捨身
試合は3ー2のまま、最終回を迎える。9回表のレッドスターズの攻撃は二死2塁まで好機を広げたがあと一本が出ず、引き離すことは出来なかった。
しかし、ブレイブスにとっては、僅か1点差であっても、その1点が相沢の続投により、とてつもなく大きい1点となっていた。
ブレイブスの攻撃は一番の静岡からだったが、緩いカーブを引っかけさせられサードゴロ、2番の宇治はチェンジアップにタイミングが合わず三振と瞬く間に二死とされてしまった。
ここで打者は再び早稲田に回ってきた。早稲田の脳裏にはずっと先程の打席のいやな感覚が残っている。捉えたはずなのに捉えられていない。そんな気味の悪い幽霊のようなイメージを拭うには、実際の打席の中で解決の糸口を何とかして見出すしか方法はないように思われた。
名前がコールされ、早稲田はバッターボックスに向かった。
打席に立つと相沢の姿がやけに大きく見える。
「タ、タイムで」
すぐさまタイムをかけた。何故だか相沢と相対すると息が詰まりそうになっていた。打席から見ていると、相沢そのものに大きな変化は無いのだが、その存在感は対戦するごとに大きくなってきていたのだった。
仕切り直して打席に入ると、相沢がこちらを向きながら少し微笑んだように見えた。
ここで早稲田の思考回路は再び混乱する。
「あの笑みは一体何なのだろうか」と考えだすと、それはまるで泥沼のように早稲田の頭脳を飲み込んでいった。
相沢は早稲田が(一瞬ではあるが)動揺した表情を見せたことによって、心理的に優位であると悟っていた。相沢はセットポジションからサイドスローで1球目を投げ込んだ。
ボールは外角に大きく曲がるスライダーだったが、混乱している早稲田はこれを空振りしてしまう。
「くそっ!」
苛つく早稲田を相沢は冷静に見つめ、すぐに2球目のモーションに入っていく。
まだ構えていなかった早稲田は慌てて「タイム」と主審に宣告したが、相沢は表情を変えずにボールを投げ込んだ。コースはど真ん中のストレート。
そして主審のコールは「ストライク」だった。
投手のモーションが始まっている場合にはタイムをかけてもこれは認められない。そんな事は最初から早稲田も分かっていたはずであるのに、つい自分を見失ってしまっていた。
「落ち着け」
早稲田はそう呟いた。自分に向けて。
「このまま終っちゃいけない。何か、攻略の糸口を見つけるんだ。何でも良い。些細なことでも良い」
そう考えていると少しずつではあるが感覚が落ち着いてきた。
ここで相沢が3球目のモーションに入った。
早稲田は呼吸を整え、ボールを待つ。
真ん中高めのストレートだった。
「打つ手がないのであれはこれでいくしかない」
早稲田はじっくりとボールを見極めたがやはり普通のストレートに見える。
ここで早稲田は驚きの行動に出る。
9回裏二死という、ゲームが終了するかどうかのこの場面で早稲田の選択肢は、バントだった。
これには相沢も意表を突かれたようだった。リリースの瞬間、相沢は演技ではなく本心で表情を曇らせた。
「カツッ」
またも乾いた音が響いた。
転がったボールは相沢の前に向かい、これを相沢自身が一塁に送球して、ゲームセットとなった。
しかし、早稲田とブレイブスはこの試合の敗戦と引き換えに、僅かながらではあるものの、相沢攻略のきっかけを掴んだのだった。




