第四章 寂寞
お互いに好きと言ったところで何をするのかと言えば、もちろん交際だ。だが、さあ付き合いましょうという時、私たちは一体どうしたらいいのか分からなかった。悲しいことに、私も矢野もそれに対する耐性を持ち合わせていなかった。
月曜日、私が学校に着いて教室に入ると矢野が私の隣にすでに座っていた。
「お、おはよっ」
「おはよう」
昨日まではただのクラスメイトだった人が、今日からは恋人という非日常に私はただただ戸惑って挨拶の声も上ずってしまう。見ると矢野も、挨拶こそいつも通りだが膝の上で両手をグーにしていたので緊張しているのだと分かった。
「一昨日は、教科書ありがと…」
「ああ」
「き、昨日は何してたの」
「宿題やって、ゲームしてた」
「そう」
「高木は何してた?」
「私もずっと家にいた。…あと、彼方に電話した」
「…雪野、どんな様子だった?」
「うーんと…いつも通りだったよ。ちゃんと私と矢野のこと話して…分かってくれたよ」
「そうか。それなら良かった」
そう、私は昨日一つだけやるべきことがあった。昨日の晩、彼方が家にいそうな時間を見計らって彼女に電話をかけた。
「もしもし彼方…?」
『高ちゃん、どうしたの』
「実は彼方に話したいことがあって……」
『矢野君のこと?』
彼女が、あっさりと彼の名前を口にしたので私は少し驚いた。
「うん。矢野から告白された…」
『そっか。高ちゃんはなんて言ったの?』
彼方のあまりにもさっぱりとした反応から、やはり本当に彼女が矢野から私に想いを伝えることを聞いていたことが分かった。
「……私も同じ気持ちだって言った」
『そう。やっぱり、高ちゃんも矢野君のことが好きだったんだね』
「彼方…知ってたの?私の気持ち…」
『当たり前じゃない。あたしを何だと思ってるの?確かに高ちゃんと出会ってまだ3か月しか経ってないけど……それでもあたしはあんたを大切な友達だと思ってる』
「彼方…」
『だから、高ちゃんの気持ちも知ってたってこと!』
「…ごめんね」
そこまで私のことを大切だと思ってくれていた彼方を裏切ることになってしまった私は、彼女に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになり、謝罪の言葉を口にするしかなかった。
『ううん、むしろあんたの気持ち、途中で気づいてたのに気づいてないフリしてずっと相談してたあたしが悪いから』
彼方はいつもより真面目な声でそう言った。彼女が私に対して罪悪感を抱いていたことはちょっぴり驚きだ。私の方が、ずっとずっと悪いことをしたと思っていたのに……。
「彼方は…思ってたより大人なんだね」
『思ってたより、は余計じゃない⁉あたしは高ちゃんより何百倍も大人ですよーぅ』
「ははっ、そうだったそうだった」
本当に、その通りだ。
私の方がよっぽど自己中で、わがままで、子供だ。
『でもね』
ふと、彼女が先程の真面目な声に戻って言った。
『辛くないって言ったら嘘になる…。矢野君があたしを見てくれないとしても、せめて好きになったのが高ちゃんじゃなかったらって…ちょっと思っちゃうの。へへ、あたし最悪だなー…。さっきも言ったけど高ちゃんは大切な友達なのに…。でも、だからこそ…友達だからこそ痛いよ…』
「そうだよね…」
彼方の気持ちが、私には痛いほどよく分かった。分かっていたからこそ、私は自分の気持ちに素直になれなかった。私が矢野を好きと言えば、彼方が傷つくことが目に見えていたから。でも、彼女にとっては私が矢野のことを好きになるよりも、矢野が私を好きになることの方がずっと辛かったのだ。
「彼方…ごめ――」
『待って高ちゃん、もう謝らないでいいの。あたしが何をしてもしなくても、高ちゃんと矢野がこうなることは決まってたんだから。だからあたしは高ちゃんを責めたりしないし、これからも友達でいたい。だけど…今すぐには前みたいに話せないかもしれない。やっぱりちょっと辛いからさ』
「うん…そうだね。私も彼方とこれからもずっと仲良くしたい。だから、彼方の気持ちが落ち着くまで待ってる。ゆっくりでいいから、またアイスクリームでも食べに行こう」
『ふふっ…ありがとう高ちゃん』
こうして私たちはお互いの意見を尊重してこれからも友達でいることになった。
私が矢野にこのことを話すと、彼も心底安堵した様子だった。
「とりあえず、雪野に分かってもらえて良かった。雪野とちゃんと話してくれてありがとな、高木」
「ううん、私は自分のしたいようにしただけだから。今すぐには彼方と前みたいに話せないかもしれないけど、彼方の気持ちが落ち着いたらまた二人で遊びにでも行くつもりだよ」
「そうか」
矢野は私の言葉聞いて心底安堵したように顔をほころばせた。私もそんな矢野を見ていると、ここ数週間ずっと霧がかかったみたいにもやもやしていた心が、すっと晴れるような気がした。
それからまた私たちはぎこちないながらも他愛のない話をした。しばらくすると徐々にクラスメイトが入ってきて、最後に担任の坂井先生がやって来てホームルームが始まった。
「はい皆席について。今日は席替えをしますよ」
坂井先生は若い女性の先生にもかかわらず、いつもハキハキと話して授業も分かりやすいので生徒から絶大な人気を集めている。それに、何と言っても美人だしね。
そんな先生が朝から席替えをすると言い出したので、クラスの皆どこか嬉しそうだ。
いや、正確に言うと“皆”ではない。
少なくとも私はちっとも嬉しくない。
ふと隣を見ると、彼も少し落胆した様子で話を聞いていた。その様子を見ると、私は彼が自分と同じ気持ちだということが分かって嬉しくて、同時に、こんな些細なことで落胆したり嬉しかったりすることがちょっとおかしかった。
「席、離れちゃうね」
「そうだな」
彼はやっぱりぶっきらぼうにそう言った。さっきの様子だと、本当は席替えをしたくないと思ってるに違いないが、私にはそんなこと言えないようだ。
「じゃあ一番右の列の人からクジ引いてね」
坂井先生はそう言うと、クジが入った紙の箱を右の列の一番前の生徒に渡した。クジって、最初に引くか最後に引くかで揉めるものだけど、実際はいつ引いても確率は変わらないことを私たちは皆知っていたので先生の提案に異論はなかった。それに、なんてったって坂井先生の指示だしね。
クジを引き終わった人から順に黒板に書かれた座席表に名前を書き込んでいく。私は不幸なことに、一番前の、しかも教卓の真ん前になってしまった。席を移動してから、坂井先生が「残念でした!」というように私にアイコンタクトをしてくる。…先生、絶対楽しんでるよね。
それから私はふと思い出して後ろを振り返った。すると、これまた不幸なことに矢野が私と同じ列の一番後ろにいることに気づいた。もっとも、彼にとっては一番後ろでラッキーなのかもしれないけれど。
「はーい、皆移動したわね。それじゃあ一か月間は今の席で我慢してね」
坂井先生は爽やかにそれだけ言って教室から出ていった。ちなみに先生の科目は社会だが、今日の1限目は数学だ。
「やったー、俺また後ろ」
「いいなー」
「あたしなんて、3連続一番前よ」
先生がいなくなった教室では、席替えをして喜ぶ者、落胆する者の様々な声が飛び交っている。高校生でもこういうところは皆小さな子供みたいだ。
かくいう私はもちろん落胆組だが。
「高木…1か月頑張ろうな…」
げんなりとした声でそう言ったのは、新しく私の隣の席になった紫野裕という男子だ。
私の隣の席ということは彼も教卓の目の前の席ということであって、彼にとってはどうやら死活問題のようだ。
「高ちゃん」
不意に右隣から声がしたので、紫野君から目を離して振り返ると私の右隣には彼方がいた。
「なんか、運命だね」
「ははっ、そうだね」
私はさっきまで自分が教卓の目の前の席になったことで頭がいっぱいだったので、まさか自分の隣に彼方がいるとは思わなかった。
要するに、最前列には右から彼方、私、紫野君が並んでいるということになる。
彼方は、私と隣になって気まずいのかな、と思ったりもしたがその日の授業では特に何の支障もなく隣の席で過ごせた。昼休みも、私と彼方は自分の席でお弁当を食べていたので、自然と会話もでき、私はこの席になったことにちょっと感謝した。
放課後になると、さすがに彼方も遠慮したのか「また明日」と言って颯爽と帰って行った。
彼方がさっそと帰ってしまったので、私は後ろの席にいる矢野のところまで行って
「一緒に帰ろう」
と言った。
「おう」
矢野から快い返事が返ってきただけで私は何だか嬉しくなり、矢野にばれないように俯きながら笑った。
「高木、どうした?気分でも悪いのか」
「う、ううん!なんでもない!」
矢野はどこまでも誠実な人なので、純粋に私のことを心配してくれたようだ。当の私はニヤニヤが止まらなかった。
こうして私たちは付き合いだしてから初めて一緒に下校することになった。こういうシーンは、私も何度も夢に描いてきたが、いざ自分が好きな人と一緒に下校するとなると、何だかどこかこそばゆくて、すぐ隣に彼がいるのにまともに話すこともできなかった。
「そ、そういえば矢野はまた一番後ろの席なんだね」
同じ学校、同じクラスといえば、やはり今日の一大イベントの話をするのがいいだろう、と考えた私は、先程から律儀に私の遅い歩行ペースに合わせてゆっくり隣を歩いてくれている彼に訊いた。
「そうそう、また後ろなんだ。たまにはもっと前の方にも座ってみたいんだけど」
「えー、いいじゃん後ろの席。2回連続なんて、矢野はすっごいクジ運いいよ」
「…俺にとっては運悪いんだけど」
「え、どうして?」
「いや、だって」
「だって?」
私は矢野が何で運が悪いなんて言うのか分からず、彼の顔を覗き込んでじっと彼の目を見つめた。
すると、彼の頬がみるみる赤くなり、しまいにはさっきにやけが止まらなくて俯いた私と同じように、私がいない右側にすこしだけ顔をそらしてぼそっと言った。
「…高木が、前にいるから」
「えっ…それって私と離れたのが寂しいってこと?」
「それもあるけど…、お前が隣の紫野と楽しそうに話してたからっ」
覗き込むように見つめていた私から目をそらし、真っ赤な顔でそういう彼はとても恥ずかしそうにしていた。
「そ、そそそそそれって…」
つまり…。
「…悪いな、嫉妬なんかして」
嫉妬!
あの、ぶっきらぼうなのに格好良くて、女子から人気者の矢野が!
私が紫野君とちょっと話してただけで嫉妬するなんて!
「わ、私こそごめんね!矢野に見られてるなんて思ってもなくて…。今度から気をつけるねっ」
「いや…別に喋るなとは言ってないし…ごめん、俺ヘンなこと言った。あーっ、何なんだ俺、こんなとこ誰かに見られたら終わりだな」
「矢野……」
言いたい。
今、すごく言いたい。
「ん?」
うん、もう言ってしまおう。
「…めちゃくちゃかわいい」