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手紙

作者: そのぴお


 朱色に染まっている弱々しい太陽の光は、正月を超えた冬の夕空に貼り付けられていた。僕は顔いっぱいに光を浴びながら、憂鬱な気分に酔いしれる。近々卒業する中学の下校ルートにはニット帽をかぶったお地蔵さんや枯れきった蓮しかないため池がある。これを眺めながら登下校ができるのも、残すところわずかとなった。二年生の春には五百円玉が落ちている祠を見つけた。僕は祠の五百円玉を、雨の中に捨てられている猫のように思って、居ても立ってもいられなくなり、一度交番に届けたことがある。駐在していた林と名乗る警官に五百円玉を差し出すと、楽しそうに笑いながら、それは祠に戻してくださいと言った。その時は自分の正義が笑われたような気がして冷静に警官と話すことができなかった。冗談で届けに来てない僕の真剣さが、彼にとってはおかしかったのだろう。すぐさま林に連れられて祠まで歩いていき、五百円玉を再び奉納した。ここに置かれているお金はお賽銭と同じで、通行人がお祈りをするときに奉納するお金だと丁寧に説明してくれた。あの祠にはどんな神様が祀られていて、五百円玉にはどんな願い込めたのだろう。林の言葉からは、賽銭では語れない意図的な信仰の含意を感じさせられた。その日は林に一言の礼を述べてから帰路に就いた。数日後に祠を見たとき、五百円玉は無くなっていた。

玄関のドアを開け、家族に向かってただいまと叫んだ。二階にある自分の部屋に学校をカバンを投げ込み、いそいで階段を降りた。台所で夕飯を調理している母に、夕飯の内容を聞こうとしたが、玄関から音がしたのでやめた。父の声がして、おかえりと叫んだ。夕飯ができるまでの間に入浴して、上がってお茶をがぶ飲みした。両親と弟の四人で食卓に集まって母が持ってくる夕飯を嬉しそうに食す。毎日何を食べているのか、とくにおぼえてない。家族全員が夕飯を食べ終わり、自分の部屋へと向かった。学校で配布された卒業アルバムをカバンから取り出し、三年間の出来事を思い出していた。集団で写っている時の僕はいつも誰かと楽しそうに話しているが、個人写真のページにいる僕は機嫌が悪そうな目つきで、口元はなぜかニヤついていて、とても気持ち悪く、思わず吹き出してしまった。ニタニタと笑いながら速足で階段を降り、リビングの家族に写真を見せた。父も母も笑いながら卒業アルバムを眺めていた。弟は関心がなさそうだった。両親は、父の青年時代の顔と似ているかどうかを楽しそうに話す。僕も気になってしまって、勝手に押し入れから父の卒業アルバムを取り出す。両親が笑っているのを横目に、古く色褪せたアルバムをめくってみせた。「谷川」という文字の横にいる青年が僕によく似ている。谷川とは、父の名前だ。わざわざ指で人物を指して、父がこの青年であるかを母に確認した。しかし母は台所で洗い物を始めていたので、僕の声は届いていないようだった。そういえば父の卒業アルバムをめくった時から洗い物を始めようとしていたのを忘れていた。僕は同じように、今度は父に聞いてみた。父は笑いながら、よく似ているだろうと言った。ほかのページの父も僕によく似ていたが、それよりも気になることが一つあった。父の隣に必ずいる青年。優しい笑顔で、とても自然な様相で写っている。僕とはおよそ正反対な写真写りの良さであった。父にこの人物はどのような人か尋ねた。父は今まで固く閉ざしていた何かが、重い扉を開けて目の前に現れたような様相でこちらを見た。ずっと一番仲が良かった親友だ。何か聞いてはいけないこと聞いてしまったのだろうかと、少し不安になったが、何もわかっていない無垢な人間の声で、へぇと言った。母が会話に入ってくることはなかった。弟はいつの間にか部屋に戻っている。僕も部屋に戻ることにしたが、父とは一切目が合わなかったため、何も言わずに戻った。

数日が経った休日、家族はそれほど遠くない父の実家に顔を出した。卒業アルバムの話から、父とはそれほど変わりなく軽い会話を重ねてきた。あの日のしこりは未だに支えたまま。僕はテレビを見ていた。普段は見ることのない討論番組では、学識の高い才女アイドルコメンテーターが、ナントカ大学のナントカさんに嚙みつかれている。ナントカさんは顔にブツブツがあって髪の毛も剥げており、とても不潔で気持ちの悪い見た目をしたオジサンだった。司会のお笑い芸人は、そんなにかわいい女の子をイジメてあげないで下さい、と周囲の笑いを誘ったが、ナントカさんは終始笑うことはなく真剣な面持ちで議論を続けた。その姿が余計に気持ち悪かった。才女アイドルコメンテーターは司会者に対して、ナントカさんすごい唾が飛んでいて議論にならないですぅ、と言った。周囲はまた笑いに包まれた。かわいい女は、気持ち悪いオジサンよりも浅はかで愚かで醜悪な生き物なのだと僕は考えた。表皮の美しさと腹の色は全く比例してない。テレビから視線を逸らし、先ほどまで父の座っていたソファに目をやったが、そこには誰もいなかった。静かに立ち上がり、トイレに行くフリをして、なんとなく急な階段をのっそりと上がり父の部屋に行った。ギィと音を立て部屋の扉を開けた。父はすぐ近くの椅子に座ることなく、立ったまま何かを見ている。封筒の中に入っている多くの写真を一枚ずつ見ていた。気を使うことが逆に怪しく、思慮的で無邪気さを忘れたような行動にも思えたので、バカなふりをして聞いてみることにした。写真に写っていた優しい笑顔の彼は今どこで何をしているのか。父は黙って何も言わず、祠にお賽銭を奉納するように一枚の写真を差し出した。写真には高校生くらいの青年が二人海辺に立っていた。一人は父で、二人とも良い笑顔を映していた。父は長い話になる、と措いたが、僕は承諾して長い話を聞くことにした。


「こいつは杉崎、俺の親友だ。こいつは誰にでも優しくて、自分より人の幸せを優先するような男だった。そんな優しさに何度も救われていると憧れてしまうんだろうな、俺もあんなふうになりたいと思うようにもなったな。高校を出た後はお互い就職して会う機会も減ってな、それでも半年に一回くらいは会ってたんだ。それもだんだん減って三年経つ頃にはもう会ってなかった。最後に会った時のあいつの顔があまりにも暗くて、嫌な予感はしてたんだ。多分、あの性格だから、上司とかにいいように虐められてたんだと思う。でもせっかくの楽しい再会の席に、そんな暗いことを聞くのもかわいそうだと思って触れなかったんだ。それとは真逆に、自分の仕事は罪悪感すら感じるほどに順調で、充実した日々を送ってしまっていた。杉崎は二十七歳の時に自殺したんだ。」父の話はそれほど長くはなかった。


三年間着用した制服に最後の日がやってきた。春の匂いが少しちらつくが、やはりまだまだ寒い。体育館は無機質なマイク音を響かせて、今日も静かに足音を鳴らしていた。答辞を読む女生徒がわざとらしく泣くので、途端に恥ずかしくなった。そういえばあの女生徒は、合唱の時もわざとらしく大きな口を開けて教師に真剣さをアピールしていた。マラソンで倒れるまで走ったり、体育祭では応援団長を務めたりしていた。そんなに大きく前に進んで、いったいどこに向かっているのかよくわからない、鬱陶しい女生徒だった。彼女が生徒を代表して答辞を述べている。その生徒の中に僕がいる。

両親は卒業式に来なかった。

家に帰ったのはいつもより少し早い夕方だった。台所にいる母にただいまと叫んだ。母は父の書斎にあるコーヒーカップを取ってきてほしいと僕に頼む。父は朝にコーヒーを飲むのが日課だ。気怠く階段を上り、父の部屋のドアを開けた。書斎の机にはコーヒーカップが置かれていた。引き出しからは茶封筒がはみ出ている。机の上のコーヒーカップよりも、引き出しに挟まった茶封筒が僕の人生には必要な気がした。茶封筒の裏には、杉崎と書かれており、宛先は書いていないが、中身は杉崎さんの手紙だ。おそらく父に宛てたものだろう。僕は手紙を読むことにした。


「外国人が書いた本には、このようなことが書かれていた。

身の回りにある当たり前には始まりがあって、その存在は決して必然じゃない。誰かがわざわざ捻じ曲げて、世の中を簡単なものに見せかけるために創り出したモノなのだ。


答えが簡単じゃないことは薄々気が付いていたが、自分がここに存在しなくてはならない理由が本当にわからない。嘘でもいい、間違っていてもいいと条件を軽くするほど、他人は私に対してつけ上がった。感謝や優しさといった耳障の良い一銭にもならない良心は、私を都合よく慕う他人に容易く蹂躙される。私は何に感謝すればよいのでしょうか。

私の日常は目覚まし時計の嫌な音から始まります。せっせと準備をして、虐められるために会社に行きます。作業着はすぐになくなります。工具がなくなると私が犯人になります。上司の借金は私が返します。飲み会では全員がトイレに行ったきり戻ってこず、十数人が散々飲み食いした料金を支払ったこともあります。他人は楽しそうに私を見るので、彼らの欲求は満たされていると思います。退職願はなかなか受理されず、紙はビリビリに破り捨てられます。しかしそんな私にも安寧は存在しました。何の取り柄もない私を慕って、付き合ってくれている雪乃という女性です。雪乃とは同棲しており、家に帰ると毎日夕飯を作ってくれます。彼女と居るともう少しだけ頑張ってみようと思えるのです。彼女には随分ともたれ掛りました。私を支えたのは彼女だけではありません。もう一人、谷川という親友がいました。谷川とは二人の予定が合う度に、私の家で飲み明かし、相談に乗ってくれました。二人とも私の人生にはもったいないような安寧だったのです。辛く、焼き焦がれそうな日々も超えて、親孝行のできる立派な人間になろうと思える日々でもありました。

ある日、早朝の現場においてある、テレビがやけに騒がしかった。テレビの周りには人が群がり何やら盛り上がっており、しばらく騒いだ頃、上司が私のほうを見て、これお前の地元じゃねえのか?と言ってきた。また冗談を言われて揶揄われていると思いながら、テレビの前に立った。画面には家屋が何軒にも渡って火煙を上げている映像が流れていた。大きな黒煙が町を飲み込む。テレビの右上に記載されている町の名前は確かに地元で、飲み込まれている家屋の中には私の実家もあった。すぐさま母に電話をかけてみたが、応答はない。父は数年前に先立っており、足腰の悪い母は周囲の協力を得ながら生活している状態で、とても単身でこの災害を回避できるとは思えなかった。それでも私は、居ても立ってもいられなくなり上司に話をつけようとしたが、今日はただでさえ人が少ないから困る、の一点張りで中々現場から解放させてもらえなかった。結局、定時よりも少し早い時間に、早退を許可された。仕事中、上司はタバコを吸いながらほかの社員と談笑していた。

直ちに実家に向かおうと、新幹線まで死に物狂いで走ったりした。新幹線に乗ってしまうと、黙って座ることしかできない自分が情けなかった。到着したころには手遅れだった。どこが誰の家なのか判然としないほどの全焼だった。救急隊が死者数を計算するために辺りを調査していたので、死亡者の情報を家族として伺った。死亡者リストには母の名前があった。遺体が見つかるまで多くの時間を要したらしい。すでに安置所に輸送された母の所在を、救急隊員の人は一生懸命に説明してくれたが、私の耳には今一つ届いていなかった。痛い。ただ痛い。安置所に眠っていた母は黒く、冷たく、パサパサだった。視界が濁ってうまく見えない。喉が竦んでうまく話せない。

幸福とは実に不平等で主観的。

葬式、土地の手続き、街の復興、正直どれも興味が持てない。どうでもいい。私は救いを求めた。雪乃のいる家に帰るのだ。彼女には何も報告していないまま数日を過ごしてしまった。事情を説明してゆっくり進めていけばいい。自分にはそう言い聞かせて家路についた。ボロボロの状態で玄関のドアを開けた。家に入ると、まったく遠慮のない、カラスのように騒がしい声が聞こえてくる。それは一定のリズムで高く響いていて、感情の吐露を綿密に描いたような声だった。私の耳はとうとう狂ってしまったらしい。声が聞こえるほうへ行った。寝室のドアを開けると、雪乃は谷川と動物のように求めあっていた。三人は一瞬膠着したと思う。それは一秒のような数分であった。視界は濁り、音は朧げに。二人は半裸のまま私に対して何かを必死に訴えている。だが言葉は音として全く聞こえない。拒絶しているわけではない。聞きたくても聞き取れない。気づけば私は、流麗に膝を折り、地面を這いながら、自分の声で何もかも聞こえなくなるほどに爆笑していた。呼吸と心臓は一定のリズムで弾み、弾んだ。やがて呼吸もままならず、咳が出るようになり、笑う回数よりも咳込む回数が多くなった辺りで喀血した。それでも笑いは止まらなかった。聞きたくて仕方がない、彼らの言い訳を。今更私に何を求めているのかを。地面に向かって真剣に考えた。どんな言葉で、どんな表情で、私に理由を与えてくれるのだろう。真剣に考えた。爆笑した。

次の記憶は白衣を着たメガネの老人との会話だった。彼は医者で身体の状況を報告してくれた。記憶障害がおきているなどと言っていたが、私はすべて覚えている。思い出すたびに笑いそうになる。絶望もできない。

すぐに退院した。自分の体は重く、重力に逆らっている感覚が鋭敏で辛い。救いを求めて生きるのが間違いだったのかもしれない。この世の中にあるのはただ、事実。そこには正義も罪もなく、客観的な過去のみが存在している。運命とは人間の概念的な意味の後付けに過ぎない。当たり前だと思っているモノは、必然じゃない。わざわざ捻じ曲げて、簡単なものに書き換えなければならない。そういうことだったのか。ならばこれから起こる事実は、単なる必然で、後出しの運命だ。生きることのみを選択肢とする通念を、苦しみを強要される運命を、書き換えることと致します。」

手紙はここで終わり、僕は息を大きく吸い込んだ。長い間水の中を潜っていたように読み更けた。窓の外はすっかり夜で、少し怖かった。父はすべてを話さなかった。おそらく自分の都合に合わない部分は割愛して、傷がつかないように努めていたのだと思う。初めて自分の存在を疑った。自分が不倫関係の男女から生まれた人間であることを知って息を吞んだ。途端に自分とその家族が疑わしく、不気味なモノに思えてならなかった。非常に不愉快。だが、すぐ冷静になれたのは、僕が答辞の女生徒のように感情を一々ピクピクと動かしたりしないからだ。いくら冷静になっても彼の考えは今一つ理解できない。僕は不敵に笑い、その声を書斎の本に染み込ませて、日常とはかけ離れた手紙を元の位置に戻した。コーヒーカップを手に取り、ドアを閉めて階段を下りる。途中で玄関から声が聞こえる。玄関まで歩み寄り、父と目を合わせ、いつも通りの表情と声色で、おかえりと叫んだ。

書斎の電気はまだ消していない。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  最初は家族団欒の温かい話かと思いきや、そこから暗い話への持って行き方がとても上手いです。登場人物の背景が生々しく、リアリティーがありました。 [気になる点]  父の反応にはクローズアッ…
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