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寂しさを抱いて  作者: 橘皐月
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第一章 桜花

私は、蒼衣をいじめるのをやめたいと“仲間”に言ってみたものの、彼女らがそれを許してくれるはずもなかった。だから私は仕方なく、名目上はそのまま蒼衣を無視することにした。

でも、例えば隣で彼女が消しゴムを落とした時、私がそれを拾ってあげると、彼女はにこっと笑って「ありがとう」と言ってくれた。

体育で二人組になる時、さりげなく彼女の近くに行って、一緒にペアをつくった。

“仲間”たちからの冷たい視線があるため、休み時間に一緒に話したり、一緒に下校したりはできなかったけれど、私は自分の存在が、少しでも蒼衣の支えになればいいと思った。実際、彼女は他の皆にどれだけ無視されても、私を見るとほっとした表情になった。

だから私は、このまま少しずつ彼女の日常が穏やかになっていくと思っていた。

けれど、現実はそう上手くはできていなかった。

それが起こったのは、私が彼女と話して2週間が経ったある日のことだった。

その日の昼休み、飼育委員の村田さんがわっと泣きながら教室に駆け込んできた。

どうしたの、と村田さんの友達が訊くと、

「うさぎが…うさぎが死んじゃったの…。首から血が出てて…傍にカッターナイフが落ちてた…」

“カッターナイフ”という単語に、私は背筋がゾクっとした。

「何それ、誰かがうさぎを刺したの?」

「えーひどい」

「誰がやったんだろう」

教室中で口々に犯人は誰か、ひどい仕業だと言って騒ぎ出す。そんな中、私の“仲間”の一人が口を開いた。

「あたし、山里さんがやってるとこ見た」

その瞬間、教室がシンと静まり返り、皆の視線が一気に蒼衣の方へと向けられた。蒼衣は目を丸くして静止している。

「それ本当?」

「わー、最低」

「ひどーい」

ヒソヒソと、蒼衣を軽蔑するような言葉が聞こえてきて、やがてクラス中で蒼衣の悪口がささやかれた。

「山里さんって怖い」

「カッターで切るなんて…」

「うさぎがかわいそう」

私は次々と聞こえてくる蒼衣の悪口に、怒りを覚えずにはいられなかった。横目でちらっと蒼衣を見ると、辛そうに眉を下げ、目を伏せている。

「山里さん、犯罪者の娘だもんね」

そう誰かが言った時、私は蒼衣がぎゅっと唇を噛みしめているのを見た。

蒼衣はいつもどんなにいじめられても、決して弱音を吐かなかった。それどころか、全然辛くない様子で笑っていた。それなのに、今日はこんなに辛そうにしている。

私はもう、黙って見ていることはできなかった。

「山里さんはそんなことしないよ!」

一瞬、教室がシンと静まり、蒼衣をいじめていた“仲間”の一人がキッと私を睨んだ。蒼衣は驚いて私を見ていた。

「美桜、あんた何言ってるの」

「山里さんは、カッターで動物を傷つけるようなことはしないよ。そんな人じゃない。本当はこの中の誰かがやったんでしょう?山里さんを悪く言って、彼女を傷つけないで!」

「美桜、だから――」

私の“仲間”が、いや“敵”が私に軽蔑の視線を向けてきた、その時だった。

「もうやめて!!」

聞いたことのない叫び声が響いて、私ははっとして横を見た。

そこには青ざめた顔で立っている蒼衣の姿があった。

「もう、やめて…。こんなの、嫌だよ…」

蒼衣が震える声でそう訴えた。

「で、でも山里さんは」

「私は…こっちの方が辛いよ」

そう言って蒼衣は教室から飛び出していった。私は茫然としてその場に立ち尽くした。

蒼衣の言葉は私の胸を突き刺し、ジクジクと胸が痛んだ。

私は蒼衣を助けようとしたのに、蒼衣が放った言葉は、私の助けを拒んでいるようだった。

こっちの方が辛い

そう言った彼女は、一体何を思っていたのか。 

私は勝手に、蒼衣が苦しんでいると思って、彼女を庇うことが彼女の救いになると思い込んでいただけなのではないか。

ただただ誰かを救えるという気分の良さに酔いしれて、自己満足していただけではないか。

そう思うと、私はいてもたってもいられなくなって、蒼衣が出ていった後の教室から駆け出した。

「あら、高木さんどうしたの」

途中で担任の泉先生とすれ違ったが、私は返事もせずに一心不乱に走った。もうすぐ授業が始まるというのに、学校の正門をくぐり抜け、外へ出た。行くあてもなく走り続けたが、途中から疲れてふらふらな足取りになり、ある公園にたどり着いた。それは私が通学中にいつも通り過ぎる公園だった。

「あ…」

私は公園のブランコにちょこんと座っている蒼衣を見つけた。蒼衣の方も、私に気づいて目を伏せた。私と目を合わせようとしない蒼衣を見て、私は挫けそうになったが、それでもめげずに蒼衣のもとまで歩いた。蒼衣は逃げずに、けれど顔を上げることもなく沈黙していた。

私は蒼衣の前に立って両手をぎゅっと閉じて言った。

「山里さんごめんね。私がしたこと、全部迷惑だったよね。本当にごめんなさい」

「……」

彼女は何も答えない。

私はこのまま彼女に謝っても許してもらえないと分かって、ひどく不安になった。

このまま嫌われたらどうしよう。

明日から彼女が学校に来られなくなったらどうしよう。

12歳の私には、彼女のことを知るには子供すぎる。

ちっぽけな私には、何も分からない。

そうして半ば諦めかけて、何を言えば良いのかも分からずに沈黙していた時だった。

「私のお父さんね、すごくお人好しな人だったの」

蒼衣の口がゆっくりと開かれたかと思うと、唐突に、自分の父親のことを語り出した。

「何か物を売りつけられるとね、断れなくてすぐに買ってしまうの。たとえそれが悪徳商法で売られたものでも。だからそれでお金を使いすぎちゃって、人から借金までしてたの。そのうち借金を返すためにまた借金して…。それでも返せなくなって、コンビニで強盗までしたのよ。もちろん未遂で終わっちゃったんだけどね」

「そんな……」

蒼衣が顔を伏せたまま言った父親の話は、一二歳の私にとって衝撃的なものだった。

「だからみんな…私のことを犯罪者の娘だなんて言うのよ。そんなこと言われても、私はちっとも辛くないのにね。みんな勘違いしてるよ」

彼女は顔を伏せているのに、私には彼女が寂しそうに笑っていることが分かって。

それがいつも浮かべているあの無理している時の笑みだと察して。

私は悔しくて情けなくて、思わず叫んだ。

「どうして嘘つくの!」

「え……」

「本当は辛いくせに、何で笑ってるの。辛くないなんて言うの。そんなのおかしいよ…山里さんは何も悪くないのに」

「私は…私は本当に大丈夫だよ」

「山里さん――蒼衣のばか!!」

私が突然“蒼衣”と名前で呼んで、しかも「ばか、ばか」と連呼するので彼女は顔を上げ、目を丸くして私を見つめた。

そして、蒼衣の宝石にみたいに綺麗な瞳から、涙が一滴、また一滴と流れ出て、頬を伝って地面にポタポタと零れ落ちた。

蒼衣が泣く姿を、私は初めて見た。

泣いている蒼衣はとても儚げで、弱くて今にも消えてしまいそうだった。

「ほんとは…ほんとはずっと、誰かに助けてほしかった」

「蒼衣…」

緊張の糸が切れてしまったからなのか、一度弱音を吐いてしまった蒼衣は洋服の袖で何度も涙を拭った。

「教科書を捨てられるのも…体操服を破られるのも嫌だけど…お父さんのことひどく言われるのが一番辛い…。どうして、どうして皆ひどいこと言うの。どうして私…こんなふうに高木さんの前で辛いなんて言ってるの…。ねえ、どうして」

どうして、と自分を責めるみたいに繰り返す蒼衣。蒼衣にとっては、皆にいじめられることよりも、弱さを隠せない自分の方が許しがたいものなんだ。そんな蒼衣を見て、私は蒼衣がかわいそうだと思うと同時に、その強さに感心せずにはいられなかった。

蒼衣は、私の腕を掴みながら、俯いてポロポロと涙を零していた。肩も手も、指先も震えていて、こんなに無防備な彼女を見るのは初めてだった。

「蒼衣」

私は震える彼女の肩にそっと手を置いた。彼女は涙に濡れた顔をゆっくりと上げて私を見た。潤んだ瞳と、滑らかな唇が、救いを求めるように私の視界に入ってきた。

「蒼衣はお父さんに似てるんだね。人の頼みを断れなかった優しいお父さんに似て、自分が痛いことよりも、お父さんの悪口を言われるのが許せなかったんだね。蒼衣は、そんな優しい心の持ち主だと思うよ」

蒼衣は優しい。きっと誰よりも優しい。

私がそう言うと、彼女は何かを思い出すかのように私をじっと見つめ、やがて私の腕から手を放した。

「私、蒼衣の友達だよ。だから絶対に蒼衣の味方だし、もうクラスの“仲間”の命令にも従わない」

「そ、そんなことしたらダメ」

「どうして?」

「だってだって……そうしたら高木さんが仲間外れにされちゃうじゃない。そんなの嫌よ、高木さんまでいじめられるのは嫌」

「蒼衣……」

一体どうしてこんなに強くて優しいのだろう。

どうしてこんないい子が辛い目に遭わされるのだろう。

頭の中で渦巻く疑問と理不尽な思いがごちゃまぜになって胸が苦しかった。

けれど、目の前で私のために私を拒む優しい彼女を何としてでも救いたい。これ以上哀しそうに笑う彼女の姿を、私は見たくなかった。

「大丈夫だよ。仲間外れなんか全然平気」

「で、でもっ…、大事なもの盗まれたり、上履きに落書きされたりするかもしれないんだよ」

「うん」

「わざと机に給食をこぼしてきたりするんだよ」

「うん」

「陰でひどい悪口言われるよ」

「うん、分かってる。でも大丈夫」

「大丈夫なんかじゃ、」

「私には蒼衣がいるもん。一人じゃないから」

蒼衣は私の目の前で、目を丸くして驚いていた。

まだ昼間だというのに、平日ということもあってか辺りに人気はなく、公園には私たち以外誰もいない。さっきまでは風の音や鳥の鳴き声が普通に聞こえていたのに、今はあらゆる自然の音が消し去られていた。いや、実際は消えてなんかいない。私は目の前にいる彼女と、二人きりだった。だから聞こえるのは、彼女が息を吐く音と心音だけ。

「美桜…」

ポツリ、と彼女が呟いたその言葉がどれほど嬉しかったか。それは、今まで誰にも助けを求めなかった彼女が、ようやく私に心を許してくれた証だった。

「友達になろう、蒼衣」

トクトクと、私は自分の鼓動が速まっているのを感じた。私が彼女に手を差し出すと、彼女はそうっと私の手を握ってくれた。余計な音も、言葉も何もない。二人の存在だけが確かに感じられるこの場所で、この日私たちは本当の友達になった。


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