朝の光 メロディーを熊たちと 10
音楽室は校舎の一番左手の二階にある。
そしてこの学校は三階建て。
二階の反対端、北校舎に向かう角が職員室になっている。
音楽の授業は、最近もっぱら音楽コンクールの練習になって騒がしい。
もっともその前までは、正確に言うと去年まではという事だけれど。
騒がしいとかそんなレベルの時間じゃなかった。
ゆりあは音楽教師としてこの学校にやってきてびっくりしたあの頃を思い出していた。
荒れている、とか学級崩壊なんて言葉は別世界の事だと思っていたから。
でも、それはまず一番最初の音楽の授業で訪れた。
ピアノを弾いて自己紹介のつもりでメロディーを奏でる。
自分をみている生徒たちの視線を感じながら、にっこりほほ笑んだ、つもりだった。
ヒュンっと音をさせて紙飛行機がゆりあの白い指先に落ちる。
「うるせぇよ!」
立ち上がると、教室の後ろにのけぞった姿勢で足を組んでだらしなく座っている男子学生の姿。
横に立ったもう一人がそばにあった大太鼓をダンッと足で鳴らす。
「オレの好きな音楽ながしてよ!」
そう言ったと思ったら、あとは教室中に大きな音が流された。当時流行っていた曲。
街中で耳にする曲。
その集団の中に染谷くんと南里くんがいた。
『生徒はカボチャやナスだと思っていてください』
校長の一言が頭の中をぐるぐる巡った。
それからは、授業はもうノータッチ、生徒の好き勝手。
暴れて喧嘩になるようなら、職員室に助けを求めに走る。
そんな毎日に次第に鳴らされていったゆりあ。
ただ放課後、音楽クラブという部活があって名簿には(顧問 涼風ゆりあ)と印刷されていた。
とりあえず、部活のある火曜日に音楽室を覗いてみると男子二人と女子が一人ギターを抱えていた。
教室が本来の音楽教室に戻った一コマ。
少しだけ、先生になった実感。
まだ、この頃には彼らは音楽が大好きだった。
本当は今でも音楽は好きなんじゃないかしら。
そう思うと胸が痛む。
夕暮れが近づくとあの時の初めて音楽教室に入った
震えるような第一歩を思い出した。
顔を上げる三人に、どんな顔をしていいかわからずゆりあはたたずんでいた。
あの時のわたし、どんな顔してたのかしらね。
不安でも驚きでも期待でもない、胸の奥がキュッと閉まるような緊張と息できない空気。
不思議だな、こんなこと思い出したのは久しぶりだ。
なぜしばらく思い出す事などなかったあの頃の事を思い出したのだろう。
ゆりあは、頭の片隅がズキンと痛むのと同時に、頭を振った。
今ゆりあは、授業を終えてどことなく安心している自分が不思議だった。
本当だったら、授業なんてできて当たり前、なのにな。
今日は授業できて良かった、とか思ってるなんてね。
くすっと笑いがこぼれた。
その時、窓ガラスにコンと何かが当たった。
窓を開けてみると、下に見た顔が手を振っている。
懐かしさと苦しさがないまぜになって痛い。
下で横の体育館の方を指さして、口をパクパクさせている。
「な~に?どうしたの?」
体育館の方を見ると、扉から顔だけ出している生徒らしき姿。
下にいた方は手のひらをひらひらとさせて、来いと言ってるらしい。
そのまま、体育館の入り口に走って行って消える。
あれは、確か。
ゆりあは、胸騒ぎがあふれそうになって後を追った。
音楽室から出ると踊り場横にある非常階段を駆け下りた。
音楽室の楽器の出し入れによく使う扉は、なんのためらいも感じなかった。
それよりも、消えた姿が気になって不安がわいてくるのを止めたいと駆け下りる。
まだ、一年たっていないんだ。
耳に残るギターの調べ。切なく悲しく愛おしく流れて消える。
ギターは決して得意ではなかったゆりあ。
それでも、三人に自分の知ってる知識を分け与えた手ごたえは計り知れない。
音楽を通して触れ合える生徒たち。
あの子たちは、どうしていたのだろう。
ピアノを弾きながらふと頭をよぎるのを、振り払って追い出した事が何度もある。
階段を降りながらゆりあは、あの時にタイムスリップしているような錯覚に気付く。
もう一度、あの時に戻れたら。
ううん、戻れても結局同じ結果しか訪れない、きっと。
だって、わたしに勇気も覚悟もないんだもの。
教師なんて、きっと一生かかってもなれないに違いないんだわ。
階段を降りて、体育館に向かう。
それでも、わたしは行かなくちゃいけないんだ、たぶん。
ここ一週間、コンクールの練習があるので、部活に体育館は使用されていない。
西日がはるか彼方から、輝きだそうとしていた。
次回、3月6日アップします。