心残り
半月の月明かりとミスター・ロッドに励まされて、私はアレックスのマナーハウスに辿り着いた。
本当に深夜で、思わずノックすることに躊躇してしまう。
「大丈夫ですよ。子供は起きたりはしないもんです」
ミスター・ロッドの声に後押しされて、私はノッカーを数回鳴らした。一度止めて、また打ち付ける。
「夜分にすみません。セシリア・マースデンです!」
それを言った後すぐに、ガチャリと音がして玄関扉が開かれた。
アレックスが、少し乱れた髪で険しい表情で姿を現した。
私は 彼が怒っているのではないかと思って、後ずさった。が、アレックスは私の右腕を取って引き寄せて聞いた。
「何があった?」
真剣な口調だった。それを聞けただけで 込み上げるものがあった。傍に来てくれるのも、ちゃんと瞳を合わせて会話するのも、あの雨の日の別れ以来だ。このまま、この人の胸で泣いてしまえたら────だけど……
「応接室に火を起こしてきましたよ」
寝巻きにガウンのメリーが、ランプを持って来てくれていた。私は 一度まばたきをしてから、しっかりと言った。
「ありがとうメリー。夜分に本当にすみませんサー・インダム。……明日、王都に向かうことになりました。その前にお伝えしたいことと渡したいものがあって、来てしまいました。もう、今夜しか……時間がなくて」
メリーは何かに気づいたかのように、いそいそと私に声をかけてきた。
「あとは応接室にしましょうレディ・マースデン。ここじゃ冷えますから。さあ サー・インダム、お連れなさって下さい」
メリーはそうして、私とアレックスを追い立てるようにして応接室に入れた。そして、
「お茶のご用意をして来ますから。でもしばらくかかるかもしれません。いかんせん、水からお湯にするのは、大変な作業ですから」
と告げると姿を消した。
応接室は暖炉の炎だけが、部屋の灯りとなっていた。けれどその橙色の光は暖かくて優しくて、私の心をやんわりと照らしてくれているかのようだった。
◆
アレックスは燭台を持って暖炉に行こうとしていた。彼は、蝋燭をつけようとしてくれていた。
「サー・インダム、蝋燭を使わなくても大丈夫です。……長くはかかりませんから」
彼がこちらを向いた。私は、瞳をそらさないように頑張った。
「ヘラルド王太子と……婚約が決まりました。王都に行けば、そのまま発表・挙式の流れになるようです。」
彼の紺色の瞳孔が開いた────気がした。気のせいかもしれないけれど。
「クレイモント領には帰って来れなくなるかもしれません。もう……しばらくは」
静寂と、薪のはぜるパチパチという音だけがしていた。
アレックスに 言葉は 無い。
私は続けた。
「手紙を書いて来たんです。子供達にと、エリスに。最後に何か…………伝えていきたくて」
私はポケットから白い封筒を一つ取り出した。彼が、暖炉前からこちらに歩いてくる。そして、手を差し伸べて、口を開いた。
「おめでとうございます。お幸せに」
その言葉が突き刺さる。私は思わず瞳を伏せた。
「ありがとうございます」
彼の手のひらに手紙を託した。手紙をのせる時に見ると手の傷はかなり治っている。────良かった。
「サー・インダム、改めていろいろとお世話になりました。あの時オオカミ達から守って下さって、本当にありがとうございました」
私は頭を下げた。
「いや、とんでもないです。こちらの方こそエリスや子供達にとても良くして頂いて感謝しています。何かお礼がしたかったんですが、こんなに早く……別れがくるとは予想できていませんでした。あの子達も寂しがります」
彼との距離はとても近かったけれど、私は……やはり顔を上げられなかった。だけど、言わないと。
「あのう……あのう……」
言わなければ。
「はい?」
アレックスが聞き返す。
「あの日……あのオオカミの事件の日、あなたは弓矢の競争で1位でした。」
がんばれ!私!言うの、言うのよ。
「祝福と褒賞の……………キスを贈り損ねていたのが……あのう…………心残りで……」
私の声は次第に小さくなった。恥ずかしくて息苦しい。アレックスが耳を寄せる。
「い、今 キスをさせてもらったら…………ダメ……でしょうか……?」
────────返事を待つ間、多分私は息をしていなかった。死にそうだ。
「…………わ…かりました」
なんとか死ぬ前に返事はもらえた。だけでなく、背の高い彼は両膝を床についてくれた。
両膝をつくことは、本来は国王をも超える──神への祈りを捧げる姿勢だ。彼の方に深い意味など無いのだろうけど、それを自分に今捧げられて 私はなんだか切なくなった。
一歩前に出ると、触れ合うほどの距離になっていた。実際に私のグレーのスカートはサラサラと彼の脚にあたっている。
今この瞬間だけは、アレックスが瞳を閉じていて、あのスカイブルーの輝きが隠されていることに感謝した。
彼の広い両肩に手を置かせてもらい────
上半身をかがめて最愛の男性に 口づけた。
ゆっくりと体を 唇を 離した時、瞳を開くと彼も瞳を開いていた。その中に、驚きと共に自分が映されている。
この瞳の中に私を見るのは きっと最後だろう
瞳をそらさずに告白した。
「私はあなたを好きになって幸せでした。ありがとう、アレックス」
そして 逃げるように 立ち去った────




