努力の人 3
医務室で目を覚ました隅田は、その一瞬で我に返り、身体を起こして真木の名を呼んだ。
「おい!真木いるか?」
ベッドの周りには、目覚めたタイミングが悪かったのか、誰の姿も認められなかった。
隅田は身体を動かし、ベッドから降りる。
思ったほどに身体の痛みはない。どちらかと言えば心地よい疲労を感じているだけだ。
トントン、と医務室のドアがノックされる。隅田が返事をする前に、そのドアがカチャッと開く。
「あ、気付きましたか。さっき、お医者さんが診てくれたんですが、身体に異常はないみたいです」
真木はスポーツドリンクを両手に持っており、その片方を隅田に差し出す。隅田は「ありがとう」と小さく答えて、そのペットボトルの蓋を開けて口を付けた。
「森国さんから聞きました」
「ん?何をだ?」
「隅田さんがプロ野球の世界に足を踏み入れた頃の話です」
苦笑いしながら隅田は「もしかして、五連続エラーの事か?」と確認する。
「ええ、そして、その時からハードな守備練習をずっと積み重ねて来たことも」
「まあな、俺は下手だから。多分、このプロ野球界で一番才能はない」
森国の言った通りだった。隅田は自分の力を過小評価しすぎている。少なくとも真木からすれば、少年時代から見続けて来た、鮮やかなファインプレーで観客を魅了する、憧れの選手なのだ。
「そんな事はありません。隅田さんに才能がなかったら、僕はどうなるんです?隅田さんの守備には足元にも及ばない」
「はは。そりゃ、今の俺と比べたらダメだ。比べるなら今の俺と十年後のお前を比べなきゃ」
「それでも負ける気がしますが…」
「まあ、1日200本ノックを受ければ間違いなく抜けるだろうな。悪い事は言わん。一回やってみろ。ただ、1日でもサボれば俺には絶対に追いつかないだろうがな」
「隅田さんはそれを僕に言いたくて、実際にその姿を見せたくて、今日は僕にノックを打たせたんですよね?」
「いやいや、今日のノックはアミダだよ」
「アミダ?ってなんです?」
「知らないのか?あみだくじ」
隅田はポケットから一枚の紙切れを取り出す。そこには何人かの選手名とハシゴ状の棒線が何本か引かれている。
「俺はな、コーチを兼任しだしてからは完全に毎日とは言えないが、それでもかなりの頻度でノックを受けている。もし、そのノックを一人に任せてしまうと、打ち方や目線である程度打球が読めちゃうんだよなあ。だからノッカーを毎回変えて、お願いしているんだよ」
「なるほど、できるだけ予測ができないように、本番を想定した打球を求めてるって事ですか?」
「まあ、カッコ良く言えばそうだな」
隅田が本心を語っているのかどうかは真木には分からなかった。ただ、隅田はプロに入ってから守備の技術を飛躍的に向上させた。それも、努力によって。
「僕もやってみます。毎日200本ノック」
真木は引き返せないような重圧を感じたものの、「これでいい」とすら思っていた。
元来、プロ野球とは、下手をすれば明日クビになってもおかしくはない場所。そこでやっていく覚悟と引き換えならば、毎日のノックなど安いものだ。
「ああ、やってみたらいいさ。大変かもしれないが、確実にお前の力になる」
「それにしても、信じられませんね、隅田さんのデビューがエラーだったなんて」
真木は茶化したわけでもふざけた訳でもなく、本当に信じられないというような表情だった。
隅田は窓際に置かれていた花瓶の、黄色い花を見つめる。
「俺にも、信じられなかったよ」
何故かその小さな何気無い呟きが、真木の心に例えようのないような引っ掛かりを抱かせていた。




