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企画参加作品

森の賢者と銅の男

作者: 間宮 榛

tm様主催「星企画」参加作品。

星企画の詳しい概要は http://naroutm.web.fc2.com/ をご覧ください。


 大陸の中央よりやや東寄り、霊峰と呼ばれる山脈の麓に広がる、広大な森。

 精霊がむ聖地として、魔獣の棲み処として、そして一人の人間が住む森として名の知れているそこは、大陸に数多存在するどの国にも所属せず、旅人はもちろんならず者たちでさえ畏敬の念を持って避ける地であった。

 通常、人が足を踏み入れることを忌避するその場所は、豊かな自然と魔獣を取り込むことによって生まれた独自の生態系を持ち、霊峰とともにどこに属することもない中立地帯として大陸に存在していた。

 その森に入れば、どのような身分や種族の人間も、只人ただびととなる。一国の王でさえ例外はなく、森に住む唯一の人間の前では分け隔てなく人として存在することになるという。

 その人間は豊富な知識を持ち、人々が忘れてしまった智恵を集めて書き記しては保存し、森の中で精霊や小さな獣と戯れ、たったひとりで過ごしている。時折、森の外に出てきてはいるようであったが、その人間がどのような容姿をしているのかはほとんど伝わっていない。世の女たちが嫉妬するほどの佳人であるとも、反対に目も当てられないほどの面誤つらごであるとも、果てには人の形をした人ではないものであるとも言われている。好き勝手な言い様だが、森に住む本人からは特に苦言が出たわけでもなく、実際にその人間に会った者から訂正されることもない。

 たったひとりで森の奥深くで過ごすその者を、森の外に住む人々は畏敬の念をこめ、森の賢者と呼んでいる。



   ∴ ∵ ∴



 精霊と魔獣、そして賢者の住む森の入口に、一人の男が立っていた。磨かれたあかがねによく似た髪色の年若い青年は、むせかえるように濃密な緑のにおいを胸一杯に吸い込むと、閉じていた目を開いた。まぶたの奥から顕わになった瞳は腐葉土に似た暗い色をしていたが、意思の強さと高揚感を隠しきれない様子だった。男の背後、森から少し離れた場所には同一の騎士服を身に纏った男たちが待機しており、その中から一人、いっとう背の高い男が銅の男に歩み寄ってきた。


「どうしても行かれるのですか」

「ああ。これを父上に託された時は面倒だと感じたが……今は、自分自身が会ってみたい」

「この森には他より強い魔獣がおります。精霊も、我らに友好的なものばかりではないことをご存じでしょう。お一人では危のうございます」

「それでも、な」


 会わなければいけない気がするのだと胸の内で呟いて、銅の男は口の片端を吊り上げた。一歩後ろに控えた背の高い男は表情を曇らせたが、森を見つめる銅の男はそれに気づくことはなかった。腰に下げた使い慣れた剣と父に託されたものが手元にあるのを確認すると、銅の男は後ろを向いた。騎士服を身に纏った男たちは離れた場所で敬礼をし、すぐそこにいた背の高い男は胸に手を当てると洗練された所作で最敬礼をした。


「では、行ってくる」

「我らはここでお待ち申し上げております」


 お早いお帰りを、とは言えなかった背の高い男に淡く笑いかけると、銅の男は獣道すらない森へ踏み入った。段々と遠ざかっていく主の気配に集中し、微かな音も聞こえなくなってから、背の高い男はようやく顔を上げた。憂いを帯びた瞳で森を見遣ると、後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように首をゆるく振り、少し離れたところで待機する仲間のもとへ戻っていった。



   ∴ ∵ ∴



 供もなく進んでいくあかがねの男は、歩きはじめていくらかすると視線を感じていた。獣の押し殺すような気配ではなく、人間の見定めるような気配でもない。時折、視線の端をなにか半透明のものが掠めた気がしてそちらに目を向けても、見えるのは深い緑をした葉ばかりであった。

 この森は普通の森と違うのだな、と銅の男は思う。人の手が適度に入れられた森のように解放感はなく、適度に木漏れ日が数多あまたの葉で厚く覆われた地面を照らしてはいるが、そこに親しみやすさはない。何者をも寄りつかせぬような冷たさを内包しており、進めば進むほど歓迎されていないことを肌で感じる。臆病風に吹かれたわけではないが、森の外に戻ってしまってもいいような気分になったが、森の奥にいる人間への興味の方が上回り、それを原動力に足を進めていた。


『ひとのこだ』

『あかがねのかみだ』

『ひとりきりではいってきた』

『ひとのこがはいってきた』


 どこからともなく、子供のような頼りない声が聞こえた。右上から聞こえたかと思うと、次の声は後ろから、その次は左からと、四方八方から不規則に声がする。銅の男は足を止め、腰に携えた剣に手をかける。息を殺して声の位置を探ろうとすればするほど、場所が分からなくなるのだ。


『ひとのこだ』

『ひとのこがいる』

『あかがねいろのひとのこだ』

『ひとのこがはいってきた』


 ざわりと、風が吹いたわけでもないのに木々が揺れた。木漏れ日が雲に隠されたように消えると、途端に周りは暗くなる。人とも、獣とも区別できぬ何かの気配に、銅の男は油断することなく周囲に目を光らせる。こだまのように消えそうな声は、互いに呼応するように広がる。単一に聞こえる声はどれだけ数がいるのかをわからなくさせ、聞こえる方向ですら曖昧にする。

 不意に、銅の男は父から託されたものが震えたように感じた。同時に、教えられたことのうちのひとつを思い出した。首から下げていたそれを紐を手繰って服の下から取り出せば、緩やかな光を内包したそれは脈動するように光っていた。温かなその光は、木漏れ日の消えた森の中で唯一の希望にも見える。銅の男はそれを掌に乗せると、口を開いた。


「わたしはこの首飾りを賢者殿から貰い受けし男の息子である。この森の奥、ひとり住まうと聞く賢者殿にお目通り願いたく参上した。わたしには見えぬ者よ、どうか賢者殿にお伝えしてはいただけないだろうか」


 朗々と臆することなく言葉を紡ぐと、木々のざわめきはぴたりと止んだ。自身の呼吸音が聞こえるほどの静寂の中、どうなるかと様子を窺っていると、中空から何かがゆっくりと降りてきた。はじめはほとんど輪郭もわからぬくらいおぼろげであったが、徐々に焦点が合うように形が明確になると、半透明のそれは銅の男が掌に乗せていた首飾りに近づいた。どことなく顔であろうと思われる部分が首飾りに触れるか触れないかというところまでくると、満足したのかすぐに遠ざかった。


『ほんものだ』

『ほんもののしるしだ』

『しるしがきた』

『しらせよう』


 どことなく浮足立った様子が伝わる声が聞こえると、木漏れ日が返ってきた。暗かった森は途端に不気味さを消し、普通の森と違わぬような気配で銅の男を包み込んだ。急激な変化に驚いていると、再び声が聞こえた。


『こっち』

『こっちだよ』

『はやく』


「……案内、してくれるのか」


『しるしだから』

『しるしがきたから』

『しるしはだいじょうぶ』


 前方から聞こえる声に誘われるように足を踏み出せば、声は近づいたり離れたりしながらも銅の男を先導していく。相変わらず獣の気配がすることがあったが、先導する声に近づくことはないのか襲われることはなかった。銅の男はしるしと呼ばれた首飾りを再び首にかけ、歩を進めた。声は必要以上に話すことはなく、ひたすら先導のみをして銅の男を森の奥へ導いた。

 世界が朝日に包まれる頃に森に入った銅の男は、時折ごくわずかな休息を挟むほかはひたすら歩いた。剣とは反対の腰に下げた小さな物入れを開け、簡易の食事用に持ってきていた小さく硬い木の実を口に運んで咀嚼する。その間も歩みを止めることはなく、声たちにそれは何かと聞かれたので銅の男がクルコという木の実だと答えると、声たちは口を揃えてまずそうだと言った。それ以外に会話らしい会話はなく、銅の男が疲労で速度を落とし始めた頃、進路に霧が広がっていた。


『このさきにいって』

『ひとりでいって』

『しるしならいける』

『このさきにいるよ』


 きっとこれが賢者を守る砦なのだろう、そう解釈した銅の男は声たちに案内の礼を言うと、躊躇うことなく霧の中へ足を踏み入れた。

 乳白色の海は、驚くほどの静寂が広がっていた。進めば霧が肌で水滴となり、服や髪をしっとりと濡らす。前も後ろも、目の前に突き出した自身の腕すら見えぬほど深い霧の中、銅の男はひたすら前だと信じた方向へ足を進める。時間や距離の感覚が霧に溶けて消え、ただ賢者に会うという目的だけが銅の男のなかに残った頃、ようやく目の前が開けた。

 少し赤みを帯びた光が見える木々の切れ間、その先にあったのは大量の蔦に岩肌を覆われた高い崖であった。霧の向こうには賢者の住居があるとばかり思っていた銅の男は、何かの間違いだろうかと崖の手前に立って左右を見る。そのどちらにも延々と蔦に覆われた崖が続いていて、切れ目は見当たらない。声に謀られたのだろうかと首を傾げつつ、蔦を少し避けて岩肌を見てみると自然にできたものにしては少し不自然な気がして、どうしてだろうかと他の部分の蔦も避けては岩肌を確認してみる。何度か場所を変えて確認していると、岩肌に人工的な窪みを発見した。首から下げていたしるしをそこに嵌めこんでみると、ぴたりと収まる。どうなるのかと一歩下がって変化をしばし待つが、一向に何も変わらない。この窪みは自然にできたものだったのだろうかと落胆しつつしるしを穴から取り出すと、少しの揺れを伴って窪みの横、岩肌が横に滑って人が三人ほど通れるくらいの穴が開いた。

 どのような仕組みなのかは銅の男にはわからなかったが、ともかく入れということだろうと解釈し、しるしを握り締めたまま進んでいく。穴の中は洞窟と変わりなく暗かったが、足元に発光性の苔が生えておりどうにか進むことはできた。松明の一本でも持ってくるべきだっただろうかと後悔しつつ、銅の男は慎重に歩いた。次第に闇に目が慣れ、苔の光がずいぶんとありがたく感じるようになった頃、穴の向こう側に出た。

 夕日の眩しさに目を守るように手を翳すと、燃えるように赤い光の中に、人間の姿を見つけた。動きやすさを重視した簡素な服に、ひとつに括られた癖のない長い髪。思ったよりも頑丈そうな煉瓦れんがでできた家の前にある畑の中で、何か作業をしているその後ろ姿。


『しるしがきたよ』

『ひとのこがきたよ』

『あかがねのひとのこだ』

『しるしをもったひとのこだ』


 霧の手前まで案内をしてくれた声が聞こえ、それに引っ張られるように畑の中の人間が振り向いた。大きな籠を持ち、土に汚れた手をそのままに、その人間は穏やかな笑みを浮かべた。春の陽光に似た、すべてを受け入れてくれると錯覚してしまいそうな笑みだった。


「ようこそ、琥珀の印の息子さん」


 男とも女ともつかない、柔らかな声が銅の男の耳をくすぐった。



   ∴ ∵ ∴



 家の近くにある井戸で水を汲んだ人間は、自身の手を清めるとあかがねの男にも手を清めるよう言い残して家に入った。初めて自分の手で水を汲み、思っていたより冷たい水に熱い疲労を少しだけ流し去ると、人間を追って家に近づいた。

 戸を開け放たれた家の中を覗けば、奥から着替えた人間がやってきた。先ほどよりは簡素ではないが、豪奢なものを見慣れた銅の男からはそれでも質素なものであることに変わりはなかった。


「山姥の家ではないですから、入ったら食われるなどということはありませんよ」


 くすりとほのかに笑いながら、人間は火のついたままになっていたかまどに水を張った鍋を置いた。銅の男はばつが悪くなったが、そのことを露ほども見せぬ態度で敷居をまたいだ。他人の家ということを忘れず、挨拶も付け足して。

 思ったよりも静かな家の中は、人間の内面がよく表れたものだった。煉瓦を規則正しく積み上げて作られた壁に、家主の手作りと思われる飾り気のない実用一辺倒の棚。飾り細工などの施されていないその棚には木から削りだされた食器ばかりが並び、銅の男が普段使っている陶器のものが逆に珍しいくらいだった。壁に紐で括られて吊るされている乾燥した花は、乾いたものを適度に砕くと薫り高いものになると銅の男でも知っているものだったし、そのすぐ下に束になって籠に入れられた乾燥した草は燃やすと虫よけになるものだったはずだ。竈や棚が置かれた部屋の中央には草原色の大きな敷物があり、その上には随分と背の低い卓がある。春の花を思い出す穏やかな色のクッションがいろどりを添え、部屋を温かなものに見せる。卓の向こうには扉が二つあり、人間が出てきた左側の扉はきっと私室なのだろうと銅の男は推測した。

 草原色の敷物を土足で踏んでいいものかと悩む銅の男を見て、棚から陶器の茶器を出していた人間が敷物の上は土足厳禁だと告げる。敷物の上では行儀を気にせず寝転んでもいいのだと教えると、銅の男は森を一日中歩いた疲労も手伝って、早速土足を脱いで敷物の上に座り込んだ。手近にあったクッションを胡坐をかいてできた腹と腕の隙間に抱きこむと、ふうと小さく息を吐く。敷物は毛足が長く柔らかで、手入れの行き届いた動物に触れたような心地がする。

 どうぞ、と差し出された陶器の茶器に入れられた見慣れぬ液体に訝しげに眉を寄せると、疲労回復に効く薬湯だと人間が答える。銅の男と卓を挟んで反対の位置に腰を下ろすと、金鳳花色のクッションを銅の男と同じ位置に抱きこんで茶器に口をつけた。萌黄色を薄めた薬湯が人間の口に入っていくのを見届けると、銅の男もそっと手に取り、一度においを確かめてから口をつける。草独特の青臭さはなく、花のような芳しいにおいのなかに清涼感のあるすっとした感覚が、渇いたのどを潤した。途端に喉の渇きを自覚した銅の男は一息に飲み干し、空になった茶器を卓に戻すとすぐに人間がおかわりを注いだ。


「琥珀の印は、今も息災ですか」


 茶器に注がれる萌黄色の薬湯に目を向けていた銅の男は、川のせせらぎのように静かな人間の声を危うく聞き洩らしそうになった。なんとか意識を耳に向け、言われた内容を反芻して琥珀の印が自身の父だと理解すると、首を縦にひとつ振った。


「今でもぴんぴんして、病気知らずの狸だ」

「狸、ですか。あなたのように見事な体躯でしたのに、肥えられたのですか」

「いや、わたしが幼少の頃から体型はほとんど変わっていない。性格が余計悪くなっただけだ」

「琥珀の印は、性悪には程遠いお方ですよ」


 ふふふ、と抑えた笑みを唇に浮かべ、薬湯をゆっくりと口に含む人間を見て、笑うと目が三日月のようだと銅の男は思う。そこで初めて、銅の男は目の前の人間をじっくりと見た。

 外では一つに束ねていた髪は夕日で色がわからなかったが、竈の炎に照らされるその色は春の木漏れ日によく似た白金色をしていた。滝のように流れ落ちるその髪は腰より長いために、草原色の敷物上に川のように広がっていた。顔は男とも女とも区別のつけられないもので、造作自体は器量よしと言えるのだが、同時に男くささも女らしさも感じさせない、野原に降り積もった新雪のような印象を与える。体つきもどちらかの性別をにおわせるようなものではなく、発達途中の子どものように区別がつかない。手は銅の男ほど大きくないが、女特有の柔らかさを感じるものでもない。かといって男らしく骨ばった様子もなく、どちらのものとも言い難かった。身につけている服自体は性別を問わないものであったが、だからこそそれが性を曖昧に見せている。

 男にしては小さすぎ、女にしては少し出ている喉のふくらみを見、声でも性別の区別がつかないと思いながら、銅の男は二杯目の薬湯を飲み下した。


「それで、琥珀の印の息子さんはどのような用向きでいらしたのですか」


 既に答えがわかりきっているかのような、揺れの見つけられない声音が銅の男の鼓膜を震わせた。正面からひたと見つめる人間の、濃密な緑を宿した瞳に吸い込まれそうだと感じながら、銅の男は口を開く。


「森の奥、ひとり住まう賢者殿に星詠みを願いたく参上した」


 星詠み、という言葉に反応した人間は、息を小さく吐くと目を竈に向けた。竈の薪がぱちりと爆ぜ、炎に照らし出された人間のつるりとした頬が陶器のように見えた。銅の男は無意識に息を詰め、人間の答えを待った。


「……今宵は、雲もなく天を見ることができるでしょう。星詠みは、細かなものまで読みとれたとしても、すべてをお伝えすることはできません。星は人と同じく動き、一日たりとも同じ姿を保ってはおりません。たとえ読みとった内容が厳しいものだとしても、怒らず、嘆かず、お聞きいただけますか」

「ああ。剣に誓って」


 腰に下げていた剣を外し、卓の上に証として銅の男は置く。この剣は銅の男が命と同じく大事にしてきたものであり、どのような時も肌身離さず身につけて戦ってきたものであった。剣を嗜む者として命に等しい剣に誓うことは、たがえば命を捨てる覚悟があるというものでもある。森の落ち葉の下、命の源となる腐葉土色の瞳に、竈の炎以外の強い光を認め、人間はゆっくりと頷いた。


「でしたら、星詠みをいたしましょう。星詠みに最適な時まで、まだ間があります。それまで、腹ごしらえでもいかがですか」

「ああ、助かる。今日はクルコしか食べていないのだ。私にも手伝えることは」


 予想していなかった申し出に人間は僅かばかり沈黙すると、籠のものを一緒に洗ったら山羊の乳を搾ってきてください、と眉を下げて告げた。



   ∴ ∵ ∴



 生まれてこのかた山羊の乳絞りなどしたことのないあかがねの男は、山羊に何度も非難の鳴き声を浴びせかけられ、目に見えない声たちに幾度も助言を受け、まさしく言葉の通り悪戦苦闘しながらもどうにか乳絞りを見事完遂した。桶に溜まった乳白色の液体は銅の男の努力の証であり、下衣の裾につけられた蹄の形をした汚れは勲章でもあった。

 多大な時間をかけた銅の男がおつかいを終えた子供のように揚々と山羊の乳が入った桶を差し出したのを見て、人間は堪えきれなかった笑いをえくぼに変えて桶を受け取った。人間がするのの何倍もかかってしまったせいか、銅の男が桶を渡した時には食事はほぼ完成しており、手を清めてくることを指示され井戸で用を足して戻ってこれば、先ほど絞った山羊の乳はスープの一部分として姿を変えていた。

 黒く硬い麺麭パンに山羊の乳を仕上げに入れた野菜のスープと、卓に並べられた食事は慎ましやかなものであった。銅の男が普段食べているものとは比べ物にならないほど質素であったが、普段の食事とは違って湯気が立つ温か物は嬉しい限りだった。日が出ているうちは動けば汗がじわりと浮き出るような温かさであったが、やはり日が落ちると忍び寄る寒さを感じるのだ。

 支度をする前と同じ位置に互いに腰を下ろし、卓を囲んで神に祈りを捧げる。銅の男が祈りを捧げる様を人間は静かに見守るばかりで、祈っている様子はなかった。銅の男が不思議に思い祈りを終えてから声をかけると、人間は曖昧に笑って答えなかった。神を信じていないのか、と尋ねると、人間は一言だけ、神は手を差し伸べてくれませんから、とそっけない答えが返ってきた。この短時間のうちに銅の男の中にできていた人間の印象とは違う言葉だった。

 質素ながらも人間らしくやさしい味のする食事を終え、片づけを済ませてしまえば、あとは星詠みを待つばかりとなった。そわそわと落ち着きなく銅の男が敷物の上で座っているのに対し、棚や作業台から瓶やチーズを取り出して盆の上に並べていた人間は、その様子を見てくすりと笑った。

 盆を持った人間が外に出る時、銅の男は指示されて部屋の隅に置かれていた背もたれのない丸椅子を持って後を追った。

 竈とそこから火を移したランプの灯る家から一歩出ると辺りは既に闇に沈み、夜の虫たちが静かに鳴き声を発していた。天を仰げば視界に入りきらないほどの星が空を埋め尽くし、普段見ていた空よりも随分明るいと銅の男は感じた。先を行く人間の背を追い、階段状に作られた段を転ばぬよう慎重に上って行けば、男が明るいうちに苦戦した蔦の蔓延る崖の上に出た。日が沈んでいるせいで遠くまでは見通せないが、それでもこの森の中で一番高い場所だ。銅の男は感心して崖の上から周りを見回し、人間の住んでいる場所がこの崖だと思っていた大きな岩にぐるりと一周守られた土地なのだと知った。


「ここは天然の要塞だな」

「この森は必ずしも安全とは言えませんから」


 銅の男の呟きに人間はそう返すと、敷物と同じくらいの広さがある平らな場所に丸椅子を下ろすよう指示した。その上に人間が持ってきた盆を置き、瓶の中から暗い色の液体を木の杯に注ぐ。硝子がらすの杯とは違う音を立てて乾杯をすると、人間は液体を一息に煽った。銅の男も真似て口をつけると、芳醇な果実の香りと酒精の熱さに満たされた。いつの間に持ってきていたのか、風を通しにくい布を渡され、肩からすっぽりと外套がわりに銅の男が羽織ると、人間は満足そうにひとつ頷いて天を仰いだ。


「雲がないから、最適ですね。始めましょう」

「頼む」


 すい、とまっすぐに伸ばされた人間の指を追って銅の男も天を仰ぐ。降って落ちてくると錯覚しそうなほどの数の星に圧倒される。家を出てすぐ見た時より、空が近かった。


「一人にひとつ、守護星があるというのはご存知ですか」

「いや……そのようなものがあるのか」


 初めて聞く話に興味を覚え、耳は人間の声に、目は天を満たす星々に注意を向ける。星は常に変わらずそこにあり、いつでも夜空を彩る他には方角を知るものというくらいにしか思っていなかった銅の男にとって、人間の紡ぐ言葉は新鮮な驚きに満ちていた。


「どなたにもあります。あなたの星は、あちらで赤く輝くものです」


 指を辿って空を見れば、目をこらさずとも周囲より明るさの強い赤い星が目に入る。燃えるような色をした星は、周りの砂粒のような星に比べて大きく、ちかちかと瞬いていた。


「大きいな」

「ええ、大きいです。琥珀の印と同じか、それ以上ですね」

「大きさは何かに関係があるのか」

「大きさは成し遂げることやこの世で果たす役割を、色は個性を示します」


 成し遂げること、と聞き、銅の男の心臓がどくりと跳ねた。不穏なその跳ね方は気分が悪く、それを消し去るように杯を呷って飲み下した。人間はその様子を敢えて問いただすことはせず、静かに落ち着くのを待った。空になった杯に新たな酒を注ぎ、銅の男の目が今度は睨むように星を見たのを察し、再び星詠みが始まる。


「星の周りにいるのは、あなたが関わる人たちの星です。大きさや色にばらつきがありますが、どれも明るく光っておりますところを見ますと、今しばらくは平和な治世が続くことでしょう。森から出ていないので世の様子がわからないのですが、近頃はいかがですか」

「ああ、そうだな。近隣との関係も良好だし、部下たちは忠誠を誓ってくれている」

「それはいいことですね。ですが、凶星が近づいています。今はまだ遠いですが、遠くない将来、あの星の主はあなたを害す存在になるでしょう」


 人間が指をさしていた自身の赤い星の周りを見てみたが、銅の男にはどれが凶星でどれがそうでないかの区別がつかなかった。どれも明るく瞬いており、様々な大きさと色を持ち、自身の星のそばに浮かんでいるからだ。星を詠む才というのは繊細なのだろうと解釈し、銅の男はチーズに手を伸ばす。塩気のきいたそれは酒精で熱くなった舌に心地よく、少しの乳臭さが癖となって旨く感じた。

 赤い星は自身の星、その周りにいる大小様々な星は関わる人の星、その言葉を声には出さずに口の中で転がして、もう一度星に目を戻す。ああ、これはまるで。


「世の縮図のようだな」

「ええ……そうですね、そのようにもとれます。星は天命を示しますが、それは努力によって変えることができます。凶星も、あなたが努めれば吉星に変えることもできるかもしれません」

「変えることができる、と断言はしないのだな」

「星詠みは予言ではなく、そこにある事柄を読み取るものです。読みとれたことすべてをお話しますと、理に背いた代償として大事なものを取られるのです。ですから、これ以上はお話しできません」

「そう、か」


 自分一人に天命を告げるために、賢者と呼ばれる目の前の人間の大事ななにか――銅の男はそれが命だと推測した――を奪うことは銅の男には忍びなかった。まだ一日も共に過ごしたわけではなかったが、銅の男はこの森の奥でひとりきりで過ごす人間を好ましく感じていた。その触れたら心地よさそうな髪も、よく三日月型になる瞳も、近すぎず遠すぎない距離の取り方も、そっと染み入るような穏やかな声も。近くに置いて、いつでも気軽に逢える距離にいてほしいと願うほどに、好意を抱いていた。


「でも、あなたは幾多の困難があろうとも、それを乗り越えることができます。あなたにはそれだけの力と才、そして力を貸してくれる人々がいます。つらく苦しいことがあったら、空を見てください。あなたの星はそれを証明してくれています」


 こくり、と隣で酒を飲みこむ音が妙に耳の奥に残る。昼間よりも冷たくなった風が酒精で火照った頬を撫で、闇の中でも光を内包したように浮かび上がる人間の白金の髪を散らした。夜闇の中では染められていない絹糸のように見えるその髪に、銅の男はどうしてだか無性に触れたいと感じた。


「あと、あなたの生涯を共になさる方ですが……」


 酒精によってゆるんだ理性が止めないのをいいことに、手を伸ばしてひと房掬いあげると、そっと口に寄せる。星に決められた生涯を共にする女の話など、今は聞きたくなかった。自分の意思が介在しない相手よりも、目の前にいる、男とも女ともわからない、ひとりの人間として好ましい相手の方が欲しかった。口に触れた髪は思っていたよりも芯が通ってこしがあったが、さらさらと心地よい。

 驚いて瞠目する深い森色の瞳を見て、面白くなって口角が自然と上がるのを感じる。生涯を共にする女など、もう決められている。すでにわかりきったことを聞きたくもなかったし、まだ一度しか会ったことのない女と生涯を共にすることになるこの先の人生を考えると、銅の男にはとても暗いものに思えた。平和の代償として支払う政略結婚が、銅の男にとっては苦しかった。


「気持ちいいな、そなたの髪は」


 一度僅かに口から離してそう呟き、再び唇にあてて、ちゅ、と故意に音を立てる。この穏やかで性のにおいを感じさせない、浮世離れした人間の反応が見たかった。口から離したが手は離さず、そうしてにやりと銅の男が笑みを浮かべて秋波を送れば、人間はぽかりと口を開けたままだった。驚きよりも呆気にとられたと言った方が正しい反応だ。


「……何をしているのですか」

「触れたかったから触れたのだ。悪いか」

「いや、あの……星詠み、してたのですが」

「そうだな」

「そうだなって……」


 眉間に僅かに皺をよせ眉尻を下げた困り顔がどうしてか面白く見えて、銅の男は興に乗ってもう少しからかおうかと思案する。人らしい姿を見れたせいか、どことなく近づきがたい壁が消えたような気がして、もう少し近づきたいと無意識に願う。腕をついて身を乗り出すように近づける銅の男に対し、人間は正面から口を塞ぐようにして銅の男の顔を鷲掴むと、大きなため息をひとつついた。


「あなたには生涯を共になさる方がいらっしゃるでしょう。この年寄りを玩具がわりにするのはやめてください」


 呆れたもの言いに腹に来た銅の男は一度身を引くと、口を塞いでいた手を掴んで勢いよく剥がして反論した。


「玩具になどしておらぬ。一度しか会っていない女より、そなたの方がよほど好ましく思えただけだ」

「わたしも本日が初対面です」

「共に過ごした時間が違うではないか」

「食事して、星詠みをしたのみです。瞬きと同等の時間しか共にしておりませんよ。……もう、星詠みは止めましょう。日が昇ったらお帰りください」


 持っていた杯を盆に乗せて立ち上がると、人間は掴まれていた手を振り払って背を向けた。無言の背中に静かな怒りを感じたが、振り払われた手が、向けられない笑顔が、明らかな拒絶だった。

 銅の男は、どうしてそこまでこの人間が憤慨するのか、理解できなかった。悪いことをしたなどという意識は爪の先ほどもなく、酒に酔った一時の戯れ程度にしか思っていなかった。


「どうして憤る。それに、年寄りとはどういうことだ」


 銅の男が理不尽だという思いを滲ませながら問えば、盆を持ちあげた人間は踏み出しかけた足をぴたりと押しとどめた。しかしながら、銅の男に顔を向けることはない。


「……星詠みを聞く気はないのでしょう? でしたら、もう星詠みは終わりです。わたしは琥珀の印よりもずっと年嵩としかさなのですよ、琥珀の印の前、青玉の印も、黒曜の印も、その前の印も……あなたの家の当主は、ひとり残らずわたしに会って星詠みを聞くためにここを訪れています」

「祖父も、その前も……。そなた、どれほど生きているのだ」

「幾星霜、でしょうか。正確にはわたしも数えていないので」

「年を取らぬのか」

「ええ。もうずっと、このままです」


 肯定した人間の声は、どことなく弱弱しく、僅かながらに震えているように聞こえた。俯いた人間の耳のそばを、癖のない白金の髪がさらりと流れ落ちる。天に浮かぶ神の道といわれる、星々が特に密集して帯状になったそれのような曲線を描いて髪が動くと、さらさらと音がする気がした。

 銅の男は、目の前の人間が父よりも、もうこの世にいない祖父よりも年嵩だと聞いて信じられない心地になった。銅の男が知っている年寄りというものは、背が曲がって、肌には無数の皺が寄って、段々と細く小さく縮んでいって、凪いだ湖のように静かな瞳と声で泣きじゃくる子供をあやすものだった。幼い頃の記憶に残る祖父母の姿を思い起こし、この夜闇に浮かび上がる凛とした存在が人の限界を超えた生を過ごす存在には到底見えなかった。肌に皺はなく、背も男盛りの自信と変わらぬほどまっすぐで。ただ、俯いて何かを堪えるその背中は何故か先ほどよりも小さく頼りなく見えたし、思い起こせば先ほど動揺させるまではずっと瞳は落ち着いて静かなものであった。髪色は確かに祖父母のように白髪とも言えなくないが、白金の髪は祖父母のそれとは違い、細い毛の内に光を内包しているように存在を示して闇夜に浮かび上がるのだ。まるで触れろと誘うように。


「もう、夜も更けました。これ以上は体に障ります」


 暗に戻ることを提示され、これ以上の星詠みはしてもらえないのだろうと銅の男は見切りをつけ、立ち上がる。そうして、盆を乗せていた丸椅子を持つと、来た時と同じように人間の背を追って家に戻った。

 客がめったに訪れることのない家に客間など存在するはずもなく、人間は自室で、銅の男は竈前に敷かれた草原色の敷物に上で、それぞれ夜を明かした。人間に借りた羊色の毛布からは僅かに人間の残り香が感じられて、銅の男はそれに身を包めると何故か安心した。竈で時々薪の爆ぜる音を子守唄にうつらうつらと瞼を下ろし、人間が過ごした孤独の歳月を思う。言葉を交わす相手もおらず、外からくるものも滅多にいない森の奥深く、姿形を変えることなく、世界から忘れられたように生活をする人間。森に住む魔獣も、魔獣から身を守るという一枚岩の天然の砦も、ここに住む人間を閉じ込めて出さないようにするための枷に思えた。



   ∴ ∵ ∴



 朝日が世界を照らし出す頃、人間は静かに目を覚ました。身支度を整えると、普段と変わらぬ動きで竈に向かう。と、途中で身を横たえている存在を目にし、昨夜のことを思い出して眉間に皺を寄せる。琥珀の印の面影を持ったあかがね色の髪をした青年は、酒精の力もあるのだろう、まだ目を覚ます気配がない。それを理由に、顔の近くに膝を折り、あどけない表情で眠りの海をさまよう銅の男の頬にそっと触れる。久方ぶりに触れた自分以外の人の肌は、瑞々しさにはちきれんばかりだった。明るい未来の約束されたこの青年に、少しでも憂いが忍び寄ることがないように。子供のまじない程度の気休めだが、切なる祈りを込めた印を切ると、人間は自身の唇に触れた指先をまだ眠ったままの銅の男の眉間にそっと置く。


「これから先、星が消えるまで、憂いもなく、惑いもなく、健やかであるよう」


 祈りの文句は手短で、密やかに終えられた。人間の祈りは銅の男を薄衣で包むように淡く光ると、肌に馴染むように消えてしまった。呪いにも似た、相手の幸せを切に願う祈りは、たとえ子供のまじない程度であろうとも、永く生きた人間の手にかかれば本物となった。きっと、この青年も幸せになれる。そう確信した人間は音もなく立ち上がると、腰よりも長い白金の髪を簡単に編みながら顔を洗うために家を出た。昨日と同様、今日も雲の少ない晴れだと確信して。

 人間の気配が消えた家の中で、静かにまぶたを上げて固まる者が一人いたことを、人間は知らない。



   ∴ ∵ ∴



 昨夜と同等の質素な食事を提供されたあかがねの男は、綱のように一本に編んだ髪を背に垂らす人間を盗み見てはすぐに目を逸らす。人間の態度は初対面の時とそう変わらぬものであったが、星の下で見たあの姿の方が本当の人間の姿だと思っていた。小さく、守ってやらねばならない気のする、弱い存在であると。しかしながら、今眼前にいる人間にその様子は微塵もなく、穏やかに自身が作った黒麺麭(パン)をちぎっては口に運んでいる。

 そうしているうちに食事も終わり、まだ朝日が高くならないうちにここを出ないと夕刻までに森の外に出られないことを思い出し、銅の男は帰ると告げる。引きとめるわけでも、悲しむわけでもなく、ただありのままを受け入れるように、人間は頷いた。少しは何かしらの反応がほしかった銅の男は寂しく感じ、自分ではこのひとりで生きる人間の心の片隅にほんの少しの痕跡すら残せないことを思い知らされた気になった。そうして、人間の心に僅かでもすみついている琥珀の印――自身の父にすら、嫉妬した。同時に自身がひどく矮小な存在に思え、その無力さに打ちのめされる。簡単に消し去ることのできないものを胸に抱え、銅の男は立ちあがった。それを追うように人間も立ち上がると、何故か私室に入ってしまった。

 昨夜のことをまだ腹に溜めこんで、もう顔も見たくないのだろう。そう結論付けた銅の男は剣と琥珀の印が身についていることを確認し、腰に下げたもの入れに入っているクルコがまだ十分にあることを調べると、私室に入ってしまった人間が見ていないのも気にせずに頭をひとつ下げ、戸を開いた。

 今日も昨日と同じく、高い空に雲はない。この分なら森の中も明るいだろう。

 鬱屈とした気持ちを蹴散らすように一歩踏み出したとき、背後で大きな物音がして驚いて振り返る。私室の戸を開けた人間が、何故だか怒りに彩られた顔で足音高く銅の男に近づいた。眉は強く寄せられていて、深い森色の瞳には間抜けな自身の顔と、ゆらりと揺れる炎が見える気がした。


「挨拶の一言もなしですか」

「……怒って、いるだろう」

「怒りますよ、挨拶もなしにいなくなられたら」

「違う、昨夜のことだ」

「昨夜はどうせ若気の至りというものです。酔ってたのでしょう?」

「まあ、そうだが」

「年寄りはそのようなことで怒りはしません。星詠みを真剣に聞かないから憤りを覚えただけです」

「やっぱり怒っているじゃないか」

「わたしが今怒っているのは別のことです。忘れ物です」

「もうすべて持った。なにも忘れてなど……」

「忘れ物です。目を閉じて、頭を下げて」


 有無を言わせぬ物言いで命令する人間の勢いに負け、納得がいかないながらも渋々目を閉じ、頭を下げる。何をされるのかと内心穏やかではなかったが、人間の芳香が鼻をくすぐり、何かを首にかけられる感触がし、昨夜誘惑に負けて触れた髪が頬に当たるのを感じ、銅の男は表に出さずに狼狽する。気配が十分に離れたのを感じてから、銅の男は目を開けた。

 首に増えた重みを確かめようと視線を落とせば、そこにあったのは昨夜見た星によく似た、燃えるように赤い色をした石のついた首飾りだった。琥珀の印と同じ形のそれは、隣に並んで静かに朝日を反射させている。


「これは……」

「あなたの印です。赤玉の印は、あなたの象徴。なるべく身につけていていください」

「わかった」

「情熱は成し遂げるために必要ですが、独り善がりの情熱は成し遂げたあと己に返り、身の破滅を招きます。ゆめゆめ、この年寄りの言葉をお忘れなきよう」

「ああ、戒めとする」

「途中まで、精霊の子たちが送ってくれるそうです。声に従ってお帰りください」


 これで、本当に別れなのだ。そう思うと堪らなくなって、目の前で春の空気のように穏やかに笑うこの人間が愛おしくて止まらなかった。たったひとり、いつ来るともわからない人の相手をし、森の奥で永遠の変わらない姿で過ごす、孤独の賢者が。こんなにも心根の優しい存在が、世界から置き去りにされている、その現実が。

 銅の男はその力強い腕で人間を引き寄せると、二人の間にあった距離を消してしまった。かき抱くように腕の内に人間を収め、服の下に隠された体の線すらわかるほど密着する。一瞬遅れて白金の毛が宙を舞い、ぱさりと落ちる。思っていたより、体は細かった。頼りないほどに薄いその体を忘れないようにきつく抱き、銅の男は目を閉じる。この先、誰かをその腕の内に誘うたびに、この細い体を思い出すだろう。そうして比較して、あの人間はこうだったと思う自分がいるのだろうと、そんな予感がした。

 人間は抵抗しなかった。ただされるがままに、銅の男が望むままにさせていた。


「まだ酔っているのですか」

「いいや」

「では、若気の至りですね。いつまでも青いままではいられませんよ」

「わかってる」

「さあ、精霊の子たちが待ちかねています。森の外にも待っている方がいるのでしょう」

「ああ」


 腕の中からこの人間を解き放つのは名残惜しかったが、そうも言っていられない。腕をほどけば、人間はすっと一歩下がる。それが無性に、悲しく思えた。腕を伸ばせば届く距離にいるのに、無言のうちに拒絶されていることを察する。

 銅の男は人間にひとつ頭を下げると、背を向ける。後ろ髪を引かれる思いだったが、それを断ち切って無理矢理前を向く。


「今度」


 遠ざかる背中に、人間の声が追ってくる。


「今度星詠みを聞く時は、きちんと聞いてください」


 銅の男は、振り向かなかった。今振り向いたら、いつ果たされるともわからない約束を口にするあの人間を、この孤独な場所から連れ去ってしまうことが分かっていた。衝動を押し殺し、代わりに片手を上げて答えると、前だけを見つめて足を進める。

 砦に開けられた穴を踏みしめ、蔦の覆う崖を出てから銅の男は振り向いた。来た時と同様に、少しの揺れを伴って閉じていく穴を見つめ、その奥でひとり暮らす人間を思う。

 自身の家系の他に、この人間を訪ねる者はいるのだろうか。山羊と目に見えない声を出すもの、物言わぬ植物の世話をして暮らすあの人間は、寂しさを覚えることはないのだろうか。胸が張り裂けそうなほどの孤独を、どうやって過ごしてきたのだろうか。不安と心配ばかりが頭を満たし、胸をかきむしりたくなるほどの無力さが恨めしかった。そうして気づいたのは、あの人間のことをほとんど知らないこと。名も、正確な年も、好きなものも、嫌いなものも。一番に思い出せるのは、あの春の日差しのように優しい笑み。

 首にかけられた赤玉が唯一の繋がりに思えて、俯いてそれを強く握り締める。もう届かないかもしれないと思いながらも、それでも、と祈る。あの孤独な人間が、僅かでも心安らかに過ごせるように。悲しみを感じることのないように。神は手を差し伸べてくれないとあの人間は言っていたが、銅の男は、そうだとしても縋りたかった。目に見えない大きな力を持ったなにかが、あの人間の平和を守ってくれるように。自分ではそれができないから、と。

 再び顔を上げた銅の男は、力強く足を踏み出した。


『しるしだ』

『しるしをもらったんだ』


「ああ、赤玉を貰った。わたしだけの印だそうだ」


『よかったね』

『あかがねのしるしだ』


「銅の印、か。そうだな、そう呼んでくれ」


『めがきらきらしてる』

『あかがねのしるしないたの』

『さみしいの』

『さみしいんだね』


「うるさい、泣いてなどいない!」


『あかがねのしるしがおこった』

『あかがねのしるしこわい』

『おとなげないね』

『こわいね』


「ああもう、なんとでも言えばいい。勝手にしろ」


 前方から聞こえる声たちにからかわれ、銅の男は怒ったように眉を寄せる。しかし、その口元には笑みが浮かんでいた。


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