中編
女の子みたいにかわいかった幼馴染が成長して男らしくなり、異性として意識しはじめる。
少女漫画ではよくある話だ。
だが、本物の女の子だった幼馴染が男になった場合はどうしたらいいのだろうか。
異性として見るのは容易ではなく、かと言って同性として見ることもできず。
果たして、どう接するのが正解なのだろうか。
中学二年の終わりに、歩は"クマノミ"になった。
"クマノミ"――心の性に合わせて身体の性が変化した子どもたちの総称だ。
少年が少女に、少女が少年に変わる。
少子化・晩婚化対策の一環として取り入れられた国策である。
変化は第二次性徴期に生じる。女性の方が第二次性徴期の発現がはじまる時期が早いため、少女から少年に変わる場合は小学生、遅くとも中学生のうちに変化が起きる。つまるところ初潮のタイミングとほぼ同じである。少年から少女へは大抵中学生の間に変わる。まれに高校生で変化することもあるが、特殊な例だとされている。
響子が初潮を迎え、その胸が膨らみだした頃、歩は他の子よりも初潮が遅れていることを気に病んでいた。それでも歩はとても女の子らしくて、ふわふわしていて、気になる男子の話なんかも響子としていた。
本当に突然だったのだ。歩の男性化がはじまったのは。
体調不良を訴えて病院に行った歩は、大混乱のうちに帰ってきた。
「響子ちゃん、どうしよう!?」
「やだやだって泣いてても元に戻らないでしょうが」
泣き付かれた響子は、ひたすら歩をなだめた。
「よりにもよってまさかあんたが"クマノミ"だなんて。だいたい、なんで男になりたかったのよ?」
「男になりたかったわけじゃないよ? 女の子でいるのが嫌になったわけでもないの」
歩本人に聞いても理由はよく分からないとのことだった。
困ったように首を傾げて歩が言うには。
「私はただ、響子ちゃんみたいにかっこよくなりたかったの」
――私の所為か!
響子は頭を抱えた。
響子はよく「男前」という評価をいただく。
見た目が間違われやすいわけではない。響子はどこからどう見ても女だ。胸だって平均的にちゃんと膨らんでいる。男前なのは内面、つまりは性格イケメンという奴である。
それこそ、変化するなら響子こそがすべきだったに違いない。響子自身には変化の兆しは欠片もなかったのだが、歩が男性化するよりもよほど様になったことだろう。
いやでもだからって、といろいろ考えたが、他に原因らしい原因は見当たらず、やはり響子の影響は否定できなかった。
ただの同性への憧れのはずが何をどう間違ったのか、憧れた相手が性格イケメンだったがゆえに歩自身がイケメンに、もとい男に変わってしまったのだ。
響子は歩と歩の家族に土下座で謝らなければならないと思った。歩は「響子ちゃんのせいじゃないよぅ」と言ってくれたし、歩の家族も「気にしないで」と言ってくれたが、それは無理というものだ。気にするに決まっている。
(私がもう少し女らしければこんなことには……)
それはそれで歩に憧れてもらえたかは分からないが、少なくとも歩を男にしてしまうようなことはなかっただろう。
ちなみに、響子が男前な性格であるのにはちゃんとした理由がある。
「歩ちゃんが"クマノミ"になるなんて、全然そんな感じじゃなかったのに」
「私の所為、だけどお母さんの影響も少なからずあると思う」
「え」
響子の母親も"クマノミ"だ。見た目にも若干男っぽい母は、「かわいい」や「きれい」よりも「かっこいい」という表現が似合う女で、その内面が響子にもばっちり受け継がれている。容姿もどちらかと言えば母親似で、父よりも母から影響を受けた響子のイケメンっぷりが歩を男性化させてしまったのだ。
「響子、しっかり歩ちゃんを支えてあげなさい」
「そりゃあもちろん」
響子の身近なところには"クマノミ"が多い。本来"クマノミ"に出会う確率は三つ子に会うのと同程度と言われているが、響子の親戚が集まったら三歩で"クマノミ"にぶつかる。
母、そして叔父も祖母も"クマノミ"だ。伯父も"クマノミ"と結婚した。父方はそうでもないが、母方は"クマノミ"だらけだ。
響子が歩をサポートするのは自然な流れだった。元より歩は響子にべったりだった。
引っ込み思案でいつも響子にくっついていた歩のことだ。いきなり男子の群れに放り込むのは忍びない。というか危ない。男になったとは言え、見た目にはさほど大きな変化はなく、十分「美少女」で通るのだ。おかしな目を付けられないとも限らない。
"クマノミ"の身体の変化にかかる時間は、成長期であるかどうかによっても左右される。身体が成長しきった状態で変化するよりも、成長途上で変化する方が見た目の変化は少ない。
男性が女性化する場合、基本的には身体機能が衰えるため体内よりも見た目の変化が先行する。一方女性が男性化する場合の外面的な変化は比較的ゆるやかだと言われている。衰退ではなく成長だからだ。どちらがより難しく時間がかかるかと言えば後者である。男性としての体躯が完成するには年単位の時間が必要だと言われている。
歩の身体的変化もゆるやかで、中学三年生の一年間を女装で過ごしてもバレなかった。これを言うと怒られるのだが、歩の胸は小さい方だったので、真っ平らになったところで誰にも気づかれなかったという悲しい現実があった。
響子と歩は女子校の中等部に通っていた。本来であればそのまま高等部に進むことができたのだが、三年生の後半には響子との身長差がなくなってきており、さすがに高校生になってまで女装は無理だろうということで、歩は男としての人生を生きる覚悟を決めた。
「高校は、県外に行こうと思うの。わた、僕を知ってる人がいないところへ」
歩が女だったことを知る者のいない遠くの高校へ進学するのだと。
慣れない一人称を使おうとすると普通の会話さえもたどたどしくなる歩に一抹の不安を覚えたのは当然だろう。ただでさえ引っ込み思案な歩を一人で遠くへやるなんて、ましてや身体の変化のこともあるのに、と責任を感じた響子は、同じ高校へ行くことを決めた。
進学先を勧めてくれたのは響子の母親だった。響子同様責任を感じていた響子の母親は、自分の実家に居候して近くの高校に通ってはどうかと提案した。男から女になった祖母も、女から男になった叔父もいる。歩は最初別に部屋を借りる予定だったのだが、"クマノミ"の先輩と一緒に暮らすというのは、歩にとっても悪い話ではないように思えた。
そうして二人で実家から遠くの高校に通うことになったのだ。
最初は男子の中に放り込まれて挙動不審だった歩も、この頃はほぼ違和感なく溶け込んでいる。多少なよっとしているのは仕方がない。乙男やらジェンダーレス男子やらが流行るご時世だ。そこまで浮いてはいないだろう。男子よりも女子と仲良くしがちなのは事情を思えば無理もない。
歩は相変わらず「響子ちゃん、響子ちゃん」と雛鳥よろしく響子の後をくっついて回る。高校生にもなってどうなのかとも思うが、学校には響子以外に事情を知っている人間がいないのだから仕方がないかとも思う。
身長は高校に入ってから抜かされた。男子としてはそう大きくないが、響子より数センチ高い。
声変わりはなかった。歩の声はある日突然低くなるのではなく、男性化してから少しずつ低くなっていった。気がつけば、昔の軽やかな高めの声は聞こえなくなっていた。
響子ちゃん、と呼ぶ声は相変わらずどこか甘やかなのだけれども。
入浴はひかると響子、歩、祖父、祖母、最後に帰りの遅い叔父という順番だ。
夕食後ひかると一緒に一番風呂に入った響子は、自室に戻る前に歩の部屋をノックした。
「あゆー、次お風呂」
――今度からは僕が返事してから開けてね。
返事がない場合はどうしたらいい。
「あゆ、開けるわよ」
返事をしない歩が悪い、と響子は扉を開けた。電気は点いたままで、歩はベッドにいた。
「あゆ? 具合でも悪い?」
「きょ、こちゃん」
布団から顔を覗かせた歩の顔は赤かった。息も乱れていた。
「熱でもある?」
伸ばした響子の手から逃れるように歩が身体を引いた。
「なんで逃げるのよ」
「ご、ごめ……でも、あの、さわらないで」
「なんで?」
「今、僕ちょっと、おかしいから……!?」
響子は歩の拒絶をものともせずにその額に触れた。
「ちょっと熱い気もするけど。他は何がおかしいの?」
かちん、と歩は固まっていた。
夕食の時は別におかしなこともなかったと思うのだが、いったいどうしたと言うのか。
「あゆ?」
ぺちぺち、と頬を軽く叩く。
歩がうろうろと視線を彷徨わせた。
「汗掻いてるじゃない」
するりと首筋を撫でたら、歩はびくんと大きく身体を揺らして小さく悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの」
「ふぇ……っ」
みるみるうちに歩の目に涙が溜まる。
「あゆっ? ちょ、え、何事!?」
「……ごめんね、響子ちゃん」
ぽろぽろと泣きながら、歩は響子に謝った。
「ごめんね、ごめんね」
理由を聞いても、歩は教えてくれなかった。
それから、少しだけ歩は響子と距離を置くようになった。物理的な距離を、だ。ことごとく響子の手を避ける。そのくせ一緒に帰るのは止めようとしない。
いったい何がしたいのかよく分からなくて、響子は微妙に悶々としていた。最近の歩の口癖は「ごめんね、響子ちゃん」だ。しょっちゅう謝るくせに謝罪の理由が分からないという気持ち悪さに、響子はなんとも言えない気分になる。
「あ、忘れてた」
朝起きてすぐ、今日授業で当たる部分の予習を忘れていたことに気がついた。
「あゆー? 起きてる?」
このところ微妙な感じだとは言っても十年来の幼馴染である。学校でぼっちの響子が頼れるのは歩ぐらいだ。
返事がなかったのでまたしても無断で扉を開けると、歩はまだ眠っていた。
ぽすん、とベッドに腰掛けて歩の身体を揺する。
「あゆ、起きて」
「ぅ……ん」
歩の寝顔をじっくり見る機会はあまりない。
長い睫、透明感のある白い肌。かわいい顔立ちだ。さすがに昔の制服は着られないだろうが、今でも十分に女装が様になりそうだった。
さらさらの髪を手で梳くと、歩がうっすらと目を開いた。
「おはよ」
数度瞬いた歩は、ふにゃっと笑った。
「響子ちゃーん……」
歩に抱き着かれて、響子はベッドにダイブした。
侮りがたし、男子の腕力。
「響子ちゃんだぁ……」
「ちょっと、あゆ、あんた寝ぼけてるわね!?」
歩がすりすりと響子にすり寄る。
響子からの接触も響子への接触も避けていた歩だ、起き抜けで寝ぼけているとしか思えない。
ぎゅうと腰を抱かれてしまうと、響子には抵抗のしようがなかった。寝ぼけている相手に鉄拳制裁なんて真似は、そうでなくとも歩相手に手荒な真似などできるわけがない。
「あゆ、起きなさいってば、や、ちょっと、どこ触って――ふぁっ!?」
歩の手が響子の頬を撫で、首筋を撫で下ろし、そのまま胸まで降りてきた。やわらかい膨らみの感触を確かめるように歩の指が動く。
「やめっ、やめて、あゆ、こら!」
手首を掴んでも阻止できない。
響子は歩に思う存分胸を揉まれてしまった。
「うー……響子ちゃんいい匂いぃ……」
今度はすんすんと、歩が響子の首筋の匂いを嗅ぐ。
くすぐったさに響子は身をよじった。
「響子ちゃ……ん? あれ?」
「ばかあゆ……」
「えっ!? あれ、ご、ごめん、ね?」
「……起きた? 寝ぼすけさん」
「~~~っ!!!」
がばっと歩は飛び起きた。どうやら覚醒したらしい。
「響子ちゃん? 本物!?」
「私は一人しかいないわよ」
顔を赤くしたり青くしたりと忙しい歩の前で、響子も身体を起こした。
「ぼ、僕、あの、まさか、えっと、な、なにか、しちゃった、り?」
「なにかって、こういうこと?」
歩の手を取って胸を触らせると、歩はぼんっと顔を赤くして「きゃーっ」と言った。その反応に響子は鼻白んだ。
「さっきはやめてって言ってもやめなかったくせに」
「だ、だって夢だと思ったんだもの」
「……夢なら、触るの?」
現実の響子のことは避けるのに、夢の中では触るのか。
どういう理屈だ、それは。
「ご、ごめんなさい」
「別に怒ってないわよ」
「でも、響子ちゃん、嫌でしょう?」
「なにが」
「なにがって、その、あの、触っちゃって」
「それよりあゆがどんな夢見てるかが気になるわ」
「え゛っ!? って、ていうか、響子ちゃん、どうしてここにいるの?」
そう言えば本題を忘れていた。
「あ、そうだった。今日英語当たるところ、訳し忘れちゃってて。あゆ、できてる?」
「できてるけど。あの、響子ちゃん、お願いだから、勝手に部屋に入ってこないで」
ついに出入禁止を言い渡されて、響子はかなりショックだった。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない」
「嫌っていうか、響子ちゃん、僕相手でももう少し警戒心持った方がいいよ……」
「なんであゆを警戒しなきゃいけないの」
歩が元から男なら、あるいは望んで男になったのなら、響子だってもう少し距離を置く。だが、そうではないから。
「今日みたいなことがまた起きたら困るでしょう?」
「今日ぐらいのことは別にいいわよ」
「よ、よくないよ! も、もっといやらしいことしちゃうかもしれないし」
「……本当にあゆ、どんな夢見てるの?」
「……言えないよ。本当に、ダメだから」
「男の子ってそういうもの?」
「……どうかな」
歩にも男としての性欲が備わっている、ということが、響子には不思議だった。
歩が欲情しているという事実に驚くような感慨深いような気持ちになり、次いで自分が欲情されているという事実に困惑し、正しい反応というものがまるで分からない。
性的知識が豊富とは言えないが、一応性教育は受けている。何をどうすれば子どもができるかは知っているし、男女それぞれの生理現象も分かっている。
ただ、知っていることときちんと理解していることは必ずしも同義ではないのだが。