2.2
目の前にいる真田は小学校のときに有名だった体育の先生の話を始めた。
「私ねあの人、苦手だったんだ。頭はスキンヘッドで、体はでかいし、大きな声で怒るし。何もかも苦手で」
当時の体育の先生はと思い返そうとすると、顔を思い浮かべることはできたが名前は出てこなかった。ただ、スキンヘッドで筋肉は全身についていて、来ているシャツが張っていたのをよく覚えていた。
「そういえば、あの先生は縄跳びのときとか怖かったな。縄跳びの忘れ物をするやつが多くて、一列にして一人ひとり頭をパンって大きい手で叩いてたなぁ」
真田は少し思い返す仕草をして、
「ああ、そういえばそんなこともあったかも。私は極力、ない事もないように過ごしたかったから離れてたりしたなぁ」
真田が転校したのは小学5年のときで、話題もそれ以前のものとなると非常に範囲は狭くなる。だが、浅井にはとっておきの話題があった。ただ、真田が何かを思い出したようで、
「そういえば、浅井くん。4年のときの林間学校で川に落ちたよね」
まさにその話題をふろうとした浅井は驚き、食いつくように話した。
「そうなんだよ。今僕も思い出したところでさ。懐かしいなぁ長木川の川沿いのところで遊んでたら頭からドボンって」
「私も同じクラスで近くにいたけど、最初何が起きたのかわからなかったなぁ」
当時から彼女とは同じクラスではあったが、関係性は薄かった。
「よく覚えてたね。この話題を永島とかに言っても全く覚えてないのに」
真田はニッコリと笑った。そして、ちょっとごめんねと言ってポーチを片手にトイレの方へ向かった。
前は空洞となったことで、周りの状況を久しぶりに見た。
永島は全身にアルコールが廻っているようだ。自分が車の運転手で有ることを完全に忘れていた。近藤は永島が話す仕事話を半分程度で聞いていて話の切れ目では爪の状態や枝毛がないか確認をしていた。
山口は完全に潰れていた。ぐっすりと大きないびきを掻いていた。斎藤ケンはジャイアン、出来杉君よりのスネ夫と対等に話していてまだ一度もダウンをしてはいないようだ。
真田がごめんねと言いながら席に戻ってきた。近藤は気づいたらもう眠りについていた。
永島は話す相手がいなくなったことで、浅井に絡んできた。
「おい、お前酒も飲んでないのか」
アルコールの匂いを放つ口が左頬近くにあることがとても嫌だったが突き放さないで、
「お前が運転手だってこと忘れてるだろ」
「良いんだよ。代行サービスがある。お金はもちろん俺が出す」
真田はこの状況を見て、
「永島くん、スーパーで会ったときはとても紳士的な人だと思ったけどこんなにはっちゃけるんだね」
「おうよ、俺だってね、僕だってね酒が入れば変わりますよ。だって人間だからね」
がははと大きな声で笑ったが、浅井は全くおもしろくもなんともなかった。
「さっきの話の続きじゃないんだけどさ」
真田が完全に浅井を見ていた。浅井の左には何も入っていないビールジョッキを持ってガハハと笑う永島がいる。
「どうしたの」
「公園、覚えてる?」
浅井にとっての公園は、以前住んでいたアパートもしくは自宅から10分程度の公園だ。
「あの坂を下った先のかな」
「うん。それ。あそこで言ってくれた言葉嬉しかったなぁ」
浅井は今まで感じたことのない感触と嫌でも微笑みそうになる顔の筋肉をぐっとこらえ、
「まあ、あれはあのときなら言わないといけないセリフだよね」
また彼女は微笑んだ。それがとても嬉しく、顔の筋肉が完全に柔らかくなっていることなどもはや関係なかった。
「浅井くんも変わらないよね」
「え。そうかな。いろいろ変わっていると思うけど」
「そんなことないよ。そうだ、今って何をしているの」
真田は浅井の回答を待った。このとき、浅井は左側を見て、完全に永島が落ちたことを確認した。
「今は、仕事を」
「へぇ。どんな仕事?」
浅井は口の中には何もないにもかかわらず、変な異物感を感じた。ああ、これはと思ったときには、
「電気工事。あと大手企業の下請けとか」と言っていた。
「へぇすごいじゃん」
話題を変えないといけないと思い、逆に質問をした。
「真田さんは今は何をしているのかな。大学?仕事?」
「私はお母さんの手伝い」
お母さん?と浅井は小さな声で反復した。
浅井は記憶を巻き戻したときに出てくる真田のお母さんという存在が未だに存在していることに驚いた。そして思い出す。そうか、彼女は新しい家族と生活を始めた。そのために転校していったのだと。
「手伝いって、具体的に聞いていいかな」
「お母さん、ちょっと偉いから身の回りのことをやるんだ。こういってもわかってくれないと思うけど」
「いやいや、そんなことないよ」
お前は本当に良い方面に進化しないな。だからだめなんだよ。
浅井の心の中はグチャグチャになっていた。
真田は思いついたようにポーチの中から電話を取り出し、
「そうだ。連絡先、交換しようよ」
浅井は思ってもみないことに「へ」と言った。
「ああ、連絡先。良いよ良いよ」
彼女の連絡先が自分の電話の中に入ったことが少しまだ信じられず、何度も見た。
「真田薫」
電話番号、メールアドレスが登録されている。
いつだろうここに新しく登録されたのは。そうだ。進藤さん以来だな。と浅井は思い出し、電話を少しギュッと握った。
そのあと、バカ話を続けた。
進藤さんがカレー屋で一番辛いカレーに挑戦してその後の仕事ができず早退したとか、彼女が転校した学校にはスカートを盗む女子生徒がいて大変だったとか。
この時間はせいぜい20分そこらだったのにもかかわらず、とても嬉しくなった。
少しは成長した証か?
嘘の鮮度が高くなったことが?
馬鹿言うなよ。
そう心の中でつぶやいた。