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ある女神

ある女神

作者:

 えぇ、そうでございます。あなたは私のことを、私以上にわかっていらっしゃる。私はね、自分の身の上を知りません。風が吹けば飛ばされるような、流浪の者ですから。


 親兄弟などもとより、一族と申しましょうか、私に似た者のことも知りません。そういう者たちがいるようだとは、幾度か聞いたことがございますが。ふと気付けば私は私で、このような様子でありました。


 由緒などというものはありません。顔も知らぬ一族の中には、大きなお屋敷を頂いて、ゆるりと暮らしている者もおるそうです。いいえ、私などはそんな大層な者ではありません。端者でございます。身の上は知りゃしませんが、身の程は承知しております。

 ご存じのように、空っぽの押し入れの棚などをお借りして。どこの家にもありますでしょう、そんな物は。それで、冷えた囲炉裏の灰をね、ちょいとつまんで。総掠いなどいたしません。一つまみ、ちろちろ舐めて、それで十分でございます。そんな暮らしをしております。



 お笑いになるでしょうが、私にも、ちっぽけな小娘時代がございました。年増女の戯れ事とお聞き流しください。

 えぇ、あなたのお聞きになりたいことは承知しています。ですがそれにお答えするには、ここから話すしかないのです。なにぶん、学がないので。要領のよい話はできませんので、申し訳ないことです。



 屋敷へ玄関から上がるなどということは、他のえらい方はともかく、私にはできません。勝手口やら、縁側やら、あとはどこの家にも、ご不浄の口というのがございますでしょう。そう、身内の不幸のあった時に開けて、通る戸でございます。

 この家にはない?あぁ、今じゃこんなことも廃れているのですね。


 その戸がね、何の拍子にか、少し開いていた家がありました。閂が壊れていたのでしょうか。その小さな家には、老いた母親と若者が暮らしておりました。

 母親の名は記憶にありませんが、若者の名は「清」と書いて、セイと読みました。いい名でしょう?私もね、初めそれが気に入ったんですよ。涼しげな響きに見合う、目元のすっとした若者でした。


 私は清を気に入りまして、その家も気に入りました。気持ちのよい家でした。庭先から奥の間までよく片付いて、日当たりも風通しもよかった。

 母親は足を患って、長くは立ち働けないようでしたが、代わりに清が一生懸命働いておりました。

 畑仕事も家のことも、ほとんど清が引き受けておりました。清は不満や恨み言など一言も口に出しませんで、お母は休んでろと微笑んで、朝から晩までせっせとよく動き回っていました。馬を引いて畑に行き、竃で飯を炊き、庭を掃き、わらじを編んで売りに行く。一人で、二人分も働いていました。

 母親も面倒をかけてすまながってはいましたが、清を頼りにしているようでした。


 立派な若者だと、私は押し入れの中からこっそり見つめて、ますます清のことを気に入りました。

 その家は、支え合う清と母親の深い情に満たされて、とても心地良いところでした。囲炉裏はいつも温かくて、静かだけれど、血の通った気配がしました。母親の笑い皺や清の穏やかな眉が、炉の火にぽうっと照らされて、私までなんだか胸が温かくなったものでした。


 私はそれを、ずうっと見ていたくなりました。それまではねぇ、一つの家に、長居したことなどありませんよ。顰め面ばかりの人、不平ばかりの人、世の中のほとんどはそうでございます。ままならぬ世ですからね、仕方のないことでしょう。

 だからこそ、清の家が眩しく、得難いもののように思えました。あんまり心地良くて、離れ難かったのです。


 私は押し入れから出て、炉端の下座に座って手をつきました。どうかこの家においてください、と。流浪の身の上に過分な願いとは承知しておりますが、私もお家のために、微力ながらお手伝いいたしますのでどうか、と申しました。そんなことするのは初めてでしょう、随分緊張しました。情けなくぶるぶる震えておりました。

 もちろん、清たちには聞こえませんよ。でもねぇ、どうしてもそうしたかったのです。息を殺して頭を下げておりました。すると、どうしたことかふと、清が顔を上げてこちらを見たのです。


 ほんの刹那のことでした。きっと清は、何か柱の虫だか染みだかに、目をとめただけだったのでしょう。でもその時の私には、まるで許しを受けたように思えたのです。嬉しくて涙が出ました。私も泣くのだと、その時初めて知りました。




 その日から、私は清の家の守りになりました。

 守りなどと言っても、私には、できることなどありません。けれども家においてもらうのですから、力を尽くそうと奮い立っておりました。福を呼び込もうと、祈りだけは欠かしませんでした。


 えぇ、とてもとても、身にあまるほど幸せな暮らしでございました。

 ちょうど秋のことで、清の家の畑は見事な豊作でした。忙しくても、冬越しの不安が薄れて、清も母親もよく笑っていました。清と母親の笑顔は、私の糧でした。私もほっとして、よくとれた豆や粟や芋を見ては、晴れがましい気持ちになったものでした。



 お恥ずかしいことです。その通りです。私はね、清を好いていたのですよ。

 私も小娘でございました。清に、家にいてもよいと許されたと感じてからは、思いに歯止めが効かなくなりました。清は当然私のことなど、いるとも知りませんでしたけれども。


 炉端で藁を編んでいるその背中にそうっと近寄って、ほつれた着物の端をね、ちょこんとつまんでみるんです。そうするとたまに清も、ふっと、何か感じたように顔を綻ばせてくれます。それだけで満足でした。私と清の間に今、何かが通ったのではないかと、その曖昧な感触だけで十分でした。

 夫婦になれるなんて思っちゃいません。真似事の虚しさもわかっていました。でもね、ちょっと触れただけで、頬が熱くなるんです。目が眩んで、涙がにじむんです。


 あの炉端で、私は幸せがどういう形をしているのかを、はっきりと知りましたよ。それはそこに、ただ目の前にありました。清と母親に、そして密かに私の内に、確かにありました。






 でもねぇ、その冬に、清の母親が死にました。


 年を越す前の、寒い日でした。朝、母親は起きてこなくてねぇ。気付いた時には布団の中で、冷たくなっておりました。


 母親は年がいっていましたので、私は天寿だろうと思いました。けれども、清の悲しみは尋常ではありませんでした。

 唯一の肉親、最も愛していた母親が死んだのですから。何日も何日も泣き暮らして、そのうち魂が抜けたように虚ろになって、ついに炉端に座りこんだまま、一歩も動かなくなりました。

 家の中はほこりが積もり始めました。囲炉裏の火は灰の中に小さく埋もれて、竃も蓋が閉じられたまま冷え切りました。


 家は息苦しいほどの悲しみに沈んで、私も悲しくて、どうにかしなければと焦っておりました。守りなどと称したくせに、私はあの温かく幸せな家を守れませんでした。我が身が不甲斐なくて、清に申し訳なかった。なんとしても清だけは守りたくて、私は必死で祈りました。

 せめてもと、毎晩清の着物の端をつまんでは、元気を出してと念じました。そうすると清の呆けたような目にふっと力が戻って、少し持ち直すように思いましたから。



 けれども、悪いことは続きました。まず村の名主という人が、母親に貸していた金を返せと家に押しかけてきたんです。清には覚えのないことでした。でも、名主に逆らっちゃ暮らせませんでしょう。清は仕方なく、払いました。そのせいで新しい借金をしなくてはなりませんでした。


 豆や芋を蓄えていた室を、山犬の群れに荒らされたのも痛手でした。あれだけあった食べるものが一気に減って、清は冬を越せるか心許なくなりました。年の瀬だというのに、正月の餅どころかその日の食べものにも事欠くという有様でした。



 私は、何もできない自分が腹立たしかった。清が苦しんでいるのに、笑ってほしいのに、何の力もありません。悔しくて仕方ありませんでした。もし私がえらい方々のようなら、たやすく福を呼び込めるのにと思って唇を噛みましたよ。


 私はその時改めて、自分の身の上を知らぬことを恥じました。私に何ができるのか、知りたいと思いました。なんとかして、清のお役に立ちたい。私のちっぽけな力をどう使えば、この家を再び温かく満ち足りたものにできるのか、心底わかりたいと思いました。

 震えるくらいの悔しさを抱えておりました。でも結局私は途方にくれ、ただ清のそばに座り込むことしかできませんでした。




 囲炉裏の火はもはや、完全に消えておりました。家の中は暗く陰り、屋根さえ傾いて見えました。温みのない炉端は、悲しいものです。ある日私は冷え切った灰にちょんと指先をつけて、それをちろりと舐めてみました。

 冷えた灰は、私好みの味をしておりました。



 私はその時、雷に打たれたように悟りました。

 自分が、何者であるのかを。





 思い返せば、その日は大つごもりでございました。自分というものをはっきり悟った私は、もうこの家にはいられないとわかっていました。


 えぇもちろん、清のことを愛しく思っていましたよ。ずうっと幸せな笑顔を見ていたいと、その思いに変わりはありません。でも、そう思うからこそ、私はこの家を去るほかありませんでした。


 私は火の消えた、冷えた囲炉裏の灰を好みます。私には福を呼び込むことはできません。そして、なんの力もないと思っていましたが、そうではありませんでした。


 ね、そういうことですよ。



 暇請いをしようと、私はいつかと同じように、炉端の下座に背筋を伸ばして座りました。清は目の前で、背を丸め、打ちひしがれてあぐらをかいておりました。

 清さん、と、私は破れた着物の端を、いつものようにちょいとつまんで引きました。


 すると清は、はっとして顔を上げたのです。

 清がそんなことをしたのは初めてでした。そして何かを探すように、うろうろと目をさ迷わせました。



 姿を、どうか姿を見せておくれ。

 顔も名も知らぬ。けれどお前がずうっとそばにいてくれた。それは知っている。

 今、わしの袖を引いたろう?どこにいる?そこに、いるのか?



 私は凍りついて、ちらとも身動きできませんでした。

 息が詰まってねぇ。清の呼び掛けに、答えられませんでした。


 清はこけた頬で、宙に向かって、ふっと微笑みました。



 お前が袖を引いてくれると、わしは一人じゃないと思えたよ。

 お母も死んでしまった。わしにはもう、お前しかいないよ。

 ずうっと、ここにいてくれよ。




 清が幸せそうに笑うので、私はもう、胸がいっぱいで、痛くて痛くて、涙がとまりませんでした。

 清に申し訳なくて、自分の身の上が憎くて、たまらず私は伏して許しを請いました。



 清さん、清さん。

 申し訳なかった。私はこの家にいちゃいけなかった。お前様を好いちゃいけなかった。

 お前様のご不幸は、すべて私の咎でございます。この家の炉の火を消したのは私でございます。お母様を殺したのは、私でございます。



 鳴咽を堪えているせいで、声は震えて録に出ませんでした。胸を掻きむしりたいような後悔で、私は額を床に擦りつけました。



 どうして、私などがこの世にいるのか。

 清と母親の笑う温かい炉端に、私は決して近づいてはならなかったのです。押し入れからこっそり覗き見て、それで満足して、そのまま立ち去るべきでした。

 いや、その前に。僅かに開いた戸に誘われて、この家に入ったりしなければよかったのです。

 私がいなければ、この家の温かな炉端は、守られたのです。


 むせび泣いて、私は清に何度も何度も謝りました。どれほど声を枯らそうと、清に聞こえないことはわかっていました。それでも私には、謝ることしかできませんでした。

 家の外では、横殴りの雪がごうごうと降っておりました。寺が除夜の鐘をつく前に、私は清の家を去りました。


 さぁこれが、私のたった一度きりの、恋の顛末でございます。





 えぇ、あなたのお聞きになりたいことには、ちゃんとお答え申し上げます。まず私が何者か、ということでしたね。

 今の話でねぇ、もうおわかりでしょう。私は自分の身の上を知りません。私を何と呼ぶのか、名を知りません。ただの流浪の者でございます。

 でもあなたはご存じでしょう、私が何を運ぶ者か、ということは。



 そしてね、私は、もう二度と恋などいたしませんよ。

 私が好いた人は、幸せでいられないのです。今お話しした通りです。囲炉裏の灰を冷やすのが、身に課せられた私の性なのでございます。

 恋などというものは、あの家の炉端に置いてまいりました。




 だから、ねぇ、そんなことをおっしゃらないでください。私を望むなど愚かなことです。あなたは今や、ご立派な蔵持ちじゃありませんか。煙草の栽培が当たって、大変めでたいことでございます。借金どころか土地持ちになられて。

 お嫁様は働き者、後継ぎの息子さんは聡明でいらっしゃって、あなたの若い頃を見るようです。


 あなたは私に返すべき恩など、これっぽっちもないのですよ。




 私は、二度と恋などいたしません。

 でも、先程も申し上げました。あなたの笑顔をずうっと見ていたいのです。その思いは変わらないのです。


 そして、そのために私ができることも、変わっていないのですよ。




 ねぇ、清さん。


 私はあなたにだけは、幸せを運ぶ者でありたいのです。

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