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恋愛短編小説一覧

共犯者のノクターン

作者: インソムニア

「――これで、お前も共犯者だ」

 頬を伝う、誰のものとも知れぬ生温かい血の感触。凍てつくような声。それが、私の世界の終わりの音だった。


 数時間前まで、この手は古書の頁をめくるためだけにあり、この耳はインクの匂いが染みついた静寂を聴くためだけにあったというのに。


 私の世界は、いつだって穏やかで、整然としていて、波乱に満ちた物語はいつも紙の中にだけあったのだ。その日も、そうであるはずだった。


 嵐が王宮の分厚い壁を叩く、インクを煮詰めたような夜だった。王宮書庫の片隅、私だけの聖域である修復室で、古びた頁についた染みを、細心の注意を払って拭っていた。


 書庫長であるマルタ先輩の優しい声に、私は顔を上げる。

「リディア、もう終いかい? こんな嵐の夜に、若い娘が一人残るもんじゃないよ」


「はい、先輩。この『王国植物図鑑』の修復が終わったら、今日は帰ります。それに、ここが一番安全ですから」

 そう言って微笑む私に、マルタ先輩は「まあ」と大げさに肩をすくめながらも、その目には憂いの色が浮かんでいた。彼女は少しだけ声を潜め、私の側に寄ってくる。


「安全、かねえ…。最近は、どうも王宮の中もきな臭くてね。あんたも気をつけなさいよ。歴史編纂局の小役人どもが、宰相閣下のご命令だとか言って、やたらと書庫に出入りしては、古い文献を『閲覧禁止』だなんて言って、地下の書庫に放り込んでいくんだよ。特に、20年前に滅んだっていう『銀狼の一族』に関するものは、根こそぎね。まるで、最初からそんな一族はいなかったみたいにさ。建国神話にも、あの一族の功績が記されていたはずなのにねえ」


 マルタ先輩の言葉は、私の胸に重い染みのように広がった。『銀狼の一族』。その名は、ここ数週間で私の心に深く刺さった棘だった。なぜなら、あの人が、その一族に関する書物を探していたからだ。そして、その名は、私の過去にも繋がっているのかもしれないのだから。


 氷の騎士、カイン様。誰もが遠巻きにする、影の濃い男。

 彼が時折、この書庫に立ち寄ることを、私は知っていた。


 三週間ほど前、彼が閉架書庫で何かを探しているのを見かけた。書庫司書としての義務感と、それ以上の衝動に駆られ「何かお探しですか」と声をかけると、彼は射るような視線で私を一瞥し、ただ一言、「銀狼の紋章が載っている書を」とだけ告げた。


 彼の声を聞いたのは、それが初めてだった。低く、感情の読めない声。でも、その奥に微かな焦りのようなものを感じ取ったのは、私の思い過ごしではなかったはずだ。私は該当する書物を数冊、彼の元へ運んだ。彼が探していたのは、単なる紋章の意匠ではなかった。


 彼が帰った後、書物を元の場所に戻す際、一冊の頁の間に、押し花にされた小さな青い野花が挟まっているのを見つけた。氷の仮面の下にある、彼の本当の顔を垣間見たような気がして、私の心臓は小さく音を立てた。


 その花の名を、私は知っていた。『忘れな草』だ。


 そして、彼の探す紋章は、私が肌身離さず身に着けている、亡き母の形見のペンダントに刻まれたものと、あまりに似すぎていた。薬師だった母は王都から遠い辺境の出身で、その死は事故として処理されたが、父は最後まで何者かによる口封じを疑っていた。


 母の死の真相。私の知らないルーツ。その全ての鍵を、『銀狼の一族』が握っている。そして、今まさにその扉を開けようとしているのが、カイン様なのかもしれない。


 マルタ先輩が心配そうに私を見ている。


「まあ、熱心なこと。でも、無理はするんじゃないよ。こんな嵐の夜は、何が起こるか分からないからねえ」

 先輩が帰り支度を整え、重い扉の向こうに消えていく。


やがて書庫には私一人。雨音と、時折響く雷鳴だけが、私の相棒だった。修復作業を終え、インクの匂いが染みついた指先を眺める。私の穏やかで、満ち足りた世界。だが、その足元は、もう静かに崩れ始めていた。


 集中力が途切れ、ふと窓の外に目をやった、その時だった。


 稲光が、一瞬だけ中庭を白く照らし出す。そこに、人影があった。

 フードを目深に被り、嵐をものともせずに歩く、長身の影。見間違えるはずもない。

 カイン様……。


 彼が向かっているのは、中庭の奥。古くから誰も近づかない、禁じられた霊廟。王家の祖が眠るとされる、聖域だ。


 行っちゃダメだ。見てはいけない。


 頭の中で警告が鳴り響く。でも、私の足は勝手に椅子を離れていた。歴史から消されようとしている「銀狼の一族」。忘れな草の花。彼の瞳の奥に揺めく、深い哀しみの正体。そして、私の母の死の謎。その全てを知りたい。それは、禁断の書に手を伸ばすように、抗えない運命的な衝動だった。


 音を立てないように扉を開け、雨に濡れるのも構わず、彼の後を追う。重々しい霊廟の石扉が、僅かに開いていた。隙間から中を覗き込む。


 薄暗い堂内の中心。祭壇の上に安置された、青白い光を放つ宝石。


『星の涙』。


 誰もが知っている。王家の秘宝。


 カイン様は祭壇の前に進み、フードを取った。月光に照らされたその横顔は、神聖な儀式に臨む神官のように、悲壮なほど美しかった。彼は懐から取り出した羊皮紙を広げ、古代語で何かを囁き始める。それは祈りにも、呪詛にも聞こえた。


 そして、『星の涙』にそっと手を伸ばす。それは乱暴な強奪ではなかった。失われた半身を取り戻すかのような、慈しみに満ちた手つき。


 綺麗……。

 そう思った瞬間、小さく息を呑んでしまった。


 その音に、カイン様が振り向いた。

 目が、合った。


 射抜かれたように、身体が動かない。彼の紫電の如き瞳が、私という異物を正確に捉えていた。


 まずい、逃げないと。


 でも、足が石になったように動かない。


「……誰だ」

 彼の声は、あの時よりもさらに低く地を這うようだった。


 彼は私を認めると、一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、その瞳を驚きに見開いた。そして、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。一歩、また一歩と。その足音だけが、やけに大きく響いた。


「しょ、書庫司書のリディア、です……」


「……見たか」


「な、何も……見ていません……!」

 震える声で嘘をつく。


 けれど、そんなものが通用する相手ではないことくらい、分かっていた。

 彼は私の目の前で立ち止まり、その冷たい指先で私の顎を掬い上げた。濡れた前髪から滴る雫が、彼の指を伝っていく。


「嘘を吐く目をしているな。殺すべきか…。」

 彼の呟きに、死を覚悟した。ここで、私は殺される。


「ついてこい。お前には、死ぬより厄介な役目を与えてやる」


「い、嫌っ……!」


「選択肢はない。騒げば、ここで死ぬだけだ」


 有無を言わさぬ力で、私は霊廟の外へと引きずり出された。嵐の中、裏口に用意されていた馬車に無理やり押し込まれる。


「どこへ行く気ですか……!」


「黙れ。これからお前は、俺の復讐劇の、唯一の観客だ」

 それきり、彼は口を開かなかった。


 走り出した馬車は、激しく揺れる。石畳の振動が、骨身に堪えた。王都を抜けるつもりだ。門が閉まる前に。狭い車内で、濡れた服を着た彼と私の肩が、揺れるたびに触れ合う。その度に、彼の冷たさと、奥に秘められた熱のようなものが伝わってきて、私の心臓は不規則に跳ねた。


 やがて、背後から怒声と馬の蹄の音が聞こえてきた。追手が来たのだ。


「いたぞ! あそこだ!」


「止まれ! 逆賊カイン!」


「待て! 仲間がいるぞ!女だ!」


 私は違う! でも、恐怖で声を出すことができない。


 窓の隙間から、騎士団の松明の光が見える。

 カインは舌打ちを一つすると、馬の手綱をさらに強く握った。


「伏せろ!」

 彼の鋭い声と同時に、私は床に身を屈めた。


 直後、耳をつんぞくような炸裂音。追手の放った魔法が、馬車のすぐ側で炸裂したのだ。

 木片が飛び散り、私の頬を何かが掠める。


「きゃっ!」


「……舌を噛むなよ」


 耳元で囁かれ、私はぐっと唇を噛んだ。

 カインは私を庇うように身を屈め、手綱を巧みに操り、狭い路地へと馬車を滑り込ませる。私が書庫で読んだ、古い王都の地図。彼もまた、それを読んでいたのだろうか。


 しかし、安堵したのも束の間。大通りに出ようとした瞬間、待ち伏せていた騎士の一団が放った光の矢が、馬車の車輪を砕いた。


 馬車が大きく傾き、制御を失う。

「衝撃に備えろ」という彼の声を聞いたのを最後に、私の身体は宙に投げ出された。


 どれくらい気を失っていただろうか。


 冷たい雨が、私の意識を呼び戻した。


 目の前には、私を見下ろすカインの姿があった。彼は脇腹を押さえていて、その指の間から血が滲んでいる。追手の騎士の一人が、彼の足元で呻いていた。


「……立てるか」


「……」


「立て」

 有無を言わさぬ声に、私は震える足で何とか立ち上がった。


 頬に、生温かいものが伝う感触。そっと指で触れると、赤く濡れた。私の血? それとも……。


 カインは、追手の騎士の血がついた剣の切っ先を、私の頬にそっと触れさせた。そして、その血で、私の頬に一本の線を引いた。


「――これで、お前も共犯者だ」

 その言葉は、私にかけられた呪いのように、冷たく、重く、響いた。


 彼は私の腕を再び掴むと、森の深い闇の中へと、歩き始めた。

 もう、後戻りはできない。私の穏やかだった世界は、完全に終わってしまったのだ。


 ◇


 どれだけ歩き続けたのか、もう分からなかった。ぬかるんだ土と腐葉土の匂いが立ち込め、枝葉を打つ雨音だけが、絶え間なく続く。カインは一言も発しない。ただ、私の腕を掴むその手に、焦りと、そして確かな熱がこもっていることだけが伝わってきた。脇腹の傷が、彼の体力を着実に奪っているのだ。私の足はもう感覚がなく、ただ引きずられるままについていくだけだった。


 やがて、霧の向こうに巨大な影が現れた。苔むした石壁、崩れかけた尖塔。廃修道院だ。


 彼は、この場所にたどり着くと同時に、私の腕を解放した。そして、まるで糸が切れた人形のように、壁に背を預けてずるずると座り込む。


 彼の荒く、浅い呼吸。石壁を伝って滴る、血のように冷たい水音。それだけが、死んだ礼拝堂に響いていた。

 私はどうすればいいのか分からず、ただ入口の近くで膝を抱えて座り込むことしかできなかった。濡れた服が体温を奪い、歯の根が合わないほど震えが来る。


 怖い。家に帰りたい。インクと古い紙の匂いがする、私の城へ。

 でも、もう私は「共犯者」なのだ。あの男が私の頬に引いた血の線は、決して消えない烙印だ。帰れる場所なんて、どこにもない。


 じわり、と涙が滲んできた。でも、ここで泣くのは違う。物語の登場人物なら、こんな時どうする? 絶望してただ助けを待つだけの薄っぺらなヒロインに、私はなりたくない。私は唇を強く噛みしめ、必死に涙を堪えた。


 どれくらいの時間が経っただろう。雷鳴が遠のき、嵐が峠を越したことを知る。その静寂の中で、彼の呼吸がひときわ苦しげに聞こえた。もしかして、死んでしまうの……?


 その考えは、私に恐怖よりも奇妙な焦燥感をもたらした。この物語が、こんな序盤で終わってたまるか。私の人生を滅茶苦茶にし、私の過去の謎の鍵を握るこの男が、何も語らずに死ぬなど許さない。


 恐る恐る、彼に近づいてみる。


 月光がステンドグラスの残骸を通して差し込み、彼の顔を青白く照らしていた。紙のように白い肌、紫がかった唇。脇腹に当てられた布は、彼の血を吸い尽くして赤黒く変色している。

 このままでは死んでしまう。


 私は意を決して、いつも持ち歩いている革の鞄を開いた。中には、本の修復道具と、薬師だった母が遺してくれた薬草の手引書、そして小さな救急道具が入っている。マルタ先輩に「あなたはお守り代わりに本を持ち歩くのね」と笑われた、私の世界の全てだ。


「失礼します……」

 震える手で、彼の傷に当てられた布をそっと剥がす。


 生温かい血の匂いが鼻をついた。思ったよりも傷は深く、熱を持っている。母の手引書の知識が、頭の中で高速でページをめくっていく。剣による刺し傷。まずは洗浄、次に止血、そして化膿止め…。

 私は鞄から消毒薬と綺麗な布を取り出すと、近くにあった水瓶に残っていた雨水で布を湿らせた。


「……触るな」

 掠れた声が聞こえ、びくりと肩が跳ねた。


 カインが、薄っすらと目を開けて、私を睨みつけていた。その瞳は熱で潤んでいるはずなのに、突き刺すような鋭さだけは失われていない。


「俺の身体に、触るな。気安く……。お前が俺を助けるのは、俺から情報を引き出すためか? それとも、お前も宰相の手先か?」


「動かないでください。傷が開きます」


「……答えろ」


「義理ではありません。これは私のための取引です」


「……取引?」


「あなたが死ぬと、私が困りますから。私の母が遺したペンダントの紋章は、あなたが探す銀狼のもの。母の死の真相も、あの一族と無関係ではないはず。その答えを知る前に死なれては困るんです。だから、生きて罪を償ってください。」


 ありったけの虚勢を張って、言い放つ。嘘じゃない。これは本心だ。

 カインは虚を突かれたように数度瞬きし、やがて、その唇の端に自嘲するような笑みを浮かべた。


「……ふん。正直な女だ。いや、どこまでも自分本位な女か……。面白い。いいだろう、その取引、受けてやる。……好きにしろ」

 許可を得て、私は慎重に手当てを再開した。


 冷たい水を含んだ布で傷の周りを拭うと、彼が「うっ」と低い呻き声を漏らす。消毒薬を染み込ませた布を当てると、彼の強靭な身体が弓なりに強張った。


「……痛みますか」


「……喋るな。集中、しろ」

 彼は歯を食いしばり、痛みを逃がすように息を吐いている。


 服越しに伝わってくる彼の体は、燃えるように熱かった。こんな熱で、さっきまで私を連れて歩いていたなんて。


 彼の硬い革の服を少しだけ寛げ、傷口に直接薬草を貼り付けていく。鞄の中で乾燥させていた、止血効果のあるノコギリソウと、化膿止めのオウレン。本の修復で培った、ピンセットを使う繊細な指の動きが、今、人の命を救うために役立っている。


 その時、彼の鍛えられた硬い腹筋に、私の指先が直接触れてしまった。


「っ……!」

 心臓が、大きく跳ねた。


 それは恐怖とは全く違う種類の、熱い鼓動だった。


 間近で見る彼の顔は、普段の氷のような仮面が剥がれ落ち、ただ傷に苦しむ一人の青年だった。整いすぎた顔立ち、汗で額に張り付いた黒髪、きつく結ばれた唇。


 なんだか、禁じられた古書の、誰も知らない頁をめくってしまったような気がして、私は慌てて視線を逸らした。


「……お前の手は、温かいな」

 不意に彼が呟いた。


「まるで、昔……母が読んでくれた物語に出てくる、癒し手のようだ」


「……あなたにも、そんな時代があったのですね」


「……黙れ。余計なことを喋るな」

 彼はそう言って顔を背けたが、その声には先程までの刺々しさはなかった。


 持っていた薬草をすべて使い、新しい布で傷口をきつく縛る。完璧とは言えないけれど、やらないよりはましなはずだ。


「……終わりました。あとは、熱が下がるのを待つだけです」

 彼は答えず、ただ浅い呼吸を繰り返している。


 その瞼は固く閉じられていた。

 

 私は彼から少し離れた場所に座り、外が白み始めるのを、ただじっと待っていた。

 もう、ここが私の世界の全てになってしまったのだと、漠然と思っていた。


 ◇


 三日三晩、私は献身的に彼を看病した。


 初日は、ただひたすら彼の熱が下がるのを祈るだけだった。鞄に入っていた非常食の乾パンを少しだけ齧り、雨水を飲んで飢えをしのぐ。カインは時折、苦しげに呻くだけで、ほとんど意識がないようだった。


 二日目の朝、彼の熱が少しだけ下がったように感じられた。私は意を決して、修道院の外に出てみることにした。食料と、新しい薬草が必要だった。


 修道院の周りの森は、雨上がりの湿った匂いに満ちていた。幸いなことに、母の手引書と、私が修復したことのある『王国植物図鑑』の知識が役に立った。食べられる木の実、きのこ、そして傷に効く新しい薬草を見分けることができた。書庫での静かな日々が、こんな形で私の命を繋ぐなんて、思いもしなかった。


 礼拝堂に戻ると、カインが身じろぎした気配がした。私が近づくと、彼が薄っすらと目を開ける。


「……どこへ、行っていた」


「食料を探しに。あなたにも、何か口にしてもらわないと」

 私は採ってきた木の実を彼の口元に運んだが、彼は顔を背けた。


「……いらん」


「意地を張らないでください。これも、取引の一部です。生きて、私の問いに答えてもらうのですから」

 私は無理やり、熟した赤い実を一つ、彼の唇に押し付けた。


 彼は一瞬抵抗したが、やがて諦めたようにそれを口に含んだ。甘酸っぱい香りが、埃っぽい礼拝堂に微かに広がった。


 その夜、カインはひどくうなされた。


「……父上……母上……! なぜだ、なぜ我らが…!」

 見ると、彼はひどく汗をかき、悪夢の中でもがいていた。


「違う……俺は……! 許さない、王家の偽りの正義など、絶対に……!」

 憎しみに満ちた声。誰かを、何かを、心の底から憎んでいる声。


 普段の彼からは想像もできない、無防備で、痛々しい姿。

 その時、彼の胸元で何かが月光を反射して光った。古びた銀のペンダント。そこには、狼の紋章が刻まれている。銀狼の一族の紋章だ。


 ああ、この人は、ただの逆賊なんかじゃない。

 何か、とても深くて、悲しいものを背負っているんだ。


 気づけば、私は彼の側に膝をつき、魘される彼の手に、そっと自分の手を重ねていた。

 氷のように冷たい彼の指先が、ぴくりと動く。


「大丈夫……大丈夫です……。あなたの物語は、まだ終わっていませんから」

 届くはずもないと分かっていても、そう囁かずにはいられなかった。


 彼の苦しみが、少しでも和らぐようにと、祈りながら。

 やがて、彼の呼吸が少しずつ穏やかになっていく。私は彼の眠りを見守りながら、いつの間にか自分も眠ってしまっていた。


 ふと、視線を感じて目を覚ます。

 目の前に、カインの顔があった。いつの間にか熱は完全に引いたのか、その紫色の瞳は、はっきりとした光を取り戻していた。


 そして、彼は自分の手が、私の手に握られていることに気づいた。


「……!」

 彼は驚いたように目を見開くと、まるで汚いものでも振り払うかのように、私の手を激しく振り払った。

「な、何をしていた……」


「あ、あの、うなされていたから……」


「……余計なことを」

 吐き捨てるように言って、彼は顔を背ける。


 でも、その声は微かに震えていた。


 そして、私から視線を逸らした彼の瞳が、ほんの一瞬だけ、迷子の子どものように揺らいだのを、私は見逃さなかった。彼が拒絶しながらも、救いを求めている。

 

 その時、私の中で何かがはっきりと形になった気がした。

 この人を知りたい。

 この人の背負うものを知って、その隣にいたい。

 

 それは、恐怖でも同情でもない、初めて感じる、温かくて、少しだけ痛い感情だった。


 カインの意識が戻ってから、修道院の空気は再び張り詰めたものに戻った。

 私がきのこのスープを作っていると、彼がむくりと体を起こし、壁伝いに立ち上がった。


「何をしている。俺も手伝う」


「え、でも、傷が」


「これくらい、どうということはない」

 彼は私が集めた薪を、無言で割り始めた。その背中はまだ痛々しかったが、力強いものだった。


 二人で火を囲み、黙々とスープを飲む。


「……うまい」


「え?」


「……いや、何でもない」

 そう言ってぷいと顔を背けてしまうけれど、彼の耳が少しだけ赤くなっているのに気づいて、私は思わず笑ってしまった。


 彼はそんな私を訝しげに一瞥したが、それ以上何も言わなかった。


 彼が回復するまでの数日、彼は私に簡単な護身術を教えた。


「お前はあまりに無防備すぎる。足手まといに死なれては寝覚めが悪い」

 そう言って、彼は私に小刀の握り方を教えた。


 彼の手が私の手に重なり、正しい角度を教える。

 その瞬間、彼の指先の硬さと、確かな熱を感じて、心臓が跳ねた。


 私の動きがあまりにぎこちないのを見て、彼は深いため息をついた。


「……まあ、ないよりはましだろう」

 そのぶっきらぼうな優しさが、私の心を少しずつ溶かしていった。


 そんな奇妙な共同生活が、一週間ほど続いた。

 会話はまだ少なかったけれど、私たちは少しずつ、お互いのことを知り始めていた。


 彼が夜明け前の、霧が一番深くなる時間に祈りを捧げていること。私が眠っている間に、自分のマントをそっと掛けてくれていること。


 彼が私の淹れた薬草茶を、「苦い」と文句を言いながらも、毎日飲んでくれること。


 私が火の番をしながら、小声で物語を暗唱しているのを、彼が目を閉じて聞いていること。


 このまま、時が止まってしまえばいいのに。

 そんなあり得ないことを、私は本気で願い始めていた。


 ◇


「そろそろ、ここを出る」

 ある朝、カインが唐突に言った。彼の傷は、もうほとんど癒えている。


「……どこへ?」


「国境を越える。西の自由都市連邦なら、王国の追手も簡単には入れないだろう」

 その言葉に、私の胸はちくりと痛んだ。


 この奇妙な安息の日々が、終わってしまう。そして、私はどうなるのだろう。国境を越えたら、私は解放されるのだろうか。それとも……。

 私の不安を見透かしたように、彼が言った。


「お前も、来るんだ」


「え……?」


「言ったはずだ。お前は俺の共犯者だ、と。それに……」

 彼は少しだけ言葉を切り、視線を逸らした。


「お前の作るスープは、悪くない。…それに、お前の持つ情報にも、まだ価値がある」

 それは、彼の不器用な誘いだった。

 私は、頷く以外の選択肢を持たなかった。いや、持ちたくなかった。


 森を抜け、国境近くの宿場町「グレイフェン」に辿り着いた。ここは様々な人々が行き交い、身を隠すには好都合だった。


 騎士団の手配書から逃れるため、私たちは「旅の商人夫婦、アランとリタ」を名乗ることにした。フードで顔を隠し、安宿の一室に転がり込む。


 宿の恰幅のいい女主人に「おやまあ、新婚さんかい? 部屋は一つでいいね?」とからかわれ、私は顔を真っ赤にして俯くしかなかった。隣でカインが「ああ、一つでいい」と平然と答えるものだから、余計に心臓に悪かった。


 案の定、部屋には粗末なベッドが一つだけ。私は硬い床で寝ようとしたが、カインに「風邪をひかれては面倒だ」と腕を引かれ、結局、ベッドの端と端で、背中を向け合って眠ることになった。彼の体温が、毛布越しに伝わってきて、その夜は一睡もできなかった。


 そこでは、今までとは全く違う時間が流れていた。

 騎士でも司書でもない、ただの男と女。そのぎこちない関係が、もどかしく、そして少しだけ心地よかった。


 私が市場で買った固いパンと塩辛いスープを一つのテーブルで食べる。彼が日雇いの荷運びの仕事から帰ってくるのを、部屋で待つ。彼は金を稼ぐだけでなく、町の噂や人の流れに探りを入れ、追手の情報を集めているようだった。それはまるで、本の中でしか知らなかった「普通の暮らし」のようで、しかしその裏には常に張り詰めた緊張があった。


 市場での買い物は、私にとって新しい発見の連続だった。本以外の知識に疎い私は、野菜の良し悪しも分からなければ、肉の部位の名前も知らない。そんな私を見て、カインは呆れたようにため息をつきながらも、「それは傷んでいる」「こっちのほうが安い」と、意外な生活能力を見せた。彼の新しい一面を知るたびに、私の心は少しずつ彼に傾いていく。


 ある日、私の履いていた靴の底が剥げかけているのに気づいたカインは、その日の日当のほとんどで、私に新しい革の靴を買ってくれた。


「いりません、そんな、もったいない」


「黙って履け。お前の歩く速度が遅いと、俺が困る」

 そう言う彼の耳が少しだけ赤い。


 私は俯いて、その無骨だけれど温かい贈り物を受け取った。


 カインが仕事に出ている間、私は部屋で彼の破れた服を繕った。針と糸を動かしながら、窓の外に目をやる。広場で、他の男たちに混じって汗を流しながら木箱を運ぶ彼の姿が見えた。騎士の鎧を脱ぎ、ただの「アラン」として働く彼の背中は、王宮で見た時よりもずっと大きく、逞しく見えた。

 

 ある晩、仕事帰りのカインが、小さな紙袋を私に差し出した。


「……なんだ、これは」


「え?」


「市場で、女たちが群がっていた。……甘い匂いがしたから、お前も好きかと思って」

 中には、砂糖漬けの木の実が数粒入っていた。生まれて初めて、誰かに贈り物をされたかもしれない。胸の奥が、きゅうっと甘く痛んだ。


「……ありがとうございます、カイン様」

 私がはにかんで言うと、彼は「ふん!俺はアランだ」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


 偽りの夫婦生活に慣れてきた頃、事件は起きた。

 町の酒場で、夕食をとっていた時のこと。酔った傭兵が私に絡んできたのだ。


「よう、嬢ちゃん。亭主はあんな仏頂面より、俺と飲んだほうが楽しいぜ?」


 傭兵が馴れ馴れしく私の肩に手を置いた。

 私が困惑していると、今まで黙って食事をしていたカインが、静かに立ち上がった。


「その汚い手を、俺の妻から離せ」

 地を這うような低い声。


 その瞳には、氷のような怒りが宿っていた。

 彼が私のことを「俺の妻」と言った。その言葉が、私の心臓を強く掴む。


「なんだぁ、てめえ。やんのか?」

 傭兵が立ち上がった瞬間、カインの手が稲妻のように動き、傭兵の腕を捻り上げていた。


 悲鳴と、骨の軋む鈍い音。結局、カインがその傭兵を店から叩き出す騒ぎになり、私たちは宿から逃げるように立ち去らなければならなかった。


 ◇


 月明かりが、窓から差し込んでいる。夜道を歩きながら、彼は言った。



「……すまない。騒ぎを起こした」

「いいえ。……あの、助けてくださって、ありがとうございました。……嬉しかったです、『俺の妻』って」

 私の言葉に、彼は足を止めた。月明かりの下、彼の顔が驚きに見開かれる。


「リディア……」

 初めて、彼は私の名前を呼んだ。その響きに、胸が高鳴る。


 彼が、何かを言おうと口を開きかけた、その時だった。

 複数の松明の光が、私たちを暗闇の中から取り囲んだ。


「見つけたぞ、逆賊カイン!」

 金色の髪を靡かせた騎士団長、ユリウスが、苦渋の表情でそこに立っていた。


「カイン……こんな所で、女連れとはな。お前の復讐心も、その程度だったのか」


「ユリウス……」


「その女を放して投降しろ。そうすれば、彼女の罪は俺が不問にしてやる」

 ユリウスの言葉は、私への優しさではなく、カインを揺さぶるための刃だった。


 カインは私を庇うように一歩前に出た。


「この女は関係ない。俺一人の罪だ」


「ならばなぜこいつを連れている!」

 ユリウスが叫ぶ。


「カイン、俺も分かっている! 宰相閣下のやり方は目に余る。不審な点が多いことは、騎士団内部でも囁かれている! だが、俺は法と秩序を守る騎士団長だ! 私情で国を揺るがすお前を、見逃すわけにはいかない!」

 彼の葛藤が、痛いほど伝わってきた。


「……黙れ」

 カインが、静かに言った。


「黙れ、ユリウス。この女は、足手まといなどではない。……俺の復讐の、唯一の証人だ。そして、俺が取り戻すべきだった未来の象徴だ」

 カインの告白に、私は息を呑んだ。

 ユリウスも、そしてカイン自身も、その言葉の重みに驚いているようだった。

 

 復讐を捨てて、私を選ぶ。それは、彼が今まで生きてきた意味の全てを、手放すことに等しい。


 ユリウスは、友の顔をじっと見つめていた。その瞳から、ゆっくりと敵意が消えていく。彼は深く、長い溜息を吐いた。


「……そうか。お前は、見つけたのだな。破壊の先にあるものを」

 彼は剣を収めた。


「騎士団の本隊が間もなくここへ到着する。俺が時間を稼ごう。……行け、友よ。二度と、俺の前に姿を現すな。これは騎士団長としての命令ではなく、友としての最後の温情だ」

 ユリウスに背を向け、私たちは夜の森を駆けた。


 ◇


 夜明けが近い、湖のほとり。私たちはそこで、ようやく足を止めた。

 気まずい沈黙が流れる。さっきの、彼の言葉が、耳の奥で何度も響いていた。


「……さっきのは」

 先に口を開いたのは、彼だった。


「その……ユリウスを欺くための、嘘だ。気にするな」


「……嘘、ですか」

 私の声が、震える。


 分かっている。彼は照れているだけだ。

 でも、その不器用さが、もどかしくて、少しだけ悲しかった。


「……そうですか。嘘なんですね」

 私は俯いて、わざと意地悪く言った。


「……ああ、そうだ」

 沈黙。


 やがて、彼がため息をつき、私の肩を掴んで無理やり向き直らせた。


「……嘘ではない」

 絞り出すような声だった。


「嘘ではない。リディア。君の言う通りだ。どんな物語にも、書き換えられる頁はある。君が、俺の物語を書き換えてくれた。復讐の終着駅で待つ破滅から、君という始まりの駅へと」


 彼は、懐から青白く光る『星の涙』を取り出した。


「これを使い、王家の偽りの歴史を暴き、一族の無念を晴らす。それが俺の全てだった。だが、お前と出会い、考えが変わった。破壊のための力ではない。真実を明らかにし、新しい時代を築くために、この力を使う道もあるのではないかと」

 それを強く握りしめ、私に向き直る。


「これは俺たち一族の呪いであり、道標でもある。リディア。俺たちの一族が、本当に守ろうとしたものは何だったのか。その答えを、お前と見つけたい。君自身の謎を解くためにも」

 彼は、私の前にひざまずくと、そっと手を差し出した。


「行こう、リディア。俺と」

 私は、その手を取った。涙が頬を伝った。


「あなたの物語の結末を、私が見届けます。私たちは共犯者ですから」


 そして、彼はそっと身を屈め、私の唇に優しく口づけた。


 それは、嵐の夜に始まった私たちの物語が、ようやく本当の第一頁を開いたその証だった。

 固く繋がれた手の温もりだけが、これから始まる旅の、唯一で確かな道標だった。


 私たちの夜は、ようやく明けようとしていた。

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