1.4
どうしても足の痛みから逃げることができなかった。シートを倒さないでそのまま全身の体重を左側に寄せたことで、体が軋んだ。足の爪先から胴体まで、変なしびれに覆われていた。浅井はできるなら、寝たまま大館にと思っていたが痛みには勝つことはできなかった。
「起きたか、やっと」
浅井がゆっくりと体を起こしたことに永島は反応した。先程までの会話を浅井はぶった切る形で終えてしまったが、もうそこまで引きずっているわけでもないようだ。
渋滞を完全に抜けていた。車は勢いよく国道七号線を進んでいて、もう間もなくで二ツ井町を抜け、北秋田市に入るところだった。
「昼ごはん、遅いけど食べていくか」
ただ、北秋田市にはいり店を探すがいい店がないと言って永島は結局、北秋田市を通過し大館市に入ってすぐのラーメン屋に入った。そこは白味噌ラーメンと赤味噌ラーメンを売りにしているようで大きく看板にも売出し中のラーメンの写真が貼られていた。時間はもう昼の二時を迎えようとしていた。店の中に入るとカウンター席に作業服姿の男性が一人とお座敷のテーブル席四つある中の一つにぽつんと四〇代近くの女性がいるだけで、店内は換気扇の音と冷蔵庫のモーター音が充満していた。
二人は一番奥のお座敷のテーブル席に案内された。永島はここは白味噌ラーメンがうまいんだぞと言って浅井に何も言わずに白味噌ラーメンを二つ、餃子を二皿と言って注文を終えてしまった。
浅井は、「こっちは何も言ってないけど」と言うと
「良いんだよ。お前には即決という能力が欠けているからな」
テーブルの真ん中に置かれた冷えた水を永島は口に含んだ。
入口近くにはレジがあり、その上にはブラウン管テレビがある。テレビはNHK総合を映していた。そして、夏の甲子園を放送していた。
「また、負けたかぁ」
店主と思える男性がテレビを見て、こうつぶやいた。
試合は秋田代表と鹿児島代表だった。秋田はここ数年、初戦を勝ったことがない。今年も記録を伸ばしてしまったみたいだ。
永島は身を乗り出し、テレビを見た。
「一〇点以上も取られてるじゃん」
「いつも秋田だとこんな感じだろ」
「そうかもしれないけどさ、いつかは勝つかもしれないってなんか期待したくならないか。勝ったぞぉってなりたいんだよ。もうオレたちは高校生でも学生でもないんだ。もう働いて決められたレールの上を走るだけ。だから甲子園というみみっちいものに少し期待して非日常を楽しもうとするんだよ」
「みみっちいねぇ」
「仮に一回戦を勝ってトントン拍子で決勝まで行く。でも決勝で負けたらどうだ。負けたチームは最後のバッターだけしか映らず、そのまま人々の記憶からフェードアウトしていくんだよ。でもだ。自分の中に特別な感情を抱いたチーム、今回なら秋田代表だが勝ったということだけで一生忘れられないものになる」
永島が異常なまでに熱弁を振るい始めたので、浅井も少々面倒くさくなった。ラーメンが先に到着し、二人で仲良く割り箸を割って手を付けた。ラーメンは美味しかった。
「さっきの話とは別だがね。記憶についてだ」
「なんだお前、クイズでも出す気か」
「浅井さんよ、覚えてるかな。君が小学生五年のとき、ある女の子が居たことを」
浅井は永島がニヤついていることに気づき手元にあった丼ぶりに手を付けラーメンを啜り始めた。
「浅井さんは覚えてるとは思うが続けるぞ。私の家の近くにスーパーがあります。覚えてますか」
「覚えてるよ。そこで何回もコロコロコミックを買ったよ」
「そういう話じゃないんです浅井さん」
なんだよ浅井さんってとツッコミのような事を言ったあと、永島が言ったスーパーを思い出した。そこは裏路地のような狭い道、車が二台ギリギリ通れるかどうかの道。そこを進んでいくとスーパーがある。そこは当時からボロボロで入り口には無駄な段差や変に効きの良い冷房など印象が強い。
「そこで、私は会ったんです。『彼女』に」
はい餃子おまたせしました。女性の店員さんがテーブルに餃子二皿、伝票を置いていった。話が寸断されるように静かになった。
「で、彼女ってだれだ」
「まあ、こんなのでわかってくれるとは思わない。じっくり思い出してくれよ」
「麺、伸びるぞ」
「伸びない程度で話をしよう」
永島が『彼女』に出会ったというのは、運命の人に出会ったという話ではなかった。永島が仕事場から自宅に帰る途中に夜食を買おうとスーパーに寄った。惣菜コーナーに踏み込んだ際に前の方から女性二人組が歩いてきたという。
「それを見て、はっ、と思ったね」
「お前の感情はどうでも良いんだよ」
「そんな急かすな。ここから重要なんだよ」
二人組を見た時、片方の女性を見た瞬間に、永島は思い出したらしい。
「茶髪がかって、ショートヘアだった」
浅井は餃子を箸で掴み、タレに付けた。もう三個目だ。
「あのさ、茶髪でショートヘアでピンとくる人なんていないし、そんな大雑把な情報で、『あ、あの人だ!』となると思うか」
永島は、ふっと笑って
「真田薫。そいつだよ」
意識して言ったわけではないのだろうけど、永島は一瞬、低音を効かせるようにそういった。浅井は、思わず掴んでいた麺の存在を忘れていた。
「真田が戻ってきてたんだよ。驚きだよねぇ」
「スーパーで会ったのか?」
「言ってるじゃないですか、浅井さん」
「どうして」
浅井は驚きを隠せなかった。
「どうしてもこうしても知りませんよ」
永島は残っていたラーメンを掬うように箸で掴み大きく口を開いて食べた。浅井は徐々に冷静さを失い、
「驚いたなぁ」
「私がスーパーで会った際に思ったこと。とても綺麗だったよぉ。これが一番驚きだな」
真田薫。思い出した。嫌でも思い出す。ああ、公園で話したな。転校したあとのことなんて知らない。だが、転校したあと彼女のうわさ話を人づてに聞いたことがあったでもそんなこと信じようと思わなかった。
「彼女はもう結婚もしてるって話。あれは嘘だったのか」
「浅井さん、嘘というか、うわさ話だから。本当も嘘もないでしょ」
高校生、つまり一六歳の時に彼女は結婚をしたという話を聞いたことがある。ただ、相手がひどい相手でほぼ監禁状態だという。これもうわさ話だ。
「逃げてきたのかな」
永島は浅井が何度も聞いてくることに面倒になったのか、
「いやだからね。僕らは事実を知らないわけですよ」
残りの餃子を食べ、冷えた水を口に含み、永島は続きの話しを車でもしますかと言ってレジに向かった。ちゃっかり割り勘だった。