残された時を
廊下に出て部屋に戻ろうとする私に、ミスター・ラントがついて来た。
「お嬢様、事実を話しても救われる者はいません。むしろ状況は悪くなるでしょう。ティナの想いを分かってやって下さい」
私は即座に振り返った。
「分かっていたのね?ティナのことをどうして教えてくれなかったの?ああ……ティナは何も悪く無かったのに……」
ミスター・ラントは、悲しげだが微笑みを浮かべた。
「あの娘は一番下の妹の子なんです。私の姪です。あなたが結婚式用に真鍮の髪飾りを下さったのも知っています。ティナはあなたを、恐れ多くも……友達のように想っていると言っていました。大好きな友人だと」
私はミスター・ラントを見つめた。
「あの娘はやりたいことをしただけです、お嬢様。それでいいのですよ」
そう言ってミスター・ラントは 一度私の肩をポンと叩き、玄関の方へと戻って行った。
◇◆◇
気分が優れないと夕食は、断るしか無かった。
食べ物が喉を通る気がどうしてもしない————
あっという間に決まってしまう結婚
自分の人生
自分の?
自分の意思なんて、これっぽっちもそこには無いのに
これからを思うとただ ただ 心が沈んだ。
明日の午前中には王都へ向かう。そうしたらもう————しばらくはここに戻って来れないだろう。
仮にいつか戻って来たとしても、
その時は自分はヘラルド王太子の妻なんだ。
閉塞感と絶望で息すら苦しく感じる。
多くの貴族の娘達には、とんでもない贅沢者と言われてしまうだろう。誰もが望み、憧れるのだ、王太子妃の地位は、後の王妃への道。
でも 私は そんなものを望んでいない。
不意にロゼッタの言葉を思い出す。
"あなたの幸せを願ってる。
他の人があなたに望む幸せじゃない。
あなたがあなたに願う幸せよ"
ロゼッタにすぐにでも会って、話を聞いて欲しかった。
でも、これからは夜で、彼女は身重だ。それに————話したところで、結局はどうにもならない。誰にも、どうにもならないのだ。
顔を両手でおおい、……泣きたくなった。
だけれど、残された時間がもったいないと思った。
この時間で、私は一体何ができるだろう。
何もしなくてもいい
できない 大公令嬢 レディ・マースデン
そんな私でも、大切な人達のために、何か伝えていけるのなら────
私は顔を上げて窓辺のテーブルに行き、引き出しを開けて便箋を取り出した。椅子に腰掛け、インク瓶を開けて羽根ペンを取り出す。
時間が過ぎていく──私は夢中で書き綴った。
◆◇◆
深夜に、もっとも地味なグレイのスカートとグレイのコート、そして金髪が隠れるように 黒の帽子を被って、私は屋敷の庭から厩舎へと走った。
雲は少なくて、綺麗な半月の夜だった。半分だけの月明かりは、充分周囲を照らしてくれていた。
厩舎戸口のそえ木を外して中に入る。
何頭かの馬は、人の気配に気づいてブビヒンと鼻をならした。
自分用の鞍を持って、いつも乗っている栗色の雌馬の柵をくぐった。ガチャガチャと鞍を取り付けていると……
ギィと音がして扉が開かれ、ランプの明かりがこちらを照らしてきた。私は一瞬ドキリとしたけれど、相手をみて安堵した。
「ミスター・ロッド……!良かった……あなたで」
私の顔とは対照的に、ティナのご主人の顔は困っていた。
「お嬢様、こんな夜更けに1人で出かけちゃ駄目ですよ」
「お願いミスター・ロッド。見なかったことにして下さい。万が一バレたとしても、私が全部1人でやったことにしますから。ただ、何も気づかなかったと言ってくれたら良いんです。見逃して下さい」
だが、ミスター・ロッドは厩舎の奥に入ってきた。
「そういうわけには いきませんよ。お嬢様を見逃したら、失うものがオレにもありますからね」
その言葉を聞いて、私は落胆した。
「そうよね。もしまた……今度はあなたの方がここの仕事を辞めなくてはいけなくなったら、大変なことよね……」
すると、ミスター・ロッドは笑い出した。今の私の言葉のどこに笑うところがあるのか────私はきょとんと彼を見つめた。
「仕事じゃないですよ、お嬢様。仕事よりもっと大切なもんです」
「もっと大切なもの?」
私が聞き返すと、ミスター・ロッドは照れ臭そうに頭をかいた。
「ティナですよ。オオカミの件があった夜、あいつは酷く落ち込んでいたんです。」
「ティナが?」
「ええ。お嬢様から離れて、1人で森に行かせてしまったことです。サー・インダムが助けてくれたから良かったけれど、もしお嬢様に何かあったら、それは自分のせいだったと」
私は胸が痛くなった。ティナはそんな風に考えてくれていたんだ。
「あいつ、あの時に辞めさせられても仕方がないって覚悟したらしくて。────だから3日前は、もう清々しいもんでしたよ。」
私はミスター・ロッドを見上げていたけれど、きっと、泣きそうな顔になっていた。ミスター・ロッドは、私になだめるように言った。
「ティナは、どういう伝わり方であっても この件にサー・インダムの名前が出れば、大公夫妻が彼を目の敵にすると思ったんです。そして、それはお嬢様が最も悲しむことだろうって」
何も言えない私に、彼はティナの言葉を続けた。
「あなたに後悔してほしくないそうです。絶対に。
────彼に恋したことを」
私はこらえきれなくなって、両手に顔を伏せた。
ミスター・ロッドは慌てて言う。
「さあ、お嬢様泣かないで準備しないと。マナーハウスに向かわれるんでしょう?
こんな夜中にあなたを1人で行かせたら、オレは妻に首を絞められます。かと言って、引き留めても、明日あいつは荷物をまとめて出てっちまうでしょう。だからオレはもう、銃をしっかり持って、お嬢様の後についていくしかないんですよ」
彼の言葉に、私は浮かびかけた涙を払ってうなずいた。
泣くのは後でできる。
今は 好きな人に 会いに行く
決して 後悔しないように




