1.3
家と言ってもそこはアパートなのだから、別に「自分の家」と表現することは何か馬鹿らしくも思えた。駐車場に足を入れる。
もう少し、時間を使ってもいいだろう。そう頭の中で自分に言い聞かせる。近くの公園で良いだろう。あそこなら10分近くで行く事ができる。それでいい。構わない。足取りは気持ち、重く感じた。
浅井はテレビが好きだった。バラエティにしろ、アニメにしろテレビのすべてが好きだった。
色合いやテロップの配置、録画した自分の好きなテレビ番組は擦り切れるほどまで見ていた。
芸人が一生懸命に頑張って泥に飛び込んで笑いを取る。その風景は浅井の目には異様な光景ではあったが、楽しいを形にしたものにも思えた。
ただ、そんな事を言えるわけもなく、いつもチャンネルを変えられていた。
父は特にNHKの番組をよく見ていた。
父が仕事で忙しく父の姿なんて微塵もないくせにいつも夜の7時と言ったらNHKのニュース番組で、民放が送り出す真新しい世界とは真反対で、グレー一色のような印象を植え付けられた。特にこの時間は苦痛だった。当時のニュースは1時間の放送だった。
その間、ずっと世界から隔離されているような気持ちになった。スイッチを一度でも動かせば、こんな退屈な世界から抜け出すことができるのに。
このNHKのニュースを見せるというのを考えたのは父方の両親が考えたことだった。
「純平がテレビを見るのをやめない」と自分の両親に相談した。
すると帰ってきた言葉は「NHKを見せなさい。NHKは勉強にもなる」
NHK教の信者でもあった父方の両親はそれを強く勧めた。
「アドバイス」を受け取った両親は「毎日午後7時は民放ではなくNHK」というのを始めた。だが、この家はNHKの受信料を払っていなかった。
「冒険道」はテレビが送り出す「世界」を自分が作ったという自負がある。
浅井はそれだけでとても満足した。
永島も気に入ってくれた。それが何よりうれしかった。
ただ、一番はそんなことではなかった気がする。両親から逃げたいそれだけだったのかもしれない。
____
自宅から10分程度あるくと児童公園がある。
そこは年に数回程度しか手入れされないため、草木が好き放題に生えている。枯れ葉が絨毯のように敷かれている。
近くの住人は好んで使わない、子供一人寄せ付けていなかった。その雰囲気が浅井はとても好きだった。
もう時刻は6時ぐらいに差し掛かっていた。公園は夕焼けに照らされて綺麗だった。錆びついているブランコや滑り台、ジャングルジムもすべてが輝いていた。
浅井はブランコに座る。
錆びついているせいか座り込むと上から塗装が剥がれホコリのように落ちてくる。風も流れるように公園内を通っていく。
公園の入口に誰か立っていることに気づく。女の子だ。髪はショートカット。上は灰色のパーカーで下は黒色のデニムだ。見たことがあるなと思い始めたとき、その子は近づいてきていた。同じクラスの子だった。真田薫、その子だった。
「浅井。この時間まで何してんの」
彼女とは話す機会なんてほぼ無かった。彼女の方は自分に関心なんてないだろうと勝手に思い込んでいた。
浅井は目に前にいる彼女に話しかけられたことにとても驚き、話す言葉さえも失いかけていた。表情は面倒臭いようなやつを見つめるような顔だ。思わず、浅井は下を向いた。
「なんか、言いなよ」
「いや、あの。まさか、君がいるとは思っていなかったから・・・少し驚いてるというか」
この公園は浅井の自宅から10分という場所にあると言えど、学区外だ。特にここは通う同じ学校の生徒なんて、通い始めてから一度も見かけたことが無かった。
「驚くほどじゃないでしょ。こんな街なんて少し歩けば知り合いになんて合うことなんていっぱいだよ」
「そうかもしれないけど」
「で、何してるの」
何も返答はできなかった。
「あんたってさ、変わってるよね。5月頃の授業参観だってそうじゃん。」
彼女はクラスに居るときと同じように淡々と話をすすめる。顔も一切表情を変えない。
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クラスでも、浮いている存在でもあった彼女とは3年の頃から同じクラスになっていた。ただ、話す機会など一向に来なかった。
学業が優秀でもなく、運動神経抜群というわけでもなく。とにかく中間のような女の子だった。
一度だけ浅井は笑っているところを見たことがある。
その日は授業参観の日だった。
土曜日の昼間にクラスの殆どの親が出席する中、授業終了後の話だ。
浅井の親は、当たり前のように父は休日出勤をし、当日姉が高熱を出したため、母は病院に連れて行くために家に残った。結果、浅井の授業参観には誰一人自分の勇姿を見る人は居なかった。
この日の授業内容は「自分の将来」というタイトルで作文をしクラス全員に向かって発表。
クラス全員が親に向かって自分が想像する未来をべらべらと喋る。浅井の隣だった、黒田さんは将来、ナースさんになりたいと言った。
自分はいつか誰かを助ける人になりたい。前に座っていた伊月は、プロ野球選手になると。自分は阪神が好きだが、スーパースターも多くたぶん無理だろう。
他の球団からドラフト指名を受けるかもしれない。だからせめて自分が最初に名を轟かせるのは甲子園球場だ、と。
クラス内は夢広がる、若いエネルギーに浸っていた。
伊月の次は自分だった。これがどれだけ恐ろしいことか。思い出すたびに、変な震えや恐怖心に押される。自分が書いた作文の内容はとても単調で、上りも下りもないただ、まっ平らな道のように面白みもない内容だった。
僕はサラリーマンになりたかった。サラリーマンになれば仕事に追われ、自分のことなんて考えなくていい。家族のことなんて気にする必要もない。
ただ、そんな事を自分の後ろに若いエネルギーを浴びて一種のエクスタシスに達した親たちに対して、現実を突きつける力なんて浅井には存在せず、結果その場で嘘をついた。
「私はカメラマンになりたい」
「この世界はすべてがきれいなものでできています。写真一枚にすべてを収めることはできません。だから、私は世界を旅しながらたくさんの写真を取りたいです。そうすれば、見たこともない世界を自分の目だけでなく、たくさんの人に届けることができるからです。」
鳥肌が立った。良いことを言ったということ?
いや、平気に自分が思ってもいないこと、真逆の言葉が口から湯水の如く出てきた。
握っていた原稿用紙には真反対の言葉が整列している中、自分の口からはキレイ事ばかりを並べた言葉が丸まって出て来る。
それがとにかく嫌だった。
保護者が並ぶ列を見ることができなかった。
いくら自分の親がいなくても、この言葉に対してどう思っているのだろうかと知ること考えること自体も恐ろしくなっていた。
自分の名前を言い終わり、椅子に座り込んだ。
スイッチが押されたかのように、一斉に拍手が鳴る。四方八方からかけらるように。
「とても良い作文でしたね。浅井くんは今日お父さんお母さんたちは来ていないみたいだけど、絶対に見せてあげてね。本当に良く出来てる」
満面の笑みで言うのは、荻田先生だ。女性の先生で、いつもみんなからは慕われている。ただ、このセリフはとても浅井にとって痛いものに感じた。
結果、浅井が嘘をついたということを誰にも責められず、どちらかと言えば褒められたと思えるもので、自分の出番は終了した。最後から2番めになったとき、クラス内に疲れている人間が登場する中、彼女の出番となった。
「私は普通に生活したいです」
一種のざわめきの中、彼女は続けた。
「私の家族はとても楽しい、明るい家族でした。でも今は違います。いつも、暗くて、私は寂しいです。ですから、私はおとなになったとき少しでも良いので、明るい家族と楽しい生活を取り戻したいです。そして、笑いの絶えない家族と一緒に暮らしていきたいです。終わりです」
クラス中が冷水を浴びたかのように静まり返る中、萩田先生は「まあ」といったあと一拍を置き、話し始めた。
「とても良かった。じゃないかな」
萩田先生の中に残っていた文章はありふれたテンプレートの言葉だった。クラスの殆どが引いている、そんなことなんて関係がないように彼女はありがとうございましたと言って座った。
次の発表者である、石田さんはやりづらかっただろう。政治家になりたいと大きな野望を言っても彼女が残したインパクトには勝てず、流れも戻せないまま、授業は終了した。
何事もないまま、ホームルームも終わりクラスの皆は帰っていった。クラス内に残ったのは自分と彼女と萩田先生だけだった。自分もランドセルを持ち、先生とすれ違いざま、さようならと聞こえるか聞こえないかぐらいの声で話した。萩田先生はそのまま、彼女の席に近づき、窓から外を見続ける彼女に向かって質問した。
「授業の作文。発表してくれたときびっくりしちゃった。いろんな事があっていいと思うの、先生がいろんなことは言えないから」
言葉を手探りで探すように話し始めた先生は、彼女の反応を待ったが返答は無かった。その時の顔は真っ直ぐ外を見つめていた。
浅井は教室から出ていたが、近くに隠れ、聞き耳を立てた。
「でもね、あの作文で思ったのは、辛い思いとかしてないかなぁとか言えないことでもあるのかなぁとか。先生に相談とかしたいこととかある?」
彼女はずっと表情を変えないまま顔を動かし、先生を見つめた。
「相談ですか」
彼女の声はとても淡白だった。中身に何もない、機械的に発せられたものように感じる。
「そう。簡単に言えばそういうこと。人には言えないことが多くあると思うの。私も人に言えないことがたくさんあったよ。友達と喧嘩したときとか今じゃ、そんなことどうだっていいのに親に言えなくて」
荻田先生は笑いながら言った。その笑いには彼女は誘われない。先生は続けた。
「だから、私にはなんでも言って。出来る限り力になるから」
先生は、そっと彼女の手を握り、目を見つめた。それでも彼女は顔を一切変えなかった。そして、彼女は口を開いた。
「特にありません」
彼女の言う言葉は、先生が差し伸ばす手を叩くように聞こえた。
先生はその言葉に思わずたじろぎ、「なら良いんだけど」と言い目線の置き場所に困りながら、「いつでも相談に乗るからね。気をつけて帰ってね」と言って律儀に扉を締め、教室を出ていった。
彼女は静かに席を立ち、もう一度窓の外の景色に目を配った。誰かを探すように見つめたあと、ランドセルを背負って教室を出た。先生とのやり取りすべて、たった数分の出来事だった。
閉まっていた扉を彼女は力強く開けた。その勢いに思わず、声が出てしまった。
「浅井じゃん」
「うん。浅井です」
彼女の見つめる目は冷たかった。この場をなんとしても保たないといけないと思った浅井は
「あの、作文。良かったよ」
本当はそんなことなんて微塵も思っていない。それなのに、自分の口は簡単に嘘を言う。それがとても嫌だった。
「そう。ありがとう」
うん、と浅井も何の意味もない返事を簡単にした。すぐにその場は静かになり気まずい雰囲気を浅井は感じた。彼女は浅井を見たまま言った。
「浅井も、良い作文だったよ」
褒められるとは思ってもいなかった。ただ、後ろめたい気持ちもある。あれは本当はとっさの思いつきで考えたことなんだ、とは言えなかった。
「うん、ありがとう」
浅井は彼女の事をとても気にかけていた。特にクラス内では人の群れに対して距離を取っていた。それがどれだけ世間から違うと言われることであってもそれがとても格好良く見えていた。いつか彼女と接点を持てたらなとずっと思っていた。
「相談にのるよ」こんなことを言っても彼女は突き放すように、大丈夫というのだろうか。そんなことを頭に描いていた。教室を出ていった彼女を追った。
隣のクラスはまだ、ホームルームをやっている。
大きな体が特徴の石井先生の声が廊下まで響く。
君たちの夢を先生はいつでも応援するぞ。
彼女はそんな甘ったれた言葉を無視して、玄関まで向かう。
嫌でも早足になる。
授業参観に来ている保護者と帰るクラスメイトをかき分けながら追いかける。距離にして何メートルだろう。そんなものでもなかった。それでも、追いつきそうになかった。
左に曲がるとそこに下駄箱と玄関がある。彼女は赤と白の映える靴を片手に持ち、高いところから落とすように地面に置いた。彼女が靴を履き終えたあと、玄関に向かっているとき、男性が玄関前で誰かを待っていた。
男性はシワが一つもない紺色のスーツを来ていた。グラウンドの砂を背景にするととても異様な光景だったが、とても似合っていた。彼女は走って男性のもとに行った。
男性は、嬉しそうに彼女の背の高さ程度までしゃがみ、
「ごめんな。今日授業参観に行けなくてな」
「大丈夫だよ。私、強いから」
彼女は笑いながら言った。彼女が笑っているところを浅井は初めて見た。そのまま、二人は手を繋いで校門を出ていった。
浅井は強烈な孤独と不安に押しつぶされそうになった。彼女の事を気にかけていたのは、「僕と同類」だと勝手に思ったからであり、それは自分の思いすごしに過ぎなかった。
彼女の笑っている顔は忘れることはないだろう。そして、たくさんの気持ちが生まれた。その笑顔はとても綺麗でもあり、羨ましくもあり、自分の立たされている今の状況を再度思い知らせる合図にも思えた。
浅井は家に帰り、誰もいないリビングを抜け、自分の部屋にこもった。そして自分の将来をまっ平らな道のように書いた原稿用紙をゴミ箱に投げ捨てた。
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公園内を少し冷たい風が抜けていく。ガサガサと揺れる木と木の葉が舞っていた。
「変わってる、そうかもしれないね」
授業参観の日の事を思い返すと暗い世界に突き落とされたかのようだったが、周りはキレイに夕日に照らされていた。
「自分で変とは言っちゃだめだよ」
彼女はこんな時でも顔色を変えなかった。それが彼女の特徴だ。彼女は空いているブランコに座った。
「変というのは、特徴でもあるんだよ。それをみんなは自分と違うからそれを怖がって、分けるために変という言葉を作ったんだ」
浅井はそうかもしれないねと言った。
「私も変な家族と一緒になるからもっと世界から離れることになるね」
浅井は授業参観の日に発表をしていた作文を思い出した。普通になりたい。
「・・・家族のことで何かあったの」
「無かったらあんな作文なんて書かないし、先生なんかちょっと驚いているというか、引いていたぐらいだよね」
いや、そんなことはないと思うよと浅井はまた嘘をついた。
事実、教室内は重しが乗っかるように空気は悪くなった。ただ、彼女のことを思うと嘘をついてまで守りたくなった。浅井にはいろいろ聞きたいことがあった。君が悩んでいることは何なのか。苦しめていることを赤裸々に言ってほしい。でも、そんなことを聞いたところで何ができると聞かれてしまうと何もできませんと言ってしまいそうな微妙な気分だった。
「私ね。この街から引っ越すの。十月にね」
浅井は思わず、えっと声を出した。「どうしてそんな急に」
「親の離婚だってさ。それもお母さんのせいで。お母さんがお父さんのことばかり攻めるから、お父さんが嫌になって離婚だって」
授業参観の帰り、玄関前にいた男性は彼女の父親かもしれない。それを思うと父娘の関係は良いように見えた。ただ、夫妻としての関係性は最低まで行っていた。人は見かけにもよらない。誰もかもが、隠していることがある。
「だから、私は普通になりたいと書いたの。本当だよ。嘘だと思ったら作文見てよ」
「嘘なんて、そんな。何も気づかなかったから。ごめん」
彼女は笑った。
「なんで謝るの、あんたは何も悪くないじゃない」
笑っているところを間近に見るとそれはとても綺麗だった。彼女も普通の女の子で、何もかもみんなと違わない。ただ、それを見逃していた。浅井は、聞けるところまで聞こうと決めた。
「どこに引っ越すの。秋田、それとも青森。ああ、なんなら東京かな」
「秋田でも青森でもない。なんなら東京でもない。私も知らない街に引っ越すみたい。それは近いのかも遠いのかもわからない」
そうかとそっけない返事をする。思い出したかのように浅井は思ったことをぶつけた。
「この前の授業参観の時にいた男の人。あの人はお父さん?」
彼女は左の口角を上に上げ、浅井を見つめた。
「想像にまかせるよ」
「このことは他のクラスメイトには言ってないの」
彼女の服が風のせいでなびいている。
「君だけだよ。私は普通になりたいけど、みんなと同じにはなりたくない」
浅井は肯いた。そうだね。わかる気もする。
「もう二度と会えないかもしれないね。仮に会えるとしてもこんな街は消えてなくなってるだろうし。逆に私もいなくなってるだろうし」
「そんなことはないと思う。多分」
彼女はまた笑った。
「君は本当に変わってるね。・・・いい意味で」
彼女はブランコから立ち上がる。鉄が錆びているせいで、塗装が剥がれている。ホコリのように落ちて来て、夕日がそれを照らす。スターダストだ。ここは誰も知らない秘密の場所。
「私、お母さんとうまくやっていけるかな。先週も嫌なことばかりだったし」
浅井は黙り込んでしまった。もう適当なことも言えない。ただ、彼女の事を思って、
「やっていける。多分だけど。もし何かあったら僕に言って。僕も力になるから」
彼女は浅井の目を見つめながら、少し口角を上げて、言った。
「その時はよろしくね」
彼女の髪型はショートカットだったが、少し伸びていて襟まで掛かりそうだった。風が公園内を駆け抜けていく。そして、木の葉を飛ばす。夕日は照らし続け、夜が始まることを告げるチャイムが鳴る。浅井は立ち上がり、公園を出ようとしている彼女に声を掛けた。
「じゃあね」
聞こえるか聞こえないかぐらいのボリュームの言葉は自分の前に落ちて、風に運ばれていく。浅井の周りはスターダストだらけだった。