坂之上と桜井
広島市内にある瀬戸内大学付属病院。その外科病棟902号室に坂之上は入院していた。
病室のドアがノックされると、ベッド上の坂之上に代わって妻の恭子が近寄り、誰かを確認する。それからすぐに恭子は来客を室内に迎え入れた。
「坂之上さん、調子はどうですか?」
見慣れた顔に坂之上の表情が思わず綻ぶ。
「桜井!桜井か!久しぶりだな!」
思わず声が上ずり舌を噛みそうになった坂之上に、紺色のスーツと赤いネクタイで身を包んだ桜井が頭を下げる。
「いろいろご心配をお掛けしました」
桜井がこのように言うのには理由があった。メジャーに移籍する前、渡米について相談したのが坂之上であり、桜井の事を一番案じていたのも坂之上だったからだ。
桜井がメジャー挑戦を決めた夜、坂之上の自宅に報告しに行くと、坂之上は優しげにこう言った。
「お前が決めたならしょうがないな。ただな…個人的な想いを言えば…俺はお前とレッドスターズで、リーグ優勝をしたかった。お前が入団してきた時、『こいつとならもしかすれば優勝できるかもしれない』とすら思ったほどだからな」
そこからメジャーリーグでの野球生活が始まってからも坂之上は誰より桜井を気にかけていた。生活面で困ったことはないか、チームメートとは上手くやれているか。衛星放送での試合中継を見た時には、フォームのズレや違和感を逐一、アドバイスしていた。
「桜井さん、アメリカでのご活躍はお聞きしています。さすがとしか言いようがありません」
恭子はお世辞抜きでそう賞賛した。恭子にも分かるのだ。近くにいる坂之上をこれまで見てきたことで、桜井がどれだけの選手に成長したかが。
「チラッと聞いたんだが、レッドスターズに戻って来るのか?」
坂之上は、今度は曇った顔でそう質問する。
「ええ、今手続きの最中です。話がまとまればすぐに広島入りするつもりです」
「もしかして、俺が病気だからか?」
「はい、そうです…とは一概に言えませんが、それも一つの理由としてあります」
「それじゃあ他の理由は?」
「沢山ありますけど、一番はタイミングですね。ちょうどあっちの球団も俺を手放したがってましたから」
「かと言って、他のメジャーの球団でもまだ行けるだろう?」
桜井は頭を掻きながら、苦笑いする。
「すいません、正直なところ…あっ、笑わないで聞いてくださいね。正直なところですね、『メジャーってつまんねーな』って思いまして」
「つ、つまんない?お前、どうしたんだ?」
「本当に笑わないでくださいね。俺、アメリカでやってみて分かったんです。野球選手にもいろいろ居て、いろんな考え方を持った奴がいます。少しでも活躍して年俸が欲しい奴、さらに大きい舞台で自分の力を試したいと思う奴。でも俺は違いました」
「何が違うんだ?」
「俺は年俸もフィールドもこだわらないってことです。俺はただ…レッドスターズで、一緒にやってきた仲間たちと優勝したかったんだと」
桜井が渡米で得たもの。それは年俸でも実績でもなく、「自分が野球をする理由」だった。
「そうか。そんな思いで帰ってきてくれたのか。メジャーに行って意地が悪い人間になってたらどうしようと思ってたからな。俺は心からホッとしたよ」
それは坂之上の本心だった。プロで実績を残した選手の中には自身を勘違いし、天狗になって努力をしなくなり、そのまま実績も右肩下がりで消えて行った者が大勢居た。そして、それを坂之上は見てきた。桜井がそうなっていなかったことに心の底から感謝した。
「手術はいつですか?」
「一週間後だ。治るかどうかも手術してみないと分からん。だから、これからのレッドスターズを頼んだぞ」
桜井はその言葉に首を捻る。
「いやいや、頼まれたくないです。無理ですよ、坂之上さんの穴埋めなんか。だから坂之上さん、早く戻ってきてください。出来れば今シーズン中に」
「はあ?脳腫瘍だぞ?俺は」
「今は医療が発達しているから脳でも三ヶ月あれば十分でしょう」
普通の人に言われればきっと何も思わなかった。しかし、桜井の言葉で坂之上は本当に実現できそうな気がしたのだ。
「分かったよ。三ヶ月で治してやる。第一線のメジャーリーガーが言ってるんだから、イケるだろう」
「もう自由契約になりましたけどね」
そう言って戯ける桜井に対し、坂之上は笑いながらも、心の中で感謝の言葉を何度も呟いていた。




