5.3
今日は太陽が一段と元気だった。左右に伸びるコンコースは9月とは思えない、蒸し暑い。通りは人々の群れでごった返す。東武百貨店とJRの改札口が一緒になっている。人は好き勝手に歩き回り、東武線の船橋駅改札からそれがはっきりと分かる。
浅井は真田をメールで食事に誘った後、40分近くあとで、
「いいよ」
と三文字の文章で了承を得た。浅井の人生史上始めてとなる、女性を食事に誘うことが出来たのだ。ただ、嬉しさなどさっぱりなく、どちらかと言うと自分から謎解きに出向くというのが正しい。あれ以来、進藤とは連絡をしていない。それならば、知るためには自分から行動しなくてはと。ただ、平崎が言う、自分の過去を見つめることは完全に棚に上げていた。ただ、そんなこと頭の中では薄れきっていた。
船橋駅を指定したのは真田からだった。
「できれば船橋駅で待ち合わせをしたいんだけどいいかな」
そう送られてきたが、何も不都合なことも無いので、
「全然構わない。なんなら東京でも」
と送り返したが、「じゃあ今度の日曜日にね」と簡単に返事が帰ってきただけだった。メールのやり取りは集合の日時と改札前で待ち合わせ、この二点だけだった。
彼女が住んでいるのはここ船橋近辺かわからないが船橋駅を指定してくるとは想像もしていなかった。柏だと最悪、店長や平崎に会うかもしれないと考えると船橋はとても集合場所としては最高だった。
集合時間は午前11時だった。今は10時50分。浅井は柏で東武野田線に飛び乗り、電車に揺られて30分で到着した。ただ、東武野田線はあまり使わないので何分掛かるかよくわからないまま早く出かけてしまった。こうして人がごった返すなか10分以上じっと待っていた。顔全体、汗が吹き出し、額は大きな粒が出来始めていた。それを何度もハンカチで拭いて、また出てきてを繰り返していた。
電車が到着したのか、東武線の船橋駅改札は出場する客でいっぱいになり、ごった返すコンコースにまた人間が追加されていった。その中に真田はいた。8月にみた顔と全く同じで、今日は白色を基調とした服装だった。
彼女が階段を降りきり、浅井を見つけると小さく手を上げ、合図を送った。それを見た浅井も小さく手を上げて反応を返した。
「待った?」
「いや全然」
これを言うときが来るものなんだなと感慨深くなっていた。ただ浅井のミスで10分以上、汗をかきながら待っていたことは格好が悪くて言えなかった。
「浅井くんから連絡が来るとは思っていなかった」
「予定とか何も考えないで誘ってごめんね」
「別に大丈夫。私、友達少ないし。たまに会ったほうが良いもんね」
白色の服はとても華やかに思える。人の行き来するコンコースの中でもはっきりと認識がしやすく、真田の顔も気の所為か凛々しく見える。
「それならよかった」
「行くところって決まってる?」
浅井は誘うことで精一杯だった。何も、何処のお店に行くのかも何もかも考えていなかった。
「ごめん。何も考えてない」
「じゃあ、近くによく行くカフェがあるんだ。そこに行こう」
彼女の言う言葉をそのまま受け止め、うん、と返事をして彼女が動く方向へと簡単について行った。
駅を出るとロータリーに出る。船橋市内を走るバスが何台か止まっている。左手には多くの自転車が停まっていて、黄色のベストを来た作業員らしき人が自転車を整理していた。
駅前の通りはコンコースの人の多さからは想像できないほど閑散としていた。ポケットティッシュを握りしめ、渡すタイミングを図る男しかいない。
「この時間が私の中で一番好きなの」
「へぇ。真田さんって、ここらへんに住んでるの?」
そう言うと彼女は笑った。何が面白いのかよくわからなかったが、浅井もつられて笑った。
「いや、住んでるところは全く違うところだよ。付いたよ、ここだよ」
彼女が指を指した。木目調の壁、木材を多く使い、証明も少しオレンジがかっていた。浅井が入るには少しためらうようなカフェだった。
「ここね、ランチタイムだとコーヒーとケーキが100円で追加できるんだ」
真田は声を高くして言った。まさか、自分が入るには少し不格好だから他のところにしようとは言えず、
「ああ、そうなんだ」
と一緒にカフェの中へと入っていった。店内は冷房がきいていて涼しく、ランチタイムの時間帯ではあったが、パソコンを広げているサラリーマン一人と向かい合って座る女性二人だけで、店内は有線の音楽がゆっくりと流れている。
店員に案内され、席に座る。彼女がお勧めとしてカルボナーラパスタを勧めてきたので、そっくりそのままパスタとコーヒー、ケーキのセットを頼んだ。二人共同じものを頼んだ。
「この前の、大館の時、ごめんね。邪魔しちゃって」
うつむき加減で話し始めた。
「いやいや、そんなことは。みんなが来て楽しくなったしね」
無理に広角を上げ、笑顔を作った。自分の顔を見れていないのに、気持ち悪く感じた。ただ、彼女は気にすることなく、
「ならよかった」
とキレイに微笑みを返した。
こうして、面と向かって話すときが来ると、尻込みをする。手っ取り早く誘拐事件のことについて聞いてみればいいが、簡単には聞けない。だったらメールで十分だ。でもそれができないから面倒な手順を踏んでいるのだ。
緊張している。それもある。とにかく、遠回しに遠回しに話題をゆっくりと変えながらでないと進むことが出来ない。
真田が、顔を上げた。
「あのさ、なんで今日呼んでくれたの?」
口を半開きにしながら浅井は返答する言葉を考えた。冷房の音が響く。ああ、と言葉にならない何かを言いながらやっと思いついた。
「せっかく、連絡先をさ。教えてもらったから少しはと思って」
「少し?」
「ああ、家も近いって言ってたから。だったらどうかなぁと思ってね」
ふぅん。その場の思いつきで話した言葉に対して、彼女の返答はそんなもんだった。
「でもごめんね。こっちの都合で船橋と言っちゃって」
「いや、別にそれは大丈夫」
「ならよかった」
「仕事場とかこっちにあるの」
「うん、まあ、仕事場というかなんというか。よくこっちには来るんだ」
歯切れの悪い言葉が並んだようにも思えたが彼女はそう答えた。
「あと、今日ね、誘ったのはいろいろと聞きたいことがあったからで」
「へぇ。何聞きたいことって」
顔を近づけて聞いてきた。目と目があい、思わず目のやり場に困ったが、「そんな難しいことではないんだけどさ」と話を続けた。
「大館ではあまり思い出せなくて。何を聞けばいいかわからなくってさ。改めてというか」
「そう。私のことなら答えれる範囲内で答えるよ」
真田が姿勢を正し、自分からの質問を待っていた。やけに自分に落ち着きがない。
ああ、進藤さんなら。と頭の中に生まれる。そんな事を言ってもねともうひとりの自分が言う。直接的に聞けばいい。それで終わりだってわかっているのに。
ワンクッションを置いて話すことを決めた。逃げ道を走りねければ変に合致して抜け道も見つかるはずだと。何らかの小説で呼んだ気がする文章を頭の中で大声で叫んだ。
「僕が川に落ちた時どう思ってた?」
やけに真田の顔がキョトンとした顔で魂がごっそり抜けたような、君は何を言っているんだと表情からもわかった。
「覚えてるも何も。ねぇ。話したじゃん」
真田は頬杖をつく。
「あの再確認。再確認」
何がワンクッションだ。この話は居酒屋でも話したじゃないかと。
「ああ、再確認ね。覚えてるよ。林間学校で浅井くんが川に落ちた」
「そう。それ。で、あの後、先生になんでか怒られて」
「ああ、覚えてる。でも、違うクラスだったからさ。あの後はあまり」
ああ、そうだったね、とカウンターを食らうように目線を下げた。もう良いかと何処かで吹っ切れた。何が遠回しに聞けばだ。こっちが変にショックを受けるだけだ。
「あの、自分の中ではかなり重要なんだけども、5年生の時、9月の時、君はどうして公園にいた?」
公園?と彼女は首を傾げた。少したった後に、ああと思い出した。
「それって、私が転校するときでしょ」と言った。
「転校なのか、どうかはわからないけど」
時期は大抵合っている。
当時から最近まではただの転校だと思っていた。ただ、取材を通してあの時から何らかのことが起きていたことは明らかだ。浅井は話を続けた。
「君の家は近くはなかったはずだ。いや、当時の君はよくわからない人だったし、嫌なこともあってあそこにいたんだろうけど。僕は未だによくわからないんだ。ただ、僕はあそこで力になると言ったのは覚えてる」
「力になる?」
「ああ、恥ずかしいけど、そんな事を言ったのははっきりと覚えてる。格好つけるようなもんだろうけど」
「力になるねぇ」
真田はまた頬杖をつく。そうだねぇと考えながら外の通りを見ていた。昼間の時間帯、車も通らない、人も少ない。忙しなく財布を握る会社員もいない。なんだか、ゆっくりと時間が過ぎていくようにも思えた。
「思い出せないなら、無理に言わなくてもいいよ」
「いや、覚えてるよ」
真田は背もたれに全ての体重を乗せたのか、体から力が抜けたようにも見える。手を前に組み、浅井の方を向いた。
「私はあの時、嫌なことがあって逃げ出した。そう、覚えてるよ、親が離婚をして引っ越しもする。全部が嫌になって、自分の部屋をめちゃくちゃにして、逃げ出した」
真田から余裕を感じることはなくなった。嫌なことを思い出して、当時の感情を思い出したのだろうか。
「ごめん、嫌なことだったら無理に言わなくてもいいよ」
「いいよ別に。もうかなり前のことだから」
真田はそう言ったが、浅井は悪いことをしたと、変に申し訳なくなった。聞いたのは自分だ。こうなることは容易に想像できたはずだった。ただ、もう後戻りは出来ないだろう。ただ、直接に君は誘拐事件の被害者だとは聞けなかった。聞こうとする勇気など生まれなかった。何もかも他人任せに生きてきたせいだ。
もう終わりにしよう、浅井は言おうとした。ただ、真田が「あのさ」と言った。
「君は私のことを抉ってどうするの?」
全身に氷が張ったような思いになった。