夕暮れのマウンド
ロッカールームの静寂を破ったのは、その場に駆け込んできた鮫島だった。
「ちょ、ちょっと、マ、マウンドに!」
栃谷が「どうした?」と声を掛けたが、ほとんど聞こえていないような焦り方で鮫島が続ける。
「居る、居るんです」
「誰が?」
栃谷は冷静に質問する。その場にいた選手たちも首を捻りながら鮫島の方を見ていた。
「さ、さ、さっ」
「鮫島、落ち着け!落ち着けよ!誰がいるんだ?」
栃谷の声にようやく落ち着きを取り戻した鮫島が呼吸を整えながら告げる。
「坂之上さん」
ロッカールームから選手たちが一斉に飛び出して行く。
メンバーたちがグラウンドに出た時、坂之上は夕暮れ時のマウンド上でボールを握ってバックスクリーンを眺めていた。それも記者会見でしか見ることのないスーツ姿の坂之上だった。
「坂之上さん!」
次々と選手たちが坂之上の周りに集まっていく。
そこに立っていた闘病中のエースはその場にいた誰よりも清々しい笑顔を浮かべていた。
「おお、みんな居たのか」
「坂之上さん、大丈夫なんですか?」
相沢が心配そうな表情で気遣うと、坂之上は相沢の頭をポンポンと叩きながらさらに笑った。
「ああ、実は明後日が手術でな。1日だけ外に出させてもらったんだ。もしかしたら、マウンドに自力で立てるのはこれが最後かもしれないからな。この景色を胸に刻んでおきたくて」
その笑顔の裏には悲壮な覚悟があった。
チームメートたちはその覚悟を知り、口をつぐんでしまっている。坂之上は気遣いながらも続けて口を開く。
「聞いたよ、監督から。優勝ができなかった場合、契約が見直されるんだろ?ああ。なんていうか、本当に…お前たちが羨ましいなあ」
「羨ましい…ですか?」
栃谷が坂之上を見ながらそう質問する。
「そりゃそうだろ。みんなは来年、再来年のことが考えられるんだから。でも、俺は正直、明日のことしか考えられない。もし手術が上手くいかなかったら、もし手術が上手くいっても再発したら、もし再発しなくても選手としてプレーが出来なかったら、もしプレーができたとしても100%の力を出せないようになったら、そんな事ばかり考えてるんだ。病室にいてもな、不安に押しつぶされそうでどうしても暗くなっちまう。だから気分転換も兼ねてここに来たんだよ」
レッドスターズのメンバーたちは肝心なことを忘れていた。確かにチーム事情は苦しいかもしれない。しかし、もっと極限の状態で、1人で必死に恐怖と戦っている選手がいることを。
「おい、お前ら暗いなあ!元気出せよ!なんで病人の俺がお前らを励ましてんだよ!」
坂之上はずっと笑顔のまま、選手たちを眺めていた。
そしてある願いを口にする。
「すまん、これはわがままになるかもしれないが、みんなに伝えておきたい事がある。正直、今、俺は自分の事しか考えられない。みんなのために、チームのために何もすることができない無力な人間だ。ただ…」
相沢は見逃さなかった。坂之上が握りしめていた手が、かすかに震えていたことに。迫り来る手術、そして命の危機への恐怖だったのかもしれない。または、自分を奮い立たせる武者震いのようなものだったのかもしれない。坂之上はその拳の震えを抑えるように、さらに強い力で手を握り込み、一呼吸おいて、続けた。
「ただ…手術を終えて、体が万全な状態になって、またチームのために力を捧げる、そうなれるようにする。戻ってくる。絶対に。だからお願いだ。わがままかもしれないがこれだけは頼む。俺が戻ってくるまで、そんな悲しそうな顔でプレーするのだけはやめてくれ。俺はお前たちと、このチームで野球がしたい。戻って来た時にいつものみんなでいてほしいんだ」
坂之上はそう言って選手たちに深々と頭を下げたのだった。




