4.1
工藤は新幹線に乗り、仙台駅に向かっていた。周りの景色はまばたきをすると直ぐに変わっていく。
一昨日、支所に突然、井上から電話があった。
「急で申し訳ないが、君に直々に伝えたいことがあるんだ。明後日仙台地区教区に来てほしい」
その日のうちに速達で郵便が届き、その中には秋田、仙台間の乗車券と特急券が入っていた。井上は行動が早い人間で有名だった。信教世界の中でも一番と言っても良い。そしてグリーン車に乗せる。金払いの良い人でも有名だった。
井上は現在、仙台で東北地区長をしている。東北の中ではナンバーワンだ。ただ、井上が2年前に地区長から引退する旨が発表された。体調不良が多くなり、会議にも教育にも出てこないことが多かったが、長く信教世界の中で影響力を持っていたが簡単に引き下がる。これには工藤も驚いた。そして、私にもチャンスがある、と強く思い始めた。
井上と工藤は何度か会食をしたことがあった。何度も井上のもとに通った。知り合いから聞いた話では、井上は私が秋田で地方長をしていることに疑問を感じていたそうだ。ただ、それを解消すべく、できることは全てやったつもりだ。4年もしていて、井上の評価は高くなっているに違いない。そろそろステップアップをするべきだ。
工藤の頭の中はいろいろな憶測でいっぱいだった。今日の呼び出しは一体何だ。新幹線はそんなことは関係ないと言わんばかりに高速で走っていく。盛岡市内を抜け、通過駅を高い音を立てて通過していく。
工藤は井上が座っていた東北地区長の座を掛けて、地区長選挙に出馬した。沢山のライバルがいた。青森だ岩手だ山形と多くのところから何十人も立候補した。ただ、何も考えずに井上の所に通ったわけではない。井上に次期地区長を狙っていることを匂わせてきた。そして、改革をテーマに自分が就任した後のイメージを全て伝えた。その後は各地方長や支所長の協力を仰ぎ、結果2位とダブルスコアでトップ当選の結果を手に入れた。
今までの中で一番嬉しい、いやこれからもこんなにうれしいことは一生無い。私ももうすぐで結婚もする。そんな中でこの結果は最高だ。これからの家族、そして信教世界の中での将来は安泰だ。
そうか、呼び出しは引き継ぎのことだろう。
君はよく頑張ったとねぎらいの言葉を掛けてくれるに違いない。工藤はふぅと息を吐き、グリーン車特有の静けさに耳を傾けた。
仙台駅に到着する。見慣れた景色だ。直線のように引かれている車道とビルの群れ。観光もそう、地方長になり、辞令を受け取るためにも何度も仙台に来た。直ぐにその場面を思い返すことができる。
仙台駅の新幹線改札口を抜け、階段を降りる。多くの人が出口に向かって歩いている中で、一人の男が気になった。黒いスーツながら目につく。黒縁のメガネを掛け、革靴も黒く光る。そんな出で立ちの男がじっと工藤を見ていた。そして、階段を降りきった工藤に近づいた。
「工藤様ですね」
低いトーンで話しかけてきた。ざわざわしている駅構内でもはっきりと聞こえる。声の通りが良い。
「はい。そうですが」
「私、仙台地区教区で青年部長をしている佐藤と申します。お一人でお疲れのところ大変申し訳ありませんが、これから教区の方に参ります。車を用意しておりますのでそちらで移動をお願いいたします」
迎えが来るのは初めてだった。地方長になってもこんな迎えは来たことは無かった。そして、目の前にいる佐藤、あまりにも愛想がない。マネキンだ。笑いも、泣きもしない。感情など一切ない。言葉だけ発する人形にも思える。本当に疲れたでしょうと労ってなどいないだろう。
「わかりました」
佐藤はカバンをお持ちしますと言って工藤のボストンバッグを持った。
駐車場に到着すると、こちらですと案内をされた。シボレーのカプリス。これも黒色で自分の姿が映る。車に乗り込むと運転手がいた。その男も目につく黒いスーツだった。
「お疲れ様です」とも「秋田から遠かったでしょう」とも言わず、まっすぐ見ていた。工藤がバックミラーに映り込むように動いても彼は一切反応しない。
佐藤は助手席に座った。では参りますと言うと、運転席に座る彼はエンジンを掛け始め、手慣れたハンドルさばきを見せた。
「ここから教区まで30分はかかりません」
佐藤が車内で発した言葉はこれだけだった。そうかと言っても反応を見せなかったので、工藤は質問をするのを辞めた。これから君たちの上に立つ人間に対する態度かと説教じみたことをしたかったが心の中に留めることにした。
佐藤の言う通り、30分は掛からなかった。街中はいつもよりは空いていたのだろう。20分程度だった。車内から仙台の街中を見ていたらあっという間だった。
佐藤は車を降り、工藤の座る座席を開けた。ホテル入口で待つ、ドアマンのようだ。
「お待たせしました」
ここでも佐藤は笑いもせず、低めのトーンで発した。シートから降りて、スーツに付いたホコリを手で払う。そして、身なりを整え佐藤に話した。
「どうもありがとう、運転の君も」
運転席の彼は咳もくしゃみもせず、声を一切聞くことなく別れることになった。こいつも人形のようだったな。愛想など一切感じなかった。
教区は5階建てで、周りの建物は住宅や商店だ。信教世界関連の建物として、東北一である。外から見ても、異様な雰囲気を感じ取れる。白色を基調としたもので、目に付きやすい。会長の柏崎も褒めたとされ、井上もそれを誇りにしていた。教区の中に入り、佐藤とともにエレベーターに乗り込む。5階に到着し、灰色の絨毯の上を歩き、地区長室と律儀に書かれたプレートが掲げられているドアの前に立つ。
「私はここまででございます。中で井上地区長がお待ちです。では失礼いたします」
佐藤は回れ右の号令があったかのように動き、直ぐに何処かに行ってしまった。
工藤はノックをした。どうぞ、と声がする。掠れた独特の声がドア越しから聞こえる。失礼いたします、入るとそこには灰色のスーツを身に纏う井上がいた。年齢も65歳だが髪の量は多く、若く見える。部屋は広く、床には朱色の絨毯が敷かれている。
真ん中に移動し、大変お待たせしましたと言うと、
「いきなりで申し訳なかったね」
と張りのある声で話した。
「いえ、とんでもございません。地区長からのお呼び出しでしたら可能な限り駆けつけます」
それは嬉しいねと井上は笑った。革張りの椅子に深く腰掛けていた井上は、「早速だけど」と言いながら、引き出しから白色の封筒を取り出した。
「呼んだのはこの中の封筒を見てほしいからだ」
封筒を受け取る。重みや厚みは無い。封筒には宛名や中身についてなどは一切書かれていない、まっさらな状態だ。
「これは」と言うと、会長からだよ、と井上が言う。
「会長というと、柏崎会長」
「そうだ。地方長や地区長になると、会長が直筆で辞令を書いてくださる。面白い人だ」
工藤は嫌な予感がした。何度か人事は会長がすべて独断で行っていることを聞いたことがあった。そして、何人もの知り合いが切り捨てられていった。封筒から手を離したくなっている。中身は見たくない。
「封を開けたらどうだ」
封筒の中身を見ることを井上は楽しみにしているようだ。口が乾いていることに気づく。変に手が震える。そして、やっと決心がつく。言われた通りに封を開けた。中には三つ折りで紙が入っていて、広げる。『秋田・大館支所長を命ずる』
信じられなかった。事実上の降格と当選剥奪だ。ふざけるな。怒りと苛立ちが口の中にまで侵入してくる。
「なんですかこれ」
井上は笑っていた。広角が上がっている。
「私達の辞令は会長がすべて執り行う。どうやらあまり、いい言葉は書いていないようだね」
こんな事あるのか。頭の中にはそれだけしかない。握る手の力が強くなっていく。
「私が東北地区長になるのを阻止するために」
おいおいと井上が話に割って入ってくる。呆れたと言わんばかりの顔だ。
「まるで私がこの辞令を会長にお願いしたようなことを言うね君は。それは言い掛かりだ」
怒りと苛立ちが丁度半々に達した。辞令と思える紙を力強く、握る。クシャッと音を立てた。
「この際ですから言わせていただきます。あなたは私に対して、あまり良い感情を抱いていませんね」
井上は「はっ」と小さく笑う。デスクに手を置いた。前のめりに話し始めた。
「そんなことはない。君は優秀な人間だ」
取って付けたような言い方だ。それでも井上は笑っていた。
「あなたはいわゆる柏崎会長側の人間だ。それに対して、私は現在のこの組織を改革を進めようとしている。それが気に食わない。ましてや私が次期地区長に当選。何が何でも阻止をしたかった」
椅子を左右に回し始めた。落ち着きが無いようにも見える。
「憶測だよ。私は辞令に関しては一切関与することもないし、お願いすることもない。というかできない。君が当選したことはとても良いことだと思う。これからの組織に新しい風をと思っていたのだけどねぇ」
言葉と感情は釣り合っていない。工藤は目の前にいる人間の態度が気に食わない。
井上が立ち上がった。背は工藤よりも低いが後ろに付いている窓から日が差込、逆光のようになっている。井上の表情がよく見えない。
「君は私に対していろいろ、言ってくれた。これから必要なこと、改革もそうだ。夢を全て語ってくれた。ただね、その前に自分の行いを思い出したらどうだ」
「行いですか」
「ああ、過去の行いは精算されたと思っているようだけれども、会長を始め、私も含め、幹部の皆様は忘れたつもりはない」
鼻につく。過去の行いなど知らない。殴りかかりたい気持ちを強く抑える。
「井上地区長、あなたも少しは考えたらいかがですか。自分の保身ではなく、改革を進めるべきです。柏崎会長になってから金第一主義、おかしいと思わないんですか」
工藤は力強く発したが、井上にはあまり響いてはいないようだ。
「私は、君のそういう態度が気に食わないのだ。会長の考えに対して、受け入れもしない。ただただ、拒否を続ける」
声は低めだ。部屋の中が静かであることに今更気づく。外を優雅に走る原付バイクの音も電車の音もない。
「君は確か、荒川くんから女性を紹介されて、今も付き合っているそうじゃないか」
工藤は「それがどうしたというのですか」と言うと、井上はスーツのポケットに左手を入れ、右手をデスクに置いた。
「いや、構わない。ただ、荒川くんというのは少々問題行動が多くてね」
睨みつけるように工藤は井上を見ていた。光でよく見えないというのもあった。荒川とは信教世界に入信してから親しくしてもらった最初の会員だ。井上に対する怒りがまた強くなる。
「彼は一度離婚を経験している。それは教えには背かない。そして彼も一般の会員と再婚。ただ、相手も一度離婚を経験している。これが駄目なんだ」
確かに一度離婚を経験した者同士で結婚をすることは、「孤立」を生んでしまうという意味のわからない規則がある。その規則を作ったのは柏崎だ。そういうところなんだよと言いたい。
「教え教えって、あなた達は柏崎のことだけしか信じていないじゃないか。奴はメディアの追及から逃れるために不正をなかったことにした」
井上は両手で強く、デスクを叩く。大きな音が響く。重低音を強くした言葉で発した。
「なら、君は造反者を増やそうとしたじゃないか。それについてはどうやって説明する」
二人はにらみ続けた。一分も経っていないにもかかわらず、二人は、特に工藤は長く感じていた。
「改革を進めようとする、それが何が悪いと言うんだ」
井上はデスクから手を離し、
「君には失望したよ。今すぐここから出ていきなさい。今すぐだ」
「言われなくても出ていきますよ」
工藤は扉を開け、乱雑に力任せに閉めた。