9.2
まるで拷問のように口の中に纏わりつくような空気が私の中に流れ込んできた。むせるような、肺の底を突かれるような空気が汚れている部屋に3人。
長方形のテーブルで私と恵美が並んで椅子に座り、荒川は二人の間の前に座った。
前に座る男は律儀に荒川京と書かれている名刺を私の方に渡してきた。サラリーマンなら知っている名刺の受け取り方の作法など全て無視して、片手で受け取り適当に置いていた。
遠くの方から教育というものが始まったのだろうか、少し騒がしかった。
「恵美さんはとても熱心なんです。もう私も尊敬したいぐらいで」
恵美はそれを聞いてか、少しほほ笑んだが、
「そうなんですね」と適当に私が返事をした。
「特に教育と言って会の教えを学ぶ時間があるんですが、これには毎回参加されているんです」
自信ありげに話す。
「教育は週に何回ですか」
「毎週土曜日と日曜日の一回ずつです」
「お金は?」
荒川は「参加費ということですか?」と聞き返してきた。
「お金とは言わず、私達はお布施と呼んでいます」
いけしゃあしゃあとしゃべる姿に苛立ったが、
「そりゃあ良い」とまた適当に言葉を打った。
「恵美さんは入会されてから多くの教育に参加をされています」
「いくらですか」
「はい?」
「だからいくらですか」
「それだけではわかりません」
何処で鍛え上げたのか、苛立つ私に対しても冷静に聞き返してくるその態度にまたイラッとするなか、
「だからいくらですかと。今までのトータルですよ。その教育ですか。毎回馬鹿げてるから辞めろと言っているのに。あんたらのせいで全部がメチャクチャだよ」
ため息混じりに発したことに、恵美は、
「なによそれ」と食って掛かった。
「お二人落ち着きましょう」
荒川は私達をなだめるような言い方で話を続けた。
「ご主人の気持ちもわかります。でも恵美さんの辛さも分かる」
「私も落ち着けと言われて落ち着けれる人間ではないんでね。あんたは全部他人事のような言い方だ」
「恵美さんはこのままいけば、この地区の上位にまで食い込める」
「それになればどうなんです。アメリカの大統領にもなれるんですか?宇宙にも行けるんですか?・・・あんたらのやってることは全部デタラメだ」
鼻で笑うように話すが、それには引っかからず、淡々と相手は話を続けた。
「あなたまるでわかっていないですね」
「何が?」
「何故、彼女が、恵美さんがこの会に入ったのか。あなたも含め、すべてを変えたいとずっと思っていた。そうしたらこの会に出会った。もう運命も運命。これを逃せばすべてが終わる。文字通り藁にもすがる思い」
熱弁を始めた荒川に対して少し、気持ちが引いてしまった。
「この会は苦しみから脱することもそのまま苦しむ事もできる唯一の会です。それに私は彼女に手を差し伸べただけ。でも、あなたはどうですか。あなたは違う。全てを他人のせいにして自分のことは棚に上げ、終いには会に入った彼女までも責める。それが許されると思っているからなおさらタチが悪い」
私はべらべらと非難的な事を言う荒川の言葉を一通り聞いたあと鼻で笑った。「なんとでも言ってくださいよ」
「もう結果は出ていますから」
持ってきていたカバンからクリアファイルの中に入れていた離婚届を引っ張り出し、テーブルのど真ん中に置いた。
「あなたみたいな頭のいい人だったらわかってるでしょ。もう私も恵美も終わってる。それを知っていながら、私のことを責めたんですよね」
荒川は何も言わずにじっと私の方を見ていた。薄汚れた瞳が私のことを捉えているのはわかった。でも口を開こうともしない。
「横にいるこの人は私のことを好きでもなんでもない。私はこれに書いている通り、この馬鹿げた時間から引かせていただきますよ」
荒川はそうですかと言ったあと、
「一つ提案が」と言い、「私が住む予定の家に皆さんでお住まいになられたらどうでしょう」
予想の範疇を遥かに超えていた。思わず、「はぁ?」と言うと、「この近くで新規で開発中の住宅街があるんです。そこに家を構える予定でして。ただ、私の方で手違いがありましてね。まだ住めないんです。でしたら離婚を決断をした真田さんたちでもう一度再チャレンジをしてみてはどうかと」
それを聞いた恵美は「良い提案ですね」とはっきりとした声で返事をした。
「何を言っているのか分からない」
「真田さん。もう一度チャレンジですよ」
「あんたも大人だ。十分大人なら分かることだろ。もう一度住んでも良くなるわけないじゃないか」
「私が住む予定の家はあなたの経済能力では到底及ばない家だ。あなただけの人生ならまだしも、恵美さんや薫ちゃんの人生を左右すると考えたらどうです。乗らない訳にはいかないでしょう」
「おかしい」
「いい家に住んで良いご飯を食べ良い家族を築く。それがこれから求められるのに、簡単にこの会に入ったからはいじゃあ、お別れというのは」
「ね、良い提案だと思うの」
恵美がきれいな笑顔をこちらに見せつけてくる。ぎゅっと手を握ってくる。
「あんたは何がしたいんだ」
荒川はニヤッと笑い、
「私はあなたの人生を変えてあげたいんです」
そう言って白い歯を見せた。