序章Ⅷ~自分の価値に悩む侍女~
絡まれていた使用人
助けたことで縁できた
自分に価値はないのだと
彼女の悩みを聞き取った
思い詰めてるその心
いつもの如く救い出す
凄腕剣士でお調子者の
我らがサムトー、今日も行く
時に神聖帝国歴五九七年三月二十六日。
腰には短剣とポーチ。やや長身の背には長剣と荷物。ざんばら髪を春の風に揺らせながら、一人のんびり街道を行く。
サムトーは、元奴隷剣闘士である。
十才までは養護施設で育ったが、ある日人買いにさらわれ、奴隷剣闘士を抱える親方に売り飛ばされたのだった。以後八年間、奴隷剣闘士として過酷な環境を生き延びてきた。
昨年、神聖帝国歴五九六年五月、百名ほどの仲間と共に反乱を起こした。半数ほどの仲間が逃亡に成功し、そのうちの一人がサムトーだった。逃亡奴隷は一部例外を除いて処刑される。生きるためには、とにかく逃げ続ける必要があった。
逃亡直後、山中を逃げている時に猟師達に救われ、三月ほど彼らの村で暮らした。その後、素性を知られる危険を避け、旅芸人の一座に身を寄せる。ここでも三月ほど同行したが、事件をきっかけに素性が明らかとなりそうになったため、一人旅を始めた。
十二月、北にある城塞都市グロスターで、事件に自ら首を突っ込み、その解決のために奔走。結局、新年祭までその街の雑貨屋で世話になった。二月には、テラモの町で町中から疎外されていた少女を助け、二週間ほど旅の相棒にしていた。三月の上旬は伯爵令嬢の手助けをした。中旬は親友となった女騎士と楽しく過ごしていた。
そして、当てのない旅の途中、ここノイスタット侯爵領へと足を踏み入れていた。この一帯は帝国でも貴族領の集まる土地で、先頃も伯爵領を二つ通過してきている。
城壁に囲まれた城下町タルストの西門をくぐる。侯爵領だけあって、内城が門から見えるほどに雄大な建物だった。この侯爵領は人口二十五万、タルストだけでも十三万に届こうかという大都市だった。騎士隊も一個大隊二百人もの人数を抱えている。
街道の右手に工房街が見える。数多くの工房が立ち並ぶ様は壮観だった。左手には騎士関係の建物や騎士たちの住む高級住宅街がある。そのさらに奥には内城がそびえていた。
やがて、南北を結ぶ街道と東西を結ぶ街道が合流した。城内でも馬車の往来は多く、人はそれを避けて左右の端を歩く。左手の奥に大広場が開けているのが見える。大都市ならではの景観だった。
街道を外れ、東側の街区に入ると、商店街があった。ここも大都市だけに多種多様な店が立ち並んでいる。
まず宿屋を探そうと思ったが、ここは街の住人の方が詳しいだろうと思い、総菜屋で串焼きを買った。それを頬張ってから、ここの主人に聞いてみる。
「ご主人、旅人一人泊まるのに、良い宿を知らないか?」
「一人旅かい。そうだなあ、この二本裏手の通りにある、木犀亭さんか桔梗亭さんあたりかな。確か小部屋が多い宿だったぞ」
同じ商店街でも、店の数が多過ぎてさほど交流がないようだった。それでも情報に礼を言い、串の始末を頼んでから、言われた方へと歩き出す。
しばらく行くと、宿屋が立ち並んでいる一角へと出た。この辺のどれかだろうと思い、店の看板を見て回る。
すると、視界の端に男が二人、使用人の服を着た女性の行く手を塞いで、何やら話している様子が見えた。
一目見て、何かのトラブルだと分かる。しかし、他の通行人は関わることを嫌い、知らぬ顔をして通り過ぎている。
こういうのに首を突っ込むから、面倒事に巻き込まれるんだよなあ。そう思いつつ、放っておけない性格だった。半分は野次馬根性である。
三人の所へ近づき、声を掛ける。
男二人は仕立ての良さそうな服を着た若者だった。この平和な時代、暇を持て余して、あちこちでトラブルを起こすこの種の輩は、大き目の街ではよく見かける存在だった。
女性の方は、やや小柄で、肩までの赤毛を二つ結わえにした、まだそばかすの残る年代の少女だった。年の頃は十代半ばくらいだろうか。
「何かあったのかい?」
三人がそれぞれ驚いた顔をした。男二人はともかく、使用人の方まで何で驚くのだろう。
「あ、ああ。俺達、ちょっとこの娘に用があってな」
しばらくして、男の一人から返答があった。どうせろくでもない用だろうと思いつつ、さらに尋ねる。
「ふーん、何の用なんだ?」
「お前には関係ないだろ。引っ込んでろ」
もう一人の男が言葉を荒げた。やはり悪巧みらしい。
サムトーは、女性の方に尋ねてみた。
「どんな用があるって言われたんだい?」
使用人の少女が口ごもるように答えた。
「俺達といいことをしようと誘われていました」
「へえ、そうなんだ。どんないいことなんだろうね」
分かっているくせに、そんな減らず口を叩くサムトーに、男二人が怒り始めた。
「邪魔すんじゃねえ。あっち行ってろ」
男二人が身構えるのを、サムトーは鼻で笑った。
「お前たちこそ、背中と腰の剣が見えないとかぬかすなよ」
目に見えて男達が怯えた。自信に満ちた言葉を吐くこの旅の剣士、明らかに人を斬ったことがあるのだろうと思ったのだ。
「ち、今日はこれくらいにしといてやらあ」
型通りの台詞を残して、男達が立ち去っていく。立ち回りがあっても問題はないが、口先だけで追い払えたのは上々だろう。
「さて、お嬢さん、俺はサムトー。旅の剣士だ。名前は?」
「アスリです。タルスト城で、侯爵閣下のご令嬢にお仕えしてます」
「アスリは商店街に何の用事だったんだい?」
「布と糸の買い出しです」
確かに布袋に荷物を持っていた。後は城に戻るだけだったのだろう。
「そっか、災難だったな。もう大丈夫だと思うけど、嫌じゃなければ城まで送るよ」
「いえ、これ以上のご迷惑をおかけするわけにもいきませんし」
当然の遠慮だった。そういうのを見ると、余計にお節介を焼きたくなるのがこのお調子者だった。
「迷惑じゃないさ。旅人だし、見物のついでだから。良かったら城の出入り口まで案内してくれないか」
軽く笑顔でそう言われては、特に断る理由もない。
「分かりました。では、城の通用口までご案内します」
そう答えて、アスリは歩き出した。サムトーがその横に並ぶ。
「城ではどんな仕事してるの?」
歩きながら、遠慮もなしに話しかける。
「はい、令嬢の身の回りのお世話です」
「へえ、お嬢様付きなんだ」
「はい。とても良くして頂いております」
「そうなんだ。使用人って、休みとかもらえるの?」
「仕事の合間に休憩が頂けます。あと、週に一日は交代で休みの日を取れます。侯爵閣下はその辺をしっかり守って下さいますので」
以前、伯爵令嬢の手伝いをしていた時のことを思い出していた。そこの伯爵も確かにその点は守っていた。あれから、まだ一月と経っていない。
「それは何より。息抜きも大事だからなあ」
するとアスリが表情を曇らせた。初対面の人に話すことでもないが、この陽気な男は、何を言っても聞いてくれそうな気がして、気がついたら言葉に出していた。
「休みがあっても、私、することが分からないんです」
言ってから、余計なことだったかと軽く後悔したが、このサムトーという人は真剣に取り合ってくれた。
「おやおや。そしたら、休みの日は何してるの?」
「庭で景色を眺めるか、部屋でぼーっとしてるかですね」
聞いてもらえたことで少し気は楽になった。それでもアスリはため息をつき、自分の不甲斐なさを情けなく思っていた。
「明日はそのお休みの日なのですが、何をしたものか困っています」
世の中にはそんな困り方をする人もいるんだなあと、サムトーは良くも悪くも心底同情した。困っている人を見ると、ついお節介を焼きたくなる質である。初対面の相手だが、まあ誘うのは自由だろうと構わず言ってみた。
「なら、俺、この街初めてだから、明日案内してくれないかなあ。そういう用事に休みを使わせるのも悪いかもだけど、もし良かったら」
アスリが目を丸くした。初対面の相手に、こんな誘いを受けるなど想定外だったからだ。だが、助けてもくれたし言い方も優しい。信用しても良いかもしれないと思った。仮に悪人で、ひどい目に遭ったとしても、どうせ自分など価値のある人間でもない。
半ばどうとでもなれという気持ちで、アスリは承諾の返事をした。
「分かりました。私なんかで良ければ、ご案内します」
サムトーが笑顔を見せながら言った。
「いやあ、助かる。一人で観光もいいけど、やっぱ誰かと一緒の方が楽しいもんな」
「そういうものですか」
自分などと一緒でも楽しいのだろうか。アスリはとても懐疑的だった。
その様子を知ってなお、楽しむ気満々なのがサムトーだった。
「そういうもんだよ。うん」
そうして城の通用口に二人は到着した。
「あんまり早くても困るだろうし、九時の鐘で、俺がここに迎えに来るってことでいいかな」
「はい、分かりました。九時ですね」
「門番の人もよろしく。俺はサムトー。アスリちゃんに、明日の休みの日、街を案内してもらうことになったから。不審な男が来たとかってことのないように、よろしく頼むな」
「はあ、一応申し送りしておきます」
門番も、この軽薄な男のずうずうしい態度には、呆れたようだった。
「じゃあ、そういうことで。アスリちゃん、また明日な」
サムトーが手を振って立ち去っていく。
アスリは、そんな陽気なサムトーを見て不思議な気持ちになりながら、その背中を見送っていた。
結局、サムトーは宿を木犀亭に決めた。最後の決め手は匂いで、何となくこちらの方がおいしそうに感じたからだった。
連泊して少し観光しようと思い、とりあえず一泊二食付きで三泊を年配の女将に頼んで、銀貨三枚を支払う。記帳を済ませ、借りた二階の部屋に荷物を置きに行く。
井戸端へ下りて洗濯を済ませ、部屋の中に干しておく。明日の朝には乾くはずだ。
そして近くの公衆浴場へ出かける。元奴隷剣闘士で、体中に傷のあるサムトーは、なるべくひっそりと入るようにしている。それでもたまに、小さな子から、おじちゃん何で傷だらけなの、と聞かれたりするが。
夕日が沈む頃には宿に戻り、エールを一杯軽く飲む。風呂の後の一杯がまたうまい。のんびり他の客の様子を眺めたり、会話に耳を傾けたりしながらのんびりと過ごす。外が暗くなる頃に夕食とエールのお代わりをもらい、夕食をつまみにもう一杯。この店は料理が思いの外うまかったので、自分の嗅覚が正しかったと分かった。まあ、もう一軒の方がうまい可能性もあるが。
食事が済むと部屋に戻る。腹ごなしに地図を眺めたり、道具の整理をしたりしてしばらく過ごす。朝は早い方なので、適当に眠れそうになったところで、就寝となるのだった。
朝は明るくなったら適当に起き出す。日の出より少し早い。
まずは井戸端へ行き、水を一杯飲む。体を覚醒させるためだ。その後、鞘ごと剣を素振りする。基本の型だけ六種類、左右百本ずつ。一人旅ではいつ何が起こるかわからない。自衛のための鍛錬は毎日欠かしていなかった。素振りを終えると、また水分を補給する。
部屋に戻って一休みした後、一階に下りて朝食をもらう。ベーコンエッグにゆで野菜、パンとスープの定番メニューだが、この種の料理に外れはまずない。ゆっくり咀嚼し、味わいながら平らげていく。
ここまで済ませても、まだ八時の鐘が鳴る前だった。まだ待ち合わせには一時間以上ある。しかし、部屋にいても暇なので、腰のポーチだけ身に付けると外に出た。
商店街も開いている店はパン屋くらいだ。昨日賑わっていた場所が人通りも少なく、新鮮に感じる。そこから北に抜けて、大広場を目指す。
広場は散歩する人や用事のある人が、多少行き交う程度で人も少ない。広場の端の方にある食べ物の露店もまだ閉まったままだ。
ここで八時の鐘が鳴った。とりあえず、広場を一周してみる。貴族の屋敷でも四つ、五つは入るのではないかと思わせるほど広い。祭りなどがあるなら、さぞ盛大な事だろうと思わせた。
まだ少し時間は早いが、一度城の通用門を見に行くことにした。
まずは門番に声を掛ける。昨日とは違う男だった。
「おはようございます。使用人のアスリさんと出かける約束している、旅の剣士サムトーと申します」
門番がため息をついた。
「話は聞いてる。というか、アスリ本人、もうここに来てるぞ」
詰所を見ると、一人座り込んでいる女性がいた。昨日と違い、赤髪は一つ結わえにし、襟なしの長袖に色褪せたスカートと地味な格好だったが、確かに昨日会ったアスリだった。
「えらく早いな。俺も人のことは言えないけど」
門番が事情を話した。
「八時の鐘が鳴ってすぐに来た。何の用事か聞いたら、九時の鐘で待ち合わせだとか言ってな。確かに早過ぎだよな。よほど楽しみだったのかもな」
表情を見る限り、楽しみにしているようには見えないが、まあいい。
「おはよう、アスリ。今日はよろしく頼むね」
馴れ馴れしく呼び捨てて、愛想良くお願いをする。
アスリは立ち上がると、首を縦に振って、挨拶を返した。
「おはようございます、サムトーさん。今日はよろしくお願いします」
そして、門番に礼を言うと、二人で連れ立って歩き始めた。
「最初はどこからがいいですか」
アスリが聞いてきた。目的地が分からなければ、案内のしようもない。
「まずは、この城が良く見える場所がいいな」
商店街もまだ開いていない時間だ。それにせっかく城まで来たのだから、見物していくのが筋だろう。
「では、こちらです」
内城を囲む城壁に沿って堀が掘られており、水が流れている。水路で城を囲むのは、他の城塞都市にもそうはない。防衛施設としてかなり強固な作りだった。その外側を道が囲んでいた。その道沿いに歩いていき、やがて城の正門にたどり着いた。
正門は見事な作りで、しかも広かった。正門の向こうに城の主要な建造物が立ち並んでいる。騎士達の演習場や政務を行う建物、侯爵の住居などである。伯爵家の居城より一回り大きく、建物も多かった。実用優先の造りだが、だからこその機能美というものがあった。
「これはお見事。すんごい建物だわ」
サムトーが感嘆の声を上げた。
アスリは黙ってそんなサムトーを見ていた。
すると、馬蹄の響きが聞こえてきた。門の向こうに見える広場を通って、五騎の騎馬が歩いてくる。先頭を行く騎馬には、一際立派な服を着た若者が乗っていた。
アスリが門の脇に寄ってひざまずき、サムトーにも相手のことを教える。
「伯爵閣下の嫡男、ローレンツ様です」
なるほど、この城の若君かと思い、サムトーもそれに倣う。
門番二人は、職務上警戒を続ける必要があるため、立ったまま腕を胸に当てて礼を施す。
騎馬達がゆっくり目の前に現れた。
先頭にいた若者がアスリに目を止め、声を掛けてきた。
「確か、そなたはクローディアのところの侍女だったな」
クローディアというのはローレンツの妹、侯爵令嬢である。
「左様です。アスリと申します、ローレンツ様」
「隣にいる男は何だ」
「はい。昨日助けて頂いた、旅の剣士サムトー様です。本日はこの方の希望で街を案内しているところでございます」
「ふむ。サムトーとやら、面を上げよ」
言われるままに顔を上げる。貴族様が相手だと、本来はこういうやり取りになるよな。あの伯爵家のご令嬢が例外だったんだなあと、サムトーはしみじみと思った。
「旅の剣士と聞いた。その腕前、少し見せてもらおうか。ラフティ」
「はっ」
配下の男の一人が返答した。直属の部下のようだった。
「下馬し、サムトーに打ちかかってみよ」
興味があるのだろうが、乱暴な話である。だが、この公子にはよくあることなのだろう。ラフティと呼ばれた男は、言葉に従い、見事な身ごなしで馬から降り、剣を鞘ごと抜いて構えた。
「サムトーも構えよ。では、始め!」
サムトーが立ち上がるのを見て、ローレンツが合図を出した。
サムトーは始まるとすぐ、ラフティの左側へと移動した。右手で剣を構えているから、左の方が打ちにくいのである。
しかし、さすがは選りすぐりの騎士、即座に態勢を変えて、まずは上段から打ち込んできた。速く、しかも鋭い。サムトーがわずかに左に動いてかわすと、ポーチからナイフを鞘ごと取り出す。さすがに素手では厳しい。
今度は横薙ぎの攻撃が来た。ナイフで剣の腹を強打し、かち上げる。ラフティはそれに逆らわず、剣を円を描くように回して、逆方向から斬り下げてきた。弾かれても即座に立て直すあたり、かなりの腕前だった。それもサムトーはナイフで軌道を逸らし、空を切らせる。
連続で打ち込みを避けられたラフティが、下がって距離を置いた。
そこでローレンツが制止の言葉を掛けた。
「ありがとう、ラフティ。もう十分だ。見事な攻撃だったぞ」
「はっ。ありがとうございます」
ラフティが剣を納めた。サムトーもナイフをしまう。
「サムトー、ラフティの攻撃を防ぎ切るとは、実に見事な腕前だ。褒美に城内の通行許可を与えよう。門番、許可証とペンを持って参れ」
城の通行許可証が持ち出されてきた。ローレンツがそれにサインする。
「見物に来たと言っていたな。私の名で、城内への通行許可を与える。我が城の素晴らしさを目に焼き付けていくといい」
門番に命じて、その許可証をサムトーに手渡してきた。
せっかくの貴族様の好意だ。ここはきちんとすべきだろう。腕を胸に当てながら、丁寧な言葉で礼を言った。
「一介の剣士に、ありがたき温情、感謝いたします」
「うむ。では、私達は城外へ遠乗りに出かける。門番達もご苦労であった」
そうしてローレンツ達は騎馬で歩き去っていった。
残された門番達とアスリが驚いていた。
「あんた、よくあんな攻撃防げたな」
「俺なら一撃目で脳天割られてるぞ。すごい腕だな」
「……」
アスリは何も言わなかったが、驚きに目を丸くしていた。
サムトーからすると、剣士を名乗っている以上、貴族様に限らず、この種の難癖のあることは常に心得ている。確かにあの騎士はいい腕だったが、真剣での斬り合いでもない限り、問題はなかった。
それより、城内への通行許可証とは大盤振る舞いである。立ち合った加減で、サムトーが悪人でないことを見切ったのだろう。万一それが誤りで、狼藉者だとしても大丈夫だろうと、城内の警備に自信があったのだった。
「まあ、それなりに腕に自信がなきゃ、俺も旅の剣士なんてやってられないさ。それよりアスリ、驚かせて悪かったな」
「いえ、驚きましたが、謝って頂くことでもありません。それより、先程の手合わせ、何がどうなったのか良く分からなかったのですが、私もサムトー様の腕前には感服しました」
「ありがとね。ところで、様はいらないから。サムトーって呼んで」
「サムトー……さん?」
「まあいいか。ごめんな、俺だけ雑な言葉遣いで」
「ところで、お二人さん、城内に入るのか?」
門番が割り込んできた。態度をはっきりしないとこの二人も困るだろう。
「ああ、せっかくだし、入らせてもらおうかな」
「分かった。城内に連絡しておく」
門番が伝声管で、平服の二人が城の中に入るが、侯爵嫡男ローレンツの通行許可証を持っている旨を連絡した。
「建物で入れるのは使用人棟だけなので、気を付けるように。他はさすがに侯爵閣下の許可をもらうか、騎士階級以上の同伴がないとダメだからな」
「分かった。ありがとう」
そうして二人は城門を通っていったのだった。
「こちらが政務棟、その隣が騎士棟、中庭を挟んで防衛棟、柵の向こう側が侯爵閣下の居館となっています」
政務棟は侯爵一族が政務や謁見などに使用する建物である。騎士棟は、騎士が執務などを行う場所で、訓練場所や書類の保管庫もある。防衛棟は軍事施設で、戦闘時の作戦指揮を行う場所であり、倉庫や武器庫もここにある。居館は文字通り貴族の住居である。これらの建物で、清掃などの整備管理を行うのは、騎士が自ら当たる場合もあるが、大半は使用人達である。
石造りの立派な建物が並ぶ間を、二人で通りながら、アスリが案内をしてくれた。
「建物も庭も見事だなあ。すごすぎて、言葉にならないくらいだ」
サムトーが感心しながら見物していく。
案内しているアスリも、毎日仕事をしている場所ではあるが、立ち入らない場所も多いので、改めて城の広さを実感していた。
庭園には長椅子があり、騎士達が休憩できるようになっているが、さすがに朝の勤務があって、今は誰もいない。せっかくなので少し眺めていこうと、アスリを誘う。
長椅子に座ってのんびり景色を眺める。春の陽気に花壇の花が咲き誇り、蝶がその間を縫うように舞っていて、のどかな光景だった。
「結構歩いて疲れてないか。少し水でも飲んでおくといいよ」
サムトーが水筒を取り出し、アスリに手渡した。
アスリが、遠慮がちにそれを受け取り、水分を摂ってふうと一息ついた。どちらかと言うと気疲れのようだった。
「そう言えば、使用人棟には入っていいんだっけ。行ってもいいかな」
サムトーが思い出したように言った。アスリにしてみれば、自分を含めた使用人達の家でもあるので、少し気恥ずかしい。
「かまわないと思います。今は人も少ないですし」
アスリの案内で、建物の裏手に回る。敷地の一番端に、並の宿屋の十倍はあろうかという、三階建ての大きな建物があった。侯爵の居館より広いかも知れない。自宅から通いで勤める者以外が住居として使用する、使用人棟であった。
「もっとこじんまりとしているのかと思ったけど、こんなに大きかったんだな。ちょっと驚いた」
「はい。百人くらい住んでますから」
「百人! そんなに大勢の人が、この城で働いているんだ」
規模の大きさに、さすがのサムトーも強く驚いた。
侯爵一家の世話を始め、清掃、修繕、調理、給仕、庭の手入れなど、城を維持する仕事にそれだけ人手が必要だということだ。その全員に給金を支払うわけだから、毎月の支出もかなりの額になる。領内の整備にも莫大な支出が必要だろう。貴族というのは、その頂点に立って、莫大な税収を管理運営し、大勢の配下を従えるのだから、必然的に尊大にもなろうというものだ。なるほど、嫡男ローレンツが偉そうにしていたのも、当然だと感じた。
中に入ると、一階は厨房と食堂、倉庫などの他、公衆浴場並の大きな風呂が男女別で用意されていた。加えて、家族で仕えている者達が住んでいる区画もあった。四、五人の家族が住める広さの部屋が十もあった。現在は、五家族が住んでいるとのことだった。
二階より上は単身者の部屋だった。簡易な台所と、衣服や私物を収納できる家具がついた、やや広めの部屋だった。それが全部で百二十。まだ二十数部屋空きがあるらしい。城下町に自宅を持っていて、城まで通って仕事をしている人も十数人いるそうで、全員で百人少々となるとのことだった。
かつて伯爵領のご令嬢と親しくしていた時期があった。伯爵領では使用人も五十名程度だったし、建物の種類は同じだが、大きさは半分程度だった。爵位が一つ上がると、ここまでの規模になるのかと純粋に驚いていた。
今は、この広い使用人棟を掃除している五名ほどの使用人と、厨房で朝の食事の片付けと昼食の仕込みをしている五名ほどの調理人が、この建物で仕事をしているだけだった。残りはアスリのように休みか、他の場所での仕事に従事しているとのことだった。
そんな風に驚きながら見学していたサムトー達の元へ、三十代半ばと思われる女性が近づいてきた。
「アスリは今日、休日ではなかったのですか。何をしているのです。それにそちらの方は?」
「はい、こちらはサムトーさんと申しまして、昨日助けて頂いた方です。先程、ローレンツ様に通行許可証を頂きまして、城内を案内しているところです。……サムトーさん、こちらは女官長のカーラ様。使用人達の長として、雑務全般を取り仕切っておられます」
「サムトーです。どうぞよろしく」
挨拶しながら、その通行許可証を見せる。
カーラの選定眼は確かで、ローレンツ公子の直筆だと、一目で確認していた。それを見て軽く笑顔を浮かべる。
「ローレンツ様の奔放ぶりにも困ったものですね。とは言え、あの方が認めたのなら、こちらのサムトーさんも悪い方ではないのでしょう」
そこで言葉を区切って、アスリに向き直る。
「それにしてもアスリ、あなたにこんな素敵な、お付き合いされてる方がいるなんて、初めて知りました。良いことですね」
サムトーが笑みを浮かべたまま、内心でのけぞった。おいおい、昨日助けたって話が何でお付き合いになるんだ、って突っ込みたくなる。
アスリは事実をもう一度話し直した。
「カーラ様、ですから昨日助けて頂いたお礼として、この街の案内を頼まれたのですよ。確かに、時間よりかなり前に来てくれたり、水を分けてくれたりと親切で良い方ですが、お付き合いしているわけではないのです」
「あら、それは残念ですね。……聞こえましたか、お仕事中のみなさん」
アスリが男の人を連れているのを見つけ、この建物を掃除していたはずの使用人達が、興味津々、こっそり眺めていたのだった。女官長がそれに気付き、先手を打って声を掛けたのだった。
ばつが悪そうに、使用人達が男女合わせて五人現れた。
「すみません、カーラ様」
四十代と思われる一番年長の男性が代表して謝罪した。
「多少の事には目をつぶりましょう。あなた方も気になりましたよね。事情も分かったことですし、仕事に戻って下さい」
「はい。分かりました」
五人がやりかけの掃除をしに戻っていく。
「私も政務棟で侯爵夫人のお手伝いをしに参ります。サムトーさんはごゆっくり見物なさって下さい」
カーラは微笑を浮かべたまま立ち去って行った。
「ごめんな、何か面倒かけたみたいで」
「いえ構いません。みないい人たちですから。それより、少し厨房に寄ってもいいですか。一応ご挨拶しておきます」
「分かった。お任せするよ」
二人で一階の厨房へ立ち寄る。
ここでも中年男性の料理長が、二人を見かけてしっかり誤解した。
「おう、アスリじゃないか。何だ、いい男連れて。お付き合いしてるのか」
今は片付けを終え、昼食の仕込みに入っていた。一回に百数人の食事を一手に引き受ける台所だった。広くて使いやすい造りになっていた。
料理長がその手を休めて、二人に近寄ってくる。他の四人も興味が湧いたようで、同じように近づいてきた。ちなみに、侯爵一家の食事は、別に専門の料理人が四人いて、居館の厨房で働いていた。パーティなどで人が大勢来る場合、使用人棟の料理人の他、料理のできる使用人が大量動員され、その四人を手伝うことになっている。
「いえ、昨日助けて頂いたサムトーさんです。そのお礼に、今、街の案内をしているところです。……こちらは料理長のハルマンさんです」
ハルマンと呼ばれた男は、面白がって聞いてきた。
「へえ。でも何で城にいるんだ」
「ローレンツ様に通行許可証を頂きましたので」
「公子様も気まぐれだなあ。でも、それなら、このお人も悪人じゃないってことか」
カーラの時もそうだったが、ここの公子は人物選定眼が確かだと、使用人達にも思われているということだ。大したものだとサムトーは思った。
「サムトーだったな。アスリは俺達の大切な仲間だ。今日一日、お礼だか何だか知らないが、大事にしてやってくれよ」
なるほど、いい人たちばかりとアスリが言った理由が分かる。これだけ人数がいると、相性の良し悪しはどうしても出てくる。それでも同じ侯爵家に仕える者として、仲間意識が育まれているようだった。
「分かってる。一人じゃつまらないから案内を頼んだんだ。楽しく見物してくるさ」
「おう、頼んだぜ。機会があったら、ここの飯食わせてやるよ。仕事に戻るから、それじゃあな」
そう言って、軽く手を振って仕事に戻っていった。
「俺達も行こうか」
「はい」
二人は使用人棟を出て、城内の最後に内城の城壁を見て回った。
万一、城下町まで占領されても、この城壁を頼りに、籠城が可能な造りになっている。頑丈で高く、内側からはあちこちに登れる箇所がある。所々に出っ張った箇所があり、弓矢などで攻撃できる穴が開いている。防御に適した構造だった。
城内を一通り回ったところで、そろそろ昼食の時間が近くなっていた。
「商店街に戻って、昼飯にしよう。もちろん、今日のお礼に俺の奢りだ」
「そんな、悪いですよ。私がサムトーさんに助けてもらったのに」
「いいの、いいの。その代わり、おいしい店に案内頼むよ」
二人は通用門へと向かった。
門番が驚いて声を掛けてきた。
「お前さん達、城外から正門に行ったはずじゃ……」
それが城内から出てきたのだから、驚きも当然だ。
今日何度目だろう。同じ説明をアスリはした。
「ローレンツ様から通行許可証を頂きまして。城内を見物してました」
サムトーはまたもその許可証を見せた。そして、門番達の反応も、他の人達と似たようなものだった。
「公子様らしいな。どうやって気に入られたんだ」
「ん、突然ラフティって部下に打ち掛かられて、三合防いだらくれた」
「何、お前さん、ラフティ様の攻撃を防いだのか! あの人は、この城でも三本の指に入るほどの腕前だぞ。勝てるのは、公子とオットー騎士隊長くらいのもんだ。よく無事だったな」
門番の驚きも相当のものだった。言葉通りだとすれば、サムトーでも、勝つには相当苦労するということだ。かつて、カムファという町で手合わせした騎士を思い出す。あの時は槍だったが、その騎士も凄腕で、防御に徹しても防ぎ切れないだろうと思わせる技量があった。
「なるほど、道理で強いわけだ。見事な連続技だったよ」
「はあ、ラフティ様の感想がそんなだとは、お前さんの強さは相当のものだなあ」
あ、まともに腕前を披露しすぎたか。サムトーは自分のうかつさを少し後悔した。とは言え、武芸に達者な人間を見慣れているから、公子も通行許可証をくれたんだろうし。素性を詮索しようとかはないよな。もしあるなら、あの場で問い詰められたはずだと思い、今さらのように安堵する。
「まあ、でなきゃ旅の剣士なんて、できないからな」
そう言ってごまかす。
目を丸くしていたのはアスリだった。正門での攻防、本当に何が起きたか分かっておらず、城でも三番目に強い騎士の攻撃を防いだ凄さというのを、ここで初めて知ったのだった。昨日の男達など、口先で追い払えるほど強いのにも納得がいった。
「サムトーさん、すごく強い人だったんですね」
真価を知ったアスリが、感心した表情で言った。
サムトーが少し照れながら、先を促した。
「まあね。そんな事より、昼飯行こう。門番さん達、それじゃあ」
そうして、アスリを急かすようにして、商店街へと向かうのだった。
「悩みますね。どこの店もおいしいですから」
二人が商店街に着いて、アスリの第一声がこれだった。それはそうだろうと思う。どの店も店構えが良く、繁盛しているのが分かる。
サムトーが助け舟を出す。
「この地方の特産とかって何かある?」
「そうですね。……そう言えば、ここでは普通ですが、米はここより南でないと作られてないと聞いたことがあります」
「米って何?」
サムトーは今まで北の方を中心に回ってきた。畑作も小麦主体で、米が作られているのは限られた地域だった。これまでに、米を交易で仕入れている街もあったはずなので、食べる機会もあったのだが、ここまでそれを見逃してきていたのだった。
「えっと、粒のまま食べる穀物で、パエリアとかピラフとか、加熱した料理に使います」
「麦粥みたいなものかな」
「いえ、水分は飛ばすので、しっかり歯ごたえがあります」
百聞は一見に如かずである。
「なら、ぜひその米というのを食べてみたい。いいかな」
「分かりました。案内します」
そうして一軒の料理屋に来た。パエリアとサラダ、スープのセットを頼んだ。銅貨九枚、普通の昼食にしてはやや安い。
様々な炒めた具材に米を加え、しっかり炒めて煮汁で煮詰める。海は遠いので具材に魚介類はない。鶏肉やベーコン、タマネギ、ニンジン、干しトマトなどである。煮た後に蒸らしもあるので、多少の時間がかかった。その間に、サラダとスープは平らげてしまった。
やがて出てきたパエリアは香ばしく、ピンと立つ米の粒が食欲をそそった。
「では、早速」
スプーンですくって口へと運ぶ。最初に香ばしい香りが口の中に広がり、後から具材とスープ、米の旨味が混然一体となって押し寄せてくる。粒をかみ砕く食感も心地良い。
「なるほど、こいつはうまいわ」
初めての米料理は好みに合った。じっくりと味わいながら食べていく。
案内してきたアスリも、気に入った様子を見て安堵していた。同じように味わいながら食べている。食が細めなので、ペースもゆっくりだった。
食べながらサムトーが礼を言う。
「いやあ、ありがとね。いいとこ教えてくれて。米ってのも、パスタやパンと違ったうまさがあるなあ」
「気に入ってもらえたようで、良かったです」
「ところでさ、アスリはいつから侯爵家で働いてるの?」
「十才からです。もう六年になりますね」
「そっか、十六才だったのか。ごめん、もっと年下かと思ってた。俺は十九だ。小さい子にはおじさんって呼ばれちゃうけどね」
アスリが軽く笑った。よし、今回はウケた。
「十才からだと、いろいろ苦労も多かっただろうね」
大体の場合、七才から十一才くらいで三年ほど学舎に通って学問を学ぶ。その後十二才くらいから見習いとして働きだすのが普通だ。
「そうでもないです。仕事もできる範囲だけさせてもらって、教わりながらやってるうちに、できることも増えましたし。読み書きも、学舎で学びきれなかったのを使用人の先輩達に教わりましたから」
「いや、立派だよ。仕事も読み書きも努力してたんだな。俺なんか、今は気ままな旅暮らし。宿屋の渡り歩きで仕事もしてないしな。頭が下がるよ」
「そんな、おほめ頂くようなことでは……」
「うん、かわいいし、努力家だし、アスリは素敵なお嬢さんだよ」
こういうところで調子に乗るのがサムトーである。
ほめ倒されて、アスリがわずかに顔を赤くしてうつむいてしまった。それをごまかすように、食事を続ける。
「昨日の男達に感謝だな。おかげで、こんないい娘に出会えたんだし」
サムトーの細かい追撃に、顔を赤らめながらアスリはやっと答えた。
「こんな私でも、そんな風に言ってもらえるとうれしいです」
「お、良かった。そう思ってくれると、俺もうれしいよ」
そうこうしているうちに、和やかな食事と会話も終わりとなった。宣言通り、サムトーが勘定を支払い、店を出る。
「さて、どこかいいところあるかな」
「そうですね、お金持ちの方々の家とかは、どこも庭が見事だとか。後は工房街、露店市、競馬場などでしょうか」
「へえ、競馬場があるんだ。アスリは行ったことある?」
「いえ、賭け事の場所なんですよね。馬を競争させるっていう。外出もあまりしないので、用事の途中、遠くに見たことくらいしかないです」
競馬場も、城塞都市クローツェルと城塞都市グロスターで二度見物しているが、それ以来である。たまには覗いてみるのも悪くない。
「ふーん、ちょっとだけ覗いて行こうか」
そんな流れで、今度は競馬場に行くことになったのだった。
大広場からしばらく東に行ったところに競馬場はあった。競馬用の馬を育成している牧場への出入りを考えて、東門に近い位置に建てられていた。観客が二万人ほどは入れる広い施設だった。
競馬は毎日行っているわけではない。それでもちょうど開催日に当たったのだから、サムトーの運も折り紙付きであった。
大勢の観客で賑わう中、まずはパドックへと向かう。馬の待機所で、騎手が馬の調子を最終確認する場所でもある。下見所として、観客が馬の調子を見て、どの馬に賭けるのか参考にすることもできる。
城勤めでも、侍女の仕事では滅多に馬に接することはない。アスリは間近に馬を見るのは今日二回目である。それでも少し驚いていた。
「大きい動物って、見てるとドキドキします」
「そうだねえ。特に競馬の馬見ると、そう思うかも。レースをするために、少し興奮気味になってるからね。馬車馬とか乳牛とかは、大人しくて優しい感じだけどね」
そう言うサムトーは、一戦だけ賭けようと、騎馬の様子をじっくり観察していた。
「三番かな。騎手と馬が一体って感じするし、馬の調子も良さそうだ」
「賭けるんですか」
「一回だけ、運試しにね。アスリも賭けてみる?」
「なら、サムトーさんと同じのにしてみます」
「分かった。じゃあ馬券買いに行こう。でも、競馬って熱くなってのめり込むと大変だから、気を付けてね」
「私一人じゃ競馬場来ないから大丈夫です」
これで儲けようという気はないので、二人は単勝で三番を銀貨一枚分だけ買った。そして、観客席へと移動し、空いている座席に二人で座る。
しばらくして、パドックにいた馬たちがゲートへと入って来た。興奮しすぎたり調子が悪かったりする馬は、このゲート入りでもかなり騎手が苦労する。今回のレースでは、みな特に問題なくゲート入りできていた。
いよいよスタートである。
合図のラッパと共にゲートが開かれ、一斉に馬が駆け出す。猛然と走る馬達は迫力があり、馬蹄の響きが轟くように聞こえる。
二人が賭けた三番は、現在五番手だった。内周で力を貯めるように先頭集団に位置していた。コーナーを回っていくうちに、順位を少しずつ上げていく。その様子を見て、アスリが少し興奮気味になった。顔が少し赤い。
「サムトーさん、三位にまで上がりましたよ!」
「おう、あとちょっと頑張れ~」
観客達も、それぞれ自分の賭けた馬を熱くなって応援していた。二人もその中に混じっているが、大人しい方だろう。絶叫している客もいる。
馬群が最終コーナーを回って直線に入った。最後の勝負所である。どの騎手も鞭を入れ、自分の馬を必死になって激励する。三番の馬が徐々に上がってきて、ゴールの手前で先頭に立った。そしてそのままゴールイン。見事に勝ってくれた。
「やりましたね、サムトーさん、勝ちましたよ!」
馬達がクールダウンで歩いているのを見ながら、アスリが興奮して大きな声を出した。賭け事で勝つなど、人生で初めての体験だったのだろう。うれしそうに笑顔を浮かべていた。
「やったね。三番、よく頑張ったよ」
「はい、やりました」
中々興奮が収まらないようだった。
倍率は二.五倍。銀貨一枚は銅貨五十枚だから、銀貨一枚と銅貨二十五枚の儲けである。一回勝つとその次も、となりやすい。さすがにサムトーも、アスリがこれ以上深みにはまったらマズかろうと考えていた。今回はこの一レースで終わりにするのがいいだろう。
二人は馬券を換金すると、競馬場を出た。
ようやく落ち着いてきたアスリが、感想を言った。
「競馬って、迫力もすごいですけど、賭けをすると、その馬に勝って欲しくなるから、夢中で応援してしまいますね。競馬に熱中する人の気持ちが分かりました。負け続けて破産してしまう人がいるのも納得です」
「そうだね。アスリもすごく興奮してたよ」
サムトーに指摘され、今度は恥ずかしさでそばかすの残る顔を赤くした。年相応にかわいらしい。
「やだ、恥ずかしいです。知ってる人に見られなくて良かったです。今日だけの貴重な体験ってことで、胸に収めておきます」
「貴重な体験ができて良かった。さて、どっかで一休みしようか」
サムトーはそう言うと、また商店街へと戻っていく。アスリもその後に続いた。
しばらく歩いて、一軒の喫茶店に入る。さすがは大都市、お茶菓子を提供する店でも、十分商売が成り立つほど客がいるのである。田舎町ではこうはいかない。
テーブルに向かい合わせに座ると、生クリームと果物のケーキと紅茶のセットを頼む。もちろん、ここもサムトーの奢りだ。
「奢ってもらってばかりですみません」
「気にしないで。俺が寄りたかったんだから、俺が出すのは当然だって」
給仕が二人分のケーキと紅茶を置いて下がった。
「ケーキなんて、クローディア様のお誕生日の時、残り物を頂いた時以来です」
「使用人仲間とお茶する時とかは?」
「こんな贅沢できませんよ。普通の焼き菓子とかですね」
アスリは紅茶を一口味わってから、フォークでケーキを切り、口へと運んだ。クリームの濃い甘さとスポンジの淡い甘さ、果物の甘酸っぱさが口の中を溶かすような感触に、思わず顔をほころばせる。
「分かっていても、おいしい物を食べるとうれしいですね」
「喜んでもらえて何より」
サムトーもケーキを味わい、笑顔を返す。
「アスリ、今日は楽しめたみたいで良かった。昨日は休みの日、何していいか困ってるとか言ってたから」
「そう言えば、そうでしたね……」
アスリが少し考えこんだ。改めて、自分が一人で過ごしてきた休みの日のことを、振り返っているようだった。
「そっか、こうやって誰かと過ごして、楽しい時間にするって方法もあるんですね。それが分かったのも、サムトーさんのおかげです」
「うん。俺も旅の途中、誰かが一緒にいてくれたおかげで、退屈しないで済んだことが何度もあるからね。俺なんかじゃなくて、仲の良い相手が一緒なら、もっと楽しく過ごせると思うよ」
サムトーは真面目に答えたが、アスリは首を振った。
「そんな、俺なんかなんて言わないで下さい。サムトーさんはいい人だし、優しいし、素敵な人だから、一緒にいると楽しいです」
そんな答えを返してから、アスリは、これでは好きだと言っているようなものだと気付いて、顔を真っ赤にした。今日何度目のことだろう。
そして、そういうのを見ると、すぐに調子に乗るのがサムトーである。
「うれしいこと言ってくれるねえ。俺こそ、こんなかわいい娘と一緒に過ごせて、すごく楽しいよ」
「そんな、私なんか、背も低めだし、そばかすだって残ってるし、体つきも貧相だし、かわいくなんて……」
謙遜されると追撃したくなるのも性分である。
「見た目も含めて、全部ひっくるめてかわいいって。それから、競馬場で興奮してた時とか、困ってる時とか、俺のことほめてくれたりとか、見てて素直で気が優しいんだなって思った。だから、アスリは、内面もきれいな娘なんだよ」
このまま攻め続けられると耐えられないと思ったのだろう。アスリがうつむきながら、必死で話題を変えようと考え込んでいた。しばらくして、解答を見つけて言葉に出した。
「あ、そう言えば、旅の間、楽しかったのって、どんな人と一緒の時だったんですか」
それが照れ隠しなのは十分承知しているが、サムトーもここで追撃するほど意地が悪くはない。代わりに過去の出来事を話した。
「そうだなあ、例えば、嫌な奴に付きまとわれていたのを助けた、雑貨屋のお嬢さん。店の手伝いとかしてるうちに仲良くなって、結局新年祭も一緒に過ごしたんだよ。お互い、相手の気持ちが分かるくらいになって、すごく気楽で、楽しく過ごせるようになったなあ」
「なるほど。気楽でいられるって、大事かもしれませんね」
「そうだね。他にも、しばらく一緒に旅した小さな女の子とか、貴族なのに偉そうにしないお嬢様とか、ちょっと不器用なところのある騎士様とか、気兼ねなく話ができて、楽しかったよなあ」
あまり遠慮という言葉に縁のないサムトーだが、それでもいつでも気兼ねなく話せるわけではない。やはり、仲が良くならないと、話しにくいところはどうしてもあるものだった。
「それと一緒で、アスリも話しやすくていいな。身構えたりしないで、自然に話せるし」
「そうですか。そう言ってもらえるとうれしいです」
安堵したように微笑んだ。本人は卑下していたが、その姿はやはり十分にかわいらしい。この前絡んでいた男達も見る目があったわけだ。
「アスリは、使用人仲間で、仲の良い友達とかはいないの?」
「仲が良いというほどではありませんが、同じ年のマーシャとロッティとは、休憩時間に話すことはありますね」
「そっか。話せる相手がいるなら大丈夫。これからも、いろいろな相手といろいろな話をして、少しずつ仲良くなっていけばいいさ。アスリはいい娘だから、きっと何人もの仲間が、アスリと一緒にいて楽しいって、思ってくれるようになるさ」
サムトーの言葉は、これまで孤立しがちだったアスリの心を、大きく揺さぶった。自分から話していくだけで、仲間の輪を広げ、楽しく過ごせる時間を増やすという発想に、これまで至らなかったのである。だが、会ってまだ二日しか経っていないこの人と話して、確かに話を積み重ねることで、仲良くなっていくことができるのだと、強く実感したのだった。
「ごめんなさい、つまらない話ですけど、聞いてくれますか」
「もちろん。何でも聞くよ」
「ありがとうございます。実は私、両親に売られたんです」
せっかく明るくなった表情を暗くして、アスリは話し始めた。
「両親は借金を抱えていて、働いても稼ぎが少なく、いつまでたってもそれが返せなかったんです。私が十才になってからしばらくして、城の使用人として奉公させるならその借金を肩代わりしてやろうと、侯爵家の執事から街の金貸しを通して話があったのだそうです。侯爵家は百人以上使用人がいますが、それでもいつも人手が不足しがちなものですから」
「それで、アスリは城の使用人になったのか」
「はい。両親も苦しんだことと思いますが、いつまでも借金が返せないのも変わらない事実でした。仕方なくではありますが、私を侯爵家に売ることにしたわけです。その後、借金のかたに娘を売ったという悪評を怖れて、両親は別の町へと去っていきました」
そんなことがあってから、アスリは、こんな自分に価値はないと思い込むようになった。それでも、女官長のカーラを始め、使用人仲間は何かと気にかけ、いろいろと教えてくれたのだった。そのおかげで、今では大体の仕事をしっかりとこなせるようになった。だが、仕事をしているから必要とされている、そんな思いが強くなる一方だった。もし仕事ができなければ、こんな自分に価値はないという考えから、解放されないでいた。
だから、仕事のない休日には、何をして良いかわからなかったのだ。自分の存在に意味などない。することも考えつかない。それはとても空しい生き方だった。
「私には価値がないって、ずっと思っていました。ですが、親切にしてくれたみなさんは、私のことを大切にしてくれていたんですね。それに、今日サムトーさんは、全部ひっくるめてかわいいって言ってくれました。価値のあるなしでなく、私はいてもいい存在だって気付きました。それはうれしい気付きでした」
両親に売られた日から、働くことにしか存在意義がないと思っていた。だが、自分を肯定してくれる人がいてくれて、自分は生きていて良いのだと、改めて考え直せたのだった。
「それに今日、サムトーさんと過ごしたおかげで、人と楽しい時間を過ごせば良いのだと気付きました。だから、私も、誰かと楽しく過ごせる時間を大切にします」
言い終えて気が抜けたようで、アスリがふうと大きく息をついた。そして憑き物が落ちたように笑顔になった。彼女にとって、このお調子者との出会いは、大きな人生の転機となったのだった。
「こんな風に思えるようになったのも、みんなサムトーさんのおかげです。だから、今日は本当にありがとうございました」
深々と頭を下げる。
サムトーも、アスリが一気に明るくなったのを喜んでいた。
「それは何より。それこそ、こんなお調子者が役に立てて光栄だよ。さ、気分もすっきりしたところで、ケーキ食べちゃおう」
「はい」
アスリは顔を上げて、ケーキの残りを平らげ始めた。気分がすっきりとは今の自分にぴったりだと思った。ケーキが一層おいしく感じる。
しばらく、二人は無言でケーキを食べていた。
そこでアスリは大事なことに気付いた。この人とは、今度いつ会えるのだろうか。
「サムトーさんは旅人ですよね。いつまでタルストにいるんですか」
「とりあえず、後二泊、宿屋はとったけど」
「宿はどちらですか」
「木犀亭に泊ってるよ。どうしたの、急に」
今晩と明日の晩泊ったら、この人はまた旅に出てしまう。さすがに休みは今日しかない。今日別れて、それっきりになってしまうのは嫌だった。まだ一緒にいる時間が欲しいと思った。しかし、その思いをうまく言葉にできなくて、もどかしさを感じていた。
「俺に気を遣わず、言いたいことがあったら言ってね」
サムトーはマイペースだが、本当に何を言っても大丈夫なのは、これまでの会話で証明済みだ。アスリも意を決した。
「あのですね、私、サムトーさんとまた会いたいです」
言葉足らずだが、真意は伝わってきた。ありがたいことだと思う。こんな俺なんかに会いたいと言ってくれるとは。城の仕事があって会う時間が取れないから、こんなことを言い出したのも分かった。
「なかなかに難問だなあ。時間取れるとすれば、夜だけだろ。夜って、城に出入りできるのかな」
「さすがに夜八時、閉門の合図で全ての門が閉じてしまいます。出入りできるのは朝八時からその時間までですね」
「アスリの仕事って、何時まで?」
「日によって違いますけど、あ、明日は早番で、クローディア様のお世話なので、昼の三時で終わりです。明後日は昼番で、使用人棟で仕事した後、夕食までクローディア様のお世話になります。その次の日は夜番で、午前中が空きで、午後から翌朝まで、ずっとクローディア様付きになります」
「分かった。じゃあ、明日の三時、俺が城の使用人棟に行くよ。それで大丈夫かな」
アスリの表情がパッと明るくなった。少なくとも明日は会えるのだ。
「はい、うれしいです」
「それに、今日もまだ少し時間あるし。露店でも冷やかしに行こう」
「そうですね。せっかくですから、夕方まで楽しく過ごしましょう」
そうして二人はケーキと紅茶を片付け、タルストの街の南にある市へと向かったのだった。
どこの街でもそうだが、露店の集まる市は猥雑だった。
道具屋の隣に茶葉の店、その隣に古着屋、その隣が乾物屋といった具合に、雑多に店が入り組んでいる。品揃えもまちまちで、その分値段の安い店が多い。懐に優しいので、大勢の客で賑わっていた。
その間をすり抜けるようにしながら、一つ一つ露店を見て回る。ありふれた品が格安だったり、珍しい品が並んでいたり、眺めていて飽きない。
自分に価値がないと思い込んでいたアスリは、装飾品や宝石類などに興味がなく、またほとんど城下町を出たことがなかったことから、風景画にとても興味を持った。名もない画家が描いた物なので価格が安く、銀貨一枚から五枚程度の品が多かった。とは言え、買う金も飾る場所もないので、眺めるだけだったが。それでも世の中にはいろいろな景色があるものだと、とても感心しながら眺めていた。
調理にも興味があり、乾物屋など食材の店も飽きずに眺めていた。干したトマトなどの野菜やハーブ類を見て、何に使うかをサムトーに語っては、楽しそうにしていた。また、先程ケーキを食べたが、露店の誘惑に負け、サムトーは焼き菓子を二つ買うと、アスリと一緒に頬張った。
露店を楽しんでいるうちに五時の鐘が鳴り、空も赤みが増してきた。そろそろ引き上げ時だった。
さすがに全て見て回れなかったので、少し名残惜しそうにしながら、二人は市を離れた。南北を結ぶ街道に行き、そこから北の城へと向かう。
やがて城壁が見えてきた頃、アスリが不意に言った。
「今日のお礼がまだでした。少し顔を寄せてくれませんか」
お礼なら散々ありがとうと言われたと思ったが、サムトーは言われた通りに顔を寄せた。
アスリはそっと顔を近づけると、唇を重ねてきた。数秒で顔を離し、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「私となんかじゃ嫌かもしれないですけど、何もない私からの精一杯のお礼です」
かわいい女の子にここまでされて、さすがにうれしくないわけがない。
「驚いたけど、うれしかったよ。ありがとう、アスリ」
「本当ですか。良かったです」
顔を赤らめたまま、恥ずかしそうに返事をして歩き出す。だが、意を決した行動が実って、内心とても喜んでもいた。
サムトーはそんなアスリを城の通用門まで送ってきた。
「じゃあ、明日、昼の三時に使用人棟に来るよ」
「はい。ありがとう、サムトーさん」
そうして二人はそれぞれの場所へと戻ったのだった。
翌日、サムトーは、日課を済ませ、朝食を取った後、三時まで何をして過ごそうか考えながら、部屋でのんびりしていた。
そこへノックの音が響いた。何事かと戸を開けてみると、三時に約束したはずのアスリが目の前に立っていた。さすがにびっくりである。
「おはよう、アスリ、朝からどうしたの」
アスリは急いで来たらしく、息が少し上がっていた。呼吸を落ち着けようと、大きく息を吸ったり吐いたりしてから、口を開いた。
「おはようございます、サムトーさん。大変なんです。クローディア様が、侯爵令嬢様が、サムトーさんをお連れしなさいと」
「おやおや。何でそんな話が」
「はい。私が悪かったのですが……」
アスリが事情を説明した。
朝、起床したクローディアの髪を梳いたり着替えの手伝いをしたりと、世話をしていたのだが、アスリが以前と変わって明るい様子で、それがクローディアには気にかかったらしい。その事情を問われて、昨日の経緯を話したところ、騎士ラフティの打ち込みを三回も防いだ話に、クローディアは食い付いたのだった。彼女も実はかなりの剣の使い手で、兄ローレンツほどではないが、何回かに一度はラフティに勝てるほどの実力があったのだ。
兄でさえ認めたその実力というを、ぜひ直接見てみたいというのが、クローディアの希望だった。侯爵令嬢がそう言うからには、使用人としては、可能ならば即実現する必要がある。
アスリはそのサムトーを知る唯一の人物だったので、仕事を他の使用人に任せ、こうして呼びに来たという次第だった。
「はあ、そりゃ大変だったね」
「その代わり、サムトーさんに会えましたから、うれしいです」
アスリが笑顔を浮かべる。そういうことを真っ直ぐ言えるようになったのも、彼女の大きな変化だろう。
「それで、今から一緒に城まで来て頂けませんか」
侯爵令嬢の希望とは命令にも等しい。ここで貴族の命に背けば、アスリにも罪が及ぶだろう。さすがに断れない。
「分かった。でも、お茶くらい飲んでからにしよう」
部屋の机の上に、麦茶の入ったポットがあった。朝食後に宿で用意してもらったものである。カップにそれを注ぐと、アスリに差し出した。急いでいたアスリものどが渇いていて、ゆっくり飲み干すと大きく息をついた。
「ありがとうございました」
サムトーはポットの残りをカップに注ぎ、飲み干す。
「それじゃ、行こうか」
腰にポーチと水筒を付け、部屋から出た。途中、ポットとカップを返し、井戸で水筒に水を汲む。
そして宿を出て、城の通用門へと向かった。
「本当にごめんなさい。私の不用意な言葉で、サムトーさんを巻き込んでしまって」
「気にしなくていいって。侯爵令嬢直々のご指名とは光栄なことだ」
「ですが、クローディア様のことですから、きっと直接手合わせという話になります。かなりお強いですから、加減が難しいと思います」
「まあ、何とかなるでしょ。これでも剣士だから」
なるほど、騎士ラフティに勝つこともあるという実力は、どうやら本物のようだ。むしろ、こちらから拝見させてもらえて、ありがたい。
一人旅に出てから、面倒事を抱えると、普段より楽しく感じてしまうのはなぜだろう。結局、こういうのが好きな性分なのだろう。自分で自分に答えを出すと、サムトーは意気揚々と歩いていくのだった。
城内に入ると、通用門に案内の騎士が待っていた。アスリはクローディアへの報告のため、侯爵の居館へと向かっていった。
騎士に連れられて、騎士棟の中へと入る。騎士棟は、騎士が執務などを行う場所だが、訓練場も何部屋か作られている。そのうち一室に通され、しばらく待つように言われた。案内の騎士も、自分の仕事があるのか、部屋から出て行った。サムトー一人が残される。
八メートル四方ほどの壁も床も木張りの部屋だった。南側一面に採光のために窓が並んでいる。壁には木剣、練習用の槍、弓などが掛けられ、奥の方には打ち込み用の木の人型もある。
することもないので、壁に掛けられた装備を眺める。木剣も長剣から短剣程度のものまで、何種類か用意してあった。槍も何種類か太さと長さの異なるものがあった。弓は長弓と短弓の二種類だった。
やはり貴族だけに他の用事があるのだろう。まだホストは現れない。
暇になったので、床に寝そべってみる。掃除が行き届いていて、床はきれいだった。天井は高めで、槍を振り回すのに十分である。さすがは侯爵家の施設だった。
結局、一時間近く待たされただろうか。
廊下から人の足跡が響いてきた。それも結構な人数である。
サムトーは立ち上がると、扉の方を向いて待った。
やがて現れたのは、昨日の公子ローレンツと配下の騎士五人、侯爵令嬢クローディアとアスリを含むその使用人二人だった。使用人以外は、皆訓練服を着ていた。
「待たせてすまない、サムトー。また急な呼び出しに応じてくれたこと、礼を言う。昨日見知っていると思うが、私は侯爵家嫡子ローレンツ、この五人は直属の騎士達だ。それから、こちらは我が妹のクローディア。今日はよろしく頼む」
こうした時は、まず序列の高い者から挨拶するのが慣習だった。続いてクローディアが口を開いた。
「私がクローディアです。うちのアスリが知り合いだと聞いて、今日はわがままを言って手間を取らせましたね。お兄様から、相当の腕だと聞いています。期待していますよ」
そう言うと、壁にある木剣のうち、長剣と短剣の中間くらいの剣を手に取った。どうやら、その長さが得意の武器らしい。
「サムトーも好きな武器をお取りなさい」
どうやらいきなりご令嬢と立ち合うようだ。サムトーも彼女と同じ武器を選んで手に取った。
「言っておきますが、手加減無用です。それから、わざと負けたりしないように」
侯爵令嬢にケガをさせる訳にはいかないが、わざと負けるなと先に釘を刺されてしまった。上手に勝とうとするとなると、結構難題そうだ。
「では、お兄様、差配を」
「分かった。では、両者構え」
クローディアは基本通りの中段に構える。サムトーは右前に剣を流した。
「始め!」
ローレンツの合図で、クローディアが間合いを詰めて打ち掛かってきた。上段、斬り下げ、横薙ぎ、突き、多彩な攻撃を繰り出してくる。サムトーも驚くほどの技の切れだった。さすがに油断は捨てて、丁寧に剣で攻撃を受け流していく。
間合いギリギリのところで猛攻を加えてくるクローディア。なるほど、並の騎士では相手にならないわけだと、サムトーは感心しながら、彼女の攻撃を防いでいく。十数合打ち合って、サムトーが軽く反撃を繰り出すが、見事な足捌きで避けられてしまった。
クローディアが間合いを少し詰めた。木剣でも当たると大ケガ間違いなしの攻撃が続く。この間合いでは攻撃側が有利すぎるので、サムトーは何度か攻撃を受け流した後、間合いをわずかに詰め、防御に有利な態勢に持ち込もうとした。
クローディアも並の腕ではない。その意図を読み取り、間合いをわずかに離そうと小刻みに動く。互いに自分に有利な間合いを取ろうと、攻防を行いながら足を捌く。
やがて、三十数合打ち合っても、サムトーの防御が崩せず、クローディアが焦り始めた。一度大きく下がって、態勢と息を整える。
そのわずかな隙に、サムトーが滑るように間境を超えた。不意の攻撃に、クローディアが横薙ぎの反撃を振るった。サムトーはその間合いを正確に見切り、わずかに下がって紙一重でそれを避けると、振るわれた相手の剣を横から強打した。振るった勢いに強打の勢いが加わり、てこの原理で威力が増したその一撃に、クローディアは剣を手放してしまった。
「それまで。サムトーの勝利である」
ローレンツが宣言する。クローディアが、少し荒くした息を大きく吸い込み、大きく吐き出した。
「私の負けですね。サムトー、話通り、見事な腕前でした」
「おほめ頂き、ありがとうございます」
サムトーが胸に手を当てて礼を施す。貴族令嬢相手に勝った上、無礼を働けば大変なことになる。
「次は私の番だ。今の勝負を見て、俄然やる気が出たぞ」
ローレンツが長剣を手に取った。サムトーも武器を持ち替え、同じ剣を手に取る。
「クローディア、合図を頼む」
配下の騎士でなく、妹を指名するあたり、この兄妹は相当仲が良いのだろう。クローディアが短剣を片付けると、号令をかけた。
「両者構え、始め!」
ローレンツは素早い足捌きで間境を越えると、反撃の難しい強烈な一撃を上段から放った。剣を当てて受け流すと、下がって間合いを外す。一撃必殺の技を得意とするようだった。
間合いを出入りしながら、鋭い攻撃が続く。丁寧に受け流すが、一撃が重く、剣の強度に不安が出てきた。かと言って、一撃を加えた後、相手はすぐに下がって間合いを取るため、うかつに反撃できない。容赦ない一撃を放てれば話は別だが、そうもいかない。これほどの使い手相手に、ケガをさせずに勝つというのは、重いハンディだった。
二十数合打ち合って、このままでは剣が折られると感じたサムトーは、ローレンツの攻撃を受け流さず、体ごとかわして、相手が下がるのに合わせて突進した。待ち構えていたように斬り下げられた剣をこれも体ごとかわすと、その剣を上から強打した。先程と同じく、勢いの相乗効果で、ローレンツが剣を取り落とした。
「それまで。サムトーの勝利である」
五人の騎士達がどよめいた。彼の主人は五人の誰よりも強い。それを見事に打ち破ったサムトーの腕前に、心底驚いていた。
「完敗だな。見事だった、サムトー」
そう言って、ローレンツが手を差し出してきた。
「ありがとうございます。さすが公子、見事な腕前でした」
サムトーは胸に手を当てて一礼すると、その手を握り返した。
「相手が振るった武器にこそ隙がある、か。なるほど、良いことを学ばせてもらった」
「恐縮です。旅先でトラブルに巻き込まれた場合、どうしても必要になる技ですので」
「トラブルと言うと、野盗にでも襲われたりするのか」
「そうです。斬り捨てる訳にもいかず、かといって放置もできない場合に、無力化するのに最適なのです」
サムトーは半分本当のことを言ってごまかした。元々は命懸けの剣闘で、生き延びるために修得した技だった。素性が知れれば処刑される逃亡中の身、本当のことは言えない。何せ、ここにいるのは貴族なのだ。ここノイスタット侯爵領周辺には闘技場がなく、二人共剣闘試合を見たことがないようだった。おかげで素性には全く触れられずに済んでいる。知られたら大事になるのは間違いない。表情に出さず、内心で胸をなでおろす。
「いや、世の中は広い。さすがは旅の剣士、よく修練を積んだのであろう。サムトーのような凄腕の剣を体験できたのは、代え難い財産になった。礼を言う」
「私からも礼を申します。良き体験でした」
貴族二人から礼を言われ、さすがにこそばゆい。
「お褒めのお言葉、光栄に存じます」
ひざまずき、頭を下げる。最大限の礼を返した。普段お調子者のサムトーでも、この位の礼はするのである。
「ところでサムトー、一昨日、アスリが男達に絡まれているのを、助けてくれたとか。その礼もまだでしたね。改めて礼を申します」
クローディアが頭を下げた。続けて言う。
「聞けば、昨日は二人楽しく過ごしていたとか。私も、大切な侍女を楽しませてもらえて、うれしく思います」
改めて言われると、結構恥ずかしい話である。アスリは顔を赤くしてうつむいているし、もう一人の侍女は、顔がにやけるのを必死でこらえているようだった。
「私からの礼として、金貨三枚と、使用人棟へ自由に出入りし、施設を使える権限を、サムトーに与えることとします。それならアスリとも、空いた時間に、いつでも会えるでしょう。では、これから女官長に話を通しに行くことにしましょう」
クローディアのお節介だった。彼女自身は貴族の令嬢で、自由な恋愛などはできない。使用人に良い仲の相手がいるのなら、せめてもの便宜を図ろうという心遣いであり、本人としては粋な計らいのつもりだった。
サムトーからすれば、明日一泊したらまた旅に出る予定だった。だが、別に目的地があるわけでもない。ここまでお膳立てされては、しばらくはこのタルストの街に逗留するのが良いかもしれないと思った。
ローレンツも礼を言った。
「サムトー、今日はためになったぞ。礼を言う。またの機会があれば、よろしく頼む。では、私も政務に戻ることにしよう」
そうして配下の騎士達を連れて訓練場を去った。
「では、私達も参りますよ」
クローディアの先導に従い、サムトーと侍女二人は使用人棟へと向かった。
女官長のカーラを呼び、先程の決定を伝える。そして紙とペンを借り、サムトーの出入りを正式に認め、使用人同等に扱い、食事を取ることと部屋の使用を認めると記し、サインした。それをアスリに渡し、連絡事項を伝える掲示板に貼り付けさせた。
「せっかくですから、サムトーもここで昼食を取ると良いでしょう。私の食事の後になりますが、それならアスリも一緒に昼食を取れますね」
クローディアがそう言ってきた。せっかくの好意なのでサムトーが了承すると、それを見届け、侍女二人を連れて立ち去っていった。
カーラと料理長のハルマン他、料理人達や掃除をしていた使用人達が、ごぞって集まってきた。
「一体、何があったのですか」
一同を代表して、カーラが尋ねてきた。部外者に、城の施設を自由に使わせる許可を出すなど、よほどの事でもなければあり得ないことだ。当然の疑問である。
サムトーが困惑しつつ答えた。自身、突然の出来事で、あまり納得しきれていなかった。
「いや、クローディア様、ローレンツ様と手合わせすることになって。手を抜くなと言われたので、二人に勝ったんだよ。そしたら、クローディア様が今日の礼だと言って、ここへの出入りの許可をもらったんだ」
「あのお二人に勝ったのか!」
「お二人は、近隣でも名の知れた強い剣士だぞ」
使用人達がざわめく。そして問題は別にある。
カーラが一番重要なことを指摘した。
「部屋の使用を認めるということは、ここで寝泊まりして良いという意味になります。今は宿屋に泊まっているとか。どうします、こちらに移って来ますか」
「そういう意味だったのか。好きな時に来ていいって意味だと思ってた」
サムトーもそこはうっかり理解し損ねていた。要するに、ただ飯、ただ宿ということになる。だが、いくらここの住人は良い人ばかりだと、アスリは言っていたが、突然過ぎて嫌な思いをする人もいるだろう。
「みなさんはいいんですか、俺みたいなどこの馬の骨とも分からない奴が、突然一緒に寝泊まりするのって」
サムトーの質問に答えたのはハルマンだった。
「そんなの、ここには百人からが住んでいるんだ。一人くらい増えたって、どうということはないさ。それに、お前さんはいい奴みたいだからな。そういう奴は大歓迎だよ」
彼の豪快な気質が良く出ていた。周りの使用人達も、面白そうだといった表情を浮かべている。どうやら、厄介になっても良さそうだった。
「ありがとう。じゃあ、宿を引き上げて、今日から使用人棟でお世話になろうと思います」
「分かりました。ではよろしくお願いします」
「おう、歓迎するぞ」
「よろしく頼むな、剣士の兄ちゃん」
口々に歓迎の意を表す。あっさりサムトーを受け入れてくれていた。
「ただ、条件が二つあります。一つは、期限を一週間と区切らせてもらいます。それ以上好意に甘えては剣士の名折れ、ということで。とにかく、来週にはまた旅に戻ります」
逃亡中の奴隷剣闘士、もし素性が知れれば処刑される身の上だ。一つ所に長居して、評判が立つようなことになっては危険だ。今回、手合わせした二人が、旅の剣士は凄腕だ、程度の認識で、素性に疑念を抱かずにいたので助かったが、内心では冷や汗ものであった。
「もう一つは、できる仕事があったら、手伝わせて下さい。何もしないで世話になるのは、気分が悪いので」
もっともな話だと、使用人達がうなずいていた。
カーラが代表して承諾の旨を伝える。
「一週間限りですね。それと仕事ですが、適当に手伝いをお願いします」
「分かりました。ありがとうございます」
「では、その間、使う部屋にご案内しましょう」
カーラに案内され、三階の東奥から三番目の部屋に案内された。
「これが部屋の鍵です。今は開いていますが」
簡易な台所と、衣服や私物を収納できる家具がついた、やや広めの部屋だった。机とベッドが一つ、椅子は二つ。毎日暮らすことを想定して、宿屋と比べてしっかりした作りになっていた。
「滞在の間は、この部屋を自由にお使い下さい」
「ありがとうございます。さすが侯爵家、良い部屋ですね。早速引っ越してきます」
サムトーはカーラと別れて、使用人棟を出ると、宿屋に荷物を取りに行ったのだった。
アスリが主人の昼食の世話を終えて戻ってきたのは、一時の鐘が鳴る直前だった。急いで食事を済ませ、また世話に戻らなければならない。
食堂に来ると、サムトーが待っていた。
「忙しそうだな。まずは一緒に昼飯もらおう」
厨房に二人前を頼むと、料理自体は出来上がっており、配食するだったのですぐに出てきた。お盆の上の皿にソテーとシチュー、パン、サラダが盛り付けられている。お茶はやかんの麦茶を自分で汲む。
「サムトーさん、言われた通りに、一緒に食べてくれるんですね」
「ああ。詳しいことは仕事終わったら話すけど、一週間、ここで世話になることになったから、よろしくな」
話をしながらも食事を進める。
「うれしいです。戻ってくるのが楽しみなんて、初めてかも」
言葉の合間に食事を口に運び咀嚼する。なるべく早く戻らなければならないので、ちょっと大変そうだった。
「無理に話さなくていいよ。どうせ、三時過ぎたらゆっくり話せるし」
突然の出来事があっても、ちゃんと昨日の約束の時間は覚えていた。
アスリも黙ってうなずき、食事に専念する。
「その間は、俺も仕事の手伝いでもして待ってるから。心配しなくて大丈夫だから」
アスリが目を輝かせた。食べながら軽い笑顔を浮かべた。
「にしても、作り置きの料理なのに、しっかりとうまいな。ここの料理人達はいい腕してるよ」
サムトーがおいしそうにパンを頬張る。おいしい物をおいしそうに食べる姿を見ていると、アスリもいつもより料理がおいしく感じた。
しばらくの間、食事に専念し、二人共皿を空にする。
最後にお茶を飲んで、一息付く。
「じゃあ、私、クローディア様のところに戻りますね」
「ああ。仕事頑張ってな」
盆と皿を片付け、アスリが立ち去っていく。
それを見送って、サムトーは料理長のハルマンに声を掛けた。
「ごちそうさま。うまかったよ」
「それは良かった。あんがとな」
「何か仕事あるかい。水汲みでも皿洗いでも何でもやるぞ」
「水汲みは助かるな。じゃあ、こっちに来てくれ」
厨房裏の出入り口から出て、井戸の水を汲み、たくさん並んだ水瓶を一杯にする仕事である。いつもは暇を見て注ぎ足ししているが、その手間を肩代わりしてもらえるのは本当にありがたいのだった。
サムトーは何往復もして、その仕事を果たした。体を鍛えるにも都合がいい。ついでに、カーラにも言って、使用人棟の流しに使っている水瓶にも汲んで回った。
時間つぶしにはちょうど良く、一通り終わったところで、ちょうど三時の鐘が鳴ったのだった。
時間は少し戻り、食事を終えたアスリが主人の世話に戻った頃。
クローディアは、サムトーがどうするのかを気に掛けていた。
アスリが一週間世話になると話していたことを伝えると、自分のことのように喜んでくれたのだった。
「それは良かったですね。一週間だけとは言え、一緒にいる時間ができるのは、アスリもうれしいでしょう」
「お気遣い、ありがとうございます。明日でお別れかと覚悟していたので、正直とてもうれしいです」
「そんな風に、アスリが率直に、明るく言えるようになったのもサムトーのおかげですね。私としてもうれしい変化です」
そんな感じで、主従共に喜んでいたのだった。
クローディアは、午後の前半は政務棟の視察を行うことになっていた。
アスリともう一人年配の侍女を付き従え、政務棟へと向かう。
オットーという騎士隊長と、ハインツという執事頭から、内政状況の報告を聞く。農業関連、土木関連、治安の問題などを聞き取る。
そして、税務関係の計算などを行っている部署で、騎士達の働きぶりを見る。侯爵家の騎士達は皆優秀で、職務に精励していた。
二時の鐘が鳴ったところで、視察を終えて庭園へと向かう。庭園の手入れの確認がてら、お茶の時間になるのだった。その用意は侍女でなく、別の執事が行う。運ばれてきた菓子を並べ、茶を注ぐのが侍女の仕事だった。
ゆっくりと茶菓子を楽しみながら、庭園を眺める。手入れは良く行き届いている。庭師は良い仕事をしているようだった。
「ところでアスリ、昨日はサムトーと何をして過ごしたのですか」
不意にクローディアが聞いてきた。主人に嘘はつけず、アスリは正直に答えた。
「城の見物をして、昼食を一緒に食べて、競馬場を見て、市の露店を見て、とそんな感じでございます」
「それで、城の正門でお兄様達に会ったのですね」
「はい。ラフティ様と少し立ち合われました」
「競馬場はどうでしたか。迫力があったでしょう」
貴族の一家は、たまに大きなレースが行われる時に、貴賓として招かれることがある。クローディアも何度か競馬を見たことがあり、馬同士の激しい競争の迫力に感心していたのだった。
「はい、レースとはこれほど凄いものかと、感心致しました」
「それと市の露店ですね。賑やかでしたか」
「私も小さな頃に来たきりでしたから、うっすらとしか記憶になかったのでございます。ですから、いろいろな品々があり、すごい賑わいだと知って、とても新鮮でございました」
「サムトーは優しかったですか」
この質問は不意打ちだった。アスリは顔を恥ずかしさに赤らめた。優しすぎたから、ついお礼にと唇を重ねてしまったことが思い出される。
「それは、その何と申し上げたら良いか……」
クローディアが笑みを浮かべた。たった一日で、ここまで好きにさせたのかと思うと、サムトーという男も大したものだと思った。自分の侍女が好きになったのであれば、応援したくもなる。彼女にも、そうした恋物語への憧れがないわけではない。ただ、自分が強すぎて、それより弱い相手に興味が湧かないでいたのだった。
「私にはもったいないほど、優しくしてくださいました」
「そうですか。それは素敵ですね。今日もこれから会うのでしょう。また、楽しかった話を聞かせて下さいね」
「は、はい。承知致しました」
「少し早いですが、アスリは下がって結構です。サムトーのところへ行っておあげなさい」
武芸は達者だが、親切で優しい人柄の侯爵令嬢だった。
「ありがとうございます。それでは下がらせて頂きます」
アスリがうれしそうに一礼を返し、使用人棟へと向かう。
クローディアはそんな侍女を見て、また笑みを浮かべるのだった。
アスリが部屋に戻って着替えを済ませ、使用人棟の出入口に戻ると、ちょうど三時の鐘が鳴った。
すると、持ち手のついた桶を持ったサムトーが、ちょうど通りかかった。
「サムトーさん、ちょうど良かった。水汲みしてたんですか」
「時間があったからね。仕事も手伝うって言ったし。ちょっと待ってて。仕度してくる」
サムトーは手桶を厨房に返し、自分の部屋に行って財布の入ったポーチを腰に付けると、急いでアスリの元へ戻った。
「少し街中でも歩こうか」
サムトーが誘うと、アスリも同意して、揃って城の通用口に向かった。
門番には一週間世話になることは話してある。気さくに、いってきますと挨拶して門を出た。
「でね、クローディア様が許可してくれたのが、使用人棟で食事をしていい、寝泊まりしていい、って事だったんだよ。でも、ただ飯、ただ宿も気が引けるので、仕事の手伝いをすることにしたんだ」
サムトーが簡潔に事情を説明した。
「それと、これは俺の都合なんだけど、一週間でまた旅に出るんだ。そこは勘弁してほしい」
アスリが半分うれしく、半分悲しい不思議な気分になった。一週間、近くで暮らせるのはうれしい。話をする時間も取れるだろう。だが、一週間しかいられない、という見方もできる。複雑な心境だった。
だが、前向きに捉えようと思い直した。時間がなくなるまで一緒に楽しく過ごそう。後ろ向きで残り時間を気にすれば、時間は失われるばかりだ。
「分かりました。一緒にいられる時間が増えたのは、とてもうれしいです」
「ありがと。今日はどうしようか」
「そうですね。特には思いつかないです」
「なら、散歩がてら、庭の見物でも行こうか」
二人で並んで歩きだす。
北東側の富裕層が済む住宅街は、どの家も立派で見事な庭がついている。花壇が整備してある家も多く、春の花が咲き誇っている様子が見られた。目に鮮やかで、ほのかに香りも漂ってくる。
「散歩も気持ちいいものですね」
アスリが微笑みを浮かべる。一人では散歩しようなどとは思わない。やはりサムトーと一緒だと、歩くだけでも楽しく感じる。
「そうだね。アスリは花とか詳しい?」
「いえ、残念ながら。知っているのは、チューリップとか、目立つ花くらいですね」
「そっか、俺も似たようなもんだ。でも、まあ、きれいだよな。一人じゃわざわざ見ようなんて思わないけど」
サムトーが同じようなことを思っていることが分かり、アスリのうれしさが増した。人とのつながりとはうれしいものなのだと、改めて思った。
「そう言えば、使用人棟の生活時間、聞いて来なかったな。風呂や食事の時間、決まってたりする?」
「そうですね。お風呂は夕方五時から八時まで、鐘の合図で入ることになってます。朝食は七時から八時まで、昼食は十二時から二時まで、夕食が六時から八時までです。その間なら、いつでも良いことになっていますが、時間によってはとても混み合いますね」
百人以上の集団生活だ。混む時はさぞ大変だろうと、容易に想像がつく。
「あと、就寝は十時です。管理の仕事をしている人達が消灯して回るので、それを合図に全員が寝ることになってます。それから、服を洗濯したいときは、風呂場の脱衣場にある洗濯物入れに入れておきます。洗濯当番の人が洗って、部屋番号を見て運んでおいてくれるんです」
「あ、じゃあ服に部屋番号をつけておかないといけないのか」
サムトーも、普段は宿屋の井戸端で、自分の服を洗っている。人に洗ってもらえるのはありがたいが、一手間必要なのを知った。
「早目に気付いて良かった。今から手芸屋さんに行かなきゃ」
服に縫い付ける部屋番号を記すための布と縫い糸を買うのである。
「サムトーさんは、縫物ができるんですか?」
「あ、しまった。出来なくないけど、すごく下手くそ」
養護施設時代、十才までに習った程度のことしかできない。困って頭をかくサムトーを見て、アスリがかわいいものを見るように笑みを浮かべた。
「分かりました。私が縫いますね」
「いいの? 助かるなあ」
「縫物は使用人には絶対必要な技ですから、お任せ下さい」
そうして二人は手芸屋へと向かい、布と糸を買った。
それから城に戻り、使用人棟のサムトーの部屋で作業してもらった。
まずは服の枚数分の小布に、部屋番号を縫い取っていく。それから、その小布を服に縫い付けていった。アスリは器用に作業を進めていく。指を針で突くようなこともない。丁寧でしかも上手だった。
縫いながらも、話をする余裕さえあった。
「ついでなので、ほつれそうなところも繕っておきますね」
「ありがとう。すごく助かる。ごめんな、手間かけて」
「いえ、こういう作業は好きなので、大丈夫ですよ。少し暗くなってきたので明かりをつけますね」
「それくらい、俺がやるよ」
サムトーがランプに火を灯した。
「暗くて見にくいと、さすがに縫うの大変なんです」
そんな調子で次々縫物を進めていく。
サムトーはその姿を感心しながら見ていた。器用さだけでなく、真剣な表情がとても良かったのだ。
夕方、日が落ちるまでには、全て縫い終わっていた。
「ありがとう。とっても上手。アスリはすごいなあ」
「私もお役に立てて何よりです」
アスリが満足そうに笑みを浮かべた。十六才という年齢より、そばかすのせいもあって幼く見えるその表情は、とてもかわいらしかった。
「じゃあ、お風呂に行きましょうか」
「そうだな。それから夕食、一緒に食べようか」
こうして二人は風呂へと向かっていった。
夕食は具材と炒めたパスタにポトフだった。盆の上に皿と深皿。それを取ってテーブルに座ると、アスリが前に言っていた、同じ年の娘が二人やってきて同席した。
「マーシャです。侯爵閣下の居館で掃除や給仕をしています」
「使用人棟の雑務を主にやってるロッティです。よろしく、かっこいいお兄さん」
二人共、侯爵令嬢付きのアスリとは、普段は別々に仕事をしていた。顔を合わせるのも、朝食時や夕方以降など限られた時間だったが、同じ年のよしみで、会うと少しは話をする仲だった。
食事をしながら雑談になる。
「サムトーさんって結構好みかも。アスリが惚れるのも分かるわあ」
「そうね、お強い剣士だと聞いてたのに、いい人そうで良かった」
「それはどうも。そういう二人は、いい人いないのかい?」
サムトーはあえて野次馬してみた。この年頃の娘は、きっとそういうのが好きだろうと思ったのだ。
「残念ながら。騎士のラフティ様みたいな格好良い人見ちゃうとね。他には目が向かない感じ」
「私も。若くていい人もいっぱいいるけど、気乗りしないというか」
二人の発言に、珍しくアスリが乗ってきた。
「でも、マーシャは厩番のコルスと仲が良かったんじゃ。ロッティだって庭師のヘイズと仲いいし」
普段のアスリなら、うなずき返すのが精々だった。自分から会話に混ざってくるなど滅多になかった。どうやらサムトーと出会ってから、アスリの内面に大きな変化があったようだと、二人は感じていた。自分に価値がないと思い込んでいた頃の暗い印象が、今は全く感じられない。
その良い変化を感じつつ、二人は普通に会話を続けた。
「仲はいいけど、関係を進めたいかっていうと、もう一押し足りない感じなのよ。分かるかな」
「同じく。いい人なんだけどね。物足りないっていうか。その点、アスリはいいわよね。こんないい人に助けてもらって」
矛先が返ってきて、アスリが少し照れながら、少し悲しそうに言った。
「でも、一週間だけだから。旅に出るまでは、サムトーさんも一緒にいてくれるんだけどね」
「そう言えば、そうだったわね」
「サムトーさんは、どうして旅を続けてるの?」
ここは一つ調子に乗って見せるのがいいだろう。サムトーは格好をつけて言ってみた。
「旅が俺を呼んでいるのさ。冬の厳しい風も、春の柔らかな光も、俺にとっては旅の仲間さ」
そして、計算通り、見事に滑った。
「何それー、変なのー」
二人の反応が見事にかぶった。アスリだけが、こういう面白いところもサムトーの良さと知っているから、軽く笑みを浮かべただけだった。
「まあ、冗談は置いといて。ちょっと訳アリでね。いろんな町を回っているんだよ。でも、旅はいいよ。いろいろな景色にいろいろな人。アスリや二人とも、こうして会えたしな」
そうこうしている間に、食事も終わりに近づいていた。
サムトーは先に食べ終えると、立ち上がって銅の縦笛を取り出した。
「それでは一曲。旅芸人達に教わった、歓迎の曲」
舞台の最初の方で演奏する曲だった。陽気で明るく、気分を楽しくする曲だった。周囲で食事をしていた者達も、話や食事を止めて、サムトーの演奏に聞き入っていた。
やがて、演奏が終わると、拍手が湧いた。使用人達には大好評だった。サムトーが深々と礼をする。
マーシャとロッティの二人も、ちょっと興奮して喜んでいた。
「楽器ができるなんて驚いた。とても良かったわよ」
「ありがと。剣士も芸なら、これも芸ってね」
アスリも含めた三人が感心した目でサムトーを見ていた。
「そろそろ食事も終わりかな。部屋に戻るかい?」
「えー、せっかくだから、もう少し話ししようよ、サムトーさん」
「エールもらってこようよ。一杯飲みながら旅芸人の話とか聞きたい」
二人から注文が入り、アスリの方を見る。
「私も賛成。せっかくだし、話聞かせて下さい」
それならばと、サムトーが四人分のエールをもらってきて、結局結構長い時間、四人で話し込んでいたのだった。
それから五日間は、平穏な日々が続いた。
サムトーは宣言通り、水汲みや荷物運びなどの仕事を手伝いながら、使用人棟で過ごすことが多かった。
一度、サムトーはローレンツ公子とクローディア令嬢に呼ばれ、剣での防御について教えを乞われた。何でも、ここより西にある、サムトーも通ってきた城塞都市グレーベンに赴任する上級騎士が滞在したのだが、その騎士が、腕が立つと評判の侯爵家兄妹と手合わせしたいと言ってきたのだ。その前に自分の腕前を確実にしたいと兄妹は思い、サムトーの見事な防御を思い出し、招聘したのだった。
サムトーは、剣筋が読めるかどうかで大きく変わることを指摘し、軌道を逸らす角度で相手の武器を弾くことの有効性を教えた。実戦形式でいくつかの防御を試すと、二人も納得がいったようで、サムトーに繰り返し礼を言っていた。
その翌日、その上級騎士との対戦を観戦させてもらったが、教えた防御を上手に生かし、相手の攻撃を誘って見事な防御で態勢を崩し、作った隙を突いて、二人共見事に勝利を得たのだった。
この間、アスリは侯爵令嬢の世話で忙しく、サムトーと会えない時間も長かった。その分、短い時間でも会えると、うれしそうに話しかけてくるのだった。
泊り番の日以外は、夕食後、サムトーの部屋に遊びに来ていた。
主人の世話がどうだったか話すだけでもうれしいようで、初めて会った時には考えられないほど、おしゃべりになっていた。
サムトーの旅の話を聞くのも好きで、いろいろと尋ねては、感心しながら聞いていた。
猟師の元で狩りなどの仕事をしながら穏やかに暮らしていた話。旅芸人の一座と共に旅をして回った話。雑貨屋のお嬢さんが嫌な男にしつこく付きまとわれていて、最後は誘拐までされたのを助けた話。しばらく一緒に旅した小さな女の子と、人買いに売られそうになった子供達を助けた話。貴族のお嬢様が領地経営の立て直しを頑張っていたのを手助けした話。強盗の一味を騎士達と一緒に捕らえた話。
次々と出てくる物珍しい話は、アスリを夢中にさせた。サムトーの面白くて楽しく、親切で優しい性質が良く分かる話だった。会って二日目のデートの時から好きだったが、ますますその度合いは深まっていった。
消灯時間になると、アスリは部屋の去り際に、毎回キスをねだっていた。さすがのサムトーも、ここまで好かれたのは予想外で、うれしいやら恥ずかしいやら。それでも毎日彼女の要望に応えて、唇を重ねていたのだった。
六日目。アスリが休日の日だった。
ただし、サムトーが予告した出発の前日でもある。
この日は一日中一緒にいようと、アスリから誘われていた。サムトーに異論はなく、城下町を出たことがないというアスリのために、外の景色でも見に行こうと提案していた。
サムトーは日課を済ませると、食堂へと向かった。ここでアスリと合流する。食事をもらって、向かい合わせに座る。
そこへマーシャとロッティの二人もやってきた。彼女達は今日も普通に仕事がある。
「よかったわね、二人でお出かけできて」
「楽しんできてね。お土産話も期待してるから」
アスリにも二人の好意を素直に受け取れるようになっていた。
「ありがとう。楽しんでくるね。二人共、仕事頑張って」
二人が食べながらうなずく。雑務主体の二人は結構仕事も大変である。
「それにしても、アスリがこんなに明るくなって、良かった」
「私達もうれしい。話してても楽しいし。ありがとうね、サムトーさん」
「いやいや、アスリが本当の自分に気付いただけなんだよ。俺はそのきっかけになっただけさ。元からアスリは魅力的な女の子だったからな」
サムトーとしても謙遜でなく、事実を言っているだけだった。ここ最近は使用人仲間からの評判も良く、その変化を皆が喜んでいた。
「きっかけをくれてありがとう。サムトーさんのおかげです」
アスリとしては、どんなにお礼を言っても足りない気分だ。こうして最後の日まで一緒にいてくれる。それもまたうれしい。
二人で顔を見合わせて笑顔になる。お互い、一週間でずいぶん仲良くなれたものだと思う。その空気に当てられて、マーシャとロッティも釣られてうれしそうになっていた。
「さて、城下町の北にある丘まで行ってみようか」
朝食後、サムトー達は使用人棟の入り口にいた。
「はい。楽しみです」
二人共普段着にポーチだけという軽装だった。二人共、着飾れるような服は持っていなかったのである。
朝の空気が心地良い。
通用門を通り、街道へ出て、北の城門へと至る。朝も早い時間から、城を出て行く人や馬車が多少見受けられた。
二人が城門をくぐる。アスリは初めての経験に目を輝かせていた。
景色が広がった。遠くまで伸びる街道。左右には草原を挟んで、畑が広がっていた。左手奥の方には、目的地の丘が見える。
「城下町でも十分広いと思ってましたけど、世界ってこんなに広かったんですね」
アスリの感想はもっともだった。いつも街を囲む城壁が世界の境目だったのだから。
「何度だってお礼を言います。ありがとう、サムトーさん。こんな景色を私に見せてくれて」
「それは良かった。じゃあ、行こうか」
二人は街道に沿って歩き始めた。
のんびりと春の景色を眺めながら、北へと向かっていく。畑作地では、種を蒔いたばかりの場所から、育成途中の野菜や収穫を迎えた野菜のある場所まで、いろいろな姿を見せていた。街道から少し離れた場所に、いくつかの家が見える。そうした農家の中には、乳牛を飼っているところもあり、離れていてもたまに鳴き声が聞こえてきた。
いくつもの分かれ道を通り過ぎ、やがて一つの分岐で左に曲がる。
しばらく行くと、畑が途切れ、草地へと変わった。道も上り坂になる。
焦る道中でもなし、ゆっくりと二人で坂を上る。
一時間ほどは歩いただろうか。二人は丘の頂に着いた。
「うわあ、タルストの街が全部見えますね」
アスリが感嘆の声を上げた。南側の眺望が良く、城壁を含めて町全体が見事に視界に入る。畑や草原の合間に点々と森が見え、さらに遠くには稜線がうっすらと見えた。さほど高い丘ではないが、景色は抜群だった。
「俺も初めて来たけど、いい眺めだな」
「こんな場所、良く知ってましたね」
「この周辺の地図を本屋で見ておいたんだ。そしたら手頃な距離にここが載っていて、来てみようと思ったわけさ」
サムトーも、こういう時は手間を惜しまない。ついでに、この先どの町へ行こうか考えるのに、広域の地図を一枚買っている。
「そこまでしてくれてたんですね。うれしいです」
アスリが笑顔になった。今日は朝からずっとご機嫌である。
二人で草地に座り込み、のんびり景色を眺める。
ゆったりと雲が流れ、青空の下、映える景色が美しい。
「こうして二人でのんびりできるのって、幸せです」
アスリがサムトーにもたれかかった。春の日差しが温かい。幸福感で満ち足りていた。
何を話すわけでもないが、二人で春の景色に溶け込んでいるのは、中々に心地良い。
ちょっと寝転がりたくなり、仰向けになってみる。目の前が大空で一杯になり、青空に吸い込まれそうになる。
三十分ほどぼーっとしていただろうか。
「うん。いい気分だ。二人で来られてよかった」
サムトーが寝そべったまま背伸びをして、大きく深呼吸した。
「さて、そろそろ戻って昼飯にしよう」
戻るのにも一時間ほどかかる。ちょうど良い頃合いだった。
「そうですね。行きましょうか」
二人は立ち上がって、少し回り道して戻ろうと、来た道とは反対側を下っていった。
城内の商店街に戻り、昼食の店を物色する。使用人棟で料理長ハルマンの仕切る食事がなまじおいしいものだから、それと同程度以上の店となると、中々難しい。
結局、無難にピラフをメインにして、サラダとソーセージ、スープのセットの店にした。午前中はたくさん歩いたので、休憩の意味もあってデザートにタルトと紅茶も頼んだ。銅貨十五枚と、昼食にしては少し張り込んだが、侯爵令嬢からの褒賞金もあって、この程度余裕で奢れる。
待つことしばらく、料理が運ばれてくる。
「そう言えば、米料理もアスリに教わったんだったな」
前回はパエリアだった。米を初めて食べた時の驚きは、まだ新鮮に思い出せる。
今回、ピラフということで、パエリアとはまた違う、米の香ばしさと歯ごたえが味わえた。具材と混ざることでうまさが膨らむのは同じだった。
「いやあ、これもうまい」
ほくほく顔でサムトーがピラフを頬張る。見ているアスリも笑顔になるほど、うまそうに食べている。
アスリもゆっくり食事を取る。確かにピラフもうまい。
ソーセージは去年の秋物だろう。燻製して保存が利くようにした物で、香ばしい香りに、旨味と歯ごたえが合わさって、とても良い品だった。
「ハルマンさんの料理はおいしいけど、街の店の料理も負けてないですね」
「そうだな。でも、ハルマンさんはすごいよな。毎食百人分、人によって時間差があるから、すぐ盛り付けて出せるって制約もあって、それでもうまくていろんな種類の料理を出してくるもんなあ。知識と技術と経験と、どれも見事だよ」
「ほんとですね。改めて尊敬します」
「同感。食べる人がうまいって喜べるもの作れる人は、みんなすごい」
サムトーがうれしそうに食事を続ける。そして言葉を付け足した。
「そうそう、アスリの裁縫もすごいよ。クローディア様の衣装の直しもしてるし、服のほつれとかも直せるし。人のためになってるってことじゃ、負けてないな、うん」
不意に褒められて照れ臭かったようだ。少し顔を赤くして、それでも正面からその言葉を受け止められるようになっていた。
「サムトーさんは褒め上手ですね。私なんてまだまだですけど、そう言ってもらえると、頑張ってもっと上手になろうって気になります」
「今でも十分上手なのに、さらに上を目指すのかあ。さすがだなあ」
サムトーは心底感心していた。自分に価値がなく、休みの日に何をしていいかわからないと嘆いていたアスリはもういない。前向きで、優しく穏やかで、ちょっとしたことでも楽しめる素敵な娘になっていた。
そんな話をしている間に、ちょうど二人とも食べ終わり、食後のタルトと紅茶が来た。
「仕事のある日は、こんなにゆったり昼食取れないですから、デザートとお茶まで楽しめるのなんて、休日だからできる贅沢ですね」
タルトを切って口に運ぶと、煮た果物と小麦の土台の味わいが広がり、口の中が満たされる。そこへ紅茶を一口。豊かな香りが後味を爽やかにしてくれる。アスリはその贅沢な感覚に顔をほころばせた。
一息入れて、不意にアスリはサムトーに礼を言った。
「サムトーさんは人を喜ばせるのが上手ですよね。さっきの褒めるのもそうですし、こうやっておいしい物一緒に食べてるのもそうですし。今までいろいろな話を聞かせてもらって、これまでの旅の経験で人を喜ばせるのが上手になったんだって、良く分かりました。私もサムトーさんみたいに、人に喜んでもらえる人になりたいなって、思えるようになったんです。みんなサムトーさんのおかげです。本当にありがとう」
サムトーが内心で赤面した。自分としては、単に自分が楽しいかどうかが行動の基準だった。褒めたりおいしい物食べたりするのも、自分がそうしたかっただけなのだ。そんなかわいいお礼を言われると照れ臭い。
それでもお調子者として、ここで照れるわけにはいかない。ちょっと格好付けて言ってみる。
「そんなの、俺にとってはお安い御用さ。アスリみたいにかわいい娘のためなら、なおのことさ」
「……」
アスリが無言でサムトーを見つめる。付き合いも一週間になり、互いのことが結構わかる間柄になっている。どうやらこれが照れ隠しだとバレているようだった。少し考えて、口を開いた。
「さすがサムトーさん、格好いいですよ」
見事に反撃を受けてしまった。サムトーが両手を上げる。
「参った。アスリも言うようになったなあ」
「おかげさまで。でも、こんなやりとりも楽しいですよ」
アスリが心からの笑みを浮かべた。
デザートを終えて、二人は店を出た。
とりあえず、商店街でも少し冷やかそうかと歩き始める。
すると、そこに男が二人、ちょうど反対側からやってきた。その仕立てのいい服には見覚えがあった。以前アスリに絡んできた連中だった。
やがて相手もアスリに気付いた。その隣にいるのが、以前邪魔をした男だということにも気付いたようだった。黙って通り過ぎればよいものを、あえてまた絡んでくるのが、この種の連中だった。
「よお、こないだのお嬢ちゃんじゃねえか。隣の色男にも見覚えがあるぜ」
「俺達の誘いを断っておいて、こんな男とご一緒とはな。今からでも遅くはないぜ。こんな奴捨てて、俺達と来いよ」
サムトーが丸腰だったので、男達は完全に侮っていた。全く遠慮がない。
「なあ、お嬢ちゃん、俺達、本当にいいこと教えてやるからよ」
「そうそう。遊びじゃ誰にも負けない自信があるからよ」
面倒な連中だと思いつつ、サムトーが前に出て、アスリを下がらせた。
「お引き取り願いましょう。このお嬢様は大事な方。あなた方の相手などしている時間などありません」
丁寧に言いながら挑発するのも、サムトーの得意技である。
「何を偉そうに言ってやがる。こないだと違って丸腰じゃねえか」
「痛い目見ないと分からないみたいだな。やっちまおうぜ」
悪者らしい言い草で、男達が殴り掛かってきた。だが、威力も速度もない。
サムトーは一人目の攻撃をかわすと同時に、その手首をつかみ、足を掛けて半回転させて背中から地面に落とした。残る一人も同じように、腕をつかんで投げ飛ばす。もちろん、十分に手加減をしている。
男達が背中の痛みにうめいた。
「痛い目見ると、分かるのかな?」
痛みをこらえながら男達が立ち上がる。もう戦う意欲は完全に失せていた。
「今日のところは見逃してやる」
「覚えてやがれ」
これまた型通りのセリフを残すと、痛みをこらえながらゆっくりと立ち去っていった。
アスリはサムトーの強さを良く知っている。この程度で驚きはしない。
「今日は投げ技でしたね」
サムトーがニヤリと笑った。これでは悪役である。
「ああ、気絶させると、後が面倒だからね。自力で逃げられるように、手加減したんだよ」
その悪役っぽさが面白かったようで、アスリも小さく笑った。
「さすがサムトーさん、手加減も上手ですね」
「まあね。それじゃ気を取り直して行きますか」
小さなトラブルはあったが、二人は何事もなかったかのように、商店巡りに戻った。
最初に女性向けの服屋を見る。
さすが大都市の大店、良い品が揃っていた。
新品の服は高く、アスリの給金では賄えない物ばかりだが、サムトーは代金を出しても良いと思っていた。お互い口には出さないが、今日が一緒にいられる最後の日だと分かっていたからだ。
「今日は見るだけで十分ですから」
先手を打ってアスリが言った。ここまで考えを見抜かれると、それくらい分かり合えたのかと、かえって爽快である。
「というか、私、こんな貧相な体つきですから、着ても服に負けて似合いませんよ、きっと」
「んー、逆じゃない? きれいな服に引き立てられて、一層かわいくなると思うけどな」
「さすが褒め上手。でも、ありがとう」
そんな会話をしながら、飾られた服を見て行く。さすがの二人も、買う気もないのに試着するのは、店に迷惑だろうと遠慮していた。
「新品の服なんて贅沢、とてもできませんから。こうやって見ているだけでも、とても新鮮です」
「うーん、やっぱりもったいないな。これとかアスリに絶対似合うって。着たとこ見たいなあ」
素朴な感じのあるアスリには、明るめで清楚な感じが良く似合うだろうと思った。
「そうですね。サムトーさんの見る目は確かだと思います。私も素敵な服だと思いますよ」
「ありがと。あと、これなんかもいいなあ」
そんな具合でじっくりと商品を眺めた。豊富な品々に感心し、一緒に見ているだけでも楽しかった。
大体見終わった頃、店の人に礼を言って、外に出る。
「いやあ、よく見た。似合いそうなのたくさんあったな。本当に買わなくて良かったのか」
「いいんです。こんな贅沢品、もったいなくて着られませんよ。じっくり見られただけでも、十分過ぎるほど楽しかったですよ」
アスリの感想ももっともなのだが、せっかくだから、何か買ってやりたくなるのも正直なところだった。
その機微を察したかのように、アスリが口を開いた。
「そう言えば、髪を結わく紐、そろそろ新しいのが欲しかったところです。買ってもらえますか」
心配りの上手なことだと、またサムトーは感心する。一週間で良いところがいくつも見られた。内面にまだまだありそうだと思う。
「お安い御用だ。じゃあ、小物屋に行こう」
次の店が決まり、アスリの案内で、また二人仲良く歩き出す。
そこそこ歩いて、目的の店に到着した。
紐は髪を結わく以外にも使われるので、色も種類も豊富だった。
アスリの赤髪には、淡い色の方が似合いそうに思えた。彼女の好みも同じだったようで、白、黄色、橙のどれにしようか迷っている感じだった。
「いっそ三色全部買っちゃおうか」
サムトーがそう提案し、まあ紐など擦り切れてくる物なので、いくらあっても困らないかと、アスリもそれに同意した。
三色六本買って、店を後にする。
その後は商店街を軽く見て回った。
買い物客に混じって、いろいろな店のいろいろな商品を眺める。品の良さや由来などを話しながら見ているだけで、十分に楽しかった。
それから大広場に出て、露店でクレープを買った。
長椅子に腰掛け、広場の景色を眺めながら、のんびり甘い物を楽しむ。
よくよく見ると、広場のあちこちに、若い男女のペアがいくつも見受けられた。談笑したり露店の菓子を食べたりしていて、デートなのは明らかだった。同じことをしてる人々の幸せそうな様子が微笑ましく感じられる。自分達もその一員だと思うと、つい二人で顔をほころばせるのだった。
食べ終えた頃、アスリがポーチから小さな布袋を取り出した。
「私が縫ったんですが、厄除けの水晶が入ってます。サムトーさんの旅のお守りにと思って。不出来かもしれませんが、どうぞ」
「お、これはうれしい贈り物だな。ありがたく頂戴するよ」
サムトーが布袋を受け取る。ありがたいとばかりに両手で祈るように持ち上げると、大事にポーチへと入れた。
そうこうしている間に、夕暮れも近い。
二人はデートの締めに唇を合わせ、使用人棟へと戻るのだった。
夕食では、またマーシャとロッティが同席した。
サムトーが明日出発と知っていて、最後にいろいろと話したかったようだった。アスリが明るくなったのは、この一週間サムトーが仲良くしてくれたおかげだと、しきりに感謝していた。サムトーも、二人にアスリのことをよろしくとお願いするのだった。
夜はまた二人きりで話をした。
アスリは、この一週間の出来事を振り返り、自分がどれほどサムトーに助けられたのかを語った。そして、今後はクローディア様のためにも、使用人棟の仲間のためにも、いろいろと頑張っていくつもりだと話していた。
瞳にわずかな涙をにじませて、アスリは言った。
「サムトーさんが旅に出るのはとても寂しいです。でも、知り合わなかったら、こんな前向きな自分にはなれませんでした。通り過ぎるんじゃなくて良かった。関わり合えたことが本当に幸運でした。だから、この出会いで得たものを、一生大切にしていきます」
その気持ちを汲めないサムトーではない。アスリを優しく抱きしめて、感謝と共に言った。
「お礼を言うのはこっちの方さ。本当にありがとう、アスリ。おかげで楽しい一週間だった。アスリがこれから頑張っていけるよう、遠い空の下からでも応援しているから」
「ありがとう、ありがとう、サムトーさん……」
アスリが泣いた。両親に売られた時にも泣かなかった娘が、別れの辛さをこらえきれずに涙を流した。
サムトーは何も言わず、そんなアスリの髪を優しくなでるのだった。
翌四月三日。サムトーがいよいよ出発する日である。
最後にアスリと朝食を一緒に取った。カーラやハルマン達、知り合った他の使用人達が次々挨拶に来て、別れを惜しんでくれた。
やがて食事を終える。今日アスリは早番である。すぐ令嬢の世話の仕事に行かなければならない。
「慌ただしいお別れだけど、サムトーさん、元気で。楽しい旅が続けられますように」
「ありがとう。アスリも元気で。楽しい日々が送れますように」
仕事に向かうアスリと別れ、サムトーも旅支度に取り掛かった。
クローディアの私室で、主人が大切な侍女に尋ねていた。
「お別れは済ませましたか、アスリ」
「はい。元気に旅立ったことと思います」
「もっと長く逗留しても良かったでしょうに」
「いえ、サムトーさんの事情ですから、仕方ありません。それに、十分な思い出をもらいました。充実という言葉の意味が分かった気がします」
少し寂しげではあったが、アスリは笑顔を浮かべた。サムトーがいなくても、彼にしてもらったように周りの人達を大切にして、これからも頑張っていこうと強く思うのだった。
「楽しい毎日だったな」
さすがのサムトーも、別れの寂しさを感じていた。
だが、十分以上にアスリの役に立つことはできた。それにはとても満足していた。ポーチのお守り袋にそっと触れる。
新たな旅路で、また新たな出会いがあるだろう。
風の向くまま、気の向くまま、自由な旅を満喫すべく、元気に歩いていくのだった。
──続く。
自己の存在意義という重めのテーマなのですが、サムトーが絡むと明るい話になってしまうのが、いい加減な剣士らしいところです。しかも、今回はヒロインが頑張り過ぎの娘だったので、ラブコメ全開になりました。そんな彼らのほっこりした様子を楽しんでいただければ幸いです。良かったら、評価や感想もお願いします。