボーになるですよー!」
「今でチンチクリンな貴女が5年で大変身するワケないでしょ、現実を見なさい」
「クリスちゃんの意地悪!」
――家族、か……。
レイリスを揶揄うクリスと、揶揄われてムキになって言い返すレイリスの会話を聞きながら、璃王は、暗い表情を隠すように俯いた。
自分に時間がない事は重々承知している。
幼少期に罹った桜ノ一族特有の病気の変種である「猫呪病」を発症した時に見えた寿命。
その時が来るまでに、両親に会えたら――。
そんな希望が、璃王の心を支配する。
――なんて、無理な話だな。
裏社会の厳しさは身を以て知っている。
幾ら化け物染みて強かった、なんて両親の話を聞いても、何が起こるか分からないのが裏社会だ。
それに、母親も桜ノ一族の者である。
という事は、母も短命という事なのだ。
桜ノ一族の人間は、どんなに長く生きても40を超えて生きた者はいない。
実際、璃王の記憶にある母の姿は、黒いメッシュの入った金髪に黄金の瞳、そして、頬や首には黒い線状の痣があった。
桜ノ一族の者のみに現れる老化現象。
璃王が思い出せる最新の母の姿の記憶はそれなのだ。
(お父様は生きていたとしても、お母様はきっと、もう……)
こんなに長い間、連絡も取れないし情報も入ってこないのだ。
両親どころか、もしかしたら、4人はもう――。
そんな考えを霧散させるように、璃王は席を立った。
「もう行くのか、リオン?」
「んー、まぁ、用事があるから。
それと、イリスも来てもらおうか。
どちらかというと、イリスに用事がある」
「えぇ!?
い、いいですけど、何です?」
レイナスに訊かれて、璃王は少し考えた後でレイリスを指名する。
名指しで呼ばれたレイリスは驚きながらも立ち上がって、帰宅の準備を始めた。
―― ――
―― ――
「巻き込むみたいに連れ出して、悪かったな」
生徒会室を出て、寮へと続く道を歩きながら璃王はレイリスを連れ出した事を謝る。
突然の謝罪を貰ったレイリスは、驚いて目を丸く見開くが、次の瞬間には微笑んで首を横に振った。
「ううん、大丈夫ですよー。
それに最近、あまり話せてなかったし!」
「あぁ……そうだな。
最近、イリスの方は大丈夫そうだと思ったから……そっちは大丈夫か?」
「うん、こっちは本当に……何もなかったみたいに大丈夫。
リーくん、は……」
質問しようとしたレイリスだったが、途中で言葉を止めた。
つい3日前に、璃王は大怪我をして寮に戻ってきたのだった。
彼女は、「こんなのは何ともない、階段から落ちただけだ」とは言っていたが、自分よりもしっかりしている人が盛大に階段から転げ落ちるようなことがあるだろうか。
(それに、気になる事がまだあるんだよね……。
寝ている時のリー君の顔……)
レイリスは表情を曇らせて考え込む。
恐らく、璃王の事を聞こうとしても何も答えてはくれないだろう。
自分の手当てをしてくれた時、リオンは「絶対に忘れろ」と何度も念を押してきた。
だから多分、リオンに関することは質問しては駄目なのだろう。
そんな事を考える傍らで、レイリスはもどかしさを感じていた。
彼女に関して、自分ができる事は本当にない。
彼女はそれを望まないし、自分も何をしたらいいのかも皆目見当が付かない。
レイリスにできるのはただ、璃王がこれ以上傷付くことがないように祈ることくらいだった。
「――イリス?」
「うぁい!?」
「ッ!?」
突然話しかけられたレイリスは驚いて、文字通り飛び上がる。
レイリスが素っ頓狂な反応をするから、璃王までつられて驚いてしまった。
「いや、そんなに驚くなよ……僕だって驚くだろ」
「ごご、ごめんなさいです!
で、何の話でしたっけ!?」
「いや……部屋、入らないのか?」
考え事をしている内に寮の自分達の部屋に着いていた様で、璃王は部屋のドアを開けたまま、レイリスを凝視していた。
そこまで長い時間考え事をしていたとは……。
何だか、考えすぎてちょっと頭が痛くなってきたような。
「は、入りますです!!」
レイリスは、慌てて部屋へと入っていった。
「そうだ、イリスにちょっと聞きたいことがあったんだった」
「はい?何です?」
鞄を自分の机に下ろしながら、ふと、璃王は思い出したようにレイリスに声を掛ける。
そのレイリスはと言うと、小首をこてん、と傾けて、璃王を見つめていた。
その仕草が幼く見えて、璃王は「本当にこいつ、同い年かよ……」と思う。
この小動物じみた少女を見て「守らねば!!」と思うならまだしも「虐げてやろう」と思う神経が分からない。
まぁ、今は彼女への苛めはなりを潜めているようではあるが。
そして、自分以外の弥王、クリス、生徒会と言ったメンバーとの交流があるおかげか、彼女は心なしか、初めて会った時よりも明るくなった気がする。
「ここって、寮弟の制度があっただろ。
寮弟になったら、何か特別な待遇でもあるのか?」
「ん?リー君、寮弟になるのに興味あるんです?」
璃王の質問に、レイリスは問い返す。
その顔は、何処か寂しそうな表情のようにも見えた。
え、何その反応?
璃王は少し思案した後、口を開いた。
「いや……、ほら、ネルと僕は従姉だつったろ?
ネルは、面倒ごとはとことん嫌う傾向があるから、彼奴が寮弟に進んでなるとは思えなくてな」
「……その質問はもしかして、リー君がケガをしたことと関係あるんです?」
「それは……」
レイリスの質問に、璃王は言葉を詰まらせる。
ネルについて喋るべきではなかった、と思ったが、一度口から出た事は戻せない。
つか、どうしてあの質問からその言葉が出てくるんだ。
璃王は、レイリスの思考力を少し侮っていたと思う。
「全く関係ないな。ただ、良くやるな、と思って。
だって、寮弟って何か面倒くさそうだろ。
クライン先輩も、パシリ要員とか言ってたくらいだしな。
だから、面倒くさがりのヤツがそんな事を進んでするかなー?って」
「……そうですねー。
寮弟に選ばれると、ウェストスター校の姉妹校への入学が優遇されるんです。
就職も有利になるし、噂だと、ここの学校で寮弟をしていた女性が、王室専属の仕立て屋になったとか何とか聞いた事ありますよ?」
王室専属の仕立て屋、と聞いて、璃王の頭に真っ先に浮かんだのは、バートン姉妹だった。
しかし、あの二人はウェストスター校出身ではなかった筈だが……。
璃王の知る限り、「王室専属の仕立て屋」といったら、バートンしか思い当たらない。
思考に耽る璃王を置き去りに、レイリスの話はまだ、続く。
「そんなわけで、ここに居る生徒で寮弟に憧れない人はいませんね~!
あぁ、そう言えば、ウェストスター校の姉妹校がイリアにあって……何でしたっけ?
たしか「アーリア校」だったかな。
サクラギ先輩と、あとコスモ先輩がそこから留学してきた、って聞きましたけど……」
「アーリア校」と聞いて、璃王ははっとしてレイリスを見た。
「アーリア校」の噂なら聞いた事がある。
そもそも、璃王と弥王がそのままイリアに居たなら、自分達も入学していた筈の学校だった。
そうか、そのアーリア校からの留学生だったのか、二人とも。
「それで?」
「へ?」
「それで、アーリア校の留学生が寮弟に選ばれると、何か優遇される事でもあるのか?」
「えーっと……」
璃王の質問に、困った様な表情でレイリスは考え込む。
どうしてリー君はここまで突っ込んでくるのだろう。サクラギ先輩たちの事は興味なさそうなのに。
そんな事を考えるが、それを考えた所で仕方がない事は分かっているけど。
「多分、多分ですよ?
ここの優待制度が向こうにも適応されるなら、卒業した後で何か優遇されるはずですけど……うーん、それは流石に、サクラギ先輩かコスモ先輩に聞かないと解らないですねー」
「そうか……」
レイリスの言葉に璃王は肩を落とす。
まぁ、アーリア校に所属していない彼女が、その辺の事情を知っている筈もないか。
ネルが教えてくれる筈もないし、そもそも、ネルに聞くようなことはしたくない。
リトはリトで、トラウマから近付く事はできないし……。
璃王は、自分の机に視線を落として考え込んだ。
苛めの実行者はともかく、首謀者はネルである可能性が今の所、一番高いのだ。
クレハの情報が正しいのであれば、狙われるべきはレイトから気に入られている筈の弥王であり、そして、クリスやレイリスの苛めがなりを潜めていて、その矛先が璃王に向いている事。
それを踏まえたら、ネルには自分を狙う動機が十二分にある。
璃王が弥王の近衛家令であること。
璃王が弥王に目を掛けられて気に入られていること。
これだけでも、璃王を陥れたり失墜させようとしてくるには十分すぎる動機だ。
そして、これは恐らくだが、ネルもレイナスに好意を寄せている。
それは、今日の一件でも明らかだ。
だから、レイナスと距離が近い自分が邪魔、と考えたのだろう。
しかしこれは、自分のただの想像でしかない。
証拠は何もないのだから。
どうにか証拠を手に入れることができたら――。
「……」
思考に耽る璃王を、レイリスは何とも言えない表情で見ていた。
―― ――
―― ――
「……で、僕に何の用?」
リトは、人目の付かない旧校舎の裏に来ていた。
ロッカーに無造作に詰められた差出人なしの手紙には、「夕食後に校舎裏へ来なさい」と、なんとも不躾な文字が並んでいた。
それだけでも顔も名も知らぬ差出人とは関わりたくないというのに、手紙の最後には「もし来なければ、大切なモノがどうなってもいいと判断する」という脅し文句まであったものだから、行かない訳にはいかなかったのだ。
もし、これが単なる脅しでなければ、彼女がどんな目に遭うか解らない。
これ以上、あの子を危険に晒すのは二度と御免だった。
「やっと来てくれたのね」
「君が不躾な手紙を送ったんだろ」
「つれないなー」
手紙の差出人は女子だったらしい。
暗がりで少女の姿は見えないが、声とシルエットが女子生徒の物だった。
「で、僕に何の用?」
「単刀直入に言うわよ。
リオン・コウヤって子がいるでしょ?あの子を――」
「嫌だね」
少女の言葉を遮り、リトははっきりと言った。
少女の言わんとしていることが何となく分かったのだ。
リトの目は、暗がりの少女を射抜くように睨んでいる。
そして、続けた。
「僕は二度と、あの子を傷付けるようなことはしたくないんだ。
それは君が一番良く分かっている筈だろ」
「……ッ」
そう語ったリトから殺気を感じ取り、少女は動揺する。
リオンに何かをしたら、容赦しない――。
そんな事を言っているかのようだった。
「で、でも、言う通りにしないと、あの子がどうなるか分からないわよ!?」
「あのさ、君、馬鹿なの?
君の言う通りにしたとして、結局はリオンはただじゃ済まないと言っている様なものなんだけど。
君の“頼み事”とやらもどうせ、「リオンを痛めつけろ」って事でしょ。
あの上級生のように」
リトの言葉に、少女は言葉を詰まらせる。
どうやら図星の様で、彼女から感じ取れる風は僅かに動揺していた。
リトも呪幻術師であり、彼の適応属性は風と地。特に、風属性の方が強い。
風属性の呪幻術師は風により、人の大まかな感情を読み取ることができるのだ。
その為、リトは少女が動揺していることも分かったし――彼女の正体も分かってしまった。
「彼らは表社会の人間だからね。
なるほど、リオンを痛めつけるには持って来いだったろうさ。
裏社会の人間にはアウラ条約があるからね。
リオンは手が出せなかったわけだ。
でも、僕がリオンに手を出した場合はどうなる?
リオンは必死の抵抗を見せるだろうな。
それこそ、僕はリオンに殺されても不思議ではないかな?
僕もリオンも裏社会の人間だし」
「あんた、結局はリオンが怖いの?」
少女のリトを小馬鹿にしたような問いに、彼は少し思案した後で答える。
「怖い?あぁ、それは怖いさ。
リオンの持つ呪いがね。
暴走すれば、僕も君も――この学校どころか、この周辺の人間は全て、猫呪に取り込まれた彼女に食い殺されるだろうな。
それを怖いと感じるのは、普通の人間の心理だろう。
君は馬鹿だから、猫呪について何も知らないんだね。
その証拠に、こんなバカげたことをしている。
リオンを傷付ける理由は、一体何だい?」
リトの話を聞いた少女の風が、僅かにざわついたのを感じる。
馬鹿だと――それも、小馬鹿にしたような口調で――言われて、怒らない人間はいないか。
それでも、釘を刺す必要はあった。
「傷付ける?これは、そんな幼稚なモノじゃない。
あの子が邪魔だから、消えて貰いたいだけよ。
それには、あんたの協力も必要なの」
充分幼稚すぎる理由じゃないか。
リトは、彼女のどうしようもない頭の悪さに深い溜息を吐く。
「こんなつまらない事、早くやめなよ。
君は彼女がいつまでも弱い子だと思っているようだけど、あの子だって強くなっていってる」
リトは「これは警告だ」と言いたげに相手を睨みながら言った。
あの球技大会の時。
あの時、チンピラみたいな死宣告者を一掃したリオンの姿をリトは見ていた。
環境の所為か、それとも呪いの所為か。
それとも、未だに師匠の教えが生きているのか。
何にせよ、リオンは、昔と比べ物にならない程に強くなっていた。
正直、今の彼女とやり合って死なない自信はない。
恐らく、彼女はあの時以上の力を持っている筈だから。
「あまり彼女を見縊ると、いつか痛い目に遭うよ」
それだけを言うと、リトはその場を去っていった。
「――リオン……」
ぽつり、と呟いた言葉は、暗い景色に溶けて行った。
彼女が何か目的があってここに居る事は、何となく想像が付く。
でなければ、人嫌いの彼女が積極的に人と関わるとは思えないからだ。
その目的は、常に彼女の意識を認識できるセラなら分かるだろうが……彼奴は何も言わないし、そもそもリオンに何か目的があったとして、彼女に自分ができる事はかなり限られている。
それも、なるべく彼女に自分の存在を気取られないようにしなければならないという制約付き。
しかし、ここまで彼女への悪意を見せられて、それで黙っていられるのか、と言う話だ。
答えはNon、無理、だ。
だけど、レイナス・リグレットにリオンを任せられるか……?と訊かれたら、それもまた、Nonだ。
1回でもリオンを危険な目に遭わせた彼奴は信用に値しない。
あの時は、リオンに自分の存在を気取られない様にする為――そして、リオンが呟いた名前に自分はお呼びでない事を痛感した為に、彼奴にリオンを託しただけで。
本当なら、僕が――。
そこまで思って、リトは自嘲する。
あの時に結局、リオンを守れなくてこうなってしまったのは一体、誰の所為かと。
今でも、その時の事を鮮明に思い出す。
リオンがリトにトラウマを持った一件は、リトにとってもトラウマになっていたのだ。
「どう手を打つか……」
リトは暫く、もうすぐで満月の来る月を睨むように見上げながら、静かに呟いた。
恐らく、これ以上リオンにストレスを与えれば、リオンの寿命を縮めかねない。
現に3日前の事件の時に、リオンの猫呪の痣が記憶にあるよりもかなり広がっていたような気がする。
リオンの猫呪は、自分たちの干支呪とは性質が違うのだ、と、セラから聞かされている。
ストレスを受ければ猫呪は広がるし、闇の呪幻術を扱えば寿命は縮む。
そして最大の違いは、干支呪は寿命が近づくに連れて呪いが進行するのに対して、猫呪は自分の寿命を蝕みながら呪いが進行する。
それが意味するのは、これ以上彼奴に何かされれば、リオンの呪いが進行して取り返しがつかなくなるということ。
多分、彼奴はリオンの猫呪の特性を知らないのだろう。
でなければ、リオンにちょっかいを掛けるという、果てしなく馬鹿げた危険な行為をしようとは思わないだろう……と思ったが。
リトは、ふと考え直す。
そう言えば彼奴は、救いようのない馬鹿だった。
周りの情報や状況よりも、自分の感情を最優先にする様などうしようもない馬鹿だった。
でなければ、リオンにちょっかいを掛けに行かないだろう。
あの馬鹿の今の行動原理は恐らく、「王女殿下に気に入られているリオンが気に食わないから、リオンを失墜させてその座に私が座る」と言った所か……。
「あぁ、本当にもう、面倒くさい」
リトは、呟くと自分の寮へと歩を進めた。
―― ――
―― ――
リトと別れた後、少女は苛ついていた。
何もかもが順調だった筈なのに。
どう見ても、あの駒が主犯であるかのように偽装し、色々と手を回してきたのに。
まさか、あの事件を経ても尚、生徒会はいつも通りの日常を過ごしているなんて。
「何でなのよ……」
自分の計画では、あの事件の後はレナ・スタンが失墜する予定だった。
周りからの信頼を失くし、立場を失くして学園を去る予定だったのに……。
それなのに、何も変わらないなんて。
噛み締めた唇から鉄の味がすることも気にせず、少女は先ほど、リトが去っていった道を睨んでいた。
ダメもとで頼んでみたが、逆に説教されるなんて。
強い?あの子が?
――そんな筈ないじゃない。
先ほどのリトの言葉が脳裏に過るのが鬱陶しい。
あの子が強かったとして、それでも関係ない。
だって、あの子の最大の弱点は分かっているから。
精神的に弱いあの子が強い筈がないじゃない。
リトのはったりでしょ、どうせ。
「鬱陶しいし、邪魔なのよ……あの子も、レナ・スタンも」
呟いた少女の目には、明らかな敵意と憎しみが混ざったかの様な色が垣間見えた。
邪魔なら、消せばいいじゃない。
その為の下準備は、もう出来ている。
あとは、実行するだけ。
「ふふふ……誰にも邪魔させないわ……絶対に」
少女の渇いた笑い声は、静かに夜の闇へと消えていった。




