朝はずっと寝ていたい
とくん……とくん………
心臓の音……聞こえる………ん……あったかい………………。
意識はまどろみの中。
うっすら持ち上げた瞼もとろとろと下がってしまう。
心地よいぬくもりの中、何故か幸せだなぁと思った。
……と。
Pi!!
不意に不快な電子音が聞こえた。
Pi・Pi・Pi・Pi・Pi……
………………………。
ん、分かってる。分かってるケド
「も、ぉちょっと、だけ…………」
呟いてもその音は鳴りつづける。
Pipi・Pipi・Pipi・Pipi・Pipi……
だんだんとその間隔を狭めて。
「…………………………。」
Pipipipipipipipipipipipi……
「…………………………。」
Pipipipipipipipipipipipi……
「――――――――――――――~~~~~~っっうるさい!!!」
半分以上たたき付けるようにして止めた目覚まし時計を覗き込むと昨日セットした時間から5、10……
「15分も寝坊してるっ!?うそぉ!!」
ガバッと飛び起きた勢いのまま顔を洗い歯を磨き、髪をとかして制服に着替える。その他諸々《もろもろ》の準備を数分で終わらせる。
や、った新記録。
この前のタイムから25秒近く縮めたことにちょっと嬉しくなった。そうして動きを止めるのも数秒。
昨日のうちに用意しておいた紺色の通学用かばんを引っつかんで階段を駆け降りる。
木特有の優しさがある扉をバンッと勢いよく開けた後、叫ぶ。
「ごっごめんなさいっ!寝坊しました!」
目に飛び込むのは椅子に優雅に腰掛け、コーヒー片手に新聞に目を落とす一歳年上の従兄。
「おはようございます、詩織さん」
彼がこっちを向いたせいでバッチリ目が合った。
彼の髪とお揃いの、月のない闇夜のような真っ黒な瞳と。
「っ!おはようございますっ!神威兄さま。」
息せききっていろいろぐしゃぐしゃなわたし。
正反対に鼻筋の通った秀麗な顔立ち、一切の手抜きを見つけることが出来ない完璧な服装。悠然とした態度。落ち着いた声音。
………っく!いろんなところで負けてる気がする。
むぅっと唸りながら鞄を椅子の上に置くとスクランブルエッグで良いですかと聞かれた。
それにはいと返事をしながらこっちも質問する。
「パンはいつも通りで良いですか?」
この答えもはい。
だからパンを二枚トースターにほうり込む。
一枚目はそのまま。二枚目は、半分に切って。
一枚と半分が従兄の分。残りの半分がわたしの分。
カチカチカチときっかり三分ぶん、タイマーを回す。
よし。後は………と。
ぐるりと見回すと、やかんが目についた。
そういえば従兄はさっきコーヒーをのんでいたではないか。
ならばお湯が残っているはず―――。
カチャと蓋を開けて見れば、二人のインスタントスープを作るには十分過ぎる量のお湯が残っていた。
ん。じゃ、スープ作ろっと。
思い付いたアイデアをそのまま実行に移す。
取り出したマグカップにスープの素を入れる。
お兄ちゃんはコーンスープ。わたしは玉葱スープ……と。
もう一度沸かしたお湯を注ぎ入れ、混ぜ終わる頃にはもう、卵は皿に盛りつける段階。
…………相変わらず手早いなぁ。
そう思って涼しい従兄の横顔を眺めていると、後ろでトースターがチーンと元気よく音をたてた。
二人分の朝食が食卓に並んだ。
詩織が下に降りて来て5分ほどしか経っていない驚異的な早さだが、音宮家ではこれが日常だ。
「いただきます」
「いただっきまーす」
コーンスープを一口啜った神威がくすりと笑みを漏らした。
「後少し遅かったら起こしに行こうと思っていました」
パンに向かいかけていた詩織の手がびくりと動きを止める。
………う゛。
「でもいやかな、と思って。」
…………う゛う゛。
ちろりと従兄の方をみると、にっこりと微笑まれた。
「何せ今日から高校生、ですからね。」
……………………う゛う゛う゛!!!
「……………っごめんなさい、兄さま。」
生まれてから、というわけではないが、十年ほどの短くはない付き合いでこの従兄の恐ろしいところは熟知しているつもりだ。
怒れば怒るほど言葉遣いは丁寧に、微笑みは深くなる。
基準から言うと今日のそれは、それほどでもないが、従兄が怒っている時にはとっとと謝ってしまうのが最善の策だ。
根に持つタイプだから後で何されるか、分かったもんじゃないんだから。
本当にとっとと謝ってしまうしかない。
謝れば案の定、危険な笑顔がいつものそれに戻る。
「次からは気をつけてくださいね………?」
「はい」
よかった、いつものお兄ちゃんだ………と息をついたのもつかの間。
今度は顎を掬い取られた。
「????………に、さま?」
目をぱちくりしてナニと呟けば、すみませんと謝られた。
「その兄さまとかお兄ちゃんとか、学園内では絶対に言わないと約束してもらえますか。」
普段は絶対にありえない状況に目を白黒させられる。
慣れない状況と、兄弟の真剣な瞳に気圧された。
「え、う、うん。分かった。約束する。」
しどろもどろになりながらも言葉にすれば、お願いします、と微笑まれ、指は離れていった。
「本当にすみません。初めて詩織さんがこの家に来たとき、兄と呼べといったのは僕なんですよね………」
そこで従兄はふうっとため息をついた。
「詩織さんが時と場合によって使い分けてくれていたのも知っているのですが………」
げほっ!!
パンが喉に詰まりかけた。
少々涙目になりながら、問う。
「知って………知ってたんですか?」
「はい。勿論。基本的にはこの家で二人キリの時は兄さま。外ではお兄ちゃん。学校では神威さん。………違いましたか?」
ちらりと流し目で見られる。
誰にも言わなかったマイルールだ。
なんで知っているんだろう、と首を傾げる。
いやっそれよりも!
こんなルールよりにもよって兄さまに知られちゃうだなんて!
「いえ。……あってます。//////」
………恥ずかし。
赤くなりながら答えると、ふっと微笑まれた。
「でも時々学校でもお兄ちゃんと呼ばれることがあったので。別に構わないんですが、周囲が面倒臭くて。………特に高校は激しいですから。イロイロと。気をつけてくださいね。」
ナニが激しいんだろ?
よく分からなかったが取りあえずはい、と頷く。
その時ようやく従兄の纏う雰囲気がいつもどうりになった気がした。
そういえば、と神威が切り出す。
「父母が電話してくださいと言っていましたよ。それからごめんなさいと伝えてとも。せっかくの入学式いけなくてごめんなさい、と。」
言われたことに一瞬キョトンとする。
「あー………忘れてたー。………だって神威兄がいるしー。」
兄さまの入学式だって行けなかったのに、わたしの時に来ようとするとは思わないよ、普通。
少しくらい蔑ろにされても良いはずの立場なのに、兄弟の父母は本当によくしてくれる。待遇の差ではどちらが実子なのか分からないくらい、気を使ってくれる。
いくら感謝しても足りない。
「……………ん。分かった。ありがとう、電話しとくね。―――――次の出張ってどこなの?またヨーロッパ?」
しんみりとした空気になりかけたのも一瞬。
だってそういう空気も、ついでに言えば沈黙も、兄さまといるときは好きじゃない。気まずいとか、そういうのじゃなくて………なんというか気恥ずかしいから。
だからこういうときはなにか尋ねれば良い。
尋ねれば従兄はたいていの事に答えをくれる。
黙ったままなんてありえないから。
このときもそうだった。
「―――いえ。確かニスタン連合国ですよ。」
ニスタン連合国。
その名の通り、〇〇ニスタンという国が合体した連合国。
それができたのは今から七年前。
五十年も遡れば、紛争の絶えなかった土地であったそうだが、今はそんな面影もなくここ数年で飛躍的に成長し、今では先進国に数えられる。
そんな国――とはいえども一国の政府から呼び出しがかかるほど凄腕のピアニストとバイオリニスト。
大昔、その名称は、楽器を使って演奏した人達を指したそうだが今は違う。
楽器を奏で曲を作り、そして最高のショウを見せる人。魔法を使って。
明確な意思を持って紡ぎだされる音は、周りの空気に、水に、光に、様々なモノに影響を与える。そして演奏者が指示した通りに、密度を、形を、色を変える。
そうして非現実的な時間を作り出すのが、今の音楽家達だ。
二人とも恥ずかしがって詳しく教えてくれないが、結構有名らしい。
「おじさんとおばさんも大変ね。コンクールやらコンサートやらであっちこっち行ったり来たり。………あーあ。一流のピアニストとバイオリニストのカップルって素敵なんだけどなぁ……やっぱし現実問題って厳しいかも」
率直な感想をつぶやくと、そうですね、という言葉とともに微苦笑が返ってきた。
「でも。………それでも両親は僕たちの誕生日には必ず帰って来て祝ってくれるでしょう?毎年欠かさず。」
神威はそこで言葉を切るとふっと微笑んだ。
本当に人を殺せるんじゃないかというレベルの悩殺スマイルが炸裂するが、この十年で慣れた詩織はもう気にしない。
かわりにこくんと頷く。
「ん。…………もうすぐ、だね。」
机の上に置いてあるカレンダーを見れば、4月14日に赤丸がぐるぐるつけられている。それと"二人の誕生日!"という兄弟の母の字。
そのひとつ上には兄弟の几帳面な字で"詩織、入学式"。
そっとカレンダーを撫でた。
…………おじさんもおばさんも後七日したら帰ってくるんだから、今日見れないなんて気にしなくていいのに。
「それが僕の両親ですから。」
口にだしているつもりはなかったが、出していたらしい。澄ました顔の兄弟がつっこんできた。
どういうわけか従兄妹の関係にある二人は誕生日が同じだった。神威が生まれてからきっかり一年後詩織が生まれたのだ。
どちらも幸福な幼少期を過ごすが、詩織のそれは突如おわりを告げた。
詩織とその両親が乗っていた車にトラックが突っ込んできたのだ。
詩織の父は大量出血によりほぼ即死。
母は傷が大きく入院先で意識も戻らぬまま帰らぬ人となった。
詩織は母の腕の中にいたためか、多少の怪我はあったものの、縫うこともなく五体満足で救出された。
当時の記憶は、はっきりとしていない。
かかった医者によれば、思い出さない事で自分を守っているんだとか。
それでも本当の両親の事はちゃんと全部覚えていたい。
そう願うのはいけないことなんだろうか。
あの事故の後、父と仲の良い兄弟だったおじさんはわたしを快く引き取ってくれた。
神威と誕生日が同じ事もきっとなにかの縁だ。
なんでも頼ってちょうだいね。
病院から退院して初めてこの家で寝た日、二人に言われた言葉は十年がたった今でも心の中に残っている。
いや、三人だ。
兄だと思ってなんでも頼って。
そう言ったのは六歳だった神威兄さま。
そのどれにもこくんと頷いた気がする。
あったかくて。
あの日、両親がいなくなって初めて泣いた。
両親が逝ってから早十年。その間、おじさんもおばさんも必ずわたしたちの誕生日には帰って来てくれた。どんなに忙しくても。毎年欠かさず。必ずここに。
日本国のこの家に。
二人は言う。
わたしと神威兄さまがいるここが唯一の家だと。
だから帰ってくるのはここだけだと。
国内国外問わず、各地に沢山の所有地を持っているくせに、それは家じゃないと言い張る二人。
でもそう言ってもらえることが気恥ずかしくて、でも嬉しくて、誇らしい。
わたしも含めて家族だよ、そう言ってもらっている気がして。
だから高等部に入学するとき寮に入ることもできたけどそれは選ばなかった。
ちょうど一年前の神威兄さまがしたのと同じように。
でないと二人には家がなくなってしまう気がして。
早く帰ってきてね。
囁いて赤丸をそっとなぞる。
だって二人が帰ってきて初めて、ここは私たちにとって本当の家になるのだから――――。
その様子を神威はじっとみつめていた。
ほほえましそうに。