設定資料ともろもろ
夏休み明けから子供の自殺が急増する。
参考資料
http://tankan.blog.jp/archives/40852430.html
https://life-hacking.net/9月1日から新学期、子どもの自殺に要注意。嫌なら/
減らない子どもの自殺 昨年、小中高生320人
https://www.google.co.jp/amp/www.asahi.com/amp/articles/ASK4P04M6K4NUUPI007.html
つまり、何どう対策しようが、子供の自殺率は改善しなかった。その問題を政府はあえて前向きに解釈した。
歴史的な背景(参考資料
http://dual.nikkei.co.jp/article.aspx?id=3658&n_cid=DUALTW03
を鑑みるなら、現代の子供の自殺率はまだたまだ低いとし、『戦前と比較すれば子供の自殺率はまだ三倍増できる余地がある』と解釈した。
更には
『大人が子供の自殺を殊更に問題化し、タブー視するからこそ、反抗精神を誘発させて、結局、自殺に至るのではないか?』
と考えた。
またこうも考えた。
子供が自殺する社会であることは、よっぽどその国自体が糞であろうが、しかし、子供の自殺問題に関わることは問題論点のすり替えである。自殺への対策ではなく、社会そのものを改善せねばならない。
つまり『自殺率は子供より大人の方が高いからして、大人世代が生きにくいのだから、大人に影響受けるその子世代らが犠牲となって生きにくいのは当たり前の現象である』と定義された
その当たり前の問題は、子供の自殺を局所にタブー扱いすればする程に人々は自覚ができなくなる。
子供の自殺問題だけを扱えば、正義感ずらした大人たちが子供の問題に掛かりきりになり、マクロでもっと大きなスケールの問題性が見落とされやすくなる。
要するに子供の自殺問題に国の予算をかければ、周り巡って、大人世代に歪か生じ、その歪は周り巡って子供世代に向かうからして、
自殺対策が全く機能していないのではないか。
故に政府は逆説ともとれるような『自殺を正当化する制度』をスタートさせた。
「どうせ死ぬならその死を有効活用せよ」と、それが自殺遊園地ができた経緯である。