死後の世界へ
「では行くとするか」
レナはそれまで腰掛けていたベンチから立ち上がると、俺に向かって右手を差し出してきた。俺はレナに続いて立ち上がると、少し躊躇ってから彼女の手を握った。レナの手はやわかく、そして少しだけ冷たいような感じがした。
レナの手を握った瞬間、俺とレナの身体はふわりと空中に浮かび上がり、かと思うと、見る見るうちにそれまで立っていた地面は遠ざかっていった。高度はすぐに関東平野を一望できる高さにまで達し、俺が驚愕していると、もう次の瞬間には成層圏を超えて地球を見下ろすことができる位置に来ていた。
地球が青くて美しいというのはほんとうのことだったんだ、と、俺は漆黒の暗闇のなかで青く美しい輝きを放つ球体の地球を見つめながら思った。
視線を転じると、月が見えた。肉眼では確認することのできない、月の地表表面まではっきりと見て取ることができた。
レナはそれまで俺が景色を楽しみたいだろうと思って浮上するスピードを弱めてくれていたのか、月が俺たちの後方に遠ざかると、また一段とスピードが加速されたのがわかった。それまで見えていた無数の星々の光は光の線となって次々と後方へと流れ過ぎて行き、気がつくと、俺たちの目の前には巨大な円状の光り輝く穴のようなものが出現していた。
レナは俺の手を握ったまま、迷うことなく、その光輝く穴のなかへと突入していった。目もくらむような白く明るい光が目前に迫り、そのあまりの眩しさに俺はきつく目を閉じた。
光のなかに突入した瞬間、自分の身体の周囲が何かほっとするような心地よい温度で満たされたような感覚があった。足がやわらかい草地のような地面に触れた感触があり、それまで閉じていた瞳をゆっくりと開いてみると、そこには草原のような場所になっていた。白い靄のようなものがあたりにはたちこめていて、視界は悪く、遠くの方まで見通すことはできなかった。頭上を見上げて見ると、曇り空とはまた別種の、ちょうどあたりにたちこめている白い靄と同じようなガス上のもので空も覆われていた。近くから川の流れの音のようなものが聞こえてくるのもわかった。
レナはそれまで握っていた俺の手を離すと、無言でその川の流れる音のようなものが聞こえてくる方向へと向かって歩き出した。俺もなんとなくレナのあとに続いた。
そして続いて歩きながら、
「……もしかして、三途の川を渡るのか?」
と、レナの背中に向かって声をかけてみた。
すると、レナは歩みを止めて俺の方を振り返ると、
「……お前たちの国の人間はこの川のことをそう呼ぶのか?」
と、感心している様子で言った。俺が黙っていると、
「いや、実はわたしはアジア圏の人間を担当した経験が少ないのだ。ほとんどないと言ってもいい」
と、レナは弁解するように続けた。
「ついこのあいだ担当した人間はそのようなことは何も口にしていなかったから不思議に思ったのだ」
と、レナはそう言うと、また前方に向き直って歩き出した。
「……ということは、レナさんは、これまで主に西洋人担当だったっていうわけだ?」
俺は歩き始めたレナに続きながらまた声をかけた。
「そういうことになる」
と、レナは今度は歩みは止めずに簡潔に応えた。
「でも、西洋人も日本人も関係なく等しく三途の川を渡ることになるんだな」
と、俺はひとりごちた。日本人と西洋人では宗教が違うので、あの世のへの行き方も違ったりするのかなと考えていたのだが、案外そうでもないのだな、と、意外なような不思議なような気がした。
「アジア人も西洋人も死後の世界へ行き方は変わらない。これから渡る川が、死後の世界と現世との境界線になっていて、死後の世界へ行くには、どうしてもこの川を渡る必要があるのだ。逆に言えば、現世にまだ留まりたいと思うなら、今のうちがチャンスだぞ。この川を渡ってしまえば、特別な資格、あるいは許可がない限りは現世に戻ることはできない」
俺はレナの発言を聞いて少し躊躇した。ちゃんと分かれの挨拶もせずに来てしまった家族や友人の顔が脳裏にちらついた。でも、だからといってこれから現世に戻ったとしても、俺の姿は彼等には見えないわけで、だから、もとの世界へ戻ったとしても結果は同じことだと俺は自分に言い聞かせるように思った。
「……大丈夫だよ。現世に未練がないといったらそれは嘘になってしまうけど、でも、もう俺は生き返れないんでしょ?」
レナはそう言った俺を振り返ると、残念ながら、といった顔つきで俺の顔を見つめた。そうしてまた前に向き直ると、
「だが、安心して良い。何度も言っているようだが、死後の世界は悪くない」
と、レナは少しだけ優しい声で言った。