上
胸に堕ちてきたのは、何だろう。
それが何か、掴み取る前に、喉が震えた。
「——ふっ――」
可笑しいわけではない、愉しいわけでもない。
それなのに、どうしてか、喉の奥から笑声が溢れだしてきた。
広く、煌びやかな、大広間。
沢山の人間がいるのに、彼女は独りぼっち。
笑っている場合ではない。
それなのに、どうしても止まらないのは、抱いていた希望ごと、自分のまともな部分も砕けてしまったせいなのか。
「——どう、して……」
笑声の合間に、虚ろな問い掛けが地面に堕ちて転がった。
誰も応えない問の答えは、もう、嫌と言うほど理解している。
——自分は、ただの、捨て駒だった。
◆◆◆
愛されたかった。
——ただ、愛されたかっただけだった……。
物心つく前から、父は、彼女を見なかった。
自分が自分であると、認識する前から、母は彼女を見なかった。
気づけば、両親と認識していた二人は、一つ下の妹しか見ていなかった。
そして、国の頂点に立つ二人から見捨てられた彼女を、誰も見なかった。
……寂しい、と言う言葉を理解する前から、彼女は孤独だったのだ。
だが、名目上であれ、彼女は一国の君主の長子である。
どれ程得られるものが少なかろうと、彼女が求められるものは多かった。
愛されたかった彼女は、求められるままに、努力した。
努力すれば、認められることもあったから、彼女はそれでいいと思ったのだ。
初めのうちは。
——己の努力が、無意味であることを、彼女が気づいたのは、何時だったのだろうか。
姉の様に思っていた侍女は、妹付きになった。
彼女を誇らしいと言った教師は、妹ばかりを褒め称えるようになった。
彼女に忠誠を誓うと言った騎士は、妹に跪いた。
彼女が拾い上げた子供は、いつの間にか、妹の周りに侍るようになっていた。
いくら書物を暗記しようと、いくら高名な学者と議論を交わそうと、握りしめた手からは、どんどん大切なものが零れていく。
傍にいて欲しいと思った人は、妹の元へ向かい、結局、彼女の周りに残ったのは、王の長子を利用し甘い蜜を吸おうとする人間ばかり。
泣き叫ぶ気力も失せたのは、もう、何時だったのか、覚えてもいない。
……だったら、なのか、せめて、なのか。
彼女が、少しばかりの権限を与えられた時、脳裏に過った言葉はどちらだったのか、今はもう曖昧だ。
国に尽くすことが、彼女に残された唯一の存在意義であったことは確か。
けれどその内、褒められなくても、認識されなくても、別に構わなくなってきた。
例えば、道行く人々の顔がほんの少し明るくなったとき。
例えば、静かだった通りに、子供達の笑い声が響くようになったとき。
自分が、誰かの幸せの一助になったと、実感する度に、彼女は何故だか無性に嬉しく、自分を誇ることが出来た。
——だから、良いのだ、と。
誰も彼女を見なくても、必要としなくても、自分は幸せなのだ、と。
思えていたのに。
彼女の世界の崩壊は、あまりにも呆気なかった。
◆◆◆
咎人を捕えよ、と声がする。
——亡き第一王女の名を、騙り続けていた娘。
それが、今の彼女の肩書だ。
一体、何の冗談だろう。
可笑しくも無いのに、笑い続けるしかないではないか。
——本当は。
本当は、気付きたくなかっただけなのだ、と、彼女の冷たい部分が囁いた。
彼女を見ない、国王夫妻。
両親に似ない彼女、よく似た妹。
そして、長らく続いた、王族間での熾烈を極める権力争い。
……王宮に渦巻く悪意から、掌中の珠を守る方法は?
真実に繋がる断片は、もう、彼女の手の中にあったのだ。
ただ、彼女が見向きもせず、組み上げることも無かったから、分からずにいただけで。
騎士達が、近づいて来る。
捕えられれば、彼女に未来はない。
王族の詐称は、必ず死を以て贖われる重罪なのだから。
誰かに、愛されたかった。
けれどそれ以上に、この国を愛していた。
それ故、この身が、故国の害になるなど、断じて許し難かった。
赤子が成人に達するまでの間、第一王女の身代わりに気が付かなかったことなど、一体、どれ程の醜聞になるのか、考えたくも無い。
——だから、すぐにでも、歪んだものを、あるべき姿に戻さなければいけない。
彼女が護身用の短剣を抜くと、騎士達は少しばかり顔を顰めた。
みっともなく足掻こうとしていると、思われたのだろうか?
僅かに苦笑して、彼女は短剣の刃の側面に描かれた紋章に口付けた。
第一王女の紋章は、彼女を表し続け、しかし、彼女のものではなかった。
——ああ、これが御伽噺なら、何と滑稽な御話だろう。
彼女は姫君でも何でもなく、作られた舞台の上で、知らず踊り続けた道化でしかない。
いらなくなった人形は、あとは捨てられ、壊れるだけ。
それでも、偽りだらけの劇の中には、『本当』もあったのだ。
彼女は短剣を抱きしめ、精一杯綺麗に笑ってみせた。
「さよなら、我が国、我が民。 ——紛い物でしかないこの身でも、わたくしは確かに、この国を愛しておりました」
誰にも届かないだろう言葉を放り投げ、彼女は己の首に力一杯短剣の刃を突き込んだ——。
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