後編
歩は男の端くれで、響子も女の端くれだ。
いくら女の子だった過去があっても、歩は男だ。けれど今でも歩は女の子のようにかわいくて、それが似合っていて。
歩らしいのは、どちらなのだろう。
似合うと思うのは響子の主観によるから、実際歩がどう接してほしいと思っているかが大事だ。
響子に欲情するぐらいだから、やはり男として見てほしいのだろうか。
"クマノミ"が厄介なのはそういうところだ。本人の意思よりも本能が勝ってしまうことがある。本人にさえも、気持ちが分からなくなることがある。
歩に触られても、別に嫌だとは思わない。
それが歩の意思なら、奇特だなとは思うが好きにすればいいと思うし、ただの本能なら、やっぱり好きにすればいいと思う。性欲が抑えられないほどなら、他の女子を見境なく襲われるよりは、気心の知れた仲の響子が相手をする方がまだいい。
基本的に歩に甘い響子である。それほどまでに歩を受け入れてしまうのは、甘やかしてしまうのは、なぜなのかと考えたこともない。
――だって、あゆだもの。
それがすべての免罪符になる。
歩を拒むという発想がない。
どう見たって今の歩は男の子だけれども。
響子にはもったいない相手かもしれないけれども。
その日は珍しく叔父が家にいた。
リビングでごろごろしている叔父と話をしてみようと思ったのは、なんとなくとしか言いようがない。
「叔父さんは、もう完全に男の人?」
「難しいことを聞くなぁ。つーを見ろよ。望んだ変化でもあれだぞ」
「……いや、まぁそうだけど」
この叔父と響子の母親は双子で仲が良い。「つー」とは母親の愛称だ。男――後の夫であり響子の父親に恋をして男から女に変化し、十六歳で響子を産んだ、いわば"クマノミ"としての見本のような存在である。と言っても女性らしくなったかと言うとそれほどでもないことは、娘の性格イケメンっぷりから想像してもらえると思う。
「完全にって言うと違うのかもなぁ。ま、だからバツが付いてるとも言える」
「……"クマノミ"だから、ダメになったの?」
「うーん、それだけが理由でもないけど無関係ではない」
響子の叔父は苦笑した。
「ただ、まぁ、うまく行くか行かないかは個人差だよな。"クマノミ"だからって言うより、みんなそうじゃないか? つーのとこは、それに父さんたちもうまく行ってるわけだし」
「そうだね」
そろそろ四十回目の結婚記念日を迎えるという響子の祖父母は離婚など考えたこともないらしい。響子の両親も今のところ円満である。
「人は人、自分は自分。これうちの家訓ね」
「そんなのあったっけ」
「なーんて、ただの父さんの口癖。人に迷惑さえかけなきゃ好きに生きろ、っていうね。うちの親がそういう感じだったから、俺もつーもそれまでの自分をころっと変えようと思わなかったんだ。過去が全部嘘だったわけじゃないから」
生まれ持った心も、環境によって形成された心も、偽りではない。
「身体が変わったんだから、それに適応するのはある程度必要なことだとは思うよ。人は群れる生き物だから、自分のことだけを考えて生きられないよね。でも、常識を弁えるのは大事だけどさ、それに捕らわれすぎると自分の気持ちを見落とすことにもなりかねない」
特に"クマノミ"は、言ってみれば常識外れの変化を遂げるから尚のこと。
「一回、常識とか一般論とか先入観とか固定観念とか忘れて、自分のしたいこと、望むことをしっかり見つめるのも大事だよ。じゃないと、言い訳とか後悔とかが増える」
「それは叔父さんの経験談?」
「だねぇ。いろいろ後悔してるよ」
わりと能天気そうに見える叔父にもいろいろとあるようだ。
「実行できるか、していいかはまた常識に照らし合わせて考えないといけないけどね」
常識に捕らわれず、それでいて結論は常識と照らして判断しなければならない。
それはなんて難しいことなのか。
眉間に皺を寄せた響子に叔父が笑いかけた。
「大丈夫。仮に非常識であっても心配いらない。うちの家族はほら、大抵のことには動じないから」
「……そうだね」
響子がどんな決定をしても、きっと認めてくれる。
人がどう見るかではなく、響子はどうしたいのか。歩とどうなりたいのか。
ちゃんと考えなければならない。
――響子のかわいい雛鳥。
いつも響子が手を引いてきた。
ただの雛鳥なら、いずれ巣立ちの時を迎える。響子の手を離れて飛んでいく。
けれど、歩はただの雛鳥ではない。
響子も歩の手に支えられてきた。その手を離すことなんて考えられないくらいに、大事で、かわいくて。
男になっても、歩は歩で。
歩のようには欲を抱かない響子だが、積極的に歩とどうにかなりたいと思うわけでもないが。
――過去が全部嘘だったわけじゃない。
男か女かと言う前に、二人が過ごしてきた時間がある。
積み重ねた時間の中で築き上げた、揺るぎない繋がりが、絆がある。
それを断ち切るのに、性別という要素だけでは弱い。
正しく異性として見ているとは言えないかもしれないけれど。
女の子だった歩にも、消えてほしくはないけれど。
いずれは異性と恋をすると言うのなら、最初が歩で何がいけない。
最初の男は歩で、経験を積むなら歩で、願わくば最後の男も歩であれば言うことなしだ。それが叶うなら、響子は決して不幸にはならないだろう。
週末、祖父母も叔父親子も出払ってしまって響子と歩だけが家にいた。
元々はひかるが母親、つまり叔父の元妻のところへ行く日であり、直前になって祖父母が旅行に行くと言い出し、当日叔父が「俺も今日は泊まってくる」と出て行った。
なんだか示し合わせたように二人きりにされたと思うのは気のせいだろうか。とは言え響子の方から仕掛けない限り、歩が響子に何かしてくることは考えられない。そういうところは、やはり元が引っ込み思案な性格であることが関係しているのだろうか。
家族が気を利かせてくれたかどうかは分からないが、せっかくの機会だ。ゆっくりちゃんと歩と話をしたいと思った。
考えてみれば、二年生になったぐらいからろくな会話をしていない。男だ女だと言い聞かせるようなことばかり、響子の危機管理意識を問うようなことばかりだ。
お互い本音で思っていることを言い合いたい。それを今の歩に望むのは、酷なのだろうか。
「ごはんどうしよっか」
「響子ちゃんは何が食べたい?」
「あゆの好きなのでいいよ。おいしいもの」
「……うん、あえておいしくないものは作らないからね」
こういう他愛ない会話ももっとしたい。
歩が作ってくれた夕食を食べ、響子が先に入浴を済ませた。歩が入浴している間はリビングでぼーっとテレビを見ていた。
風呂上がりの歩がキッチンへ向かいながら響子に声を掛ける。
「響子ちゃんもお茶飲む?」
「うん」
響子のコップにお茶を注ぎ、だが歩はソファに座らなかった。
そのまますぐ部屋に戻ろうとする後ろ姿を響子は呼び止めた。
「あゆ」
「……なぁに?」
「もう寝るの?」
寝るにはまだ少し早い時間だ。
「まだ、だけど」
「じゃあ、ここにいなよ」
何も、響子を避けるように自室にこもらなくてもいいではないか。
たとえ無防備だなんだと言われても、響子は歩を避けない。避ける理由がないからだ。
歩はかなり渋ったが、「じゃあ一緒に寝ようか?」と言ったらリビングの方がまだましだと思ったようで、戻ってきてソファに座ってくれた。
「おもしろい番組あった?」
「んー、あんまり。なんか映画でも見る?」
話をしたい、と思ったはずなのだが、改まると言葉に詰まる。
DVDを物色しようとソファから立ち上がりかけた響子は、だが後ろから歩に抱きしめられて座り直す羽目になった。
「あゆ?」
「……響子ちゃん」
予想外の力強さに響子はうろたえた。
「何よ」
「逃げて」
「は?」
何から逃げればいいのか。それ以前に歩が響子を抱きしめているから逃げようがない。
「何なのよ」
「ほんとに、ごめんね」
「あゆ……?」
「でもね、響子ちゃんと一緒にいると、どうしてもそういうこと考えちゃうの」
本音で話をすると、結局その話題は避けられないらしい。
硬いものが当たる。それは歩が響子を欲しがっている証だ。
はっきりと欲情している歩に、響子はどうしていいのか分からなくなった。
「こんなのダメだって思うのに、分かってるのに」
――止まらない。
ぽろぽろと涙をこぼしながら、歩は響子に抱きしめる。
響子は抵抗しなかった。
歩の世界は小さい。それはきっと響子にも責任がある。本当はもっと厳しくした方がいいと分かっていても、歩に泣かれるとつい手を差し伸べてしまう。
「泣かないで。あゆに泣かれると胸が痛い」
歩の頬を撫でて、涙を拭ってやる。
「あゆが泣くのは嫌。あゆが悲しいのも辛いのも嫌」
歩とこうなりたいと思ったことはない。だが、嫌だと思ったこともない。
「……いいよ」
「響子ちゃん?」
「あゆがしたいこと、していいよ」
どうしたって拒めないのなら、いっそ応えてしまってもいいのではないか。
歩が響子を求めるのなら、響子も歩を求めていいのではないか。
「……本当に?」
「だって、あゆだもの」
ずっと歩の手を引いてきた。歩が泣いたら、手を差し伸べてきた。響子はただ、これからもそうしていくだけだ。
呆然と響子を見つめる歩の腕から力が抜けた。響子は歩に向き直った。
「私はね、あゆが好き」
余計なことを考えなければ、答えは簡単だ。
「いろいろ考えてもね、男でも女でもやっぱりあゆはあゆで、かわいいなぁと思うし、どっちのあゆも好きだなぁって思うの」
響子にとっても歩は大事な大事な存在だ。
一番近い他人で、男で。
今はまだ小さな芽吹きに過ぎないが、いずれ恋に育つだろう。愛が実るだろう。
不思議と響子はそれを疑わなかった。
歩と一緒に過ごす未来に、不安などありはしない。
「具体的にどうにかなりたいわけじゃないけど、でも、あゆは特別だと思う。一緒にいると楽しくて、だから一緒にいられないと寂しい」
響子が許容できないことがあるとしたら、歩を失うことだ。それに比べれば、歩に応じる方が容易い。ただ、そんな気持ちで応えていいのかどうかが分からなかった。
「私だって、あゆと一緒にいたいのよ」
「響子ちゃん……」
歩が響子を気遣って、手を出さないように気を張って、そうして距離が開いていくのが嫌だ。
歩を警戒したくない。歩とは気の置けない仲でいたい。
歩と一緒にいるために必要なのだとしたら、身体を差し出すことだって厭わない。交換条件みたいでなんだか嫌な気分になるが、絶対に許容できないことの前ではそうも言っていられない。
どうしても歩が欲しいと言うなら、あげる。
歩の性欲を、身体だけが目当てなのかとなじることはできない。"クマノミ"とはそういうものなのだ。
ヤり捨てられるようであれば響子だってもっと惜しむけれども、たとえ性欲が強くなっても歩は歩だ。響子が嫌なことはしたくないと、ひどいことはしたくないと言ってくれる、その言葉を信じればいい。
きっと、何の覚悟も責任感もなく身体を繋いだりしてはいけないのだろう。
けれど歩とは、どんな形であっても離れることがないだろうと疑わないからこそ、響子は思う。
「恋かどうかは分からないけど、でも恋になったらいいな。あゆと恋ができたらいいな」
身体だけが嫌なら、失いたくないなら、いっそ恋になればいい。
歩と、恋がしたい。
「響子ちゃん!」
「きゃっ」
「嬉しいよぉ、響子ちゃん」
歩にがばっと抱き着かれて、響子はバランスを崩した。抱き着かれたことは数あれど、響子より大きくなった身体を受け止めることには慣れていない。
(ちゃんと、男の子だ)
今目の前にいるのは、響子が昔から知っている、けれどもう少女ではなく、立派な男の子だった。
ちゃんと、どきどきする。
そうであれば、たとえその心が女であっても、あるいは男になりきれていなくても、響子は歩に恋ができる。
「僕ね、きっともう響子ちゃんに恋してるよ」
どこかうっとりと響子を見つめて、歩はそう言った。
そういう風に意識してしまうとなんだか気恥ずかしくて、押し倒された状況にも戸惑いが生じた。
幼馴染とじゃれている、にしてはいろいろと危ない。
恋人とじゃれている、としたらもっと危ない。
そうなってもいいとは思ったが、いきなりすぎて心の準備ができていない。
止まってほしい。でも嫌がりたくない。「していいよ」と言ったのは響子なのだ。
響子は困ってしまった。
引っ込み思案でおとなしい幼馴染が、実は欲望に忠実な獣だったことを、この日響子は骨の髄まで思い知らされた。
変わっていく。
歩は男に、響子は女に。
かわいかった幼馴染は時々獣になるけれど、その牙にかかることを響子は恐れない。
――だって、あゆだもの。
その免罪符は、今日も有効だ。
<終>
TSの醍醐味ってなんだろうと考えながら書き上げました。
単なる幼馴染ものとは違うものにと思いながら、TS要素がどこかへ行きかけた…。
響子はかわいいもの好きです。
歩視点を含む完全版はムーンライトにて。