Ⅶ.意識
君が彼に抱いている感情。
その意味に君はまだ、気付いていない。
まだ、気付かないで欲しいと思うのは、私のエゴだ。
僕が彼に抱く感情。
それを君は「恋情」と言った。
僕はそれを受け入れることはまだ、できずにいる――。
――どうして、こうなった?
璃王は炎の穹寮の男子寮と女子寮の中間に位置する食堂の入り口にある長椅子に座っている。
その肩は強張っていた。隣には、レイナスの姿がある。
2人はそれぞれ、手に飲み物を持って座っていた。
――あぁああぁぁぁ……。
誰か、誰かこの沈黙を破ってくれぇぇぇええ。
璃王とレイナスはそれぞれ、同じ事を思う。
夜会の時には何も感じなかった――むしろ、静かな時間が心地良いとさえ感じた筈の沈黙が、何故か今はとても気まずい。
そもそも、何故こんな状況になったのかというと。
それは、10分前に遡る。
―― ――
璃王は、弥王との話の後で寮に向かいながら、レイナスとマオの事について考えていた。
ボーっとする頭で廊下を歩いていた為、寮へ向かう通路を素通りしてしまったのは仕方がない事だったのだろうか。
視界に入る明かりにふと顔を上げると、そこは食堂の前で。丁度喉が渇いていたこともあって璃王は食堂へ入って自販機で飲み物を買うことに。
食堂へ入ってみればレイナスが自販機で飲み物を買っている最中で、彼は璃王に気が付くと声を掛けてきた。
「リオン、まだ起きてたのか?」
「あぁ、まぁ……眠れなくて……。 そう言うレイナスは?」
「俺も同じだ」
「そ、そっか」
丁度レイナスのことを考えていたこともあり、璃王は妙に心臓の辺りが落ち着かず、声が上擦る。
なんてタイミングで鉢合わせたんだ!
弥王が変な事を言うから、変に彼を意識して顔を上げられない。
「少し話すか?」
「あ、うん、解った」
レイナスの提案に返答した璃王の言葉が少しおかしいが、璃王はそれを気にする余裕がない。
まさか、こんなに早くチャンスが来るなんて――!
璃王は、昨日の喧嘩についてどう話を切り出せばいいのか解らず、無言になる。
「劇の練習のことだけど、明日から始めるみたいだ。
台本も明日配るってよ」
「そ、そうなんだ」
「演目は“真偽のアイシャ”なんだが、一度有名になった映画を元に作ってるらしい。
まぁ、原作の方は大まかにしか知らないんだけどな」
「あぁ、真偽のアイシャ、ね。 面白い作品だよ。
実際にアイシャ・ハーケーン・シーズとエルリック・シーズから話を聞いて作った、どの作品よりも現実の史実に基づいて作られている最高傑作で……随分昔の雑誌の本人インタビューで絶賛してたくらいだ」
「へぇ、それは楽しみだな」
「う、うん……」
一度意識し出すと、レイナスの声や表情まで気になり始めて、璃王はしどろもどろになる。
低く落ち着いた声、ぶっきら棒の様に見えて穏やかな表情。
彼も普段は静かな人なのだろうが、今話しているのはきっと、自分がいるからなのだろう。
彼と話すこと自体は嫌という訳ではないが、こんな時にどういう言葉を返せばいいのか分からなくなる。
夜会の時は、任務の事もあって散々邪魔に思っていたというのに。
レイナスと目が合って、璃王は目を逸らすように俯いた。
何故こうも意識してしまうのか、良く分からない。
さっきの弥王との会話に出てきたからといって。
―― ――
それから何の会話もなく、10分間ずっと無言状態だ。
いい加減、物凄く気まずくなってくる。
自分のコミュ障ぶりに自分で引いているくらいだ。
「あの!」
「なぁ」
少しでも情報を聞き出そうと口を開いた璃王だったが、声を掛けてきたレイナスと声が被ってしまった。
それも、一拍もずれずに、打ち合わせでもしたかのように綺麗に。
それに驚いて、2人で顔を見合わせる。
夜会の時と同じ、レイナスの驚いた顔。
それに思わず璃王は「ふはっ」と笑ってしまった。
綺麗に声が揃うとか、ドラマか何かか。
「面白い顔。夜会で話した時も同じ顔だった」
「そんなに変な顔してるか?」
「鳩が豆鉄砲喰った顔してる」
「んだそりゃ」
「ふふふっ、あー、話そうとしたこと忘れて――」
「あっ」
「うん?」
自分で言ったことがおかしくなり、璃王は思わず声に出して笑ってしまう。
そして、言葉を続けようとしたが、それはレイナスに遮られてしまった。
言葉を遮られたことで璃王がレイナスの顔を見ると、レイナスは璃王の目の前に来て璃王の目線に合わせるようにしゃがみ込み、璃王の頬に触れて言った。
「お前、笑った顔いいな」
「え……? あー……、そう?」
自然に出てきたかのような彼の言葉に、璃王は戸惑う。
笑った顔を褒められるなんて、いつ振りなのだろう。
最近では、カナメにさえ「璃王サン、笑うの下手になったっすね」と言われたくらいなのに。
しかし、彼の顔は冗談を言っているようでもないし、何か思惑があって言っているようにも感じない。
首を傾げる璃王に、レイナスは微笑んで頷いた。
「あぁ、もっとそう言う表情、見せればいいのに」
「――っ、そりゃドウモッッ!」
――いつか、こんな光景があった気がする。
璃王はそんな記憶がふと、頭を掠めた。それはレイナスも同じだった。
同じ様に笑う顔を、お互いに何処かで見たことがある気がする。
しかし、2人はそれを思い出す事が出来ない。
璃王は、いきなり距離が近くなったレイナスの手から逃れるように顔を背けた。
何だろう、触れられた頬が熱い……気がする。
甘美な熱が顔全体に広がって、それが段々体全体に染み渡るかのように熱くなってくる。
これは、あれだ。
きっと、猫呪の薬の副作用が出ているのか、彼の呪力に当てられているだけだ。
この心臓の動悸も、その所為に違いない。
最近、また猫呪が進行してきたから、前よりも薬を強くしたと言っていたからな。
「怒ったのか?」
「怒ってないッ!」
「本当に?」
「あー、もう、本当に怒ってないから、ちょっとあんまり近付くなっ!」
顔を覗き込んでくるレイナスに少しきつめに言えば、レイナスは尚も顔を近付けてくる。
ふいっ、と顔を背けた璃王の真っ赤な耳が見えた。
どうやら、照れ隠しだったらしい。
――この感情を彼らが知るのは、一週間後のことだった。
―― ――
―― ――
「――で、結局訊けなかったのか?」
「あぁ、まぁ、そうなるな」
朝。
璃王と弥王は食堂で落ち合い、朝食を摂っていた。
落ち合った、と言っても、元より生活リズムが似ていた為、食堂に行けばバッタリと鉢合わせたのだ。
そこで、別々に食事をする理由もないので一緒に食事をすることに。
昨日の夜のことを弥王に話せば、弥王からは「ふーん」という、気のない返事が戻ってくる。
璃王は昨夜のこともあり、気まずそうに顔を俯けた。
「まぁ、別に良いと思うぞ。
確かに早く帰りたいが、だからといって急ぐ事でもないしな」
「オレはカナが心配だから早く帰りたい」
弥王の言葉に溜息混じりに言葉を返す、璃王。
結局、昨日は一睡も出来なかったのだろう。璃王の目の下には隈ができていた。
ただでさえも血色の悪い顔が更に蒼白だ。
璃王が裏警察の本部に帰りたがるとは、なんと珍しい事か。
昨日の一日で学校生活に辟易したのか。
いつもは長期任務となると、喜び勇んで本当にひと月は帰ろうとしないというのに。
「その事なんだけどな、昨日Jからこんな写メが来た」
そう言って弥王は、自分の携帯を璃王に見せる。
とある天才発明家が開発したという携帯型の電話機は貴族の間で普及し始めていた。
手のひらサイズの二つ折りにできる機械は、電話を掛ける事は勿論、文書のやり取りや写真を撮ることも可能となっている。
グレイに懇意にされている弥王と璃王――もとい、裏警察のメンバーは、携帯電話が支給されている。
その画面には、仲良さそうに肩を組んでVサインをしているカナメとJの姿が映っていた。
それを璃王は、目に穴が空くほどに見る。
あのカナメが……っ、有り得ん……ッ!
世界の終わりを告げられたかのような表情で弥王を見る、璃王。
何がそんなに衝撃を受けたのか分からないが、とりあえず弥王は「だから、心配いらねぇって!」と言いたげに親指を立ててウィンクしてみた。
そんな璃王の口から飛び出したのは、弥王の言葉に反応するものではなかった。
「明日は、嵐時々隕石落下、所により国際宇宙ステーションが落ちてきそうだ」
「どんな無茶苦茶な天気予報だよ?」
「ッ!?」
不意に割り込んできた低い声に、璃王は端から見ても解りやすくドキリと肩を揺らした。
振り返らなくても匂いと声で解る。 レイナスだ。
「よっ、って、隈できてるじゃねぇか。
結局、昨日は眠れなかったのか?」
「あー、うん、まぁ……」
振り返った先にいたのは、やはりレイナスで。 璃王はレイナスの問いに歯切れ悪く頷く。
――まったく、誰の所為で寝不足だと……。
ふと頭を過ぎった文句に、それを打ち消すように璃王は頭を振った。
「どんな駄作ラブコメかっ!!」
――ゴッ!
そんな事を言いながら、璃王は机に頭を思い切り打ち付けた。
ぶつけた額に鈍痛が走る。ひりひりと痛むが、目は冴えた。
「お、おい!」
「何やってんだよ、璃音?」
その様子を見ていたレイナスは驚愕した目で、弥王は呆れた様な顔で璃王を見る。
どうやら、心の中で突っ込んだことが口に出ていたらしい。
何とも見苦しい姿を見せた、と落ち着く為に咳払いをする、璃王。
「口所か行動にも出てるけど?
ってかお前、レイナス先輩見てみなよ、ドン引いてるじゃないか」
「いや、少し驚いただけだ……」
呆れ顔で璃王にハンカチを差し出す、弥王。
璃王の額からは小さな傷口からジワリと少量の血が滲み出ていた。
レイナスは弥王の言葉を否定してはいるものの、確かに引いたかと言われればそうかもしれない。
「いや、何か自分の思考が変な方向に放浪しかけたから……」
「だからって机にヘドバンはないわ。まったく、大怪我したらどうするんだよ?」
ハンカチを持って小さくなる璃王に、弥王は説教をする。
リオンのこういう場面は初めて見るな、と思いながら、ふと、幼少期の事を思い出す。
昔は寧ろ、もう少し大人しかったような。
おかしい意味で変わってしまった幼馴染の頭を、弥王は本気で心配する。
「まぁ、良いや。
この後、生徒会室で練習だろ?早く行こうぜ、璃音」
「あ、あぁ……じゃあ、また後で、レイナス」
弥王は席を立つと、璃王の手を引く。弥王に手を引かれながら、璃王はレイナスに別れを告げた。
何も言えず、レイナスは人混みに紛れていく彼女達の背中を見送った。
―― ――
―― ――
食堂を出て生徒会室に向かっている途中の廊下で、璃王は未だに弥王に引っ張られていた。
何故だろうか。 心なしか、自分の手首を引っ張る弥王の力が強くて、手首が痛い。
恐らく本人は無意識なのだろうが。
そっと彼女の顔を覗き込んでみるが、顔は至って普通のいつもの仏頂面だ。
「弥音、手首が痛いのだが」
「……」
「弥音、このままじゃ手首が千切れる」
「……」
先程から呼びかけてもこの調子で弥王は無言だ。
何も反応を返してくれない。
それどころか歩調も段々速くなってきているし、それに比例して手首を掴む力も強くなってきている。
何なんだよ、僕が何をしたっていうんだよ?
璃王は不安な目をそっと弥王に向けた。
(どうしたんだよ、ミオン……?)
弥王の心を読んでしまえば、何か解るだろうか?
それを考えて、璃王は頭を振った。
面妖な能力で他人の心を覗いてその人のことを知ったとして、それは本当に理解したと言う事にはならない。
両親や自分の呪幻術の師匠に何度も言われた事じゃないか。
こうして人の感情を理解しようとすることも、悪くはないだろう。
人の深層心理が勝手に流れ込んできてしまう璃王は、今まで人の感情に触れる事を避けて、自分から人を遠ざけてきていた。
今ではそれを意識的に抑えているから、人の感情を自分から理解しようとすることはできるのではないだろうか。
レイナスの感情、弥王の感情。
二人の感情をちゃんと能力なしで読めたら。
そうしたら自分はもっと、人間らしくなれるのだろうか。
璃王は、もうすぐ生徒会室に着くというのに未だに離されない弥王の手から擦り抜けて、弥王の手を握り直した。
もやもやと弥王の内で流れてくる感情の正体を知るのは、もう少し先の事だった。
―― ――
「じゃあ、皆来た所で配役を発表しまーす!」
生徒会室に入るなり、レナはそれはそれはハイなテンションで言ってきた。
生徒会室にはすでに生徒会のメンバーと今回劇をするメンバーが来ており、レイナスも弥王たちの後で遅れてきていた。
「まず、ヒロインであるアイシャ・ハーケーン!」
「リオン・コウヤ!」
レナが役の名前を読み上げ、ライトが役者の名前を呼ぶ。
すると、エイルが指笛を吹いて場を盛り上げ、黄色い声が上がった。
この場にいるのは生徒会だけでなく、生徒会が抜擢した映画のメンバー。 広い生徒会室は軽く人でいっぱいだった。
「今や伝説とまで言わしめる銃騎士、エルリック・シーズ!」
「レイナス・リグレット!」
「なっ!? 勝手に――」
「もう決まったことだから、異議は認めないよ」
「――っ」
レイナスが映画に強制参加になっていた事に異議を訴えようと口を開けば、クレハから高圧的な口調で言われ、レイナスは押し黙った。
そのクレハのマントの端からは、不気味な顔のこけしが見えている。
これ以上、何かを言えばどうなるか。
流石にレイナスもそれが分からないほど馬鹿じゃない。
「はいはい、早く練習したいから次行くわよ!
エルリックの幼馴染であり、もう一人のヒロイン、レイチェル・ウェン・グレイゼル!」
「ミオン・コウナミ!」
「町娘Aか音響……」
「諦めな」
クレハの言葉に弥王は落胆して肩を落とす。
どうやら弥王は、本当にメインに上げられたくないらしい。
「続きまして~、エルリック、レイチェルの幼馴染であり、伝説のポンコツ職人! ジョニー・セコッティンス!」
「我が校の期待の新星、特待生のレイリス・リグレ・群雲!」
「えぇっ、私ですか!?」
ジョニー・セコッティンスの役として名指しされたレイリスは、驚きに目を見開いた。
今この場に居るのは、アリスに気に入られた生徒やアリスと強く繋がりのある生徒であるので、姉妹校でありウェストスター校と交流のある“ミーティア校”に居たレイリスも配役として呼ばれていた。
「男だけど女装して戦うシーンがあるから、配役は女の方がいいって結論になってね。
運動神経が良い男なんて殆ど炎寮に居るし、炎寮の男なんか皆ガタイがいいからそんな奴が女装してもギャグにしかならないでしょ、って事で女子でフェンシングの成績が良い君が選ばれた。
しっかり頑張りなよ」
「はいです!」
クレハの話を聞いたレイリスは、向けられた期待の目に応えるようにしっかり頷いた。
そうして、他の役も順に決められていった。
―― ――
―― ――
「えーと、あとは……」
両手にいっぱいの紙袋を抱えて、璃王は手に持っているメモを見る。
劇の練習の合間に璃王は、衣装の材料の買い出しに出ていた。
衣装係を選出しようとしたレナだったが、残念なことに洋裁ができる生徒が居なかったのだ。
なら、衣装係を決めつつ衣装のデザインを決めよう、という段階で璃王のいつもは仕事をしない仕立て屋スキルが発動してしまい、「じゃあ、リオンちゃんが衣装係ね、決定!」と白羽の矢が立ってしまった。
断ろうとした矢先、レイナスとレイリスから「すげぇな、そんなことできるのか」とか「楽しみにしてるね、リーくん!」と感心と期待の眼差しを食らってしまった璃王は断るに断れなくなってしまい、引き受けることに。
(レイチェルの服とアイシャのドレスは前、グレイア様がクリスマスにと送ってきた服をリメイクすれば何とかなるか。
ちょっとカナメに送ってもらって……問題はアイシャの私服とエルリックとジョニーだよな。
一週間で作るには……ミオンにも手伝ってもらったとして……)
考え事をしている璃王は、前から人が来ていることに気が付かなかった。
――ドンッ!
「うあっ!」
「おっと」
気が付いたら璃王は前方から来ていた人にぶつかり、驚いたような声がその人と被った。
ドサリ、と荷物が落ちる音は聞こえたが、体には未だに衝撃が来ない。
その代わりに、支えられているような感覚があった。
そっと目を開けてみると、目に映ったのは黄緑のラインの入った黒いブレザー。 高等部一年の男子のブレザーだ。
「君は……、リオン……?」
「え……?」
名前を呼ばれて、璃王は驚く。
昨日今日で随分有名になったらしく、他の生徒が噂話をして好奇の目で見ていることは知っている。
だから、自分のことを知らない生徒は殆ど居ないから名前を呼ばれる事に違和感はない。
しかし、その声と匂いだ。
最近声変りが終わったような男性の声。 しかも、つい最近に聞いたような声だった。
そっと視線を上げてみたら、最近見た顔。
蒼い髪に茶色と藍色の切れ長なオッドアイ。
璃王の顔はその顔を視界に入れた途端にみるみる内に青く引き攣っていく。
そして。
「いッ、嫌だ、離せッ!」
相手の正体を知った途端、パニックになった璃王は自分を抱き留めた腕から逃れようと、力の限り暴れた。
「いやだ、離せッ! 僕に触るなッ!」
「――ッ! 解った、離すから落ち着いて、リオン!
転ぶ――って、うわっ!」
――ドサリ。
思いの外璃王の抵抗する力が強かった為、璃王が転ばないように支えていたがそれが仇となり、璃王を押し倒す形で彼は倒れる。
自分に覆いかぶさる様に倒れた彼はやはり、彼奴だった。
「――ッ! 離れろッ、リト・コスモッ!」
「痛いって、だから、ちょっと落ち着きなって、君!」
彼――リト・コスモに腕を支えられている璃王は、更に近い距離に彼が居る事に動揺して、彼の体を押し退けようと渾身の力で殴りまくる。
暴れる璃王から離れようとするも、パニックになっている璃王をこのまま離したら、地面に頭をぶつけるだろう。
璃王の体を支えながら、リトは殴られ放題になる。
「何やってんだ、お前!」
突然掛けられた声に、璃王はそちらへ顔を向ける。 そこには、通りかかったらしいレイナスが居た。
彼の姿を見た途端に璃王の抵抗は収まり、リトはその間に璃王の腕を引いてその場に座らせる。
リトから解放された璃王はレイナスの所に走り寄り、その背中に隠れた。
「大丈夫か、リオン?
何があったんだ?」
「特に――何も」
そういった璃王の顔は蒼く、ガクガクと震えているのが服を掴まれた手から伝わってきている。
これで何もないと言われても、些か信用できない。
「――で、何をしたんだよ?」
「何もないのは本当だよ。
リオンがそう言ってるだろ」
「じゃあ、何でリオンがこんなに怯えてるんだよ?」
猜疑的なレイナスの目がリトを見据える。
状況的にリトが璃王に何かをしたと思ってもおかしくない。
しかし、説明も面倒だ。 リトはレイナスの目を見返す。
レイナスはそれを俄かに信じがたいといった様子でリトの言葉を信じない。
それは、璃王が尋常ではないほどに怯えているのを見たからだ。
何もなくて、彼女が怯える筈が無いのだから。
「さぁね?
僕に対して彼女は何かトラウマがあるらしいから、そのせいじゃない?」
きっちり説明をすることも馬鹿々々しくなってきたリトは投げやりに答えると、「僕は失礼するよ」と言ってその場を離れた。
「おい!」
レイナスが背中に声を投げ掛ける頃には、リトは校舎の角を曲がってしまっていて、その声は届かなかった。
―― ――
―― ――
「大丈夫か、リオン?」
「あぁ……すまない。
もう、大丈夫」
リトが立ち去った後で、レイナスは璃王を中庭に連れていき、そこのベンチに座らせた。
再び声をかければ璃王は落ち着きを取り戻したみたいで、いつもの冷静な声が返ってくる。
「本当に大丈夫か?
何かされたとか……」
「本当に何もされてないよ。
ただ、僕が前をよく見てなくて、彼奴とぶつかっただけで」
人とぶつかっただけであんな反応になるのかと疑問に思うが、璃王がそう言うので信じるほかない。
ややあって、レイナスは口を開いた。
「話したくないなら何も言わなくていいんだけどさ……」
そう前置きして、レイナスは璃王の隣に腰かけた。
その様子を璃王はじっと見ている。 すると、こっちを向いた真紅の目と目が合った。
「彼奴とどういう関係なんだ?
向こうはお前の事、知ってる風だったけど……」
レイナスが先程の少年の事を問うと、璃王は肩をビクリ、と揺らした。
どうやら、ただならぬ仲の様子であることは、璃王のこの反応と先程の少年の言葉から感じ取れる。
先程の璃王の様子からも訊いてはいけない事のような気もするが、また、同じような事があっても困るだろう。
彼と璃王の関係次第では、自分のできる範囲で彼奴を璃王から遠ざける事も可能だと思ったから出た言葉だった。
「彼奴……リト・コスモはオレの母方の親戚だ」
暫くの沈黙の後、璃王はポツリポツリと話し始めた。
その顔は何処か昔を懐かしむような表情だ。
「幼い頃は、よく親戚に迫害を受けていたんだけど……それでも、リトと後二人の親戚はオレを庇ってくれてた」
「え……?」
先程の璃王の反応から、リトと言う少年が璃王と親しかったとはとても想像がつかない。 と言うか、彼女が昔迫害を受けていたなんて、今の彼女からはとても想像できない。
レイナスは黙って話の続きを聞く事にした。
「いつからか、リトは僕を避けるようになって……。
この右目な、もう殆ど視力がないんだ。
昔、リトにやられて……。
以来、僕はリトが怖くなった。
彼の姿を見ただけでも異常に体が震えて、上手く動かなくなる。
彼奴……イリアに居る筈なのに、何でこんな所に……」
話をしている内に璃王はまた震えだして、それをレイナスは何とも言えない気持ちで見ていた。
口調も弱々しく感じて、何だか昨日会った彼女とは思えないようだった。
「……、何か、変な話して悪かったな。
もう大丈夫だから……」
そう言って笑う璃王の顔色は、お世辞にも良いとは言えない。
話し方だけは平常に戻っているところを見ると、無理をしているようにも思えた。
その証拠に、その言葉は力なく璃王の口から吐き出されたかのようだった。
「そうか?
何なら今日は休んでも良いと思うが……どうせ、練習は明日になりそうだしな」
顔色の悪い璃王を心配して言ったレイナスの言葉に、璃王は首を振った。
「いや、いい。 戻る。
劇の練習もそうだけど……イリスが心配だから」
「イリス? えーっと確か……群雲の事だったか?
彼奴がどうしたんだ?」
言い淀んだ後で璃王は本心を打ち明けると、レイナスは首を傾げた。
璃王は悩んだ後、レイナスになら話しても大丈夫そうだと考えて、首を縦に振った。
「そう。レイリス・リグレ・群雲。
えぇっと……話すと長くなるから全部は話さないけど……イリス、虐められてるみたいなんだ。
なるべく彼女を一人にしないようにしようと思って、さ」
「あぁ、なるほどな。
それなら確かに一人にしない方が良いかもしれないが……お前は大丈夫なのか?
またさっきの……リトって奴に絡まれたら――」
「それは心配ないよ。
さっきも言ったけど、彼奴は僕を避けてるから、絡んでくることはないと思う。
さっきのは本当に何でもないから。
だから、大丈夫だよ」
レイナスの言わんとしていることが解った璃王は、言葉を遮ると微笑んで言った。
「それなら良いんだけどな……」
それでも心配そうに自分を見てくるレイナスに、璃王は溜息を一つ落とす。
まさか、彼がここまで心配性だとか思わないだろう。
そして、レイナスの両頬を摘まんで、みにょーんと引き延ばした。
「はの、リオンはん? いはいんれふが」
「ふっ、何その間抜け顔。 ウケる」
「なっ! お前な、人が心配して――ッ!」
レイナスの頬を少しだけ弄んだあと、璃王は頬を引き延ばしたレイナスの顔が間抜けすぎて思わず鼻で笑ってしまった。
頬から手が離されたレイナスは璃王に抗議をしようとするも、それは璃王の指によって途中で物理的に遮られる。
「だから、大丈夫だって。
それに、何かあったらまた、今みたいに助けてくれるだろ? レイナスが」
「――ッ! あぁ……」
不意に見せられた淡い微笑みに、レイナスは言葉をなくす。
そんな顔で問いかけられたら、頷く事しかできなくなる。
何だか、自分だけが頼られているようで、悪い気はしなかった。
「あー、でも、本当に困った時に連絡してくれ。
――って、携帯、持ってるか?」
そう言って携帯をポケットから取り出したレイナスだったが、璃王が持ってない可能性を考えて、一応訊いてみた。
これで持っていなかったらどうしようか、と悩んでいるレイナスの耳に、乾いた笑いが届く。
「ふはっ、当然、持ってる。
一般人とは言ったけど、発明家をしている知り合いの居る貴族と繋がりがあるからな」
そう言った璃王の手には小型の携帯端末があった。しかも、最近一部の上流階級の貴族に流通している最新の物だ。
こいつの知り合いって一体……とまで思う、レイナス。
「そう言えば、弥音から聞いたぞ。
中等部の男子の喧嘩を収めたんだって?」
「あぁ、一昨日のヤツか。
まぁ、近くで怒鳴り合ってる声が聞こえたら、様子くらいは見るだろ」
「へぇ、確か、兄が妹を虐めていたクラスメイトと喧嘩をしたんだっけ?
ちなみに、その妹の名前って聞いた?」
璃王は、この話の流れなら自然的に一昨日の中等部の喧嘩について聞き出せると思い、尋ねてみた。
すると、訝しむ様子もなくレイナスはあっさりと情報を開示した。
「あぁ……確か、クリス・サーフィス、だったっけ。
同じクラスに双子の兄のクリフ・サーフィスって奴が居る。
二人とも、2年Aクラスとか言っていたような」
「クリス……ってもしかして、フードを被っていて、ちょっと内向的な感じの奴?」
「あぁ、そいつだ」
璃王の言った特徴にレイナスは頷いた。
(あれ、じゃあこれってクリスって奴に話聞いた方が早いんじゃね?)
そう思った璃王は直ぐに立ち上がった。
「ありがとう、レイナス。
これでイリスはどうにかなるかもしれない!」
「あっ、おい!」
立ち上がるなりレイナスに礼を言うと、璃王はそのまま何処かに走って行ってしまった。
その背中にレイナスから声を投げられるが、璃王には届いていないようで、気付けば璃王の姿は小さくなっていっていた。
―― ――
―― ――
――と、意気込んだのまでは良かったものの。
「……、やっぱ、居ないか……」
璃王は、クリスを見つけることができないでいた。
初めは教室に居ると思って教室へ行ってみたが居らず、クラスメイトに訊いたら「実験室じゃない?」と言われ実験室に行くも、そこにもいなかった。
その場にいた同級生に訊けば「中庭じゃない? 旧校舎の」と言われ、そこにも居なかった。
彼奴ら、出鱈目言ってるんじゃないのか?とさえ思う、璃王。
「あっと、やべっ!」
不意に中庭のベンチに腰かけて空を仰ぐと、校舎の壁に貼り付けられている時計が目に飛び込んできた。
その時計を見た璃王は急ぎ立ち上がる。
休憩の合間に調べようとしていたのだが、休憩時間をとっくに過ぎていた。
(これ、クレハ・エル・クラインの事だから絶対、何かえげつないペナルティを言い渡されそう)
この二日間、クレハについて解ったのは、性格がエゲツナイと言う事。
特にエイル・ギレックとレイナスに対してはとことん辛辣だ。
生徒会の仕事を押し付けられて渋っていたレイナスに「早く行かないとグラウンドを全裸で「愛してるぜぇ!」と言いながら走らせるよ」とか言っていた気がする。
そんな感じのペナルティを言いつけられるのだろうか、と考えたら璃王は、背筋がゾゾゾッ!と寒くなってきたのを感じた。 それは勘弁だ。
璃王は本校舎の別館へ向かって急ぐ。
―― ――
「あれ、ここってさっき通ったような気がする」
璃王は、先程から同じ場所をグルグルと回っていた。
――いや、陛下じゃあるまいし、俺が道に迷う筈がねぇだろ。
璃王は、今頃は公務でてんてこ舞いであろうじゃじゃ馬な女王の事を思い出す。
まーた公務ほっぽり投げて本部の方に行ってるんじゃないだろうな。
フッ、と小さな笑いが込み上げた。
まだ任務を引き受けて時間は経っていないのに、もう長くここに居るみたいだ。
そんなことを考えながら璃王はまた、歩き出した。
「きゃッ……!」
歩き出した璃王の耳に、少女の小さな悲鳴が届いた。 耳を済ませれば、声は近くで聞こえる。
璃王は声のする方へと足を向けた。
校舎の角を曲がった所から、人の声が聞こえる。二人で話しているような声だ。
校舎の陰から飛び出すと、璃王の目に信じられない光景が映った。
「何をしているッ!?」
声を張ると、地面に頽れているフードの人物――正に璃王が探していた少女、クリス・サーフィスの元へ駆け寄る。
「チッ」
小さな舌打ちが聞こえて璃王がそこへ目を向けると、もう一人の人物は走って何処かへ逃げてしまった。
「――!」
その瞬間、璃王はチラリとその人物の顔が見えて、絶句する。 その顔は、レナ・スタンにそっくりだった。
その少女は、璃王がクリスを構っている間にそそくさと逃げて行った。
「大丈夫か?」
「えぇ……平気よ。 ありがとう」
レナに似た人物を追いかけるよりクリスの介抱を優先にし、璃王は彼女に手を差し出す。
その手を取ったクリスは小さな声で礼を言うと、微笑んだ。
「あれは……スタン先輩か? ちらっとしか顔が見えなかったから断定できないけど……」
「えぇ、そうよ」
璃王の呟きに、クリスは服に着いた砂埃を払いながら肯定した。
「えっ」、と小さく璃王は驚きの声を上げる。
――スタン先輩? いや、違うはずだ。
だって彼女は今、生徒会室に居る筈だし、それに仄かに漂っていた香水の匂い。
スタン先輩からはそんな匂いはしない。
「信じないわよね、こんなこと言っても。
生徒会や校長に掛け合っても、無駄だったもの。 諦めてるわ」
「いや、そうじゃ無くてだな……」
璃王は言葉を濁す。
こちらの話こそ、彼女が信じる筈がない。
話したところでこういう女子はムキになってくるだろう。
璃王が何を言おうか悩んでいると、クリスはフッ、と笑みをこぼして言った。
「良いの、信じてもらえることは既に諦めてるから。
でも、そうね。 信じてくれるなら、私に協力してくれるなら全部話すわ、リオンさん?」
その笑みは、現状打破を諦めていない不敵な笑みだった。
「全部話す」その言葉を聞いた璃王に「頷く」以外の選択肢はなかった。
何か重要な手掛かりになるかも。 それすら思えるのは、現在の彼女が「昔の自分」に考え方が似ているせいかもしれない。
「解った、信じよう。
その代わり、現状を全部話してくれ。
僕もできる限りのことはする」
「えぇ、解ったわ。
そうね、お互いの話を信頼できるようにせめて、貴女の身の上を話してくれるかしら?
悪魔の黒猫さん?」
「!?」
妖しく微笑みながら、クリスは言った。
「悪魔の黒猫」。 それは、「璃王」を指すもう一つの通り名。
裏社会の情報屋や占術師が名前の解らない相手を比喩表現して呼ぶ名前だ。
まだ、「悪魔の猫」とすら呼ばれていなかった頃、情報屋に呼ばれた名前だった。
@Pdd世界観の携帯
「1951年に携帯なんてあるわけねーだろ、バーロー!」なんて思うかもしれませんが、まぁ、この話はフィクションであり異世界の話ですので。
何処かの天才発明家が好奇心の果てに作ったのが、この世界の携帯。
できる機能としては、通話・メールの送受信・写真を撮る(尚、画質はあまり宜しくない)。
この後の話の展開的にもあった方が楽なので、携帯があるという事で。




