朝の光 メロディーを熊たちと 1
音楽教師ゆりあ、取り巻く生徒会の面々、そして、熊五郎。ゆりあになついている美奈香、どこかやる気のでないゆりあは、彼らと接するうちに変わっていけるのだろうか。
涼風ゆりあは、あくびを噛み殺しながら閉じようとする瞼を両手で押し上げた。
音楽教室は、ガヤガヤの洪水で
誰もが口々に昨日のテレビやらファッションやらの話をしている。
退屈な授業よね。
でも仕方ないわよね。
自問自答していると、
ゆりあの座っているピアノの椅子の横にあるオルガンから声が聞こえた。
「ねぇ~~てばぁ、先生!ゆりゆりぃ~、どんな音楽が好き~?」
けだるくて甘い声が眠い頭に響いて、どこかをつつく。
先生、ああそうだったっけ。
ゆりあは改めて自分が教師だった事を思い出した。
眠気を吐き出しながら、こちらを見つめる瞳に向かう。
「美奈香ちゃん、一応先生なんだから、そのゆりゆりっていうのはどうかなぁ?」
「みなかねぇ~~、最近昔のロックとか聞いちゃってんだ!なんかない?有名な曲、かけてぇ~、ゆりゆり~ききたい~~~」
こっちのいう事はきいてないのね。
髪の毛がところどころ、明るい茶色に光っている。
天然パーマだと本人は言うけれど、本当かはわからない。
悪戯っぽい黒い瞳をゆりあに向けて、
餌を待っている子猫のような顔をして見つめるのは、少しだけ可愛い。
「じゃ、クィーンかけましょうか、いろんなところで耳にしていると思うわ」
この教室は、音響設備が良い。
もっとも生かされた授業というものを、ずっとやっていないが。
迫力のある音が鳴り響く。
「あぁ~、テレビで聞いたことある!カッコいいよね」
美奈香の声に、教室のガヤガヤもザワザワも一瞬、静止する。
「先生ってさ、なんで音楽の教師になったわけ?」
美奈香の隣から、背の高い男子生徒が現れて、ゆりあを見下ろして聞いた。
笹塚熊五郎、ふざけた名前の生徒。最近転校してきたのだ。
まだ、中学生なのに高いところから見下ろされると
なんだか、ドギマギしてしまう。
「先生ってさ、オレらと目ぇ合わせないでしょ?」
不意に熊五郎が言った言葉は、更にゆりあをドキドキさせる。
恋する乙女じゃあるまいし、なんでこんなにドキドキするのかしら。
ばかね、わたしは教師よ。
でも、笹塚くんが言った言葉は当たってるかもしれない。
ゆりあが見上げると、不敵な表情を作って笑っている。
この男子はたまに、大人のような目をしてハッとさせる。
なんでも見透かされたような気持ちになる。
教師としては、なんて答えたらいいのか。
ええと
なんで?なんで教師になったのか。
そうか、なんでだったかしら?
頭の中に現れる場面はバスの中だ。
あれは就活の真っ最中。
毎日毎日、筆記試験と面接に明け暮れていた。
それでも、嬉しい結果は全く届かなかったあの頃。
企業名の入った封筒を何度、開いて破り捨てただろう。
その日も、二社の面接を終えてくたくたになって帰宅する途中だった。
「涼風さん、ここいい?」
揺れるバスの中でわたしの横に立っていたのは、須田道明くんだった。
あまり背も高くなく細い身体と特徴のない顔立ち。
須田は、ゆりあの近所に住んでいる同級生だった。
親しく話をしたこともないし、同じクラスになったこともなかった。
それでも、小学生からずっとピアノ教室が一緒だったから、一言二言、言葉を交わしたことはある。
同級生、それ以上でもそれ以下でもない。
いいも悪いも、バスの中はゆりあの隣の席しか空いていなかった。
「涼風さんも就活中なんだね」
須田はゆりあの抱えている企業の封筒を座りながら、チラッと見て言った。
(散々な結果ばかりだけどね)
心の中でゆりあは答えていたが、にっこり笑って頷いた。
「ぼくはとりあえず、学校の先生に決まったんだ」
はにかむように、須田くんはゆりあの隣でほほ笑んだ。
「良かったじゃない、わたしの方は散々よ。先生ねぇ、小さい頃はピアノの先生になりたかったけどね」
羨ましさ半分で答える。
小さい頃の記憶がよみがえる。
『ゆりあね、音楽の先生になって子どもたちにピアノを教えてあげるんだ!』
ああ、そんな事言ってたのって小学校低学年のころだったかしらね。
ピアノは、ずっと続けている。
音楽は大好きだったし、ピアノ教室では子どもに教えたりしていた。
「今でも、ピアノやってるんだよね?」
「ええ、まあ」
一応、大学ではピアノを専攻しているのだから当たり前だ。
心の中で、(だから?)と付け加えた。
仕方がない。散々ダメ出し食らって落ち込んでいるのだ。
言葉にしなかっただけでも、有難いと思ってほしいものだ。
力ない男子代表みたいな須田くんと、ゆりあは後二十分くらいはバスに揺られなくてはならない。
カッコいい男子だったら、このバス時間も楽しかったのになぁ~
そんな風に思いながら、同級生の人気ある顔を想像しながらほほ笑んで窓の外を眺めた。
街路樹は風になびいて、にわか雨でも降りそうな雲行きに
ますます、うつろな気分になっていく。
そんな昔の映像を思い出して、ふぅっと息を吐き出した。
想えば、あの時須田くんに会っていなければ今はないだろう。
目の前には、ゆりあを見つめる黒くて大きな瞳。
美奈香が興味津々の表情。
この生徒は、初めて顔を見た時から
人懐っこくて猫みたいだった。
「ええっと、成り行き上って感じかしらね」
ゆりあの答えに不思議そうな顔をした。
隣で熊五郎が、ゆりあの心の中を見透かしたように笑った。
やっぱりね、と言う心の声が聞こえてきそうで少し腹立たしい。
教室の中は、今日も自分勝手にガヤガヤの洪水の中だった。
「成り行き上ね、今は後悔してる、とか?」
ゆりあの胸の音が聞こえる気がして焦る。
ドキンと今、音がした。
熊五郎に聞こえたかしら。
チラッと顔を上げると、目が合って
もう一度音がする。
今日も、授業らしい授業はしていない。
どこかに、空しさが風のように吹き抜けてゆく。
教室には笑い声がこだまして、
誰もゆりあの存在に気付かないような気さえしていた。
何かを忘れているような気がして、頭を振って気持ちを落ち着かせてみる。
ゆりあ、音楽教師、でも授業はしていない。
次回、2月3日にアップします。