唯一つの願い
翌日の午後、母様と刺繍をしている時、私は父様に呼ばれた。
父様——クレイモント大公ジョージ・ドイルド・リル・マースデンは、まだ応接室のソファに座り、ティーカップに残った紅茶を口にしていた。
テーブルの向かい側には、もう一つの来客用のティーカップがある。ほとんど、飲んだあとはないようだ。まさか……
「さっきまで、サー・アレックス・インダムと名乗る若い男が来ていた。ラトリッジ伯爵の部下だった者らしい。ここの隣りのマナーハウスに住むことになるからと挨拶された。
昨日お前には会っていて、失礼をしたから謝罪の気持ちを伝えておいてほしいと言われたぞ。何かあったのか?」
父様にそのままを言うことはとてもできない。私は表現に気をつけながら説明した。
「マナーハウスの修繕工事を見に近づいた時に、馬が驚く出来事がありまして落馬しそうになりました。サー・インダムはむしろ馬をなだめて私を助けてくれたのです。ですが敷地内のことでしたから、気遣ってお言葉を添えて下さったのでしょう」
クレイモント大公は、白くなった口髭の下から息を吐いた。
「そういうことならいいが。見栄えも良い 気質の真っ直ぐさはある男のようだが、……お前が近づいても意味の無い相手だ、セシリア。不用意なことはせぬようにな」
その言葉には胸を押されるような重さを感じた。
それでも何も感じていない顔で、ただうなずく。
————私の世界で、この人に頷かないということは有り得ないこと。首を横に振れるのは国王陛下くらいだろう。
いつもの通り父に膝を折ったお辞儀をし、私は応接室を出た。
◇◇◇◇◇◇◆◆◆◆
刺繍をしていた母様のいる部屋ではなく、自室へと私は戻った。窓からの景色を眺めながら、サー・インダムのマナーハウスの方を視線は辿るけれども、彼の後ろ姿も、影も形も すでに無い。
期待も、何も、ほとんどしてもいなかったはずなのに、
ただ落胆だけがそこにあった。
屋敷には来て、クレイモント大公には会ったのに、私には彼は会おうとしなかった……
伝言だけ託すと言うことは、むしろ
" 伝えておいて下さい。会う気はありませんから"
と意思表示されているかのようで、辛かった
分かっている……彼も父様と同じように考えているのだろう
" 会ってもなんの意味も無い相手"……と
私は窓辺から離れて、その足で寝室に向かい、ベッドに身を投げ出した。
普段から投げやりなことは滅多にしない。だけど、今は全身の力が抜けていた。
横になって右向きから左向きへと寝返りし、ふと昨日のロゼッタとの別れ際のやり取りを思いだした。
◇◇◇◇
『ああセシリア、あなたって確かに外見も知性も振る舞いも完璧だけれど、本当のあなたの魅力はユーモアとチャーミングさなのよね』
サー・インダムとの落馬事件の詳細を聞き終えると、親友は大笑いしながら、そう言ってくれた。
『そうかしら?私は優秀な聞き役の——あなたのお陰だと思っているけれど。ロゼッタがとっても面白いから、私もついふざけてしまうの』
ロゼッタは大きく首を振った。
『あら、だめよ。自分の長所を私のせいにするなんてお門違いというものよ、セシリア・マースデン』
そして、少し真面目な表情になって付け加える。
『サー・アレックス・インダムとちゃんと話せたらいいのにね。あなたが冷たくもお高くもないと分かったら、彼きっとすぐにメロメロよ』
その言葉に2人でまた笑った。それから、私は言ったのだ。
『そうね、そんなにメロメロやベタべタにまでは望んでいないけれど…………知り合いになって、もう少し話せたらなぁとは想像してしまうの。
普通でいいのよ。ただ普通に彼と向き合って会話して、彼の瞳の色を知ることができたら……。
彼の瞳の色が 知れたら良いな と、思ってしまうの』
そう それだけ
ただ それだけが 私の願い ————




