「臭覚」(がじん渡辺・短編集03)
「今日は飲み会がなかったの? 珍しいわね」
「あぁ」
「それで健康診断の結果は?」
「去年よりだいぶいいってさ。自然治癒力ってやつだな」
「そう」
「夕飯ある? あ、その前に何か酒ある?」
「お酒? 料理用の日本酒ならあるけど」
「料理用って飲めるのか?」
「安いけど、普通の純米酒よ」
「安い酒かぁ、まあいいや。湯のみに注いでくれ」
「夕飯は、焼き魚と漬物と味噌汁でいい?」
「はぁー、変わりのないメニューですねぇ」
(さぞ、外では豪華な飲食をしていたんでしょうよ)
「ふぅ。ま、安い酒だけど酒は酒の味がするもんだ」
「ねぇ、三沙子のことなんだけど。やっと新しい担任が来たんだって。前の先生が失踪して1ヶ月近く経つのに」
「ほぅ」
「今度は男の先生で、県の教育委員会から派遣されたそうよ。何かその場しのぎみたいよね」
「うん。ちょっとテレビ点けてくれよ」
「受験が目前なのに、勉強が進まないらしく悩んでるのよ、あの子」
「そう」
「どうしたらいいと思う?」
「そんなこと、自分で考えろよ。脳みそあるだろ、お前にも。ぬか味噌ばかりこねてるから脳もぬか味噌臭くなってたりしてな」
「……」
「だいたい、この家、最近臭うんだよ。ぬか味噌、もう止めたら?」
(糠漬けの効用も知らないで……)
「それに、魚も味噌汁も味が薄くて、何年料理してるんだ?」
(自分の力だけで健康回復したと思っている)
「そんなことより、ボーイフレンドができたって言ってたよな。アレか、そいつの部屋に行ったりしてないだろうな。今どきの中学生は、何してるかわかんねぇからな」
(そんなこと、アンタが言えた義理なの?)
「あ? 何か言ったか?」
「言ったわよ」
「なんだ、その言い方は。仕事で疲れて帰ってきた主人に対する態度か」
「仕事仕事って、残業手当もロクに出ない仕事って何なのよ」
「総務だってな、人間関係は大事なんだよ。飲み会だって立派な仕事だ」
「……」
「聞こえねーよ。ちゃんと言え」
「前の先生が失踪して、イライラしてるの?」
「何! な、何を言うかと思えば、関係ねーだろ、そんなこと」
「関係……ない?」
「おまえな、家でぶらぶらし過ぎて、脳みそおかしく……」
「そうよ! 臭いわよ、この家。臭くても我慢してるのよ」
「嗅覚の話をしてるんじゃねーだろ。おまえの余計な……」
「嗅覚の話よ! あなたは鼻の嗅覚しかないでしょうけど、私には心の嗅覚があるの」
「もういいよ。テレビが聞こえない」
「失踪した杉下亜矢先生。よく知ってるわよね?」
「あ? 名前だけはな」
「うそ」
「何がうそだよ。知るわけないだろ、子供の担任なんか」
(子供の担任なんかか……親としても失格ね。もう終わりにしよう)
「半年ほど前、三沙子が偶然見てしまったの、あなたと先生が一緒のところを」
「……そう。何か三沙子のことで相談したことがあったっけ。で、それが?」
「どこで相談したのよ。見かけたのは学校やこの家でじゃないのよ」
「ん? じゃ見間違いじゃないか」
「ふたつ先の駅の飲み屋街」
「ああ、そこなら同じ帰り道の同僚と飲む店があるけどな。じゃ、たまたま同じ店にいたんだ」
「この場におよんで、逃げるわけ?」
「なんだよ、だいたい何で三沙子があんないかがわしい界隈にいたんだ? ラブホテル街も近いのに。まさかボーイフ……」
「クラスの女友達の家が近くなのよ。勉強を一緒にした帰り道にね、そのいかがわしい界隈で、あなたと先生が高そうな寿司屋のカウンターで仲よくしているところを見てしまったの。先生もうかつだったわね」
「だから、三沙子のことで相談していたんだよ……きっと」
「ずいぶん、クルクルと変わるのね。あなたの脳みそ、回転寿司がいいところよね」
「はは、ジョークが言えるとは知らなかったなぁ」
「話をはぐらかさないで」
「あぁそういえば、亜……杉下先生の方から相談したいと言ってきたことがあったな」
「毎月、給料日の夜に? いえ、それ以外でも会っていたのよね」
「半年も前だからなぁ。1、2回は会ったかもな」
「ウソつかないで! ホテルから出てきた証拠写真もあるのよ。探偵に頼んだわ」
「くだらない出費しやがって、くそ!」
「三沙子が悩んで勉強が手につかなくなったのは、あなたのせいよ」
「もう、いいだろ。失踪していなくなったんだから……。おまえが何か言ったのか? だから彼女、何も言わずに去ったのか」
「もう遅いのよ」
「ああ、悪かったよ。あやまるよ。気の済むようにすればいいさ。それでチャラにしてくれ」
「もう、手遅れなの。チャラにはできないわ」
「そうかよ。勝手にしろよ。離婚するか? この臭い家を慰謝料代わりに……」
「臭い家ね。そう、臭いわ。自慢の鼻の嗅覚でもわからない? この臭いの元」
「ぬか味噌の話は終わりにし……」
「糠味噌は床下収納に入れてあるわ。でも臭いはその下にも……」
「し、下に、なんだ!」
「別の臭いの元があ・る・の」
[第2話 完]