第四章 寂寞
次の日、蒼衣は私の通う浜辺高校に編入してきて、偶然にも私と同じクラスになった。
本当は帰ってきたことを今日まで私に秘密にして驚かせたかったらしいが、昨日ばったりと再会してしまったのでそういうわけにもいかなかった。それでも彼女が浜辺高校に通うことになるなんて思ってもいなくて、十分驚いたけれど。
「N県から来ました、山里蒼衣です。よろしくお願いします」
朝のホームルーム、蒼衣が教壇の上で一礼するとぱらぱらとまばらな拍手が湧いた。転校生が来た時の何とも言えない独特な雰囲気。彼女は先生から空いていた一番後ろの席に案内されて着席した。
「2年の途中から編入してきて山里も心細いだろうから、皆仲良くしてやるんだぞ」
私のクラス、2年1組の小島先生が一言そう言ってホームルームが終わった。
終わりの号令と同時に何人かのクラスメイトたちが蒼衣の周りに群がって質問攻めにしていた。
「ねえ、山里さんは出身もN県なの?」
「好きなアーティストとかいる?」
「蒼衣ちゃんって呼んでもいい?」
蒼衣はこれらの質問に一つ一つ愛想よく丁寧に答えていた。私は蒼衣が自然な笑顔で初対面の人と接しているところを見て、昔とは変わったなと思った。きっともう、蒼衣の中に昔みたいな寂しさはない。蒼衣が私と離れ離れでいた間、ちゃんと笑って生きてきてくれたんだと分かると無性に嬉しかった。
転校生の蒼衣に一通り質問をして満足したクラスメイトたちは1限目の準備をするためにいそいそと自分の席に戻っていく。私はその中で一人だけ蒼衣の前から動かないポニーテールの雪野彼方の姿が目に入った。彼女は蒼衣に一言、
「放課後、ソフトクリーム食べに行こ」
とだけ言って席に着いた。
蒼衣は最初、彼方の唐突な誘いにポカンとしていたが、彼方が席に戻ってから嬉しそうに微笑んでいた。私も彼方の言葉を聞いて、思わずふふっと笑ってしまった。
「う~ん、やっぱりここのソフトクリームは格別だよね!」
彼方は『太田アイスクリーム』で買った抹茶味のソフトクリームを、幸せそうな顔をして食べている。
「ほんとだ、すごくおいしいね」
隣では半ば強制的にアイスを食べる羽目になった蒼衣がイチゴ味のアイスを頬張っていた。ちなみに私は王道のバニラ味。
彼方が蒼衣に声をかけて放課後の付き合いに誘ったのは意外だった。確かに彼方は明るくて親しみやすい性格だけど、案外私と二人きりでつるんでいる方が好きだと思っていたからだ。その証拠に、去年矢野のことで私と話しづらくなった時期、彼方は他の友達といようとせず、あえて一人でいることが多かった。
「やっちゃんはさ、N県から来たんだよね」
ソフトクリームを食べ終わった彼方が口を開いてそう言った時私と蒼衣の頭にはきっと同じ疑問が浮かんでいたと思う。
「…やっちゃん?」
「ああ、えっとね、山里だから『やっちゃん』」
時々思うけれど、彼方は色々考えていそうで全然考えてない。
けれど蒼衣はその呼び方が気に入ったみたいで、彼方に向かってにっこり微笑んだ。
「ええ、N県に住んでたわ」
「それなら、この辺はあんまり詳しくないよね。今度案内しようか!」
「ありがとう。でも私、中学までこの辺に住んでたから案内はしてもらわなくて大丈夫よ」
「え、そうなの⁉だったら浜辺高校に知ってる人多いんじゃない?」
「残念ながら、それはないよ」
私は蒼衣の代わりに彼方の率直な疑問に答えた。
「どういうこと?」
「だって私の中学から浜辺高校に進学したのは私一人だもん」
「あ、そういうことか…て、二人は同じ中学校だったの⁉」
「うん、中学校だけじゃなくて、小学校も一緒。だから蒼衣とはとっても仲良しよ」
私が笑ってそう言うと、彼方は「なあんだ」と合点がいったような顔をした。
「どうしたの彼方、なんだかほっとしてるみたい」
「だってそういうことなら、あたしがわざわざ二人を近づけなくて良かったじゃん」
「え?」
「あたしはやっちゃんを見た時、やっちゃんと高ちゃんの雰囲気がどことなく似てる気がしたから…二人なら仲良くなれると思ったんだ」
「私と蒼衣が?」
「うん。転校したての時ってきっと不安だもん。二人が仲良しになれば、やっちゃんも不安じゃなくなると思って」
時々思う。彼方は全然考えてないみたいで、本当は他人のことまでちゃんと考えている。
「そっか…彼方、ありがとうね。でも、私だけじゃなくて彼方も蒼衣と仲良しになろう」
「そうだよ、私ももうカナちゃんと友達だよ」
「二人ともありがとう」
彼方と蒼衣はあれからすぐに仲良しになり、私と三人でよくつるむようになった。私たちは三人とも部活に入っていないので、放課後はそれぞれの家に遊びに行ったり喫茶店でお茶をしながらテスト勉強をしたりした。つまり、どこにでもいるような普通の女子高生をやっていた。けれどその当たり前の日常が、今の私たちにとっては特別な時間だった。
「二人はさ、将来やりたいこととかあるの?」
彼方がいつになく真面目な声色でそう訊いてきたのは、蒼衣が転校してきて3か月が経過した冬の日の放課後、帰り道でのことだった。
「私はまだ決まってないなぁ。彼方と蒼衣は決まってるの?」
「うん、あたしは小学校の先生!」
彼方が元気良く答える。小学校の先生か、確かに明るい彼方なら向いている気がする。
「ふふっ、カナちゃんならきっとなれるよ」
彼方の元気の良さに思わず笑みを浮かべて蒼衣が言った。
「なれるかな~。あたし二人みたいに成績よくないからちょっと不安なんだ」
「そんなの、今から頑張ればどうにでもなるよ。少なくとも夢がない私よりはマシだって」
「そう言ってもらえると安心するな。でも高ちゃんだってこれから夢、見つかるよ」
多分彼方は自分の夢を私たちに話して励ましてもらいたかったのだろう。いくら大丈夫と思っていても、不安になることってあるもんね。
「ところで、やっちゃんは夢ある?」
彼方が蒼衣に話を振った。蒼衣の夢は私も今まで一度も聞いたことがなかったのでとても気になった。
「私は…カウンセラーになりたい」
「カウンセラー?」
「うん。私、小学校の時いじめられてて…ずっと相談に乗ってくれる人もいなくて…。でも六年生の時、美桜が私のこと気にかけてくれてそれからとても気が楽になったの。それで、私もいつか悩みを持った人の相談に乗ってあげられる仕事がしたいって思ったの。美桜が、私に夢をくれたんだよ」
「蒼衣…」
知らなかった。彼女がそんなふうに思っていたなんて。
「へえ!それってすごいことじゃん」
彼方も蒼衣の夢を聞いて感激したようだった。
「だからね、とりあえず私、県内の大学に行って心理学を学ぼうと思うの。そこから夢に近づいていけたらなって」
「そっかぁ、うん、やっちゃんならきっと素敵なカウンセラーになれるよ」
「ありがとう」
いつものように浜辺駅で彼方と別れた私と蒼衣は二人で同じ電車に揺られている。車内はそれほど混んでおらず、仕事帰りの大人と、私たちと同じ高校生がちらほらと椅子に座っていた。目的の雲雀駅に近づくにつれて、電車の中に差し込む西日がいっそう強くなり私は思わず目を閉じる。いつも同じ側の椅子に座って眩しい思いをするのに、私は今日も同じ間違いをする。多分大抵の人が私と同じような経験をしていることだろう。
「蒼衣、また明日ね」
「うん、またね」
青鳥川の橋の前で、もう何度繰り返したか分からない別れの言葉を言う私たちは、自分では昔と全然変わってないと思っているが、周りから見たらきっとちゃんと成長しているのだろう。
「ただいまー」
私は玄関できちんと靴を脱ぎそろえてから自分の部屋に向かう。部屋に入ると、いつもと違って室内の空気が淀んでいるのを感じて、私は慌てて窓を開けた。どうやら今朝、私は窓を開けて換気するのを忘れて家を出てしまったようだ。
「はあーっ」
冬なので窓を開けると冷たい風が吹き込んできて寒いはずなのに、外から帰ってきたばかりの私にはその冷たい風が心地よく感じられる。
「彼方も蒼衣も、夢があっていいなぁ…」
部屋の窓から顔を出して外の空気を吸いながら私は独り言つ。進路調査票にはいつも県内で一番難しい大学を書いてはいるが、それは“何となく”の希望だ。もっとこう、二人みたいな確固たる目標がほしい。
窓から見える、我が家の桜の木を眺めながら私は夢について考える。去年はまだ高校生になったばかりで、本気で将来のことを決められなかったけれど、私ももうすぐ受験生だ。できるだけ早いうちに意志をはっきりさせたい。
けれど、考えれば考えるほど自分が何をしたいのか分からなくなる。いつもそうだ。私は私のことを一番分かりたいと思うのに、まるで片想いを始めたばかりの相手の気持ちを悶々としながら探っている時のように分からない。
そのうち考えることに疲れた私は、ふと思い立ってずっと前から使わずに眠っていたスケッチブックを手に取り、そこに目の前の桜の木を描き始めた。
冬の桜の木は肌寒そうで、初めて見る人は花をつけるまでその木がどんなに美しいかなんて想像できやしない。でも私は、その桜の美しさをずっと前から知っている。だから私は筆を持つ手が自然と動く。今私の目に映る桜の木は花を咲かせていないけれど、スケッチブックの桜の木にはいつの時代にも見る者を魅了してきた花が慎ましく、そして艶やかに咲き始める。
私は何もかも忘れて夢中で花を描き続けた。たとえ目の前に本物の花がなくても、私の記憶の中には幼い頃から毎年見てきた桜が満開の花を咲かせている。今まで学校という社会で生きてきて、色んな経験をした。楽しいことだけでなく、苦しいこともたくさんあった。でも今はその全てを忘れて筆を動かし続ける。
そうして絵を描くことに夢中になっていた私は、いつの間にかスケッチブック上に満開の桜を完成させていた。
「できた…」
絵を描くのは久しぶりだったので、それほど上手いとは言えないが、私は描き上げた絵に満足していた。何により、描いている間とても楽しかった。
そうだ、私は楽しんでいた。
無心で手を動かし続けて一枚の絵画を完成させることが、こんなに楽しいなんて思わなかった。
そして、絵を描くことに楽しさを感じた私の胸に、ある一つの気持ちが芽生えていた。