マナーレッスン 2
◇登場人物紹介◇(※主要人物以外を略称にしております)
◆セシリア・フィリス・リル・マースデン
……クレイモント大公令嬢
◆ジョージ・マースデン……クレイモント大公
◆アレックス・セイム・インダム……士爵位授与の元軍人
◆エリス・スミス……16歳になったばかりの貴族令嬢
◆マイケル・ダント……アレックスと暮らす孤児。9歳
◆ミカエル・ダント…… アレックスと暮らす孤児。9歳
◆マリー・ダント…… アレックスと暮らす孤児。6歳
◆フィン・ヴェルハイム…… アレックスと暮らす孤児。5歳
◆ソフィア・モントレー…… アレックスと暮らす孤児。4歳
◆シャビリエラ・トルドー…アレックスの部下の子供。3歳
◆カーク・ソーフォーン……ラトリッジ伯爵。元中佐。
◆ロゼッタ・マドウィック
……ダリントン子爵夫人。カークの妹。セシリアの友人
◆ヴィンセント・マドウィック……ダリントン子爵。
◆ティナ・ロッド……セシリアの側仕えの1人。
◆メリー・デニー……アレックスのマナーハウスの使用人。
大公令嬢レディ・マースデンは、人生で初めてのパンを値切るレッスンを受けることになった。
しかし、レッスンと言うよりもこれは…………
「じゃあ、オレがパン屋をやるんで、先生が買いに来て下さい。」
マイケルの言葉に、私は戸惑った。
「教えてくれないの?もう買いに行く?」
ドレスや本は買ったことがあるけど、パンは無いわ。
「とりあえず かいかたを みて、もっといいの、おしえてあげるよ!」
フィンが元気よく言った。そう言うことね。
────大丈夫、氷菓子を買ってきてもらった時、やり方を見ていたわ。
子供達とエリスは私を見ている。私は舞台の役者みたいな気持ちになった。目の前に立つマイケルに向かって言う。
「パンを一つください。いくらですか?」
「1ポンド50ペンス。ビタ一文まけないよ」
ビタ?ビタというパンなのかしら?
「わかりました。では1ポンド50ペンスで一つ下さい」
子供達からため息と落胆の"あー……"という声がした。
何が駄目?パンを買えているはずなのに。
「先生、安く買うのが目的だから、交渉するんです。会話で」
エリスが助け船を出してくれた。そう言うことなのね。話し合いで安くしてもらう……と。
「じゃあ、……もっと安くして下さい。1ポンド40ペンスくらいなら助かるわ」
私はまたマイケルに向かって言った。でも彼は首を振る。
どうして?正解じゃない?
「おしいです先生。はじめに、グッと安い値段を言っちゃったらいい!それから、店側が売ってくれる値段まで上げる。それが一番安くなります」
観客側からミカエルが声をかけてくれている。
私はそれに うなずいた。分かってきた気がする,
「それなら50ペンスで。私は今日初めて来た客よ。ここのパンを試すのには、それくらいの値段でもいいのでは?」
おーっと歓声が上がる。だが、パン屋マイケルも負けてはいない。
「50ペンスじゃ、小麦代にも厳しい。1ポンド20ペンス。
これ以上は下げない」
「90ペンスでは?試すのに1ポンドを使いたくないわ。家に早く帰りたいのに。私はここで、もう時間を使ってる」
ヒューと、口笛と声援が湧き上がる。調子が出てきたわ。
「1ポンド。これが限界だ」
マイケルは真面目な顔で言った。
「91ペンスよ。ここが限界」
私もやり返す。1ペニーでも安く!
「だめだめ。1ポンドからは下げられない」
それなら……
「92ペンスで手を打って。明日も私が買いに来ますから」
そう言って、私はクルリと回った。スカートが少し広がって回転する。それから、マイケルに向けてウインクした。
「わ……!」
9歳の少年はドギマギしたようで、頬を赤らめると
「分かりました!負けましたよ!92ペンス!!!」
と叫ぶように言った。
「やった!安く買えたわよ!」
フォークを投げ出してソフィーが手を叩いてくれた。フィンはバンバンとテーブルを叩いて囃し立てる。
エリスは笑いながら抱きついてきた。
礼儀作法も何もあったものではなかったが、私達はただ喜んだ!
子供達の歓声と笑い声に包まれながら、私はふと気がついた────笑い声に、大人のような、男性のものが混じっていることに。
まさか……
そんなまさか……
恐る恐る顔をあげると、食堂の入り口でサー・インダムが身をよじりながら笑っていた。
私は一気に血の気が引くのを感じた。
◆◆◆◆
「帰ります」
非常識なことを言っているのは分かっている。だけど、限界だった。今日のレッスンは終わっていて、パンの買い方指導がなければとっくに帰っていただろう。
「みんな、さようなら」
手袋や手提げを持って足早にエリスと子供達に挨拶をする。笑顔までは作れない。
そうして、サー・インダムの前はただ通り過ぎた。むしろ速く。
◇◇◇◇
アレックスがまずいと気づいて笑うのを止めて顔を上げた時、見えたのはセシリアの後ろ姿だった。明らかに怒っている足取りだ。
呆然としていると、エリスが
「サー・インダム、追って!はやく追って!」
とセシリアの向かった玄関を必死で指差している。
弾かれたように駆け出した。
廊下の途中でセシリアに追いつく。夢中で彼女の左腕に手をかけた。
驚いて振り返った茶色の瞳は、潤んで輝きを放っている。
恥じらいだ頬と鼻はピンク色に染まっている。
セシリアは言葉を発しなかったが、見つめてくる彼女のチョコレート色の綺麗な瞳が
なんで?どうして追ってきたんですか?
と問うているのは分かった。
アレックスは伝えたかった。だから口を開きかける。
馬鹿にしたり、面白がって笑ったわけではない——
子供達との夢中のやりとりが ただとても……
彼はハッとして口を閉じた。セシリアから手を放し、一歩下がって距離をとる。
セシリアはそんな彼をまだ見つめていたが、アレックスが目を合わせぬように そらしていると気づいて……
やがて、身を ひるがえして 玄関に向かった。
台所からは、メリーとお茶を飲んでいたセシリアの侍女が慌てて出てきた。彼女の後を追っていく。
アレックスは玄関扉から姿を消す2人を黙って見送った。
言えなかった。
言うのは間違いだと思った。
"馬鹿にしたり、面白がって笑ったわけではない
子供達との夢中のやりとりが ただとても
ただとても可愛かったから──── "
それは自分のような男は、彼女には伝えてはいけない言葉だ。
決して 伝えてはいけない 言葉なんだ。




