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序章Ⅴ~小さな旅の相棒~

 寒風すさぶ街角で

 妙な場面に出くわした

 涙こらえる女の子

 放っておけぬと助け舟

 娘を旅の相棒に

 のんびり二人旅路行く

 情けもかけるがお調子者の

 我らがサムトー、今日も行く

 時に神聖帝国歴五九七年一月下旬。

 冬の寒風に、茶色のざんばら髪が揺れる。腰にはわずかに反りの入った片刃の短剣。背と腰に荷物。旅の剣士サムトーだった。

 サムトーは街道を南下し、いくつかの町を通り過ぎ、テラモの町にやってきた。

 この町は人口およそ六千人。主街区は宿場街となっているが、周囲を農村の集落に囲まれた農業の町だった。農家達も、一部の畑で冬野菜を作り、近隣の町に出荷しているが、秋撒き小麦の背が多少伸びている程度で、収穫にはほど遠い。農閑期であった。

 左右に広がる畑を見ながら、のんびり街道を進む。

 やがて、主街区へとたどり着く。左右に商店と居酒屋兼宿屋が立ち並んでいる。主街区と言ってもあまり広くはない。それでもそれなりに商店や民家が立ち並び、街並みを作っている。

 どこの町でもそうだったが、街道沿いの宿屋は建物も広く、馬車置き場なども完備しているため、宿賃も高めに設定されている。一人旅に充実した設備は不要なので、街道を外れ、別の通りへと足を運んだ。

 いくつかの宿屋を見かけ、店構えや値段を見る。どこも街道沿いよりは安く、相場の銀貨一枚だった。

 自分で選んで決めても良いが、前のようにどこかの商店でお勧めを聞いてみようか、などと考えていると、路地裏から子供の声が聞こえた。

 遊んでいる声なら気にもかけないが、どうも誰かを非難しているような声色がして、ひっかかりを感じた。声がする方へと行ってみた。

 すると、三人の子供が、一人の女の子に罵声を浴びせている場面に出くわした。少し様子を見ていると、どうにもただ事ではないようだった。

「外に出てくるなよ、疫病神」

「目障りだ。姿を見せるなよ」

「邪魔なんだよ。不幸を呼ぶ子」

 三人は本気で女の子を疎ましく思っているようで、声に憎しみがこもっていた。子供がそこまで他人を憎むのは尋常ではない。女の子はうなだれたまま、何も答えられないようだった。いくら何でも一人を相手にひどすぎるだろうと、サムトーは割って入った。

「そこのぼくたち、ちょっといいかい?」

 知らない大人、しかも腰に剣を下げている人物を見て、子供達が少し恐れをなした。

「何か事情はあるんだろうけど、女の子一人をこんな風にいじめるのは、最低だと思うぞ」

 止めに入られたことで、むしろ子供達は逆上したようだった。

「おじさんは何も知らないから、そんなことが言えるんだよ」

「そうだ。こいつは不幸を呼ぶ子なんだ」

「こんな奴に会ったら、俺達まで不幸になっちまう」

 これは簡単には済みそうにない。そう思ったサムトーは、分かったとばかり両手を上げた。

「君達の言い分は分かった。なら、俺がこの子を家まで送る。俺が不幸になる分には、君達には問題ないだろう?」

 三人が顔を見合わせた。ここで言い争うだけ無駄だと思ったらしい。

「じゃあ好きにしろよ。でもどうなっても知らないからな」

 言い捨てるようにして、三人は立ち去って行った。

 サムトーは改めて女の子を見た。

 年の頃は十才くらいだろうか。粗末な服装は薄汚れていて、きちんと洗濯されていないようだった。肩までの長さのくすんだ銀髪は乱れていて、手入れされている様子がない。何より、濃い青の瞳には生気がなく、そして何もかも諦めたような表情だった。

「俺はサムトー。旅の剣士だ。君の名前は?」

「エミリー、です」

「エミリー、家まで送ってもいいかい?」

「かまいません。でも、パンを買わないと……」

「家の人の用事かな? 分かった。俺も付き合うよ」

 会話をしていても、一方通行のような感じがして、落ち着かない。ともあれ、彼女の案内でパン屋へと向かう。

「いらっしゃい、って不幸を呼ぶ子かよ」

 パン屋の主人までもが彼女をそう呼んだ。一体何事なのだろうと、サムトーは訝しがった。

「いつもの堅焼きパンだろ。ほら、早く行けよ」

 本気で嫌がるような表情を浮かべ、露骨に追い出そうとするのだった。

 エミリーの方は言われるままにお金を払い、パンを受け取ると、この場にいるのが悪いことだと思っているかのように、すぐに店の外に出た。

 店の外にいた通行人までもが、こちらを見て露骨に嫌そうな顔をした。一体どういうことなのだろうか。

「……」

 エミリーは黙って歩いていく。

 サムトーもかける言葉がなく、ただついて行くことしかできなかった。

 度々通行人から嫌悪の目で見られた。小声で、不幸を呼ぶ子だ、などという言葉も聞こえた。町全体が敵に回ったような感じだった。

 しばらく歩いて、一軒の家の前に着く。

 エミリーは扉を開き、家の中に入ろうとした。

「ちょい待ち。俺も挨拶させてくれ」

 サムトーが引き止め、中に向かって声を掛ける。

「ごめんくださーい」

「はいはい……って、何だいあんたは?」

 出てきたのは六十才近い年の女性だった。一瞬だけ良かった愛想は、エミリーを見るなり崩れ失せ、怪訝な声に変わった。

「俺は旅の剣士サムトー。この子がさっき他の子達にいじめられてたんでな。家まで送ってきたんだ」

「そりゃまた余計なことを」

 女性の態度は冷たかった。

「こんな不幸を呼ぶ子、いなくなっちまえばいいのさ」

「ちょっと待てよ、おばさん。あんたこの子の身内じゃないのか。その言い草はあんまりだと思うぜ」

「事情を知らないから、そんなことが言えるんだよ。この子はね、本当に不幸を呼ぶ子なのさ。知りたかったら、ほれ、こういう時に出すものがあるだろう?」

 少し表情がほぐれたかと思えば、今度は露骨にチップの要求である。さすがのサムトーもかなり腹を立てていた。しかし、事情を聴かずに立ち去る方が、後味が悪い。仕方なく、大銅貨二枚を差し出した。

「物分かりのいいお兄さんだね。そうさね、話は半年近く前のことだ」

 エミリーは普通に両親と仲良く暮らしていた。だが、ある日、街道で騎士達が早馬を走らせているところに、運悪く出くわしてしまう。結果、エミリーは無事だったが、両親は撥ね飛ばされて、死んでしまったのである。なお、当の撥ねた騎士達は、撥ねたことが分かっていながらそのまま去ってしまっている。神聖帝国の法律では、騎士の早馬は急使で、避けられない方が悪いということになっているのだった。

 両親が亡くなって、この女性がエミリーを引き取った。父の母、つまり祖母で、他に行く当てのないエミリーを止む無く引き取ったのだ。しばらくの間は、祖母も町の者もエミリーに親切にしていた。しかし、親切にしていた者達が、ケガをしたり具合を悪くしたりと、不幸なことが続けて起こるようになった。実はエミリーは不幸を呼ぶ性質を持っていて、両親が死んだのもエミリーのせいではないか。親切にしたのに不幸なことが起こるのもエミリーのせいではないか。そんな噂が流れるようになり、両親が亡くなって一月もしないうちに、エミリーは町の者から『不幸を呼ぶ子』と呼ばれ、忌み嫌われるようになったのである。

「こんな子だと分かってたら、引き取ったりはしなかったさ。今だってこの子のおかげで、あたしまで後ろ指を指されるんだ。今すぐにでもどっかに行って欲しいさ、全く」

 何てひどい話だ。話を聞き終えて、サムトーが大きくため息をついた。

 要は、たまたま重なった偶然を全部エミリーのせいにして、それを正しいと思い込んでいるだけである。しかし、真実を見極めようとせず、迷信に従う人間とは世の中に多いものだ。むしろ多数派と言っても良い。そして、そういう連中に限って、多数派であることを笠に着て、自分達の考えが間違っていることを認めようとしない。

 町全体がエミリーを敵視している以上、彼女はこの町にいる限り、この先一生救われることがないということになる。下手をすれば、私刑に遭って命を落とすかもしれない。本人はそれを良しとしているのだろうか。

「おばさん、ちょっとエミリーを借りるぜ」

 サムトーはそう言うと、部屋の隅に立ち尽くしていたエミリーに声を掛けた。

「ちょっと俺と話をしないか?」

 エミリーは黙ってうなずいた。誰かの要求を拒否することで、より罵声を浴びることを知っている者の態度だった。

 そんな態度が可哀想でならない。罪もないのに罰せられる者の悲しみを見るのは、奴隷剣闘士だった頃以来だった。


 サムトーは、元奴隷剣闘士である。

 昨年、神聖帝国歴五九六年五月、百名ほどの仲間と共に反乱を起こした。半数ほどの仲間が逃亡に成功した。サムトーはそのうちの一人だった。逃亡奴隷は一部例外を除いて処刑される。生きるためには、とにかく逃げ続ける必要があった。

 逃亡直後、山中を逃げている時に猟師達に救われ、三月ほど彼らの村で暮らした。その後、素性を知られる危険を避け、旅芸人の一座に身を寄せる。ここでも三月ほど同行したが、事件をきっかけに素性が明らかとなりそうになったため、一人旅を始めた。

 十二月、ここより北にある城塞都市グロスターで、事件に自ら首を突っ込み、その解決のために奔走する羽目になった。結局、一月近くその街の雑貨屋で世話になり、新年祭まで過ごしたのだった。

 旅先でもそんな風に、いろいろな事件に巻き込まれてきた。そして、このテラモの町に来たのだが、こんなケースはさすがに初めてだった。

 さて、サムトーは家の外に出ると、落ち着いて話せる場所を探して、歩き出した。エミリーがとぼとぼと後をついてくる。

 やがて、小さな噴水の広場を見つけ、噴水を囲む石の上に腰を下ろした。

 エミリーにも座るよう促すと、やはり拒否できないとばかり、遠慮がちに腰を下ろした。

「改めて、俺のことはサムトーと呼んでくれ。よろしくな、エミリー」

 サムトーが手を差し伸べる。

 エミリーは驚いて、その手を見たまま固まってしまった。サムトーがエミリーの手を取り、強引に握手した。

 ポーチからイノシシの燻製肉を取り出す。この前通り過ぎた町が猟師と交易していて、たまたま売っていたものだった。それを二つに分けると、片方をエミリーに差し出した。

「イノシシの燻製肉だ。癖はあるけど、結構うまいぞ」

 そう言って、見本を見せるように口に入れる。もぐもぐと咀嚼し、おいしいことをアピールする。

 エミリーが肉を口に入れた。味が想像の外だったのだろう。少し驚いた顔になったが、味は良かったようで、おいしそうに食べ始めた。

「な、うまいだろ。……ところで、エミリーは何才なんだい?」

「十一才、です」

「そっか。俺は十九才なんだ、これでも。さっきの子供らには、お兄さんじゃなくて、おじさんって言われちゃったけどな。ははは」

「……」

 うーん、このくらいじゃ表情も変えないか。そのくらい毎日辛い目に遭っているんだなと、サムトーは少し考えこんだ。

 半端なことを言ってもダメだ。慰めたって、この町の連中が変わらない限り、ずっと辛い目に遭い続ける。方法は一つしかない。

「なあ、エミリー。違う町に行ってみたくないか?」

「それは……」

 エミリーが突然の言葉に戸惑った。今日初対面のこの人は、突然何を言っているのだろうと思った。確かに、この町を離れれば、ひどい言葉を浴びせられずに済む。そのことを考えると、行ってみたい、そう答えたくなる。けど、現実的にそんなことができるはずがないと思っていた。

 サムトーが言葉を続けた。

「世界は広いぞ。俺も一人旅に出て、まだ三月にならないけど、いろんな景色や町を見て回るのは楽しかったな」

「一人旅……」

「そ。だから、エミリーが良ければ、しばらく俺の旅に付き合わないか?」

「旅に、付き合う?」

「急な話でびっくりするよな。でも、この町に住んでいる限り、エミリーはずっとひどい目に遭うことになる。下手すると、殺されるかもしれない。そのくらい、町の連中は、エミリーが不幸を呼ぶ子だって信じ込んでいる。俺には、不幸な出来事はただの偶然で、エミリーのせいじゃないって、見ただけでも分かったけどな」

 エミリーが急に涙を流した。半年近く我慢を重ねてきた、積もり積もった悲しみの涙だった。

「うん、わ、私の、私のせいじゃない。……悪いことが起きると、み、みんな私のせいだって言うけど、絶対、ち、違うから。でも、誰も、そ、そんなの信じてくれなかった……」

 必死で涙を拭いながら、エミリーは言葉を続けた。

「わ、私のせいじゃないって、言ってくれた人、お父さんとお母さんが亡くなってから、は、初めて」

「そっか。そりゃ辛かったな」

 サムトーがエミリーの頭を優しくなでた。

「俺は絶対にエミリーにひどいことを言わないし、ひどいことはしない。約束する。だけど、それが嘘で、もし俺が悪者だったら、エミリーはもっとひどい目に遭うかもしれない。だから、この町を離れて、俺と一緒に旅をするっていうのは、大博打になる。よく考えて決めてくれ」

 エミリーが深刻な表情で考え込んだ。もしも、もしも本当にこの人が悪い人なら、取り返しのつかないことになるのは確かだった。でも、この町で暮らしてる最悪の状況と比べた時、今より悪くなることがあるのだろうか。

 涙を拭って顔を上げた。ほんの短い時間で決心した。

「連れて行って下さい」

「いいのか、そんなに簡単に決めてしまって」

 むしろ、サムトーの方が慌ててしまった。今夜一晩考えて、くらいのつもりだったのに即答が返ってきたからだ。もちろん悪いことをするつもりはないが、信頼できる何かをしたわけでもないのに。

「はい。今の暮らしは最悪です。そこから逃げ出せるなら、どこへだって行きます」

 決心は固いようだった。辛さを乗り越えて希望を見つけたような表情をしていた。

 ならば善は急げである。

「分かった。なら、すぐにエミリーの荷物を取りに戻ろう」

「はい。どうか、よろしくお願いします」

 こうして、サムトーの一人旅は、二人旅に変わるのだった。


 エミリーが旅立つと聞いて、祖母はこれ以上ないほどに喜んでいた。肉親の情より、『不幸を呼ぶ子』のもたらす不幸を恐れていたのだった。それが迷信であっても、彼女にとってはそれが真実だったのだ。

 大して量もない着替えを、一つしか持っていない肩掛けカバンに詰め込むと、エミリーは祖母に一言だけ挨拶した。

「さようなら、おばあさん」

 返事は返ってこなかった。

 もう時刻も夕暮れ時である。本当なら、今すぐ他の町に行きたいところだが、さすがに初日から十一才の女の子に野宿をさせるわけにもいかない。サムトーは街道沿いの値段の高そうな宿をあえて選んだ。

「二人で一泊お願いできますか?」

 宿のカウンターにいた若い男性が、露骨に嫌そうな顔をした。不幸を呼ぶ子の悪名は、直接関係ない宿屋にまで広まっていたのだ。

 返事がないところを、さらにサムトーが畳みかける。

「風呂付きで一部屋。相場は二人で銀貨四枚だろう? 倍額払うが」

 そう言って銀貨八枚を取り出す。

 さすがに店番の男性も倍額には折れた。

「分かりました。ご案内します」

「念のため言っておくが、この町の人達が、この娘のことを恐れていることは知っている。だが、もし何かあるとしても、全て一緒にいる俺に起こるはずだ。だから、普通の客として扱ってくれ。そう宿の皆にも伝えて欲しい」

「それも承知いたしました。では、こちらへ」

 案内を受けて、一階の一番隅の部屋へと着いた。ベッドが四つもある、広い部屋だった。

「すぐ、風呂に入りたい。用意を頼む」

 いきなりの注文に店番が目を剥いたが、倍額支払いの客には逆らえず、はいただいま、と言って奥へと下がっていった。

 やがて、湯を詰めた樽がいくつも運ばれ、湯舟に注がれた。待ち時間は十五分程度。最速で仕度してくれたようだった。

「さて、エミリー。今日だけは俺と一緒に風呂に入ってもらう」

 微妙な年頃の女の子には酷な注文だ。だが、自分で決心した以上、こんなことで挫折していられないと、エミリーが承諾した。

 そうして二人で脱衣場に入る。服を脱いで籠に入れると、二人ともタオル一枚で前だけは隠し、風呂場へと入っていく。

「とりあえず、お互い洗える範囲で体を洗っておこう」

 エミリーがうなずき、頭から体全体、手足の先まで、なるべく丁寧に洗っていく。

 サムトーの方も大急ぎで自分の体を洗う。お互い洗い終わった頃合いに、小さな瓶を持って、声を掛けた。

「髪の毛を洗わせてくれ。この瓶には、髪の毛をきれいにする特別な石けん水が入っているんだ。前にいた町で雑貨屋でもらった物なんだ」

「分かりました。お願いします」

 サムトーが瓶の中の液体を、エミリーの頭に振りかける。なるべく優しくかき回すように洗っていくと、髪の毛が泡立ち、その泡が白から灰色に変わった。それほど髪が汚れていたのだ。一度すすいで、もう一度洗うのを繰り返す。二度目で十分きれいになったようだった。

「石けん水、役に立って良かった。ついでだから、背中も洗うな」

「はい」

 背中を洗ってもらうなど、母が生きていた時以来だった。男の人が相手だが、それでも懐かしい感じがして、そして痒い所に手が届くような気持ち良さがあった。

「おっし。それじゃあ、湯舟に入ろう」

 二人で一緒に湯舟に入る。

 その時エミリーは、初めてサムトーの体が傷だらけなのを知った。

「サムトーさん、その傷……」

「ああ。それはそのうち説明するよ。それより、ごめんな。俺なんかと無理に風呂入ってもらって。でも、これにも意味があるんだよ」

 サムトーが真面目な顔で言った。

「一つは、君の体に、俺みたいに傷がないかを確かめたかったんだ。この町の連中に暴力を振るわれていて傷があるようなら、次の町で医者に行く必要があるからな。でも、そういうことがなくて、良かったよ」

「ああ、そこまで考えていてくれたんですね。ありがとうございます」

 最初、風呂に一緒に入ると言われた時は驚いたが、きちんと自分のためを考えてくれたことに、エミリーは感謝した。

「もう一つ。この後夕食だろ? 宿の食堂に出向くことになるけど、その時きれいにしておくと、きっと宿の連中も、君のことをとやかく言わなくなるはずだ。ま、試してみないとだけどな」

 本当だろうか。さすがに疑問が湧いた。

「とりあえず、温まったら、風呂から出ようか」

 そう言ってサムトーが背伸びをする。冬の寒い時期、温かなお湯の風呂に入る贅沢さを味わっているようだった。

 エミリーもサムトーにならって、温かなお湯を堪能するのだった。


 風呂から上がると、サムトーはエミリーに一番良い服を着るように指示を出した。この男がここまで他人に干渉するのは珍しい。しかし、それも理由あってのことだった。

 エミリーは水色のワンピースを着て、上着を羽織った。それだけでも、昼間の薄汚れた格好とは雲泥の差だった。

 次にエミリーの髪の毛を櫛で梳かした。この櫛も、何かの役に立つだろうと雑貨屋でもらった物だった。くすんだ色合いだった銀髪は、きれいに洗われて透き通るような色に変わっていた。それを丁寧に梳かすと、サラサラのきれいな髪になった。仕上げに、髪の毛を後ろで一つ結わえにする。いわゆるポニーテールだった。紐はいろいろ使い道があるので、何本も持っていた。

「よっし、完成。鏡見てみな」

 エミリーが鏡をのぞき込むと、生気のなかった薄汚れた少女はおらず、代わりに明るい感じの町娘が一人いた。自分がこれほど変わったことに、驚かずにはいられなかった。

「気に入ってもらえたかな」

「はい。きれいにして頂いて、ありがとうございます」

「というわけで、夕飯食べに行こうか」

 日没も過ぎ、夜の帳が下り始めた頃だった。

 二人は廊下を通って、食堂へとやってきた。他に客が何人か来ていて、すでにエールを一杯ひっかけていた。給仕に夕食二人前の用意を頼むと、窓際のテーブルに向かい合って座った。

 エミリーが不思議そうな顔をした。普段なら、この町の人なら誰でも、恐れるような嫌がるような、そんな視線を向けてくるのだが、今日はそれがなかった。窓の外を通る人も、エミリーとサムトーが座っているのを見ても、何とも思わないようだった。

 サムトーが小声で話しかけた。

「と、これが理由の二つ目だ。不幸を呼ぶ子なんて迷信を信じるような連中は、見た目にコロッと騙されるものさ。ちょっときれいにして、いつもと姿を変えれば、誰も気付かないはずさ」

 やがて、夕食が運ばれてきた。具入りオムレツ、ポタージュ、ベーコンと野菜のソテー、パンと、定番のメニューだった。しかし、普段まともな物を食べさせてもらえてなかったエミリーには、父母が健在だった頃以来のご馳走だった。

「食べていいんですか?」

 分かっていても、尋ねずにはいられなかった。こんな無償の厚意に甘えても良いのかと考えてしまったのだった。

「もちろん、温かいうちに食べよう。いただきます」

「分かりました。いただきます」

 エミリーがおいしそうに食べている様子を見て、サムトーが安堵の笑みを浮かべた。とりあえず、夕食までは無事に済んだ。後は、この町を出ていくまで、何事もなければそれでいい。

 しかし、ちょっとしたトラブルがあった。普段の食事が貧相だったエミリーには、量が多すぎたのだ。食べきれずに、「ごめんなさい」と謝るエミリーの頭をなで、残した料理を、サムトーがきれいに食べつくした。次いでエール一杯と紅茶を一杯注文した。

「ゆっくりお茶でも飲んで、お腹が落ち着くまでゆっくりするといいよ」

 そう言いながら、サムトーがエールを飲む。食後の一杯も、またうまいものだった。

 エミリーも安心して、ゆっくりと紅茶を飲む。

 ようやく気持ちもほぐれたのか、エミリーが小さな笑みを浮かべた。


 夕食の後は荷物整理の時間になった。

 エミリーが持ち込んだ服を、一つ一つ確認していく。正直、両親が残した服以外は、お古のさらにお古という感じで、古着屋も引き取らないような代物だった。厳しいようだが、この宿に頼んで捨ててしまおう、サムトーがそう言うと、エミリーも黙ってうなずいた。

 後は、櫛にタオルに紐に雨具にと、日用品がとにかく不足している。鞄も肩掛けだと長く歩くのに適さない。背負う物に替えたいところだった。

 だが、不幸を呼ぶ子が、この町で買い物するのは難しい。地図を確認すると、南隣のカディスは人口三万ほどと比較的大規模の町で、恐らく商店なども充実しているものと思われた。

「明日はカディスの町まで行って、そこで必要な物を買い揃えよう」

 一度サムトーはそう言ったが、大切なことを思い出したかのように、もう一度エミリーに問い直した。

「明日、この宿を俺と一緒に出発してしまえば、もう後戻りはできない。本当に、俺と一緒に旅に出たいか、それを確かめたい」

 真剣な表情で、エミリーはうなずいた。

「この町で生きていくのは無理です。今日、サムトーさんに親切にしてもらって、おいしい物を食べて、両親が生きていた頃のような、こんないい暮らしも世の中にはあるんだと、思い出してしまいました。毎日罵られ、人を避けながら暮らすのには、もう耐えられません」

 固い決意だった。

 わずか十一才の娘をここまで追い詰めるとは、この町の住人の迷信に腹が立つ。しかし、迷信さえなければ、この町の人々だって、決して悪人などではなく、ごく普通にささやかな幸福を享受して生きているだけなのだろう。だからと言って、住人のひどい仕打ちは、やはり許せない。

 とにかく、今できることは、この娘を町から連れ出すことだけだ。

 そして、いずれは、温かな毎日を暮らせる場所を見つけてやろう。

「分かった。これからよろしくな、エミリー」

「はい。よろしくお願いします、サムトーさん」

「じゃあ、明日に備えて、今日は寝ようぜ。空いてるベッド、どれ使ってもいいよ」

 そう言うと、エミリーが急にそわそわしだした。顔をわずかに赤らめ、恥ずかしそうに言った。

「しないのですか?」

 おや、他に何かやり残したことがあっただろうか。サムトーは考え込んだが、とにかく全ては次の町に行ってからだろう。

「んー、今することは特にないと思うよ」

「ないですか」

「降参。何かあるなら教えて」

 本気で分からない。

 エミリーは恥ずかしそうに言葉を続けた。

「あの、これだけの御恩を受けて、何もお返ししないのは変かなと思って。お風呂も一緒でしたし、夜、体でお返しするものと思っていたのですけど」

「お返しなんていらないって。とりあえず、二人で楽しく旅ができれば、それで十分だ。第一、体で返すっても、別に仕事なんてないよ」

「ですから、夜のおつとめを、しなければいけないのかと」

 そこまで言われて、ようやくサムトーも納得した。何てけなげな娘だろうか。というか、そんな知識、もう持ってるんだなあと、変なところに感心した。

 しかし、これにどう答えたら、傷つけずに済むんだ? ……いや無理だ。

 しばらく考えて、結局正直に答えることにした。

「いや、俺も子供に手を出す趣味はないから。いろんな話したり、うまいもの一緒に食べたりして、普通に仲良くしようぜ」

 その返答を聞いて、エミリーも、自分が先走りすぎたことに気付いたようだった。顔を真っ赤にして、恥じらいながら謝ってきた。

「ごめんなさい。私、何の見返りもなく、サムトーさんが私を助けてくれたことを、本当に信じていなかったんですね。だから、体が目当てなのかと、勘違いしてしまいました。本当にごめんなさい」

「いやいや、言いにくいこと言わせちゃって、ごめんな。ま、とにかく休もう。明日はたくさん歩くぞ」

「はい。分かりました」

 エミリーは安心できたようで、大人しくベッドに入った。

 明かりを消すと、サムトーもその隣のベッドで横になった。

「ありがとう、サムトーさん。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ。また明日な」


 翌朝、サムトーは、日の出とともに起き出した。エミリーはまだ眠っている。それを起こさないように剣を鞘ごと持ち出すと、井戸で水を飲み、その場で剣の素振りを始めた。基本の方の修練で、六種類を左右の腕で百本ずつ振っている。旅先では何が起こるかわからない。必要最低限の鍛錬だった。

 部屋に戻ると、ちょうどエミリーが起きたところだった。ぐっすり眠れたようで、サムトーもほっとした。

「おはよう、エミリー」

「おはようございます、サムトーさん」

「顔を洗って、水でも飲んでこよう。こっちだ」

 サムトーが井戸へと案内する。

 エミリーが言われた通りにすると、朝の寒気が堪えたのだろう。軽く身震いをした。

「寒いよな。ほら、タオル」

 エミリーは顔を拭くと、改めてサムトーに礼を言った。

「ありがとうございます。サムトーさん」

 サムトーが、敬語を使われるのがむず痒いという顔をした。とは言え、年の差もあるし、当分の間は砕けて話すのは難しいだろう。

「さて、着替えしたら、朝食を食べに行こうか」

「はい」

 エミリーには昨日の夜とは違う、ツーピースのスカートと白い襟付きの上着を着せた。髪の毛はエミリーが自分でやるように促す。十才までの間に母から教わっていたのだろう。梳かすのも結わくのも一人でできていた。サムトーは襟なしの上着に長ズボン、いつもの剣士スタイルである。

 二人は食堂に行き、朝食を取る。ベーコンエッグ、ゆで野菜のサラダ、パンとスープ。値が張る割には定番メニューな宿だった。それでも素材は良い物を使っているようで、かなりおいしかった。

 朝食を終え、身支度を済ませるといよいよ出発である。

 サムトーは、薄手の外套を二枚取り出すと、一枚をエミリーに着せてやった。寒風を遮るだけでも、温かさが結構違う。かと言って厚着すると、歩き詰めなので、かえって汗をかいてしまう。

「さあ、行こう」

 元気よくサムトーが歩き始めた。

 その後ろをエミリーがついて行く。

 街道を南へと歩いていく。途中、パン屋で昼食の調達を忘れないところが、サムトーである。

 街並みを抜け、畑の間を通り過ぎ、民家が減っていく。

「さようなら、私が生まれ育った、テラモの町」

 エミリーは一度立ち止まると、一言つぶやいた。生まれ故郷を捨て去ることへの寂しさだった。

 サムトーも立ち止まり、エミリーの肩に手を乗せた。寂しさは十分に汲み取れていた。

 やがて、また歩き出そうという時、サムトーが思い出したように言った。

「そうそう、後ろじゃなくて、横を歩いて欲しいんだけど。歩くペースとか合わせたいし。話もできるからさ」

 街道は馬車がすれ違える程度の幅がある。二人が横並びになっても、大丈夫なはずだった。そもそも、すれ違う人も少ない。

「分かりました」

 二人は並んで歩き始めた。

「それで、早速なんだけど、宿の部屋が一緒でいいか、まずそこからね」

「もちろん、それで構いません」

「返事早いな。もうちょっと考えて。着替えとかも同じ部屋なんだよ」

 エミリーが赤面した。昨日は言われるままに一緒の風呂に入ってしまったが、さすがにもうすぐ十二才の娘が、大人の男性に裸を見せることには、本来強い抵抗感があった。

 余談だが、十一才までは子供、十二才からは見習いとして働き始めるのが、神聖帝国全体の慣習だった。つまり、十二才からは大人の見習いとして、大人に準じた扱いをされるということである。以前、サムトーが世話になった宿屋の娘も、猟師達の所でも、十二才は子供であっても、見習いとして立派に仕事の手伝いをしていたものである。

「でね、宿代は、大体の町では一人銀貨一枚。これは部屋が別々でも、変わらないことが多い。だから、別の方が良ければ、そうしようと思うんだ」

 エミリーがうなずいた。本当に細やかなところまで気を遣ってくれる。この人についてきて正解だったと、改めて思った。

「ちなみに、俺、だいぶ前に城塞都市で稼いで、金貨で三十枚以上持ってる。知ってると思うけど、金貨一枚は銀貨二十枚だから、銀貨で数えれば六百枚以上になる。二人でも半年は余裕だし、金がなくなりそうならまた稼ぐから、心配しなくて大丈夫だからね」

 今度は目が点になった。地味な恰好をしてるから、そんな金持ちにはとても見えなかったのである。

「はあ、すごいですね。どうやって稼いだんですか?」

「賭場。つまり博打。あと競馬もそれなりに当たるよ。働きもしないでお金稼ぐのも、真面目に働いてる人には申し訳なく思うけどね」

 サムトーが少し恥ずかしそうに答えた。猟師や旅芸人の所では真面目に仕事していたので、ここ三月ばかりの話である。

「ごめん、話が逸れた。部屋別々にするか、ちょっと考えて」

「はい。……でも、不都合なの、着替えくらいですよね」

 エミリーが逆に問いかけた。

「私、思うんですけど、予定を確かめたり、具合が悪かったり、そういう時は一緒の部屋の方が都合がいいですよね」

 確かにその通りだった。

「一人で部屋にいるより、二人の方が、話とかもできて退屈しないと思いますし、サムトーさんが嫌でなければ、一緒の部屋がいいと思います」

 何と合理的な考え方をする娘だろうか。思った以上に頭の回転の良いことも分かり、旅の連れとして文句なしだと思った。

「うん、エミリーの言う通りだと思う。じゃあ、二人で一部屋ってことにしよう」

「はい。その方が寂しくないし、ありがたいです」

 エミリーが笑った。思った以上にかわいらしい笑顔だった。初めて会った時の暗い表情とは正反対だった。それに、旅立って一時間くらいで、気持ちを前向きに切り替えられる強さがあることも分かった。

 サムトーはほっとして話題を変えた。

「歩くペース、ちょっと速目かも。大丈夫?」

 話に夢中で、サムトーに言われるまで、自分の息が少し上がり気味になっていることに気付かずにいた。

「ありがとうございます。確かにちょっと速いかもです」

「じゃあ、少しゆっくりにしよう。そんで、二時間ごとくらいに休憩入れるから」

 エミリーのペースに合わせて、ゆっくりと歩いていく。

 時々、見つけた物が何だとか話をしながら、基本的には二人とものんびり景色を眺めながら進んでいった。

 途中、昼食休憩や水分補給もしながら、次の町カディスが見えてきたのは、空がわずかに赤みの差してきた頃だった。


 先述の通り、ここカディスは、人口三万ほどと比較的大規模の町だった。市街地も広く、テラモの町の十倍はあろうかと思われた。

 市街地に入ると、サムトーが言った。

「今日はちょっと買い物は無理だな。まず、宿を確保しよう。それから公衆浴場で風呂。で、宿に戻って夕食。明日買い物するから連泊しよう」

「分かりました」

 サムトーは、街道から逸れて、通りをいくつか過ぎる。宿屋の多い区画へと足を運ぶ。初めての別の町だから、エミリーには静かな方がいいかと考え、一階の酒場がこじんまりしている宿を選んだ。看板を見ると、林檎亭と書いてあった。リンゴ酒が売りの店らしい。

「はい、いらっしゃい。酒場ならもう開いてるよ」

 宿の女将だろう。恰幅の良い、中年女性が元気な声で迎えた。

「いえ、泊まりです。二人一部屋で、とりあえず二泊」

「へえ、兄妹かい? それにしちゃ似てないけど」

 まさか、昨日まで赤の他人でした、などと言えるわけもない。さっと考えて、サムトーはいい加減な返事をした。

「いや、俺は旅の剣士で、この娘は俺の相棒です。頭がいいので、いろいろ助かってます」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、記帳よろしく」

 サムトーが記帳を済ませ、二人分二泊で銀貨四枚を支払う。

「部屋は二階上がってすぐのとこね」

 女将さんに鍵をもらうと、部屋へと向かった。

 中に入って、荷物を下ろすと、エミリーを椅子に座らせた。靴を脱がせて足の具合を見た。

「普段、こんなに歩くことはなかったよな。少しむくんでいる感じで、かなり疲れてるみたいだ。風呂に入って、ゆっくり休もう」

「ありがとうございます」

 うれしい気遣いだった。罵声を浴びるようになってから、こんな風に温かな言葉を掛けてもらったことはなかった。

「じゃ、風呂に行こう。公衆浴場は、町によって造りは違っても、中はそれほど変わらないから大丈夫」

 タオルと着替えを持って、近くの公衆浴場へと向かう。

 徒歩数分で到着、今度はさすがに男女で分かれている。

 それぞれに体を洗い、温まって出てくると、出入口で合流した。

 宿に戻って着替えを洗濯し、部屋の中に干しておく。

 そして夕食。パスタにポトフと野菜のベーコン巻き。質素だが、丁寧に作ってあるようで、味は良かった。たくさん歩いて腹が減っていたからか、今回はエミリーも残さずに食べられた。

 周りを見ると、それなりに客が入り、エール片手に談笑している人がちらほら見られた。同じ泊り客もいるようだった。それでも賑やかと言うほどではなく、のんびりしても悪くない感じだった。

 食後にエールを一杯。エミリーにはお茶を頼んだ。

 一息入れて、サムトーが尋ねる。

「疲れたと思うけど、体の方は大丈夫そう?」

「何かにつけて気遣ってくれて、ありがとうございます。でも、大丈夫です。自分で決めたことですから、ちょっとのことでは挫けません」

「ほう、その言い方だと、さすがに疲れたってことだね」

「やっぱり分かりますか。でも、おかげでよく眠れそうです」

 エミリーが小さく笑みを浮かべた。

 強い娘だ。再度サムトーは思った。いくら最悪の環境から逃げるためとは言え、良く知らない男と二人旅、しかも経験のない長歩き。緊張も疲れもあるのに、それでも笑って見せるのか。なら、自分にできることをしてやろうと、改めて決意した。

 部屋に戻り、エミリーをベッドで休ませる。まだ眠るには早い時間なのだが、横になるだけでも体は休まるからである。

「お疲れ様。今日は頑張ったね」

 椅子を持ってきて隣に座ると、サムトーがエミリーをほめた。

「そうだなあ、今更だけど、俺のこと話しておくな。話の途中でも、眠くなったら寝ちゃっていいから」

 エミリーがうなずく。

 サムトーは自分の過去を話し始めた。旅の相棒とするからには、隠し事はなしにしようと考えた。

 親の顔を知らず、十才まで養護施設で育ったこと。人買いにさらわれ、売り飛ばされて、奴隷剣闘士になったこと。八年間、命懸けで戦い、生き延びてきたこと。そこから仲間と反乱を起こし、逃亡生活に入ったこと。

 話がそこまで及んだ頃、エミリーの瞳が閉じているのに気付いた。

「よほど疲れてたんだなあ。ほんと、よく頑張ったな」

 軽く頭をなでて、エミリーの隣を離れた。

「必要な物を確認しておくか」

 机に向かうと、備え付けのペンと紙に、サムトーは必要な物のリストを書き始めた。


 翌朝、どうやらエミリーの方が先に起きたようだった。すでに着替えを済ませ、机の上のメモを見ていた。

「おはよう。早いな、エミリー」

「おはようございます、サムトーさん」

 サムトーはベッドを出ると、さっさと服を着こみ、声を掛けた。

「顔を洗って、水を一杯飲もう。朝、起きてから水を飲んでおくと、体も起き出して、調子が良くなるから」

「分かりました」

 二人で一緒に井戸端へ行く。もうすぐ二月、さすがに朝の空気は冷たい。

 交代で顔を洗って、水を一杯飲む。

「でさ、悪いんだけど、俺素振りしていくから。先に部屋に戻ってな」

 サムトーは日課になっている剣の素振りを始めた。

 エミリーは興味を惹かれたようで、その素振りを眺めていた。

「見てても面白くないだろ」

 素振りしながらサムトーが言う。

「いえ、すごいですね。素振りの場所が全然ぶれてないです。サムトーさん、実は相当強い人なのでは?」

 これで十一才か? 剣の素養もないはずなのに、初見でそこまで感じ取れるとは。もしかすると、才能があるのかもと思った。

 自分の素振りを終えたところで、エミリーに声を掛けた。

「少しやってみるか?」

「はい、少しだけ」

 サムトーはエミリーに剣を渡した。鞘込みで一キロほどあるので、少し重かったようだ。

 右手で前を、拳一つ開けて左手で後ろを持つ。両手で振りかぶり、その時握りを心持ちゆるくする。振り下ろすと同時に脇を若干締め、剣を絞るように握りしめて止める。その動きを見本を見せながら教えた。

 ゆっくり十本ほど振っただけでも、軽く息が上がってしまった。まだ子供だし、鍛えてもないから当然だろう。しかし、いい経験になったようで、顔をほころばせていた。

「振るのがこんなに大変だなんて。サムトーさんはすごいです」

「ありがと。エミリーも初めてにしては上手だったよ」

「そうですか? ありがとうございます」

「じゃあ、戻って朝飯にしようか」

「はい」

 部屋に戻ってから、一息入れて食堂へ。女将さんに朝食を頼み、しばらく待つと、オムレツと野菜スープ、パンとジャムが出てきた。二人でのんびりと食べる。質素だが味は良かった。

「今日は買い物だな。まず鞄だろ。財布に櫛にタオル、紐、ズボン、雨具兼の外套、靴と靴下も見ておきたいな」

「すみません。私のために」

「なに、大事な相棒のためだ。これほど重要なこともないさ」

 サムトーがちょっと格好をつけて言ってみた。

 十一才の少女相手では、当然の如く空振りである。

「そこまで言って頂いて、ありがとうございます」

 いや、ホントは、何かっこつけてるんですか、みたいに言ってほしかったなあ、と思うサムトーだった。


 大体の店は開店が九時である。九時の鐘まで少し時間が空いたので、二人で地図を眺めて、サムトーがこれまで旅してきた場所を追った。結構な距離を歩いて旅したものだ。エミリーが感心していた。

 鐘の音が聞こえたところで宿の外に出る。カディスの町の商店街は、エミリーが住んでいたテラモの町とは比べ物にならないほど広く、店も多かった。

「すごいですね、店の数が多くて。隣町に住んでいたのに、全然知りませんでした」

 エミリーが、子供らしくはしゃいでいる様子を初めて見て、サムトーもうれしくなった。楽しく買い物できそうで良かったと思った。

「まずは鞄からだな」

 二人で鞄を扱っている店を探す。意外とこれが見つからない。途中、雑貨屋や古着屋はあったので、後で立ち寄ろうと頭の片隅に置いておく。

 通りを二本変えたところで、ようやく鞄の店を見つけた。

「いらっしゃいませ」

 二人で店内に入ると、三十代の店主らしき男性が声を掛けてきた。鞄はそうすぐ壊れるものではないから、需要は少なく店に来る客も少ない。現に、今もサムトーとエミリーの二人しかいない。

「どういった物をお探しで?」

「この娘が使う、背負えるタイプのが欲しいんだけど」

「でしたら、この辺ですね」

「あと、この娘の今持っている鞄を、下取り頼む」

「分かりました。査定いたします」

 店主に鞄を預けると、二人で言われた品のある棚をじっくりと見る。

 いろいろな種類があるが、全部革製の物は値段も高く、重くて荷物の出し入れも面倒そうだった。布製のうち、丈夫で軽そうなリネン製の大き目の物が、使うのに良さそうだった。

「この辺から選ぶのがよさそうだね」

 サムトーが言うと、同じ考えだったのだろう。エミリーがその中から一つ手に持ってみた。

「これが良さそうですけど、いいですか?」

「もちろん。じゃ、それにしようか」

 下取りの査定も終わり、かなり使い込まれているため値段が出ず、こちらは銅貨三枚だった。買う方のリュックは銀貨二枚。サムトーが支払った。

「お買い上げ、ありがとうございました」

 店主の声を背に、二人は店を出る。次は財布だ。

 途中で両替商に寄って、金貨を銀貨に崩し、小物屋へ。

 品揃えが多く、ここでも結構迷った。そんなに大金は持たないから布製にするとして、巾着型のどれも良さそうで、エミリーも目移りしていた。

 迷った末に、紺地の丈夫そうなのを選ぶ。銅貨三十枚。

 次に雑貨屋へ。タオル、櫛、紐、布袋を買い求めた。やはり品揃えは良く、選ぶのに時間をかけた。ここでは銀貨一枚と銅貨二十枚。

 そこまで買い物をしたところで、十二時の鐘が鳴った。昼食にしようと、近くの料理屋へ寄る。

 ベーコンと干しトマトのパスタとサラダ、卵スープとごく普通のメニューを注文する。

「買い物って、結構大変ですね」

 エミリーの頬が紅潮している。少し興奮気味だった。目移りしながら物を選ぶのが楽しかったのだ。

「本当にありがとうございます。こんなにいろいろ買ってもらって」

「旅をするには必要だからね。準備が大事」

 しばらくして、料理がテーブルに並んだ。

 サムトーがパスタを口にする。エミリーもそれにならった。

「このパスタ、おいしいです。……何か贅沢ばかりしてるみたいで、悪い気がします」

「旅暮らしだと、料理屋さんに頼っちゃうからなあ。くどいようだけど、当分お金の心配はないからね。気にしないで」

「はい。ありがとうございます」

 サムトーは、エミリーにお礼ばかり言わせている気がして、ちょっとした罪悪感を覚えた。それを言うと気にするだろうから、黙っておく。

「おいしい物が食べられるのは、いいことなんだよ。うん」

 笑顔で食事を頬張るサムトーの姿を見て、エミリーも釣られて笑顔になった。だだ、エミリーには、大人一人前はやはり多かったようで、サムトーが食べ残しを片付けることになったのだった。


 午後はまず古着屋へ行った。新品の服は高く、相場が古着の何倍もするので、さすがのサムトーでも出費は苦しかったのである。

 エミリーの両親が残した服のうち、もう小さくなってしまった物は下取りに出し、代わりの服と、普段使いのズボン、雨具兼用の外套を選ぶ。特に、徒歩で旅をするからには、しっかりした造りのズボンが最低二本は必要だった。また、スカートは旅に適さないので一着だけ残して、下取りに出すことにした。

 今がちょうど成長期のエミリーには、一回り大き目の物を選ぶ必要があった。すると、中々ちょうど良いサイズの物がない。結局この店では、ズボンが一本と上着一着、長袖一枚と肌着だけ買うことになった。ここでは銀貨二枚。下取りの方は銅貨三十枚だった。

 結局、古着屋を三軒はしごして、二着ずつ衣服を揃えることができた。元からあったのと今着ているものと合わせて四着。毎日背負って歩くのだから、分量としてはこの辺が限界である。

 最後に靴屋へ行った。エミリーが今履いている靴は、長く歩くのには向いていなかったからだ。重くはなるが、靴底が厚く、足首をしっかり守るものを購入した。靴の中で足が痛まないように、靴下も三足買う。さすがにここの出費は大きく、銀貨五枚。買い物の合計は銀貨十枚、二人の五泊分の宿賃と同じ出費だった。

「本当にありがとうございます。お礼しか言えなくて、ごめんなさい」

 エミリーが申し訳なさそうに言った。いくらお金に余裕があるとは言え、銀貨十枚の出費が心苦しかったのだ。

 サムトーもその心情はよく分かる。なので、努めて明るく、エミリーを励ました。

「ならさ、俺と一緒に楽しく旅をすることが、お返しになるから。俺、一人旅だったから、エミリーがいてくれるとうれしい」

「はい。分かりました。頑張ります、私」

 優しさが身に染みたようで、エミリーが少し涙ぐんだ。

 ちょうど空の赤みも増してきた頃合いだった。この日は一日がかりで、必要な買い物をしていたことになる。さすがに、連日長く歩いて、エミリーにも疲れが見えていた。

 宿に戻って荷物を整理する。着替えを布袋に仕分け、リュックに詰め込む。財布や櫛などもリュックのポケットに収める。布製のリュックに若干余裕を残して、全ての物がきれいに収まった。

 片付いたところで公衆浴場へと向かう。エミリーが、毎日温かな湯に入れる贅沢に心苦しさを感じたようで、少し表情が暗かった。体に異常がないか確かめる意味もあるからとサムトーが説得すると、必要なことだと割り切ることができて、表情が和らいだ。

 風呂の出入口で合流して宿に戻る。ふとサムトーが思ったのは、思った以上に、エミリーがきれいな子供だということだった。透き通るような銀髪、繊細な顔立ち、少しやせているがすらりとした手足。人買いなどに狙われても不思議ではない。大都市などでは注意が必要かもしれないと感じた。

 宿に戻って、エールと蜂蜜水を注文する。風呂上りの一杯がやはりうまいのだ。エミリーもおいしそうに蜂蜜水を飲んでいた。

 飲み終わった頃合いで夕食を頼む。具だくさんのシチューとオムレツ、それにパン。今日も買い物で移動が多く、エミリーもお腹が空いていて、食欲十分だった。サムトーがほっとする。

 時間は多少かかったが、今日は全て食べ終えることができた。代わりにお腹をさすっている。やはり少し量が多かったようだ。そんな様子に微笑ましさを覚える。

 部屋に戻ってから、サムトーは昨日の話を覚えているかどうか尋ねた。

 奴隷剣闘士という、命懸けの戦いをして生き延びてきたことは覚えていると、エミリーは答えた。

「それで、これだけは覚悟して欲しいんだけど」

 そう前置きして、サムトーは真剣に話をした。

「神聖帝国では、俺はお尋ね者で、捕まれば処刑されるんだ。さすがに九か月も経って、そう滅多なことで見つかる心配はないけどね。でも万が一ということがある。だから、今しばらくは俺はエミリーと旅をするけど、近い将来、どこかで信頼できる人が見つかったら、エミリーは旅を止めて、その人の所で暮らして欲しいんだ」

「そんな、せっかく一緒に旅をするのが楽しみになったばっかりなのに」

 エミリーが悲しい顔をした。旅の荷物を買って、いよいよ本格的に旅に出るんだと、期待を膨らませていた出鼻を挫かれたのだから。

「ごめんな。まだ旅に出て二日目なのに、こんな重たい話をして。でも、先に知っていてもらいたかったんだ。あくまでいつかは、の話だから。当分はエミリーと一緒に楽しく旅をするさ」

「あまり聞きたくはなかったです」

「そりゃそうだろうな。でも、いざその時になってから話したんじゃ、遅すぎるから。心の片隅に置いといてくれ」

「……はい。分かりました」

 納得はしかねるが、承知しないことには話が進まないと思い、止む無く答えたという感じだった。

「ほんとごめん。まだ嫌な話があるんだ」

「なんか、ひどいです。せっかく楽しい旅のはずなのに」

 エミリーが辛そうな顔をするのも無理からぬことである。それでも必要なことなので話さなければならない。

「あのな、風呂からの帰りに思ったんだけど、エミリーはかわいすぎるんだ。きれいだと言ってもいい」

「は? え? あの……」

 嫌な話が誉め言葉というのはどういうことだろう。頭がさすがについてこなかった。

「これも万が一の話になるけど、世の中には人買いっていう悪党がいてな。俺もそいつらにさらわれて奴隷剣闘士として売り飛ばされたんだ。エミリーもきれいだから、貴族に高値で売れるだろうって、さらわれてもおかしくない。まあ、このカディスくらいの町なら大丈夫だろうけど、大都市では要注意だ。基本的に俺から離れないで欲しいっていうことだ」

「そうなんですね。それも分かりました」

 なるほど。エミリーでは気付きようもないことだった。率直にさすがだと思い、即座に同意した。でなくても、サムトーから離れるなど、不安でとてもできることではないが。

「ありがとう。分かってくれて助かる。つまらない話ばかりでごめんな」

「いえ、大事な話なのはよく分かりました。サムトーさんて、本当に他人思いですね」

 エミリーはほめたつもりだったが、ポイントがずれていたらしい。

 サムトーが真面目な顔で言い返してきた。

「他人思いじゃない。あくまで俺の大事な相棒のためだ」

「あ、そっか。私、相棒なんですね。大事にしてくれて、うれしいです」

 それで正解だったらしい。サムトーが笑みを浮かべた。

「分かってくれて、俺もうれしいよ。……さて、腹具合はどうだい?」

「だいぶ落ち着きました。もう大丈夫そうです」

「そっか。良かった。今日も疲れたろう。そろそろ休もうか」

「はい。そうします」

 エミリーが素直にベッドに入る。

「今日はエミリーの話を聞こうかな。見てて分かったけど、お父さんもお母さんも、すごくいい人だったんだろ?」

「よく分かりますね。優しくて私にいろいろ教えてくれて、自慢のお父さん、お母さんでした」

 エミリーは三人での思い出をいろいろと話した。畑仕事を三人で頑張っていたこと。収穫の時、近所の人達と協力していたこと。買い物に出かけて、三人で荷物を分け合って運んだこと。何か失敗しても、優しく手伝ってくれて手直ししてくれたこと。

 話している間に、眠気に負けたようで、いつしかエミリーは眠りに就いていた。

「さて、俺も寝るかね」

 サムトーもベッドに潜り込むと、すぐに寝息を立て始めた。


 翌朝、二人が起きたのはほぼ同時だった。

 二人で井戸端へ行き、水を飲む。そしてサムトーが剣の素振りを始め、エミリーがそれを眺める。最後に、エミリーも少しだけ素振りをして、また水を飲む。

 日課をこなして、サムトーが親指を立てた。

 エミリーもにっこりと笑うと、親指を立てて見せた。

 部屋に戻って一息入れてから朝食となる。

 エミリーも、三泊目で宿屋の暮らしになじんだようで、元気に朝食を食べていた。

 部屋に戻って、荷物を整理し、いよいよ出発である。

「では、次の宿場町まで」

「行きましょう、サムトーさん」

 元気よく、二人は歩き始めた。


 それから十日、二人はのんびりと歩いて街道を南下し続けた。エミリーの体力を考えて、大きくても小さくても宿場町に着くごとに宿に泊まった。

 いろいろな話をした。サムトーが猟師達や旅芸人達と一緒に過ごした、その暮らしぶりのこと。一人旅の様々なトラブル。

 エミリーが、学舎で学んだ十才までは、父母も健在で穏やかな日常を送っていたこと。何人も友達がいて、町の人もみな親切だったこと。

 話す時間はいくらでもあって、互いのことを良く知ることができた。

 一日小雨の降りしきる日があった。エミリーを冷たい雨の中歩かせるわけにはいかず、宿に連泊することにした。外に出かけることもなく、宿の部屋で一日つぶしたのだが、二人揃って暇を持て余し、時々お互いの手持無沙汰を見合っては、笑い合った。

 二月六日、そうして到着したのが城塞都市グレーベンだった。人口は十五万と、他の城塞都市より大きく、この地方で唯一の闘技場があった。さらに一個連隊一千の騎士団も駐屯しており、帝国統治の重要拠点だった。

「こんな大きな街があるんですね」

 エミリーが目を丸くして言った。サムトーにとっても、逃亡元のカターニア以来の大きな都市だった。すると当然あれがある。街道を市街の中心に向かって歩いていくと、やがてそれが見えた。

「これが闘技場か……」

 街道を進んできて、街の中央に大きな広場があった。そこに隣接して建てられていた巨大な建造物が、グレーベンの闘技場だった。今日は開催日ではなく、人もただ通り過ぎるだけだが、試合のある日には大勢の観客で賑わい、命懸けの戦いを娯楽として見物するのだろう。その中で戦っていた日から、まだ九か月ほどしか経っていない。

 サムトーが珍しく感傷的になっているのを見て、エミリーが手を握ってきた。事情を知っているからこそ、あえて言葉には出さなかったのだ。

「行こうか、エミリー」

「はい」

 大都市では、南側が庶民の暮らす地域である。街道を逸れて何本か東の通りに入ると、商店街があった。まだ日が傾き始めたばかりだが、とりあえずこの日の宿を確保することにした。

 しかし、大都市だけあって宿の数も多い。通りも観光客らしき人々でかなりの人出があった。なるべくこじんまりとした宿がいいかと思い、小兎亭という宿に決めた。三階建てだが他の宿より若干狭い。

 中に入ると、時間がまだ早いだけに閑散としていた。カウンターにいた男性に声を掛ける。

「二人一部屋で二泊お願いします」

「承知しました。ご案内します」

 銀貨を四枚支払い、三階中ほどの部屋へと案内された。大都市だけに調度も整っていて、立派な部屋だった。まだ風呂の時間には早いので、荷物を置いて、再度宿の外に出る。

 通りの角に街路図があった。二人でそれを眺めた。工房区、商店街、住宅街、貴族の邸宅、騎士団本部と騎士達の住居、富豪達の住居などが整然と区分けされていた。南の広場は他の都市と同じく市らしい。また、来るときは気付かなかったのだが、闘技場の向かいに内城があった。この都市を始めとする地域一帯を治める、神聖帝国の城代が仕事をする場所で、最終防衛拠点でもあった。

 せっかくなので二人で内城を見に行く。

 他の城塞都市にも、内城と同じ機能を持たせた館は存在した。しかし、ここまで軍事拠点として特化した巨大な建物ではない。外の城壁が破られても、まだこの内城に籠城が可能な造りだった。それだけに、建築物としては見事である。観光場所として有名で、大勢の人々がこの立派な城を見に来るのも道理だった。

「すごい建物ですね。すごいとしか言えないです」

「全くだ。他に言いようがないなあ、これは」

 二人揃って、呆けたように巨大な城を眺めていた。周囲の人々は、どちらかと言うと、物珍しさに興奮気味な人が多いようだった。

 広場の端の方には、食べ物や飲み物を売っている屋台があった。城や闘技場の見物客目当ての店だった。それなりに売れていて、あちこちで城を眺めながら飲み食いしている様子が見られた。

「俺達も何か食べようか」

 サムトーが提案したが、エミリーは首を振った。

「私、食が細いですから。また夕食残すのも良くないと思いますし」

 謙虚なのは美徳だが、せっかくの機会がもったいない。サムトーは少し考えて、受け入れやすい形で提案した。

「じゃあ、何か一つ買って、二人で分けて食べようか。それでも夕食が苦しくなったら、俺が何とでもするから」

「分かりました。そういうことなら」

 エミリーも本当は味見くらいはしたかったようだった。

 こういう時は定番でクレープにした。果物のジャムとクリームの甘い物にした。ここまでの道中、甘い物は焼き菓子程度しか食べていない。相当に受けるのでは、と思った。

 半分にちぎると中身が垂れてしまうので、交代で食べることにした。

「じゃあ、最初はエミリーからどうぞ」

「ありがとうございます。では、いただきますね」

 そう言って小さく頬張ると、予測していた以上の味だったようだった。

「うわあ、甘ーい。こんなの小さい頃に食べて以来です」

「喜んでもらえてよかった」

「じゃあ、交代です。サムトーさんどうぞ」

「ありがと。いただきます。……うん。うまい。やっぱり、たまに甘い物って食べたくなるな」

 そうやって交互にクレープを食べていった。周りの人からは、仲の良い兄妹にしか見えないだろう。実際はまだ知り合って十日ほどなのだが。二人はそのくらい信頼し合う相棒となっていた。心許せる存在が身近にいることを、とてもうれしく思っていたのだった。

「さて、そろそろ風呂に行こうか」

 食べ終わった頃合いで、ちょうど日も赤くなり始めていた。

 二人は宿に戻ると、近くの公衆浴場へと出かけて行った。


 宿に戻ってエールと蜂蜜水を一杯ずつ。風呂上がりのこれも、二人にとって定番となっていた。風呂上がりの体に染み渡る。

 そこで、夕方一杯ひっかける客の中に、面白い話をしている連中がいた。

 南の市の外れに馬車が十台ばかり止まっていて、それが旅の商人の一行だという。辺境から珍しい品々を集めて売っているらしく、この大都市の商店街でも扱っていないような物がいろいろあったそうだ。琥珀や瑪瑙などの宝石類、楽器、手製の織物、乾燥食材などなど。地方の特産料理も味わえる屋台もあったし、行ってみると面白いかも。そんな話だった。

 サムトーとエミリーは、二人揃ってその話に聞き入っていた。

「面白そうな話だったな」

 サムトーが夕食を頼んでから、エミリーに話しかけた。

 エミリーも同感だったようだ。

「そうですね。旅の商人というのが、サムトーさんが以前いた旅芸人と通じるところがあって、興味が湧きます」

「大都市だから、見る場所いろいろありそうだけど、旅の商人の方に行くのもありかもな」

「賛成です。明日行ってみませんか?」

 珍しくエミリーの方が積極的だった。ならばその意思を尊重しよう。

「よし、決まりだな」

 ちょうど夕食が運ばれてきた。ブラウンシチューにベーコンのピザがメインだった。それに、キャベツやホウレンソウなどのサラダが付いてきた。この冬の時期、生野菜の料理を出せるのには驚いた。近郊の農家が、都市部の住民に向けて売るために作っているのだろう。

「サラダですね。生野菜なんて、すごく久しぶりです」

「本当だ。それもニンジンやダイコンならともかく、葉野菜だ。さすが大都市は違うな」

 二人は感心しながら、サラダを口にした。白いドレッシングが葉野菜によく合っていた。シチューもピザもきちんとした作りで実にうまい。

 この日の食事は、エミリーがちょうどお腹一杯になる程度で、具合が良かった。満足そうに笑顔を見せていた。

 食事の後は、明日訪れる旅の商人がどんなものなのか、お互いに楽しみにしていることを話し、ゆっくりと休んだのだった。


 翌朝、日課の素振りと身支度、朝食を済ませると、サムトーとエミリーは連れ立って南の広場へと出かけた。

 時間が早すぎて、露店もまだ準備中のところが多かった。どこの都市でもそうだが、市は猥雑で、道具屋の隣に乾物屋、その隣が工芸品などといった具合に、店の並びも混沌としている。

 その南の外れ、南門からそう遠くないところに、馬車が十台止まっているのが見えた。その隣には、商人達が寝泊まりする天幕が建てられており、馬車を挟んで街道から見える場所に、十数件の露店が開かれていた。

「早いねえ、お客さん。どうぞゆっくり見て行ってくんな」

 砕けた口調の露店の主が、早速とばかり声を掛けてきた。一番隅のその店は装飾品が売っていて、昨日酒場で聞いたように、金銀細工のほか、翡翠や瑪瑙などの宝石を使った品が売られていた。売値は最低銀貨一枚から高い物で金貨一枚程度。商店街の宝石店などよりはかなり割安だった。

「そちらの嬢ちゃんにお一つどうだい?」

「ありがとうございます。考えてみますね」

 エミリーの返答もなかなか上手である。サムトーが思わず感心した。

 その隣は革製品。ベルトやポーチ、鞄などのほか、毛皮も二枚だけあった。見た感じ、作りは良さそうな品々だった。

 その隣に工芸品、さらに隣に布製品といった具合に、品揃えは多岐に渡っていた。真ん中を過ぎると茶葉を売る店、食材を売る店ときて、料理の屋台が三軒ほど並んで終わりになっていた。

 じっくり見ている間に日も高くなり、人出も多くなってきた。気が早い者は、料理の屋台で早速買い食いしていた。異国風の薄焼きパンの燻製肉サンド、同じく異国風の茶色の焼きそば、そして異国のチョコレートを使った焼き菓子が売っていた。量が少なめなので、どれも銅貨五枚と安い。これが主力の売り物らしかった。

 のんびり売り物を眺めていると、馬車の周辺で、慌てた様子の男女の姿が見えた。隊商の長と思しき人物に、何かを訴えかけている。よほどのことがあったらしかった。

 他人事ではあるが、サムトーはつい野次馬根性を発揮してしまった。

 長の所に近づき、何事なのか尋ねてみた。

「人買いが出た。うちの子供が一人さらわれた」

 その言葉を聞いた瞬間、サムトーの頭に一気に血が上った。辛いこともあったが平和に養護施設で暮らしていたところを、さらわれて売り飛ばされた苦い記憶がある。

「警備隊の詰所に人をやって、捜索願を出させているが、これだけの大都市だ。警備隊も手が回っていないから、こんな事件が起きるのだろうしな。うちからも手の空いている者を探しに出しているが、見つかるかどうか」

 長も相当に悔しいらしい。犯罪に巻きこまれないための対策はいくつも講じているはずだった。それでも仲間の子がさらわれてしまったのだ。

「そうですか。すみません、無理にお聞きして」

 サムトーは頭を下げると、エミリーを連れてその場を後にした。

「人買いか。質が悪いな」

「前に話してくれた、危険な人達ですね」

 サムトーが真剣に考え込んでいるのを見て、エミリーも思いを巡らせた。こういう時聡いのがこの娘だった。サムトーが何とかしたいと思っているのを敏感に察していた。

「サムトーさん、私達も探してみますか?」

 思わずエミリーの顔をまじまじと見てしまった。この娘は、人買いが危険な存在と分かっていながら、そんな提案をしているのだろうか。

「危険なことは分かっています。仮にその子を見つけられなくても、手がかりの一つくらいは見つかるかも知れませんし」

 サムトーとしては、少しくらい探してみたいのも本音である。だが、エミリーを危険な目に遭わせたくはない。

「もしかすると、エミリーがさらわれるかもしれないぞ。相手は奴隷商人にさらった子供を売り飛ばす悪党だ。何をしでかすかも分からない」

「そうですね。でも、その時はサムトーさんが助けてくれるでしょう?」

 強い信頼感だった。確かに、場所さえ特定できてしまえば、後は何とでもする自信はあった。さらわれた頃の無力な自分とは違う。生と死の狭間を潜り抜けてきた強さを身に付けている。

「分かった。二人で少しの間、探してみようか」

 二人は街路図を確認しに行った。

「まずは、居住区の空き家を当たってみるか」

 街路図をある程度頭に入れると、街の東側、この市の北側に広がっている居住区へと向かった。何万もの人間が住んでいる街である。建物の数はあまりに多く、人通りの絶えることもない。

 それでも、辛抱強く歩き回って、人通りの少ない、寂れた住宅地へとやってきた。雰囲気も暗く、建物も古ぼけた感じだった。一種のスラムである。

 この辺は怪しそうだと思い、少し歩き回ってみる。

 その予想は的中し、路地裏に入ると、体格のいい男が二人現れた。

「手頃な獲物が向こうからやってくるとは、俺達はついてるな。かなりの上玉だぜ」

 男の一人がそうつぶやいた。エミリーを狙っていた。

「よお、兄ちゃん、その子を置いてどっかに失せな」

「まさか、あんたら、人買いか?」

 サムトーは怯えた演技をしながらそう尋ねた。今は剣を持っていない。丸腰の優男だと油断を誘えるはずだった。

 男達が嘲笑し、その通りだと答えた。

「知ってるなら話は早い。痛い目見ないうちに消えろよ」

「その嬢ちゃんも、どっかの金持ちに買われて、幸せになれるしよ」

「なるほど、よく分かった」

 言質を取ったことで、遠慮する必要がなくなった。

 サムトーは先手を取って動くと、男の一人の首筋を強打して気絶させた。そのままもう一人の男の腕を取り、ねじり上げた。

 気絶した男が地に倒れ、もう一人も激痛に顔をしかめた。

「さて、悪党みたいなセリフだが、死にたくなければ、アジトへ案内しろ」

「へ、このくらいで仲間を売れるかよ」

「強がってもいいことないぜ」

 サムトーは男の小指をへし折った。激痛が男に走る。

「何本まで耐えられるか、試してみるか?」

 容赦のない口調だった。さすがの男も恐怖に負けて、口を割った。

「わ、わかった。ついてこい」

 サムトーがそのまま男の腕を取りつつ、案内させて後をついて行く。

 さすがにエミリーも顔を青ざめていた。それでも、何も言わず、サムトーから離れずについてきていた。

 やがて、人の住んでいない建物がいくつか立ち並ぶ場所へ出る。その一つを男が示した。

「ここだ」

「開けろ」

 サムトーが冷たく指示する。男が仕方なく、その言葉に従う。

 開くと同時に、サムトーはその男の首筋を強打し、またも気絶させた。

「中に入ったら、エミリーはこの出入り口の近くで身を隠すんだ」

「わ、分かりました」

 わずかに震える声で、エミリーが答える。怖くないはずがなかった。

「全部片付けてくる」

 サムトーはそう言い残して中へと入った。

 一階の広い部屋に三人。カードゲームに興じていた。先ほどの男と同じように首筋を強打して意識を奪う。

(さすがにエミリーのいる所で殺すのは避けたいからな)

 そんな物騒なことを思いながら、一階に人がいないことを確かめ、二階へ向かう。

 下の階の異変に気付いたのか、男達が五人、ちょうど廊下へ出てきたところだった。出会い頭に、サムトーは一気に間合いを詰め、拳で二人のみぞおちを強打し、気絶させて倒す。残る三人はナイフを抜いて応戦しようとしたが、その前にサムトーが懐に飛び込み、拳をみぞおちに突き刺した。これも一撃で気絶させている。

 全員が倒れたところで、二階も確認する。子供はいなかった。三階へと上る。

 どうやら、この階には人買いの一味はいないようだった。一部屋ずつ確かめていくと、一番奥の部屋に鍵がかかっていた。扉を蹴破ると、中に四人の子供がいた。

 子供達は驚いた様子だった。まずは落ち着かせようと、サムトーが声を掛ける。

「静かに。助けに来たんだ。分かるか?」

 子供達が黙ってうなずく。まだ多少サムトーを怖がっている。

「いいか、ここから急いで逃げるぞ」

 一階に下りてエミリーと合流し、全員を外に連れ出す。少女の存在が助けに来たという言葉を裏付け、子供達も落ち着きを取り戻した。

「ゆっくり走るから、頑張ってついてきてくれ」

 そして、子供達が付いてこられるよう、手加減して走り出した。

 そのままスラムを抜け出し、人通りのある場所まで来る。ここまで来れば一安心だ。一刻も早く通報すれば良い。

「エミリー、この先の警備隊の詰所だ。後は頼んだぜ、相棒!」

「任せて下さい!」

 サムトーがここで全力で走り出す。気絶させたとはいえ、いつ起き出すとも限らないからだ。残る子供達は、エミリーが面倒を見ながら、後から連れていく。

 やがて警備隊の詰所に着くと、人買いに襲われたことを知らせる。

 中にはちょうど五人の隊員がいて、即座に対応してくれた。

 一人が本部へと向かい、一人が残留し、三人がサムトーの案内で現地へと急行する。途中、エミリー達とすれ違ったが、そちらは残留した隊員に任せれば良い。四人は現地到着を優先した。

 途中、道の真ん中で気絶している男を拘束する。さすがに運べないので、そのまま放置する。そこからスラムの一角へと向かい、先ほどの建物へと到着した。

 ここで一人の隊員が先ほどの詰所に場所を知らせに戻る。残る二人で、建物の中にいた男達を拘束し、身柄を確保する。急行したおかげで誰も起き出してはおらず、二人の隊員だけで全員を拘束できた。

 しばらく待たされた後、本部から応援が十名ほどやってきた。エミリーも一緒である。拘束されている男達を立たせ、本部へと連行していく。

 サムトーとエミリーも本部へ同行した。そこで調書の作成が行われた。

 市の旅の商人から、人買いに商人の子がさらわれた話を聞いたこと。探すのを手伝おうとスラムまで足を延ばしたこと。そこで二人の男に襲われそうになり、一人を倒し、残り一人に子供達のいる場所へ案内させたこと。人買いなどという悪者は逃がしたくないので、頑張って一人で戦ったこと。何とか全員を倒し、子供達を助けて詰所へ通報したこと。あとは警備隊にお任せして、確保、連行していたという顛末をざっくりと話した。

「それはご活躍でしたね。素晴らしいお手柄です」

 調書を取っていた隊員がほめてくれたが、そこは謙虚そうに、必死で戦って何とか倒したと再度ごまかした。

 その間に、さらわれていた子供達が、みな捜索願を出されていることが確認された。これでサムトーの証言と現場での残留物などと合わせて、彼らが人買いだということが立証された。

「ご苦労様でした。サムトーさんはこの街の方ではないんですね」

「はい、旅の剣士です。この娘と一緒に旅をしています」

「そうですか。今日捕まえた連中の証言から、人買いの元締めも合わせて捕らえることができますし、少しは街も平和になるでしょう」

 人の好い隊員だった。内心恐れていた、腕前から素性に疑念を抱くような様子もなく、無難に済んだことに安堵した。

「それは良かった。警備隊の迅速な対応はさすがですね」

「いえ、こちらこそご協力ありがとうございました」

「では、私はこれで失礼しますね」

 丁寧に一礼を返すと、サムトー達は警備隊本部を出た。

 外はすでに日も傾きつつあり、夕方に近い時間だった。

「昼飯、食べそこなっちゃったな」

 無事に一件が解決して、サムトーが安堵を込めて言った。これでエミリーが狙われる心配もないだろう。

 エミリーがサムトーに抱き着いた。

「サムトーさん」

「はい?」

「怖かったです。でも無事で良かったです」

「そうだね、怖い目に遭わせてごめんな」

 エミリーはサムトーから離れると、笑みを浮かべた。

「でも良かったです、みんな助かって」

「一応、旅の商人達の所に行って、無事に帰ったか見ておこうか」

「はい。気になりますよね」

 二人は今日二度目の市へと向かった。

 旅の商人達は、いつもと変わらず商売をしていた。馬車の方を見ると、さらわれた子供は無事に帰っていて、大人、子供が協力して洗濯物を片付けているところだった。

 平和が戻った様子にほっとしていると、目ざとく商人の長がサムトーを見つけて、声を掛けてきた。

「女の子連れの若い旅人さん、あなたですよね、うちの子を助けて下さったのは」

 子供から話を聞いていたようで、迷いなく切り出してきた。

「いえ、人違いではありませんか?」

 サムトーはとぼけたが、午前中に一度話をしていたので、長はごまかされなかった。

「いやいや、嘘をついても分かりますとも。おかげで大切な子が戻ってきました。今日は本当にありがとうございました」

「ご無事で何よりでした。では、これで」

 長が慌てて引き留めた。

「お待ち下さい、何かお礼をさせて下さい。ちょっとこちらへ」

 そう言って、二人を装飾品の露店へと案内した。

「この辺の品ならかさばりませんから、お一つお持ちください。……そうですね、この瑠璃のブローチなど、お嬢さんの瞳の色にそっくりでお似合いかと。いかがですか?」

 見ると銀貨十枚の品だった。結構な額だが、この程度の物であれば過剰にもらったという感じにはならない。その絶妙なところをついてくるあたり、さすがは商人の長だった。

「分かりました。ありがたく頂戴しますね」

 そう言ってブローチを受け取った。確かにエミリーの瞳の色によく似ている、きれいな石だった。良く似合うだろうと思い、エミリーに手渡した。

 エミリーは、それをまじまじと見て、きれいとつぶやくと、大事そうにポケットにしまった。

「では、そろそろ風呂にでも行こうと思うので、失礼しますね」

「分かりました。繰り返しになりますが、ありがとうございました」

 二人は手を振って商人の長と別れた。その後ろの方で、捕まっていた子供が手を振っているのが見えた。その様子に笑みを浮かべると、宿へと戻るのだった。


 翌朝、いつもの鍛錬を済ませ、朝食を取っていると、妙に食堂に人が多いことに気付いた。

 聞き耳を立てていると、今日は闘技場で試合がある日で、それを目当てにした泊り客が結構いたのだった。

「そっか、気が付かなかったな。道理で人が多いわけだ」

 エミリーはうなずいたが、納得できないといった表情だった。

「そんなに良いものなのでしょうか。剣闘士の人達が、本気で戦うんですよね」

「さあなあ」

 かつて、歓声や罵声が飛び交い、興奮した人々の視線が突き刺さる中、命懸けの戦いをしてきたのは自分だ。その観客達の熱狂は今でも覚えている。だが、何を楽しんでいるのか分からなかったし、知りたいとも思わない。

「それより、今日はどうしようか。旅に戻っても良し、昨日できなかった街巡りをするも良し。エミリーの希望を聞くよ」

 話題が変わって、エミリーがほっとした表情になった。サムトーの素性を知っているだけに、剣闘の話はしたくなかったのだ。代わりに、脳内に街路図を思い浮かべる。そう言えば、とあることを思い出す。

「工房区があるんですよね。物を作っているところ、見られないかなあ」

「そいつは渋い趣味だね」

「し、渋いって……気になりませんか、例えばこの皿がどうやって作られてるのか、とか」

 エミリーが少し膨れた顔になった。

「ははは、エミリーはかわいいなあ」

 そういうことを相手に平気で言えてしまうのが、お調子者の本領である。

「サムトーさんのいじわるう」

「悪い悪い。でもいい案だな。皿に限らず、布とか工具とか、いろんな工房があるみたいだしな。今日はそれで行こう」

「分かりました。ありがとう、サムトーさん」

 そうと決まれば話は早い。二人は朝食の残りを平らげ、一泊延長を宿にお願いして、出発の支度をするのだった。


 工房区は街の西側一帯にあった。宿の小兎亭からだとちょうど南北を通る街道の反対側になる。歩きだと結構距離があった。

 いざ近づいて見ると、工房区自体も相当に広く、たくさんの建物が並んでいる。

 早速とばかり、一番近くにあった織物の工房を訪ねてみた。工房の警備員が声を掛けてきた。

「見物かい? 中には入れないけど、窓から見る分には構わないよ」

「ありがとう。じゃあエミリー、見させてもらおう」

 窓から工房の中をのぞいてみる。神聖帝国に燃料を使った動力はない。中には手動の織機がたくさん並んでいて、老若男女様々な職人達が織物をしていた。踏み板を踏んで、横糸を通してはその横糸を手前に打ち付ける。一回の工程につき、糸一本分の長さしか布ができないのだから、気が遠くなる作業である。それでもリズムよく織機を動かし、段々と布の形にしていく。

「普段来ている服も、こうやってできた布から作られるんですね」

 エミリーがしきりに感心していた。サムトーも同感だった。

 十数分見たところで、警備員に礼を言って、次の工房へと向かう。

 隣は、その布を使って服を作る工房だった。

 服作りは、専門の服屋があって、布を仕入れてきて、客の寸法に合わせてオーダーメイドする店もある。それとは別に、特に肌着の類などは、決まった大きさのものを量産することが多かった。その工房の一つがここだった。

「すごいですね。みなさん、根気強く縫ってます」

「そうだね。これは相当熟練した人たちなんだろうね」

 ミシンなどは存在しないので、すべて手作業である。やはり大勢の職人たちがいて、型紙に合わせて切られた布を丁寧に縫い合わせている様子が見られた。こちらもかなり手間のかかる作業である。新品の服は値段が高い。その理由がよく分かった。

 この一角に、布と服の工房がいくつか集まっていた。納品などの手間を考えて街割りをしたのだろう。

 少し離れた場所に行くと、今度は陶器窯が並んでいた。

 粘土を足踏みろくろで形にしていく作業。大きな乾燥棚。素焼きをした物を削って凹凸をなくす作業。釉を縫って乾燥させる作業。本焼きして仕上がった製品を集荷する作業。それぞれ分業して手際良く焼き物が完成していく様子は、見事と言うしかなかった。

 その他に、金属加工、ガラス加工、木工、製紙、製糸、醸造など、多岐に渡る工房があった。一日ではとても見て回れそうもない数だった。

 そうこうしているうちに、昼食の時間が近づいていた。

 うっかりしたことに、サムトーが昼食の調達を忘れていた。困ったように首を傾げたところ、工房区のどこかから食べ物のいい匂いがしてきた。

 エミリーと顔を見合わせ、その匂いがする方を探っていくと、一角に料理店が二十以上も並んでいる場所があった。工房区で働く人達が昼食を取るように作られた店だった。

 正午の鐘と同時に休憩となり、あちこちの工房から千人を超える職人達が食事を取りにやってきた。なるべく空いている店を選ぶ人もいれば、並んででも自分の好きな物を食べようとする人もいた。

 その光景に見とれてしまい、出遅れたサムトーとミリアだった。

「すごい人ですね。工房で働く人達、こんなにいたんですね」

 多少食べるのが遅れても構わないらしい。エミリーがのんびり感想を口にしていた。

「見物客で申し訳ないけど、俺達もどこか入ろうぜ」

 二人は適当に空いていそうな店に入った。食事を手早く作って提供する必要があるからだろう。メニューが四種類しかない。料金は先払いで一食銅貨八枚と安い。その中から、クリームパスタとベーコンと干しトマトのマカロニを頼んだ。せっかくなので二人交代で食べるようにしたわけだ。先に待っている客が多かったが、それでも十分と経たずに料理が出てきた。

 交代で食べながら、エミリーが感想を口にする。

「クリームの旨味が濃厚で、コクがあって、その奥から麺の旨味が出てくる感じで、おいしいです」

「マカロニもいいですね。定番ですけど、ベーコンと干しトマトがマカロニのおいしさを引き出してる感じです」

「エミリーも言うようになったなあ。的確な感想だと思うよ」

 サムトーが料理の味よりそれに感心していた。

 食べ終わった人達が、一部は自分の工房に戻っていく。半数近くは休憩時間ギリギリまで店でのんびりするつもりなのだろう。セルフサービスの麦茶を飲んでいた。

 食べ終わったサムトーとエミリーも、麦茶を飲みながら、のんびりすることにした。

「たくさんの工房の真ん中に、こうやって食事の店があるって、本当に良くできた街ですね」

 目を輝かせて感心するエミリーの様子が微笑ましい。何にでも素直に感心できるのは得難い長所だと思った。

「そうやって喜んでもらえて、一緒に来て良かったなあって思うよ」

 サムトーもしみじみと言う。自分もいろいろなことに感心させられっぱなしだっただけに、なおさらだ。

「知らないことを知ったり、初めて見るものがたくさんだったり、これもみんなサムトーさんが旅に連れ出してくれたおかげです。何度もお礼ばっかりになってしまうけど、本当にありがとう」

 ああ、やっぱりいい娘だな。無理矢理かと思ったけど、助ける道を選んで正解だったな。そう思い、サムトーもうれしかった。

「俺もエミリーと一緒で旅が楽しい。こちらこそ、ありがとうな」

 二人で笑い合う。一緒にいられるとうれしい、十日と少しでそんな関係になっていた。

「さて、続きを見に行こうか」

 二人はその後も工房を見て回った。

 金属加工では、板状になった金属を仕入れてきて、鍋釜などの道具にしたり、針金にしたりと様々な加工をしていた。一部工房では武具の製作も行っていた。さすがに金属の精錬は鉱山の街で行っているようで、この街にはなかった。

 ガラス工房は高温が危険なため、離れた場所から見させてもらった。職人が筒を吹いて、ガラス球を膨らませて形にする技術は見事だった。窓などに使う板ガラスを専門に製造する工房もあった。

 木工所、製紙場、製糸場、醸造所など、種類も数も多い工房を、とりあえず一通り見て回ったところで、夕方近くになっていた。さすがに全ての工房は見て回れなかったが、驚き疲れるくらいには見物させてもらえて、二人とも満足していた。

「楽しい一日でした。物作りの大変さが分かって良かったです。物を粗末にしたらバチが当たりますね。大切に使おうって、強く思いました」

「エミリーはいいこと言うなあ」

「職人さん達はすごいですね。きっと相当長いこと修行したんでしょうね」

 そんな話をしながら宿へと向かっていた。

 途中、中央広場を通った。まだ剣闘試合は続いているらしく、闘技場の中から大勢の歓声が聞こえてきた。

 ああ、そうか。剣闘士も戦うことに関しては職人と同じく、厳しい修練と過酷な戦いの末に、ようやく生き延びられたんだったな、とエミリーの言葉でそんなことを思った。殺し合いを見せて客を喜ばせることは、人の道に外れているのではないかという思いは強かったが。

 ともあれ宿に戻り、いつものように公衆浴場へ行く。

 夕食を取り、部屋でのんびり話をして、二人は眠りに就いたのだった。


 結局、翌日も一泊延長した。

 この日も剣闘試合は行われていて、闘技場には二万人以上の観客が訪れていた。そちらに人出がある分、他は多少空くだろうということで、市を見に行くことにしたのだった。

 旅の商人達はちょうど今日出発で、サムトーとエミリーが市に着いた時には、馬車に馬をつないでいるところだった。

「お二人には世話になりました」

 商人達の長が目ざとく二人を見つけて声を掛けてきた。

「いえいえ。無事出発できて良かったですね。これからはどちらへ?」

 サムトーが何気なく尋ねた。

「北で仕入れた物産を、南の方で売り捌くんですよ」

「なるほど。考えて旅をしているんですね」

「ええ。その後、春小麦の収穫期に小麦を仕入れ、それを北の麦の少ない地方で売ると。そんな感じで旅をしています」

「そうですか。旅のご無事をお祈りいたします。それでは」

 挨拶をしてその場を立ち去る。

 エミリーも子供達に手を振っていた。ちょっとした交流がほほえましい。

 市は他の都市と同様、雑多に店が入り組んでいる。木工品の店の隣が古着屋、その隣が装飾品、そのまた隣が食材を扱う店と言った具合に、無秩序に並んでいる。扱う品も生活必需品から道楽のための品まで様々だ。

 エミリーが最初に気になったのは絵画の露店だった。以前一緒だった雑貨屋の娘のことが思い出された。

「絵を売るのって、初めて見たかもしれません」

 出発点はそこだったらしい。

「どれもきれいな絵ですけど、値段が高いのか安いのか、分からないですね」

 相場は銀貨一枚から三枚程度。店主が、無名の画家の作品だから、それほど高値にならないと教えてくれた。過去にも同じやり取りがあったなあと、サムトーはしみじみと思い出した。

「私も絵を描いたら、こんな風に売れるでしょうか」

 エミリーが真面目な顔で言う。表情とは裏腹に、どうやら冗談のつもりらしい。

「売れすぎて困っちゃうんじゃない?」

 サムトーも冗談を返した。どうやら通じたらしい。

「それは大変ですね。大変すぎるから、あきらめます」

 そんな馬鹿なことを言い合って、笑い合った。

 他の店も、よく見ると、食器やガラス細工、布など、昨日みた工房で作られていた製品を扱っている露店もあった。品質的に正規のルートで販売できないお値打ち品が主で、確かに相場より安い物ばかりだった。そんな発見をするのも楽しかった。

 昼食ももちろん市で取ることにした。

 食べ物の屋台が立ち並び、その付近にベンチがいくつも置かれている一角へとやってくる。

「どれもおいしそうですね。目移りします」

 大きなサンドイッチ、パスタ、和えそば、煮込み料理など、様々な料理を見て、本気で迷っている様子がほほえましい。

「うーん、昨日パスタだったし、今日はパンものかなあ」

 結局、具材の選べるサンドイッチに決めていた。無難にハム、タマネギ、レタス、チーズを挟んでもらっていた。サムトーもそれに合わせた。

 エミリーが大口を開けてかぶりつく。

「そう言えば、ずいぶんしっかり食べられるようになったね」

 出会ったばかりの頃は、大人の一人前が食べきれなかったのを思い出す。この二週間足らずのうちに、心身共に逞しくなったのを感じる。

「おいしいものばかり食べてたせいかもです」

「返しも上手になったし、ここ最近、かわいさ倍増だな」

「またそういうこと言って、サムトーさんのばかあ」

 サムトーも大口を開けてかぶりつく。ハムの旨味を野菜が引き立て、パンの土台がそれをうまく包み込んでくれている。シンプルにうまい。

 やがて食べ終えると、また露店を見て回った。

「包丁がこんなに種類あるなんて、知りませんでした」

「お茶の葉っぱ、こんな風に売っているんですね」

「宝石も売ってますね。旅の商人さんのところと、全然種類が違いますね」

 いろいろ見つけては、サムトーに話すのがうれしいようだった。いろいろな品物を見るのも良いが、こんな風に喜んでいるエミリーを見る方が楽しいと感じるサムトーだった。

 こういうところでは、つい買い食いしたくなるものだ。また焼き菓子を二人分買って、エミリーと一緒に味わう。

「ほんのり甘くておいしい」

 顔をほころばせた様子がかわいらしい。

 そんな風にして、一日中、市の賑わいを楽しんだのだった。


 翌二月十日、城塞都市グレーベンを出発した。

 進路は東に変えた。この辺は何となく、気の向くままである。

 三日後、オルテンの街に到着した。人口は周辺の農村を含めておよそ三万と、ここも比較的大規模の町だった。

 夕方にはまだ早いが、例によって先に宿を押さえようと、宿場をいろいろと見て回った。前は小兎亭だったので、今回は野兎亭という名前の宿屋にしようかと、適当に決める。

「すみません、一泊二人一部屋でお願いできますか」

 カウンターにいたのは三十代くらいの銀髪の女性だった。

「記帳をお願いします」

 そう言われて、いつもの通りに、サムトーとエミリーの名前を書き込んだ時である。

 カウンターの女性が驚いていた。思いもよらぬ人と会ったとでも言いたそうな表情をしていた。

「エミリーさん、ですか。失礼ですが、出身はどちらですか?」

 突然の質問に戸惑いつつ、エミリーは素直に答える。

「はい、テラモの町ですけど、それが何か?」

 それを聞いた女性が、何かを確信したような表情に変わった。

「その銀髪、濃い青の瞳、エミリーという名前、もしかして、あなたのお母さんの名前はエルサでは?」

 今度はエミリーが驚く番だった。サムトーにさえ、父と母の名を告げていない。なぜこの女性が知っているのだろう。

「はい。母をご存じなのですか?」

「エルサは私の姉です。私は妹のルシアと言います」

「じゃあ、あの……」

 突然の出来事に、さすがのエミリーも絶句してしまった。

「はい、私はあなたの叔母に当たる者です。ああ、まさか、こんなところで姉さんの娘さんと会えるなんて……」

 蚊帳の外だったサムトーが、ここで割って入った。

「偶然の再会で喜ばしいことなんだけど、こんなところで長話もどうかと思うし、店の仕事もあるだろう? どこかで落ち着いて話ができるといいんだけど」

 ルシアが落ち着きを取り戻して言った。

「そうですね。まずは料理長をしている夫と、この宿の女将である夫の母に話をしてきます。お二人はお部屋の方へ」

 そう言って、二階の部屋へと案内し、鍵を渡してきた。

「しばらくお待ち下さい。話をしてまいります」

 ルシアと名乗った女性が立ち去る。

 エミリーは困惑し、一気にまくしたてた。

「本当にお母さんの妹さん? 確かにお母さんから妹がいるという話を聞いたことはあるけど、私、一度も会ったことがないんです。でも、出身地や母と私の名前を知ってるわけだから、偽物ではないでしょうし。大体、旅の娘に噓を言っても、何の得にもならないですよね」

 サムトーがエミリーをなだめた。

「そりゃびっくりするよな。まあ、本物かどうかも含めて、まずはいろいろ話をしないと」

 ドアをノックする音がした。ルシアだった。

「失礼します。店の仕事を変わってもらい、夕食頃まで時間を頂きました」

 そう言うと、手に持っていたお盆から茶を三人分用意した。

「まずは、私が本当にエミリーさんの叔母であることを確かめてもらおうかと思います。こちらをご覧下さい」

 そう言って、やや古びた感じのブローチを取り出した。

「これは姉エルサと一緒に、母の形見としてもらったものです。姉も同じような物を持っていたのではありませんか?」

 確かにエミリーの記憶にもあった。普段から愛用していたブローチで、事故で亡くなる時、壊れてしまったのだ。

 赤の他人相手では、エミリーも事情を話せないだろう。だから、まず自分が身内であることを確かめて欲しい。そう言って、ルシアが身の上を話し出した。

 父に続いて母が亡くなった後、二人でテラモの町で働いていたこと。姉は二十一才で結婚し、四つ下のルシアが唯一の身内として祝福したこと。姉が二十三才の時、エミリーが生まれたこと。一年後、二十才になったルシアは、仕事を探しに城塞都市グレーベンに出たこと。工房で働いている時、街の食堂で働いていた修行中の夫と知り合ったこと。修行を終えた夫とこのオルテンの町に移り、夫の母が営んでいる宿屋で働き始めたこと。子供にも恵まれ、今五才になる娘がいること。

「これで私が叔母であることを分かってもらえたでしょうか?」

 ここまでの話に嘘偽りはないようだった。証拠のブローチもあるし、そもそも髪も瞳も色がそっくりで、親子と言っても不思議ではないくらいだ。エミリーもルシアの言葉を信じた。

「ありがとうございます。今度はエミリーさんの事情をお聞かせ下さい。どんなお話でもしっかり受け止めますので」

「分かりました」

 今度はエミリーが話し出す。

 半年ほど前まで、普通に両親と仲良く暮らしていた。だが、ある日、街道で騎士達が早馬を走らせているところに、運悪く出くわしてしまった。エミリーは無事だったが、両親は撥ね飛ばされて、亡くなってしまった。騎士の早馬は急使で避けられない方が悪いということで、何の補償もなかった。両親が亡くなって、エミリーの父の母、つまり祖母が、他に行く当てのないエミリーを止む無く引き取った。しばらくの間は、祖母も町の者もエミリーに親切だった。だが、親切にしていた者達が、ケガをしたり具合を悪くしたりと、不幸なことが続けて起こった。実はエミリーは不幸を呼ぶ性質を持っていて、両親が死んだのも、親切にしたのに不幸なことが起こるのもエミリーのせいではないか。そんな噂が流れるようになり、両親が亡くなって一月もしないうちに、エミリーは町の者から『不幸を呼ぶ子』と呼ばれ、忌み嫌われるようになった。それは常に罵声を浴びせられる過酷な生活だった。

 そこを通りすがりのサムトーが旅に連れ出し、辛い生活から救い出してくれたのだ。この日で旅に出てちょうど二十日だった。

 ルシアが姪の辛い話に涙ぐんでいた。そして、強く決意した表情で話を切り出したのだった。

「辛い話をさせてしまってごめんなさい。でも、そうと知ったら、ぜひエミリーを家に引き取りたいと思います。まだ、私一人の考えなので、夫と義母と娘の意見を聞かなければなりませんが、多分快く賛成してくれると思います。ですので、私達の一家と暮らすことを考えてみてはくれませんか」

 しかし、エミリーは即答した。

「ありがとうございます。でも、私、サムトーさんと旅がしたいです」

 そのくらいサムトーとの旅の暮らしが気に入っていた。辛い生活から引き離してくれた、新しい世界を見せてくれた、その喜びは何よりも手放したくないものだったのだ。

 だが、サムトーは冷たく言い放った。

「前に、俺の過去を話した時、近い将来、どこかで信頼できる人が見つかったら、エミリーは旅を止めて、その人のところで暮らすようにして欲しいって、話をしたはずだぞ」

 エミリーは、旅をしている間に、そのことをすっかり忘れていた。てっきりずっと一緒にいてくれるものと思い込んでいたので、強いショックを受けた。

「とは言え、今すぐ決めろなんて、ひどいことは言わないさ。ルシアさんの方の考えをまとめる時間も必要だしな」

 サムトーは二人を見回した。

「まあ、慌てず、時間をかけて考えよう。ルシアさん達が引き取りたいって言うなら、実際引き取ったらどんな生活になるか、試してみればいい。三日くらい試してみれば、どうするべきかも分かるだろうし。俺もきちんと、それを最後まで見届ける」

 エミリーとルシアの二人も、これは筋の通った話だと納得した。確かにそうするべきだろうと思った。

「じゃあ、明日、ルシアさん一家がどうしたいか聞かせてくれ。あと、身内だからといって無駄に豪勢な食事とか出さないで欲しい。あくまで普通の客として扱ってくれ」

「分かりました。……ああ、あなたのような方がエミリーを救って下さって、本当に良かった」

「ありがとう。俺達、そろそろ風呂に行きたいんだけど」

「あ、そうですよね。私も仕事に戻ります」

 ルシアが茶器を片付ける。

 サムトーとエミリーも公衆浴場へ出かける仕度を始める。

「では、また後でお会いしましょう」

 三人はそれぞれ行く場所へと向かった。


「本当に試さないとだめですか?」

 風呂に行く途中、エミリーが食い下がってきた。サムトーと別れる予感があるのだろう。不安そうな口調だった。

 それを知ってなお、お調子者ぶって言うのがサムトーだった。

「ま、何事も物は試しって言うだろ?」

「そ、そうかもしれませんけど」

「あと、案ずるより生むが易しとも言うぞ。悩んでないで、とりあえず、でたとこ任せでいこう。俺もちゃんといるから」

 その言葉を聞いて、少し安心したようだった。

「分かりました。まずは風呂ですね」

 出入口で分かれて、それぞれ風呂を済ませる。

 珍しく、エミリーはいつもより少し遅かった。分かったと言っても、納得しきれておらず、時間がかかったのだろう。

 宿に戻って、エールと蜂蜜水を一杯ずつ注文する。

 すると、飲み物と一緒に、四人の男女がテーブルにやってきた。

「今日はありがとうございます。家族の紹介がまだでしたので」

 ルシアが年配の女性に目配せした。元気そうな女性だった。

「私が女将のマルセラ。事情は聞いてるよ。明日返事をするから、少し待っておくれ」

 次に三十才くらいの男性が挨拶した。

「ルシアの夫のフランクです。料理長をしています」

 そして小さな娘。

「娘のエリカです。五才です。どうぞよろしく」

 エミリーとサムトーが立ち上がって頭を下げた。

「ルシアさんの姉、エルサの娘、エミリーです。初めまして」

「エミリーの旅の相棒、サムトーです。今日はわざわざありがとうございます」

「では、明日正式にお返事いたします」

 ルシアが最後に頭を下げ、三人と共に立ち去る。と思ったら、エリカと名乗った女の子がエミリーの元へ戻ってきた。

「きれいなお姉さん、今度一緒に遊ぼうね」

 そう言って手を差し伸べてきた。エミリーがその手を握ると、笑顔を浮かべて握り返してきた。

「ありがとう、お姉さん」

 手を振って立ち去っていく。無邪気でかわいらしい子だった。そして彼女もまた、ルシアやエミリーと同じきれいな銀髪に濃い青の瞳だった。

「ああ、つながりがあるんですね、あの子達と私」

 否応なしにそれが感じられて、エミリーが涙ぐむ。新しい家族ができるかもという期待が半分と、サムトーと別れるのを拒否したい気持ちが半分と。それは厳しい選択だった。

 サムトーがエールをあおる。エミリーの気持ちは痛いほど分かる。でも、自分は素性が知れれば、いつ処刑されてもおかしくない立場だ。自分と一緒にいるより、この一家の一員になるべきだと思う。だが、それを重ねて告げるのも酷だろう。

 代わりにサムトーは別のことを口にした。

「考えてみれば、奇跡的な再会だよな。城塞都市グレーベンの事件がなければ、俺は進路を東にしようとは思わなかったんだ。で、このオルテンの町に来た。ここでも数ある宿屋の中から野兎亭を選んだ。その結果がこれだ。一つ何かが違ってたら、絶対会えなかったもんな」

 エミリーがサムトーをまじまじと見た。そう言えば、この人は賭場でなぜか稼げる才があるという。奇跡的な確率を引き寄せる何かを持っているのかも知れなかった。

「ん? 俺もしかして、いい男過ぎる?」

 エミリーの視線に、そうやって茶化して返すのがやはりサムトーだった。

 いつもなら、ばかあと返すところだが、エミリーも少し考えて別の返し方をした。

「はい。私、その魅力に当てられて、もうダメそうです」

 サムトーが吹き出した。見事な返しだった。

 エミリーがしてやったりとガッツポーズをする。

「参った参った。さて、夕食もらおうか」

 そうして二人で夕食を頂き、部屋へと戻るのだった。


「明日から、ルシアさん達と暮らすんですよね、私」

 部屋に戻るなり、エミリーが愚痴をこぼすように言った。

「まあ、確実に引き取りたいと言ってくると思う。ただ、いくら血縁とは言え、今日会ったばかりの他人であることに変わりはないからな。やっぱり不安も緊張もあるよな」

 不安や緊張もあるが、きっと温かな家庭ではないかと、エミリーは思っていた。それでも、旅の時間が楽しかったことの方が大きかった。別れるのは嫌だった。

「それもありますけど、それより、もしサムトーさんと一緒じゃなくなるなら、私……」

 サムトーが言葉を遮った。ここはエミリーの今の気持ちより、将来を大切にするべきだと思った。

「それは言わない方がいい。俺はエミリーにきちんと人になって欲しい。俺のところにいたら、まともな人には絶対なれっこないからな」

「そんなこと、ないです!」

「あるんだよ。俺は剣闘士だったからな。グレーベンの街で闘技場見ただろ。ああいう場所で八年も人間同士の殺し合いをしてきた。だから、人間の育て方なんて分からないんだよ」

「……」

 さすがにこれ以上食い下がることはできなかった。どれほど過酷な環境を生き延びてきたのだろうか。とても想像できなかった。

「まあ、エミリーはかわいいからな。エリカって女の子と一緒に、この宿の看板娘になるよ。それが幸せってもんさ」

「でも、でも、サムトーさああん」

 泣きながらエミリーが抱き着いてきた。本当はサムトーの足手まといだということは分かっているのだ。でも、その好意に甘えてここまで旅を続けてきた。初めてのことが一杯で、毎日が楽しくて、一緒にいるだけで心が安らいだ。それを失いたくはなかった。

「ありがとう、エミリー。一緒にいてとても楽しかったよ」

 別れの言葉にしか聞こえない。でも、サムトーがあえてこういう言い方をしたことは分かった。サムトーに出会えたのも、ここの家族に会えたのも、きっと何かの縁だったのだろう。

「分かりました。私、ここの家族になるべきなんですね」

「ああ。それが一番エミリーのためになる。試してみればわかるさ」

 サムトーはそう言うと、エミリーをお姫様抱っこして、ベッドへと横たえた。

「相棒、明日も早いぞ。また寝るまでそばにいてやるから、安心しな」

「そうですね。いつもありがとう、サムトーさん」

 エミリーは旅の思い出を話し続けた。二月の寒空に舞っていた蝶を見つけたこと。休憩の時、水筒の水を飲もうとして、サムトーが馬鹿なことを言って笑わせてきたおかげで、水を吹き出してしまったこと。何もない所で転びそうになった時、さっと手を取って助けてくれたこと。街のパン屋で昼食分を買う時に、どれもおいしそうで決めるのに時間がかかったこと。毎日一緒にやった剣の素振りで、形よく決められるようになったこと。

 話し出すときりがなかったが、さすがに眠気には勝てなかったようで、いつしかエミリーは眠りに就いていた。

 これがエミリーなりの別れの儀式だと分かっていたサムトーは、頭をなでながら言った。

「エミリーは最高の相棒だったよ。明日から頑張ってな」

 サムトーは明かりを消すと、自分も眠りに就くのだった。


 翌朝、日の出の少し前に起き出すと、井戸端で水分を取り、日課である剣の素振りをする。エミリーも一緒である。

 そこへ料理長のフランクがやってきた。これから朝の仕込みをやるところだったようだ。

「おはようございます」

 互いに挨拶をする。

 二人と同じように水を飲むと、フランクが話を切り出した。

「昨日、寝る前に家族で話し合いました。娘のエリカの意見は眠る前に聞いておきました。全員一致で、エミリーさんを家族として迎えたいというのが、私達の考えです」

 完全に予想通りだった。なので二人に迷いはない。

「分かりました。じゃあ、エミリー」

「はい。フランクさん、今日からお願いしてもいいですか」

 即決されて、フランクの方が驚いていた。だが、すぐに気を取り直した。

「ありがとうございます。なら、朝の掃除から手伝ってもらえるかな」

「もちろんです。よろしくお願いします」

 サムトーが親指を立てた。頑張ってこいという意思表示だ。

 エミリーも親指を立てて返した。任せなさい、である。

 そうしてフランクに連れられて、エミリーは仕事へ向かった。


 この時間、ルシアは娘エリカの世話があるので手が離せない。代わりに動いているのが女将のマルセラだった。

 マルセラの指示で、窓やテーブルを拭いて回り、宿屋の周辺を掃く。エミリーももうすぐ十二才、見習いとして働き始めるのにちょうど良い年頃だった。手際良くとはいかないが、十分に役に立つ働きを見せた。

 朝食は賄いをルシアとエリカの母娘と一緒に取る。それが終わると、エリカの面倒を見るように言われた。代わってルシアが給仕の仕事に出る。

 昨日が初対面だったが、エリカには何か感じるところがあったらしい。エミリーを実の姉のように慕ってくれた。絵を描いたり手遊びをしたりして、二人で上手に遊んでいた。

 客の朝食が終わり、食器類の片付けが終わると、今度は泊り客の送り出しと、使った部屋の掃除、シーツの洗濯がある。ここが一番忙しい所なので、エリカにはかわいそうだが一人で過ごしてもらっている。給仕や調理の仕事をしている雇人達も、総動員で一気に仕事を片付ける。

 それが終わると、昼食の仕込みの時間まで一休みとなる。居酒屋兼宿屋で昼食を取る人はそう多くないので、仕込みも大したことはない。

 昼食客がいなくなると、片付けをして本格的に休憩となる。料理長のフランクは夜が遅く朝も早いので、この時間仮眠を取る。この時間はマルセラ、ルシア、エリカ達と茶飲み話をして過ごした。三人共、これまでの働きぶりを見てエミリーに好感を持っていて、仲良くなろうといろいろな話をしてくれた。

 三時前になると、夕方の客に向けた準備を始める。料理の仕込み、簡単な掃除、売り上げの集計などの仕事を行う。そこから段々と客が来て、泊り客の案内や、飲食客の対応をしていく。宿の側は基本ルシアとマルセラが交代で見ていて、空いた方がエリカの世話をする。エミリーは給仕の手伝いに回り、多くの客から好意的に迎えられた。

 夜も更けた頃、マルセラから、エリカを寝かしつけて、終わったら隣で眠るように言われた。部屋数はそう多くないので、一緒の部屋だった。

 エミリーにとっては新鮮で、充実した一日だった。何より一家四人、みな温かい。丁寧に教えてくれるし、ほめてもくれる。話もしやすい。何よりルシアもエリカも見た目が似ていて、とても他人とは思えなかった。

 サムトーは、そんなエミリーの働きぶりや一家と仲良くしている様子を、所々見ていた。三日も必要なかったかもしれない。すでに家族として受け入れてもらっていることが分かり、うれしいような内心寂しいような、不思議な気持ちだった。


 三日目の昼休憩の時間、サムトーが四人のところを訪れた。フランクも大事な話なので、仮眠を取らずに加わってくれた。

 三日間はあっという間で、そして何もかも順調だった。

 エミリーとルシア達一家はすぐになじんで、まだ多少の遠慮こそあるものの、十分仲の良い家族となっていた。

「俺も最初は試しに、なんて言いましたけどね。ご一家はとても温かくて素晴らしいご家庭です。だから、エミリーのことをお願いしようと思います」

 サムトーは、前置きもなく結論を切り出した。

 エミリーもまた、サムトーと別れる覚悟を決めて、きっぱりと言った。

「はい。みなさんが私に良くして下さるお気持ちは、十分に伝わりました。私も家族の一員にしてもらえるとうれしいです」

 四人は安堵の息をついた。代表して父フランクが答えた。

「もちろんです。こんなに素敵な娘が増えるなんて、これ以上の喜びはありませんよ。どうか安心してお任せ下さい」

 三人が一斉に頭を下げた。エリカが少し遅れて家族のまねをした。

「俺も明日朝、出発します。今夜一晩、お世話になります」


 その日の夜、エミリーはサムトーと最後に話す時間をもらった。

「新しい家族ができて良かったな、相棒。きっと幸せになれるよ」

「うん。これもみんなサムトーさんのおかげです。いくらお礼を言っても足りないくらい、本当にありがとう。……でもね、サムトーさん」

「うん、何だい?」

「ホントは私と別れるの、寂しいんでしょう?」

 ちょっと意地悪な顔つきで、エミリーが見据えてくる。

 サムトーが笑いながら正直に答えた。

「強くなったなあ。うん、それでいい。そりゃ相棒がいなくなるんだ、寂しいに決まってる。でも旅の思い出って宝物もらったからな。それで十分」

 二人が沈黙した。互いに見つめ合って、楽しかった日々を思い出し、お互いが大切な存在だったことを改めて感じていた。

「そろそろ寝なくちゃ。サムトーさん、ちょっと顔貸して」

 言われた通りにすると、エミリーはサムトーの頬を両手で挟み込み、唇と唇を重ねた。さすがのサムトーも驚いて目を丸くした。

「どうしてもお礼がしたかったんです。それじゃ、おやすみなさい」

 顔を真っ赤にしながらエミリーが立ち去る。

「あ、ああ、おやすみ。また明日な」

 しどろもどろに返事をする。もうすぐ十二才の女の子っていうのも侮れないなあ。そんなことを思ったサムトーだった。


 二月十七日朝。

 サムトーは再び旅立つ。

 エミリー達一家五人が見送りをしてくれた。

「またこの町に来たら、絶対に立ち寄って下さいね」

 エミリーが笑顔で言う。

「もちろん。元気でな」

 言葉短くサムトーが答える。大きく手を振って五人と別れた。

 五人の姿が見えなくなるまで、時折振り返って手を振る。

「さあて、次は何があるんだろうな」

 サムトーの一人旅はまだ終わらない。


──続く。

 お読み頂きありがとうございます。初めての二人旅で、内容がほぼ観光ですね。事件をあっさり解決するところが、やはりサムトーです。迷信というと、やはり某教会などを思い浮かべてしまいますね。本当にあれは怖いですが、実際に今も起きていることです。町中でそんな迷信で迫害されているヒロインを描こうとしていたら、思った以上に強いヒロインで、結局運命的なハッピーエンドになりました。まだまだサムトーの旅は続きます。次回もよろしくお願いします。

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