第四章 寂寞
翌日の土曜日、私は蒼衣の家を訪れた。
「突然ごめんね」
「あら、美桜。どうしたの」
「あのね、実は蒼衣に話したいことがあって…」
「それならうちに上がってよ。私の部屋で話しましょう」
蒼衣は約束なしに訪れた私に対して嫌な顔一つせず家に入れてくれた。
「お邪魔します」
実は蒼衣の家に上がるのは初めてで、私は少し緊張した。蒼衣の両親とも会ったことがなかったので私は挨拶の心構えをする。だが、
「あ、今日お母さんたちいないのよ」
と彼女が言ったので、私は「ふぅ」と息を吐いて緊張を解いた。蒼衣の両親に会いたい気持ちもあったので少し残念だったけれど。
蒼衣の部屋は2階にあった。ドアには「AOI」と書かれた木のプレートがかかっており、一目でそこが彼女の部屋だと分かった。
「お邪魔しまーす…」
「ふふっ。美桜ったら、『お邪魔します』ってさっきも言ったわよ」
言われてみれば確かにそうだ。部屋に入る時に「お邪魔します」は少し違うか。それでも親友の部屋に入る時の私は、どこか新鮮な気持ちになっていた。
蒼衣に誘導されて、私はテーブルの側に座った。
「お茶持ってくるから、ちょっと待ってて」
蒼衣がそう言って部屋から出て行くのを見ると、なんだか申し訳ない気持ちになる。そういう気持ちとは反対に、私は彼女の部屋に来られたことを嬉しく感じてもいた。
彼女の部屋は、白と水色の家具で統一されていた。大人っぽい彼女にぴったりな雰囲気の部屋だ。
「紅茶があったから淹れてきたわ」
戻ってきた彼女はにっこり微笑んで私の向かい側に座った。そして紅茶の入ったお洒落なティーカップを私の前に置いてくれた。
「突然来たのに気を遣わせてごめんね、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
それから私たちはしばらく他愛のない会話をした。先週出た宿題が難しすぎて解けないとか、昨日の夜中の流星群を見逃したとか、そういったどうでもいい話を蒼衣とできるだけで、私の心の奥底が温まる。
「…それで、美桜が話したいことって?」
私と蒼衣の紅茶がなくなりかけてきた頃、彼女がそう訊いてきた。
いよいよ本題に入ろう。
「あのね…これを見てほしいの」
私は鞄の中からスケッチブックを取り出して、昨日描いた桜の木を彼女に見せた。その絵を初めて目にした彼女は、「まあ!」と口に手を当てて驚いた。
「これ、美桜が描いたの?」
「う、うん。どうかな?」
「素敵だわ、こんな絵見たことない!」
予想以上の彼女の反応に、私は少し照れくさくなった。
「ありがとう。それでね、私美大に行こうと思うの」
「それ、本当…?」
「うん。A県だから県外になっちゃうんだけど…それでも、将来絵を描く仕事に携わりたいなって思って…」
私の志を聞いた蒼衣は、しばらくの間黙ってしまった。やっぱり、私の夢は無謀なんだろか。今まで通り、県内の大学を志望するべきなのだろうか…。
「やっぱり私――」
「美桜、すごいね‼」
「えっ」
私が諦めの言葉を口にしようとした時、彼女がぱっと笑顔になってそう言った。
「美桜がこんなに絵が描けるなんて知らなかった。美大に行くの、応援してるわ」
「蒼衣……」
彼女はやはり、私の親友だった。私が一番欲しい時に、私の一番欲しい言葉をかけてくれる。私が転びそうな時に、いつも手を引いてくれる。
「ありがとう、蒼衣」
こうしてA県の美大に行くことを決めた私は学校の先生に相談し、絵画専門の塾に通うことを勧められた。
そして、高校3年生になったばかりの春。
朝目を覚まして部屋の窓を開けると、例によって桜の木が切られていた。
「なんで…」
その事実があまりに受け入れがたく、私はごしごしと自分の目を擦ってみたが、やはり状況は変わらない。急いで母に教えても、母は「大変ねぇ」とさして大変でもなさそうに穏やかに言うだけだった。
新学期早々悪い予感を抱えて、私は学校へ向かった。
「おはよう、美桜」
「高ちゃんおはよ!」
学校に着くと昇降口で蒼衣や彼方と会った。
「おはよう、蒼衣、彼方」
今日はクラス替えの日なので、私たちは三人で新クラスの名簿が張ってある掲示板を見に行く約束をしていた。掲示板は、1階の職員室のすぐ横にあった。
「あー、あたしだけクラス違うじゃん!」
先に三人の名前を発見した彼方が悲痛な声を上げた。見ると、確かに私と蒼衣が2組で、彼方が3組になっていた。
「カナちゃん、残念だね…」
蒼衣もしゅんとして落ち込んでいた。
「やっぱり桜が……」
「え、なに高ちゃん、桜がどうしたの?」
「あ、いや、何でもない!はは…」
いけないいけない。何でも桜のせいにしちゃだめだ。
「そろそろ始まるし、行こっか」
私と蒼衣は2組の、彼方は3組の教室にそれぞれ向かった。と言っても、隣のクラスなので、そんなに離れるわけでもなかった。
「彼方と離れたのは寂しいけど…これからもよろしくね、蒼衣」
「私の方こそ」
私と蒼衣はいつかの日のように顔を見合わせてふふっと笑った。
高校生活残り1年。ようやく将来やりたいことも決まったことだし、後悔しないように精一杯頑張ろう。まずは今日、家に帰ったら両親に美大のことを打ち明けようと思う。
「私、やりたいこと見つけたんだ」
その日の晩、いつものように両親と私で囲う食卓。私は開口一番、ずっと言おうと思っていたことを打ち明けた。
「あら、美桜もやっと夢が見つかったのね」
普段から私のことを応援してくれていた母は、次に私が言うことを心待ちにしているように期待のまなざしで私を見つめた。
「……」
父は相変わらず黙ってご飯を口に運んでいたが、私はそんな父に構わず続けた。
「私ね、絵を描くのが好きだって最近気づいて…それで、美大に行こうと思うの。県外になっちゃうけど…でも、私本気で頑張りたい」
私は精一杯、思いのたけを口にした。両親に自分の本音を告げるのは少々照れ臭かったが、きっと二人とも自分の夢を応援してくれると思うと自然と言葉が出ていた。
しかし、両親の反応は私の予想とは全然違っていた。
私は先程まで微笑みながら私を見ていた母の表情が、みるみる強張ってゆくのを見た。
それから、父は動かしていた箸を静かに茶碗の上に置いて、たった一言、
「だめだ」
と言った。
私は一瞬、二人の反応が信じられなかった。
母はいつも私の味方で、一度だって私を怒鳴ったことがない。
父は寡黙ではあるけれど、きっと心の中では私たち家族のことを一番に考えてくれていると思っていたからだ。
そんな二人が、はっきり見てわかるほど、私の夢に反対している。
「ど、どうして…?」
「どうしても、だ。美大なんて、行くまでも行ってからもお金がかかる。それに、そんなところへ行ったって将来役に立つ仕事に就けないじゃないか。芸術家の道がどんなに不安定か、お前は知らんだろう」
「そ、そんなことないよ…!私は別に、画家になりたいって言ってるわけでもないじゃない。ただ絵が好きで…」
「そんな中途半端な気持ちなら、なおさらよくない。お前には県内の大学に行ってもらうからな」
「……」
私は断固として私の希望を受け入れない父を見て、食事の席にいることも忘れて茫然とした。わずかな期待を込めて母の方を見ても、母はずっと下を向いて、いつものように優しい表情で私を見てはくれなかった。
ああ、そうか。
あの桜は、私にとって、私たち家族にとって、大事な絆の証だったんだ。
だからその絆が切られてしまった今、私たちを繋ぐものはもう何も残っていないんだ。
「分かった…聞いてくれないなら、こんな家出て行くから」
徐に立ち上がった私は、淡々とした声でそう言って黙って玄関に向かい、靴を履いて外に出た。
「み、美桜…」
玄関の扉を閉めた後で、母が蚊の鳴くような声で私の名を呟くのが聞こえた。
私は少し良心が痛んだが、歩き出して家から少し遠ざかっても、父と母は私を追いかけては来なかった。だから私も、一歩一歩踏み出して行くあてもなく前に進んだ。歩いているうちに青鳥川の橋まで辿り着いたが、橋を渡らずにそのまま直進する。渡ればきっと、無意識のうちに親友のもとに行ってしまうと思ったから。今彼女に会ってしまえば、私は彼女に弱音を吐いてしまうだろう。そうしたらまた彼女に迷惑をかけてしまう。今までだって、彼女には何度も助けてもらったのだから。
何も考えずに歩き続けた私は、気が付くと隣町の雲雀駅まで来ていた。多分心の中で、無意識に自分の家からできるだけ遠ざかりたいと思っていたのだと思う。
私はやって来た電車に乗り込んで、浜辺駅で下車した。「できるだけ遠くへ」と思っていたのに、浜辺駅で降りてしまう自分は、やっぱりまだどこにも行けない子供なんだと思う。
浜辺駅を出ると、そのまま浜辺第一公園の椅子に座った。辺りはもう暗く、小さい子供はおろか、学生も大人も一人もいなかった。私はそこでようやく一人になった。私だけの世界で、もう誰も私に構わない。本当はそんな時間を、私は必要としていたのかもしれない。
***
美桜が家を出て行ったあと、私はさっきから黙ってご飯を口に運んでいる彼を見た。娘が家を出て行ったというのに、そのことには何の関心もなさそうな彼のことを、薄情だと思ってしまう自分がいた。
「あなた…美桜のことどうするの?」
私が恐る恐る彼に訊くと、彼は食事を邪魔されたのが癪に障ったかのように怖い顔をしてゆっくりと箸を置いた。それから一言、
「何もしなくていい」
とだけ言った。私はその言葉を聞いて、自分の中で張り詰めていた糸がプッツリ切れてしまったかのように、何か大事なものが壊れてしまうのを感じて叫んだ。
「あなたがいつもそんなだからっ‼美桜のこと、ちゃんと考えてあげてるの⁉あの子の気持ち、分かって言っているの。そりゃ確かに、美大に行くのは大変なことよ。でも、あの子だって自分なりに色々考えて決めたはずよ。それなのにあなたは、あの子の意見を何一つ聞いてあげないじゃないの!」
ずっと堪えていたものが、私の中からどっと溢れ出す。目の前で私の主張を黙って聞いていた彼はいつになく厳しい表情で私を睨んで言った。
「お前だって、さっきは美桜の味方してなかったじゃないか。本当は美大なんて反対なんだろう。美桜の気持ちを聞いてあげなかったのはお前も同じだ」
彼の容赦ない言葉が、私の胸に突き刺さる。
「そう…かもしれないけれどっ、でもさっきは突然のことで動揺してしまっただけよ…!私はあなたとは違う。いつも何にも言わずに仕事だけしてるあなたとは違う。美桜のことちゃんと考えてあげられるわっ」
「…勝手にしろ」
彼が吐き捨てるようにそう言った。私はとうとう我慢できなくなって、さっきの美桜のように家を飛び出した。
美桜を探してちゃんと話し合わなくちゃいけない。今美桜の味方をしてあげられるのは私しかいないのだから。




