どうやら死んでしまったらしい。
俺が人間だったのは今から二年と二ヶ月前のことだ。俺はその日、仕事で車を運転していたのだが、急に道路に子供が飛び出してきた。避けようとして俺は咄嗟に急ハンドルを切ったのだが、そのせいで車は横転し、強く頭を打ってしった。頭部に強い衝撃を感じたのは覚えているが、そこで俺の意識はなくなってしまった。
そして気がついたとき、俺は車のハンドルを握ったまま、頭から血を流して動かなくなっている自分を見ていた。俺はそのとき、自分が死んだのだということが理解できていなかった。俺はここにいるのに、どうしてまたこの俺とはべつに、もうひとつ俺の身体がここにあるんだ?と不可解だった。そしてしばらくして自分の思考のなかにぼんやりと浮かびあがってきたのは、もしかして俺は死んでしまったのか?という疑問符だった。
でも、こんなにはっきり自分という意識はあるのに、身体の感覚もちゃんとあるのに、自分が死んでしまったとは上手く信じることができなかった。もしかして俺は夢を見ているのかと思った。それから、俺は強く瞼を閉じたり、開けたりして、なんとか目を覚まそうとしてみたが、でも、いっこうに効果はなかった。目が覚めることはなく、俺の側には相変わらず頭から血を流している俺の身体があった。
……やっぱり俺って死んじゃったのかな、と、心のなかで誰に尋ねるともなく俺は呟いていた。
すると、
「そう。きみは死んだんだ」
と、ふいに声が聞こえてきた。
どこから声が聞こえてくるのだろうと思っていくらか狼狽しながら辺りを見回してみると、俺のすぐ側に、いつの間にか、金色の髪の毛を長く伸ばした、西洋人の女の人が立って俺のことを見ていた。顔たちは彫像のように美しく整っていて、その女性にじっと見つめられると、自分という思考が霧のように曖昧に実体がなくなってしまうような感覚を覚えた。その西洋人の女性は白の高級そうなスプリングコートを着ていた。
「は、ハロー」
と、俺はなんとか彼女のコミュニケーションを取ろうとして、自分が知っている数すくない英語で話しかけた。
「ま、マイネームイーズ、ヨウ・シバタ。アイムファインセンキュー……」
「……わたしに英語で話しかける必要はない」
俺の見当違いのリアクションに、西洋人の女性は若干苛立ったように言った。
「わたしの名前はレナ。わたしは死者管理人……といってもわからないだろうから、きみたちが分かりやすいように解釈すると、わたしは死神、あるいは天使のような存在ということになる」
「……シシャカンリニン?ジニガミ?」
俺はレナと名乗った女性の言っていることの意味がわからなくて、小さな声で呟くように言った。口元に困ったように笑みを浮かべて。すると、レナという名前の西洋人の女性はああ!もう!というような面倒くさそうな表情を浮かべると、その綺麗な二重の瞳を閉じた。と、次の瞬間、信じられないことが起こった。それまで西洋人だった女性がいきなり、フードを被って大きな鎌を持った、骸骨の姿に変貌を遂げたのだ。
「……」
俺はあまりの出来事に驚いて何も言葉を発することができなかった。俺は呆気に取られて、急に目の前に出現した、大きな鎌を持った骸骨を見つめていた。
「これでわかってもらえたかな?わたしは死神。死んだきみをわたしが迎えにきたというわけだ」
骸骨は俺の顔を見つめるとしゃがれた声で言った。
「……な、何となく……」
俺は骸骨が言ったことが理解できたというよりは怖くなって言った。俺がそう言うと、骸骨はまた西洋人の女性の姿……レナの姿に戻った。
俺は目まぐるしい変化についていくことができずに、惚けたように呆然とレナの姿を見つめていた。
「……まあ、いきなり死者管理人だとかなんとか言われてもわからないのも無理はないが」
と、言って、レナはやれやれといったように軽く目を瞑ると、
「といっても、こうも毎回だといい加減うんざりもしてくるが……まあそれはともかく」
と、言って、再び閉じていた瞳を開いて俺の顔を見ると、
「色々疑問や、訊きたいこともあるだろうが、とりあえず場所を変えて説明する」
と、レナは続けて、俺の返事もまたずに歩き出した。
俺は軽く躊躇ってからレナのあとに続いた。気になって、もう一度振り返ってみると、やはり車のなかには俺の身体がもうひとつべつにあり、それはぴくりとも動かなかった。野次馬らしきひとたちが集まりだし、それとともに救急車らしき車のサイレン音も聞こえてきた。
レナはしばらくのあいだ歩いたあと、公園に入っていき、その公園にあるベンチに腰掛けた。レナはベンチに腰掛けると、目で俺にも腰掛けるように促した。俺はおずおずといった感じでレナのとなりに腰を下ろした。
レナは俺にどう話かけたらいいのか迷っている様子で少しのあいだ黙っていたが、
「さっきも言ったと思うが、きみは死んでいる。……とりあえず、そのことは理解してもらえていると思っていいかな?」
と、レナは若干不安そうな目で俺の顔を見ると言った。
「……理解している、といいたいところだけど、正直、わからない。俺は死んだといわれても、実際問題こうして俺は生きているわけだし……」
俺の発言に、レナは右手の掌で頭を押さえるような仕草をした。それは、またはじまったか、と、うんざりしている感じにも見えた。
「……でも、きみは死んで動かなくなってしまった自分の身体を見たはずだ。頭から血を流し、車のなかで動かなくなってしまっている自分の身体を」
「……それはそうなのかもしれないけど……でも」
俺はいまひとつ納得ができなくて唇を尖らせた。では、ここにいる自分は誰なのだろう?もし、自分が死んでいるのだとしたら、ここにいる俺は誰なのだろう?こんなにはっきりと感覚があるのに?死んでいる?
「自分が死んでしまったことを受け入れるのが辛いのはわかる」
と、レナは言い、何か苛立ちを押さえるようにまた軽く瞳を閉じた。そして数秒後、また閉じていた瞳を開くと、
「でも、残念ながら、きみは死んでしまっているんだ。とても完璧にね。今のところきみが生き返る可能性はゼロだ」
俺は半ば抗議するようにレナの、その整った横顔をじっと見つめた。レナは俺が黙っていると更に言葉を継いだ。
「恐らくきみは今激しく混乱しているだろうから状況を説明するとこういうことになる。きみは車で事故を起こし、そのときに強く頭を打ってしまい、死亡した。残念ながら。というか、むしろ逆に幸運といってもいいくらいなんだが。……まあ、それはともかく。で、今はきみは死んで、幽体という形でここにいる。わかりやすくと言うと、きみは幽霊なんだ。信じられないとは思うが。そしてわたしはきみを死後の世界へと案内すべく迎えにきたというわけだ」
レナはそこで言葉を区切ると、俺の顔をじっと見据えて、
「説明は以上になるが、だいたい状況は理解してもらえただろうか?」
と、確認してきた。
俺はレナの言ったことに対してしばらくのあいだ黙っていた。レナが口にしたことはあまりにもぶっとびすぎていて、言っていることにいまひとつリアリティーが感じられなかった。確かに俺はさっき頭から血を流して動かなくなっている自分の身体を見ているし、なるほどなと思わされる部分はあるのだが、でも、それを本当のことだと思うことができずにいる自分がいた。
「……レナさん?だったけ?あんたの言っていることの意味はわからなくはないんだけど、でもさ……」
俺は呟くような声で言ってから、弱く首を振った。
「……では試してみるといい」
レナは静かな声で言った。
「……試す?」
俺は振り向いてレナの横顔を見据えた。
「今、あそこに、女の子の子供を連れた母親がいるだろう?」
と、レナは言った。レナの視線の先を目で辿ると、そこには公園の砂場で幼い女の子を遊ばせている三十代前半くらいと思われる女性がいた。
「彼女に話しかけてみたらどうだ?恐らく、きみの声は彼女には届かないはずだ。というか、きみは彼女の身体に物理的に触れる事もできないはずだ。触れようとすると、きみの身体は彼女の身体を透過してしまうはずだ」
レナは冷淡にも感じられる口調でそう言った。
俺はそんなことがあるわけがないと思いながら、いや、実はもしかするとほんとうかもしれないと怖くなりながら、それまで腰掛けていたベンチから立ち上がると、その砂場で遊んでいる親子の側に近づいていった。ふたりの親子は俺が近づいていっても、まるで俺のことなど見えていないかのように砂場で遊びに続けていた。
「……あの、すいません」
と、俺は砂場にたどり着くと、しゃがみこんで砂場で遊んでいる女の子の子供を見つめている女性に声をかけた。
「すいません」
母親らしき女性は俺の声に応えなかった。
「すいません!」
と、俺は今度は確実に聞こえるように大声を出した。しかし、また母親らしき女性は俺の呼びかけを無視した。……まさかほんとうに彼女は俺の姿が見えていないし、声も聞こえていないのか?と不安になった。
「あの、ほんとに、ちょっと聞こえてますか?無視しないでくださいよ!」
俺はそう言うと、女性の肩のあたりを掴もうとした。でも、その瞬間、信じられないことが起こった。女性の肩あたりに手を伸ばした俺の手は、彼女の身体をすり抜けてしまったのだ。まるでホログラムを触ったように俺の手は彼女の身体をすり抜けてしまった。
俺は呆然として、自分の手を見つめた。まさかと血の気が引いた。もしかすると、俺はほんとうのほんとうに死んでしまったのかと恐ろしくなった。俺は自分が死んでしまっているということが信じられなくて、というか認めたくなくて、何度も何度も女性の身体に手を伸ばしてみた。けれど、やはりどうしても手は彼女の身体をすり抜けてしまうことになった。最後はやけくそになって彼女に抱きつこうとしたけれど、俺の身体は手のときと同様、彼女の身体をすり抜けて反対側の空間に抜け出てしまった。
俺は一体何が起こってしまったのか理解できなくてその場に立ち尽くしていた。そしてその瞬間、俺はあることに気がついた。俺には影がないのだ。ふたりの親子には影があるのに、俺には影がなかった。……まさか、レナの言っていることはほんとうなのだろうか?
「これでわかったろう?」
と、ふいに側でレナの声がした。いつの間に移動したのか、俺のすぐ側にはレナが立っていて、彼女は悲しそうな眼差しで俺のことを見ていた。
「残念ながら、きみは死んでしまっているんだ。今のきみは幽体なんだよ。今のきみの身体はきみの記憶が作り出している実体のないものなんだ」
レナは淡々とした口調で言った。