5.2
外は雨だった。雨粒が強く地面に打ち付ける。東京から新幹線で一時間程度。宇都宮の駅前は雨のせいか、人は疎らで各々が傘を広げて歩いている。そこからまたタクシーに乗り、住宅街に入る。新興住宅地で建物は大きいものばかりだった。
「お客さん、この大雨の中でお疲れでしょう」
そういってコーヒー味の飴を運転手からもらった。
「どうも」と小さな声で言うが、運転手が上げたウインカーにかき消された。車が小さな道に入ると水浸しというかタイヤの半分が浸るほど水が溜まっていた。
「おお、これはすごいね」と運転手が言うが、車はそんなのはお構いなしに進んでいく。その道を抜けると茶色を主体にした2階建ての家についた。ここでお願いしますと停めてもらい、精算をする。
「領収書はどうしますか」
スーツを着ているせいか、そんなことを聞かれる。
「ああ、じゃあ荒川、カタカナでお願いします」
「はい」
運転手は調子よく、スラスラと「アラカワ」とペンを走らせた。
タクシーから降りて、宇都宮駅で買った、ビニール傘を開く。傘に強く雨が当たる。玄関まで石畳で道ができている。その周りをキレイな芝生が囲っている。庭も大きく、雨が降っていても手入れがしっかりとしているなとわかるほどだ。自分は未だにこんな家に住むこともステップアップすることもできていない。小さくため息をこぼす。
玄関前に着き、インターホンを押す。隅々まで掃除がされている。扉も重厚感がある。
「はい」とインターホンのスピーカーから流れてくる。
「お疲れ様です。工藤です」
「ああ、はいはい。鍵開けるから入ってくれ」
ガチャンと大きな音が扉から聞こえた。そっとドアノブを動かすとドアが軽く開いた。
工藤は仙台で辞令を受けた後、荒川から連絡があった。
私の家でご飯でもどうだい。
簡単な文章だった。ただそれが荒川の特徴でもある。簡易的にかつ迅速に。工藤は直ぐに予定を合わせ、1週間もしないうちに荒川の自宅へ出向いた。
「わざわざ自宅にまで招いていただいてありがとうございます。こんな料理まで」
テーブルの前には多くの料理が並んでいる。鶏肉だ、刺し身だと、男二人が食べるには多すぎる。酒も多い。日本酒やビール、目線を左に動かすとワインサーバーが見える。家も広い。天井も高い。それでも、隅々まで掃除の手が入っている。ホコリは一切溜まっていない。荒川がワインを片手に持っていた。
「いや、君が大変なことになっていると聞いてね。これぐらいのことしかできないけど、ゆっくりしていってくれ。料理は、半分は自分で、半分はデリバリーだ」
荒川は笑いながら栓を抜き、ワイングラスに注いだ。赤ワインだった。ただ、工藤はワイン、酒自体あまり飲まないので、それが一体どこのワインで何年ものかさっぱりわからなかった。色は朱色ぽっさがあるので、赤ワインだろう。
「あ、ワインまでそんな。水で十分です」
「良いんだよ。これは私の好きなものでね。労いも込めてだ。まあ、君はお酒はあまり好きではないだろうけど、これは美味しいと思ってくれると信じているよ」
荒川からグラスを受け取り、「乾杯」と言う。無言で、グラスを鳴らす。高音が響く。ワインを口に含むと、酸味が口の中に残る。思わず、工藤は眉間を寄せた。
「あまり合わなかったかな」
口を手でとっさに拭いた。親指には朱色の液体が多く付いていた。
「そんなことはないです。せっかく開けていただいたんですから最後まで」
「無理しなくてもいいよ。君は変に細かいところまで頑張ってしまうよね。もう少し気楽に」
荒川はテーブルに肘を置き、微笑していた。工藤は新しい話題を考えた。
「本当にありがとうございます。こんなことまでしていただいて」
「良いんだ。残念な結果になったが、私は君の味方だ。優秀な人間であることは確かなのに、上の奴らは何もわかっていない」
目線は工藤を見たままだった。じっと見つめ、瞬きも最小限に抑えているようだ。
「荒川さんの言葉が今の自分に染みるようです」
「大げさだなぁ。直ぐに君は私を追い越すよ」
外の雨は一層強くなり、風も強くなった。大きめのガラスが波打ちそうなぐらい、音がピュウとたてている。
「君と出会って、もう結構経つ。再婚をして、なんとか家族のことにもやっと手を回すことができるようになった。もう二度と離婚はしないと思うようにもなった」
酒に酔っているわけでは無さそうだが、少し驚いた。あまり感傷的にはならない人が珍しいと。
「君に出会ってよかったと思っている。顧問という役職にもなって永続的に会にも携わることも出来た」
工藤は少し身を乗り出した。
「荒川さんはもう少し出来たと思うんです。これは私の勝手の考えですが」
「そんなことはないさ。仙台の井上さんも含めて、上の人間はあまり私のことを良くは思っていなかっただろうけど」
グラスを置いて、タバコをズボンのポケットから取り出した。ライターも一緒に取り出していた。カチッとはっきりとした音をたて、力強く、ライターから火柱が立っていた。
「先日、井上地区長とお会いした際にも、おっしゃっていました。『彼は問題のある人間だ』と」
タバコを口に含み、鼻から煙を出す。それをもう二回ほど繰り返したあと、「そうか」と肩を落とすように言った。
「彼はこの会の教えを特に重んじている人間だ。一度離婚をして、また相手の人も一度離婚をしているのに、その人と再婚なんて、規律違反でこの会で重要な部類に入る所を私は破った。そう思われて当然さ」
タバコはもうすぐでフィルターに付きそうだったが、赤く火が付いているのがはっきりと見える。
「私はこの会、信教世界を一度全て壊す、改革が必要だと強く言ってきました。それが気に食わなくて、井上地区長は会長に頼んで」
「いや、彼はそんなことをするような人間ではないと、私は思うよ。私の意見だから、必ずしもそうだとは限らない。ただ、彼との付き合いは長い」
同じ意見になると思っていたところで、それは無いと言われてしまうとなんとも言えない気持ちになる。ショックとまでは行かないが、理解を得られなかったと勝手に落胆する。
「あの時に頭の中が、全てが沸騰したかのように何も考えられなくなっていました。これら全て井上地区長のせいだ、なんて考えて」
荒川はまたワイングラスを手に取り、口に運んだ。
「もう決まったことは仕方がない。位は、文字的には下がったかもしれない。でもそれを人生の長い中での小さな出来事だと思えばいい」
工藤は、思わず口元が緩んだ。「本当にありがとうございます」
私の思う、この会でのトップは荒川さん、あなただけです。そう心の中でつぶやいた。