序章ⅩⅤ~料理人希望の少女~
今度の町で出会うのは
少女だけれど料理人
若いが真面目に修行して
良き腕前のかわいい娘
しかしまたもやトラブルが
その解決に力貸す
根は真面目だがお調子者の
我らがサムトー、今日も行く
時に神聖帝国歴五九七年十一月五日。
もうすぐ二十才になるサムトーは、カムファの町から西に伸びる街道を進んでいた。やや長身の引き締まった体に、ざんばら頭の茶色の髪。背には長剣、腰にはやや短い剣。美男子というほどではないが、人好きのする愛想の良さそうな雰囲気をもっていた。
旅芸人達と別れて一週間少々、一人旅に戻って、のんびりと旅を続けている。一人歩きは退屈だが、平穏な時間でもあった。
そろそろ日も傾いてきて、空の色も変わろうとする頃、サムトーはフルスタの町へとやってきた。ここは周辺の農村も含めて人口およそ三万人と、かなり規模の大きな町である。市街地も広く、商店街や宿屋街も栄えていた。
町に着いたらまず宿の確保だ。荷物を置いて、公衆浴場でのんびりするのが定番になっている。
宿場町だけあって、宿屋街も活気がある。だが、街道筋の宿屋は馬車も預かれる大店が多く、一泊の料金も高い。そこで道を逸れて、中小の宿屋を物色していく。
すると一件の宿から大きな声が聞こえてきた。
「何でそういうこと言うんですか! 私だって頑張ってやってます!」
何事かと思い、声のする方へと向かってみる。
「もういいです! 放っておいて下さい!」
一件の宿から少女が飛び出してきた。ちょうど店の前に来ていたサムトーに真っ直ぐぶつかる。サムトーはよけずに、転倒しないようにその少女を支えてやった。
「あ、ご、ごめんなさい」
ぶつかってきた少女が謝罪を口にした。サムトーは、少女が倒れないよう押さえていた手を離すと、何事もなかったように答えた。
「俺は大丈夫だけどさ、君は平気? ケガとかしてない?」
努めて優しく声を掛ける。
「は、はい。ぶつかってしまって、本当にすみません」
少女が再び謝る。
そこに、店の中から三十半ばくらいの男性が姿を現した。
「アナベル、話を聞いてくれ。あ、すみません、お客様でしたか」
アナベルというのがこの少女の名前のようだ。肩までの長さの明るい金髪を一つ結わえにした、繊細な顔立ちをした少女だった。年の頃は十三、四といったところだろうか。
「アルトン料理長、ですが、私は……」
人にぶつかるという失態を起こしたことで、アナベルも冷静さを取り戻したようだった。それでもまだ反発心があるようで、反論しようとしていた。
「いや、まずは落ち着いて話そう。アナベル、とにかく店内へ戻って。もう少し詳しく説明するから」
「……分かりました。戻ります」
渋々だったが、店を飛び出すのは止めることにしたようだった。アルトンと呼ばれた男性が、サムトーに向き直る。
「本当に申し訳ありませんでした。ところで、お客様でよろしいですか?」
サムトーが宿の看板を見た。菊水亭と書いてある。一泊二食付きで銀貨一枚と、相場通りである。まあ、探す手間が省けたと思うことにして、あっさりと宿をここに決めた。
「はい。とりあえず一泊、お願いしようかと」
「分かりました。どうぞこちらに。……セレナ、お客様だ」
アルトンが、カウンターにいた女将と思しき女性に声を掛けた。こちらも年の頃は三十半ばくらい。赤髪でまだ若々しい女性だった。
「ようこそ菊水亭へ。ご宿泊ですね。では、記帳をお願いします」
サムトーが帳面に署名する。職業は旅の剣士。ちょっと胡散臭い。
「では、こちらが部屋の鍵になります。ごゆっくりどうぞ」
二階の一室を割り当ててもらい、鍵を受け取る。この時代の宿屋は、一階が居酒屋兼食堂になっていて、二階より上が宿泊の部屋になっていることが多かった。部屋も一人用から最大六人用まで様々だ。
「ありがとうございます。お世話になります」
サムトーは返答すると二階へと上がった。
「それにしても、さっきのトラブルは何だったんだろ」
ちょっと疑問に思いつつ、風呂の支度をして、再度一階へと下りる。
「風呂に行ってくるので、鍵をお願いします」
カウンターのセレナに鍵を預けると、公衆浴場へと向かった。
サムトーは、元奴隷剣闘士である。
十才までは養護施設で育ったが、ある日人買いにさらわれ、奴隷剣闘士を抱える親方に売り飛ばされたのだった。以後八年間、奴隷剣闘士として過酷な環境を生き延びてきた。
昨年、神聖帝国歴五九六年五月、百名ほどの仲間と共に反乱を起こした。半数ほどの仲間が逃亡に成功し、そのうちの一人がサムトーだった。逃亡奴隷は例外を除いて処刑される。生きるためには、とにかく逃げ続ける必要があった。
逃亡直後、山中を逃げている時に猟師達に救われ、三月ほど彼らの村で暮らした。その後、素性を知られる危険を避け、旅芸人の一座に身を寄せる。ここでも三月ほど同行したが、事件をきっかけに素性が明らかとなりそうになったため、一人旅を始めた。
七か月余りの間、いろいろな人物と出会い、その手助けをしながら一人旅を続けた。方々を巡った末に、五九七年六月、助けてもらった猟師達の村を再び訪れ、そこで一月余りを過ごした。七月下旬からは旅芸人の一座と合流し、十月の末まで同行して楽しく過ごした。
奴隷剣闘士時代の過酷な訓練や戦いの日々によって、サムトーの体は傷跡だらけだった。公衆浴場ではそれが丸見えである。ゆえに危ない職種の男とみなし、そっと距離を置く者もいる。逆に、小さい子などの興味を引くこともあった。
「おじちゃん、何で傷だらけなの?」
などと聞いてくるのだ。この日もちょうどそういう男の子に当たった。
「俺は旅の剣士でね。戦うのが仕事なんだよ」
そんな適当なことを返すと、大概それで納得してくれる。
その男の子も、父親の元に戻って、旅の剣士なんだって、などと報告をしていた。微笑ましい光景である。
その姿を横目に見ながら、のんびりと湯に浸かって気分をほぐした。
湯を堪能した後は、着替えてまた宿に戻る。
一階の空いている席に陣取ると、エールを一杯頼む。風呂上がりの一杯をのんびり味わうのが好きだった。
すると、先程のアナベルという少女が、皿を一枚持って現れた。
「先程はご迷惑をおかけしまして、本当にすみませんでした。こちらはお詫びの品になります。どうぞお召し上がり下さい」
豆と野菜の煮込みが入った小皿だった。
「ありがとう。俺は気にしてないから」
そう答えた後、サムトーは名乗っていないことに気付いた。
「俺はサムトー。旅の剣士で、これでも十九才だ。さっきも公衆浴場で、小さな男の子におじちゃんって呼ばれたけどね」
アナベルがクスリと笑った。年相応で笑顔がかわいらしい。
「私はアナベル、十四才です。ここ菊水亭で、料理人の見習いの仕事をしています」
「そっか。よろしくね、アナベル」
「はい。よろしくお願いします」
名乗り合ったことで、少し親近感が増したようだった。ちょっと踏み込んで事情を聴いてみる。
「さっきはどうして怒っていたんだい?」
「肉の仕込みで、切り方が違うって注意されたんです。言われた通りにやっていたつもりだったんですが、確かに違ってました。なら、初めからそういう風に教えてくれればいいのに、アルトン料理長が、これだから小娘は、とか言うものですから、つい頭に血が上ってしまって」
なるほどと、サムトーが納得する。大した事情ではないようだった。しかし、料理長の失言はちょっとどうかと思う。そう思っていると、料理長も後から姿を現した。
「お客様、本当に申し訳ございませんでした」
「アルトンさん、あなたほどの腕前の料理人なら、言葉を選ぶのも難しくはないのではありませんか。注意する時には、特に気を付けて言葉を選べば、今回のようなトラブルはなくなりますよ」
サムトーはこういう時、遠慮なく言ってしまうのが性分だ。かつての友のお調子者加減がうつったと、旅芸人の仲間には言われたものだ。それでも相手に言葉を選べと伝えるからには、自分も言葉を選ぶべきだろう。そう考えて、極力穏やかな言い方をした。
それゆえに良く伝わったようだ。アルトンが頭を下げた。
「いや、面目ない。今後は気を付けますよ」
「分かって頂いて幸いです」
再度一礼して、アルトンが厨房に戻った。
アナベルが感心して、サムトーを見つめた。
「すごいですね。あの料理長がこんなに素直に言うこと聞くなんて。なるほど、伝え方って大事なんですね。いい勉強になりました」
アナベルも頭を下げてきた。サムトーは軽く手を振った。
「お役に立てて何より。せっかくだし、こいつをいただこうかな」
サムトーが煮込みを口に運んだ。結構おいしい。しかし、わずかに塩味が濃い気がする。
「いかがですか。私が作ったんですけど」
アナベルが期待した表情で見つめてきた。ここも言葉を選ぶ必要のある場面だろう。サムトーが少し考えてから、少し無礼だが質問を返した。
「アナベルは料理人になりたいのかな」
「もちろんです。今は見習いですけど、腕を上げて、自分の店を構えるのが夢なんです」
「分かった。ならはっきり言うけど、おいしいことはおいしいんだけど、少し味が濃い気がするんだ。ちょっと食べてみて」
そう言って、アナベルにも一口味見をしてもらう。確かにわずかだが、塩味が濃いと分かったようだった。
「本当ですね。ちょっと塩味が濃かったです。おかしいなあ。塩加減は守ったはずだし、味も見たんだけどなあ」
「出来立てと、作ってから時間経った後で、味が変わることがあるからね。きっとそのせいだと思うよ」
「確かにそうですね。ありがとうございます。次から気を付けますね」
アナベルは素直にサムトーの言葉を聞き入れていた。普通に注意すれば、この娘もちゃんと聞く耳を持っていて、さっきのような言い争いになることはないようだ。さっきは突然のことで驚いたが、本当にちょっとした行き違いだったのが良く分かった。
「まあ、少し塩味濃くても十分おいしいよ。それにエール飲みながらだし、ありがたく頂くよ」
サムトーの言葉で、アナベルがほっとした表情になった。
「ごめんなさい。次はもっと良い物作りますね」
一礼して厨房へと下がっていく。若いのにしっかりしているし、素直で良く働くし、いい娘だな、とサムトーは思った。
それからしばらくして、厨房では、アナベルとアルトンが、再び言い合いをしていた。
親切な客を見つけたアナベルが、自分が料理を提供したいと言い出したのである。
「お願いですから、あの人の夕食、仕上げを私にさせてもらえませんか」
「いや、いくら親切な方が相手でも、やはり提供する食事は、料理長である私が仕上げるべきだろう。他の者が仕上げた物では、あまりにも失礼だ」
正論である。さすがにさっきサムトーに一言刺されているので、アルトンも余計なことは言わない。アナベルも熱心に説得しようとしながらも、余計なことを言わないよう気を付けていた。さすがに二度も、口論を客に聞かせるわけにはいかない。
「そこを何とか。一度自分の腕を見て頂きたいんです」
「そうは言うがな。これは客商売だ。アナベルの気持ちも分かるが、客のことを第一に考えなきゃダメだ」
「それはそうなんですが、あのサムトーという人なら、きっと承諾して下さると思うんです。ご本人に聞いてみてはダメですか」
渋っていたアルトンだったが、客本人がいいと言えば、確かに反対する理由はない。それにメニューも難しくはない。シチューは完成しているし、パンはパン屋で買った物をそのまま出すだけだ。鶏肉と野菜のソテーも下ごしらえは済んでいて、後は火にかけて仕上げるだけとなっていた。それ一品なら、あの親切そうな青年のことだ、了承してくれるかもしれない。
「うーん、聞くだけ聞いてみるか」
他にも仕込み中の料理は多く、調理は延々と続く。いつまでも口論していられないので、アルトンも渋々だが許可を出した。
「じゃあ、アナベル、サムトーさんに聞いてきなさい」
「分かりました。ありがとうございます」
嬉々としてアナベルはサムトーの所へ向かった。
エールを傾けていたサムトーだったが、ちょうどそろそろ酒杯も空になる頃合いだった。夕食を頼もうかと、給仕に声を掛けようとしたところ、先程の娘、アナベルが再度現れた。何か用事があるらしい。
「今度はどうしたんだい?」
問いかけに対して、アナベルはエプロンをぎゅっと握って、覚悟を決めたという感じの反応を返してきた。
「失礼を承知でお願いがあるんです。サムトーさんの夕食の仕上げ、料理長でなく、私が担当してもよろしいでしょうか」
そう言って深々と頭を下げる。なるほど、客の夕食を見習いが作るのは失礼に当たる。その失礼を許して欲しいというお願いなのだから、頭を深く下げるのにも納得がいく。誠心誠意の懇願なのだろう。
「先程、お褒め頂いた厚意に甘えるようで、図々しいのは百も承知ですが、どうか私に作らせて欲しいんです」
こういう時、かわいい娘の頼み事は断らないのがサムトーである。
「分かった。じゃあ、アナベルに作ってもらうことにするよ」
アナベルの表情がパッと明るくなった。
「無理なお願いを聞いて頂いて、ありがとうございます。それで、サムトーさん、夕食はいつ頃になさいますか」
「ああ、ちょうど頼もうかと思ってたとこ。今から頼めるかな」
明るい表情が真剣なものに変わった。やる気十分という感じだ。
「はい、もちろんです。今から腕によりをかけてきます」
再び頭を下げ、アナベルが厨房に下がった。やる気があって何よりだと思う。自分を高めたいという意欲も伝わってきて、気分がいい。
サムトーは残りのエールを飲み干すと、仕上がって出てくるのを心待ちにしていた。
「お待たせいたしました。こちらが夕食の、シチューとパン、それに鶏肉と野菜のソテーになります」
無理を通した手前、アナベルが自分で給仕してきた。
「私が仕上げたのはソテーだけなんですが、良ければ感想を頂けるとうれしいです」
「そうなんだ。じゃあ、早速いただきます」
サムトーが鶏肉にナイフを入れ、一口大に切る。皮はパリッとして、肉は柔らかい。フォークで口に運び、もぐもぐと咀嚼する。
「うん、おいしいよ。焼き加減もいいし、肉汁を使ったソースも旨味を出していていいな」
うれしそうな表情をしながらも、アナベルは自分を厳しく律していて、喜びを表情だけに留めていた。そして出来具合について尋ねてきた。
「何か気になる点とかはございますか。味の具合や焼き加減などで」
「喜んで終わらないところはさすがだね。改善の余地があるかもしれないって思ってるのは立派だよ。ちょっと待ってね」
サムトーが二口、三口と口にする。それほど美食家というわけではないので、具合の良し悪しの判定に自信はない。思ったところを正直に言うだけである。結果、特に問題点はないように思えた。
「うん、十分においしいよ。塩味も旨味も申し分ないし、焼き加減も文句なしだな。丁寧に仕込んであるのも良く分かるし、とってもいい」
「そうですか。……本当に良かった」
さすがに焼いて仕上げるだけで失敗するようなら、一から修業をやり直すべきだろうと思っていたので、及第点をもらえて心底安堵していた。
「野菜も、鶏肉の旨味たっぷりのソースと一緒になって、いい味出してると思う。ちなみに、焼き方に何かコツとかはあるのかい?」
「はい。先に野菜のソテーを仕上げておきます。その後、鶏肉を焼くのですが、先に皮がパリッとするまで焼くんです。返してから水を少し加えて、身がパサパサしないように焼きます。鶏肉を皿に置いたら、余った肉汁に味を付けてソースにするんです」
話を聞いてサムトーが感心した。ちゃんと料理の手順や焼き加減なども頭に入っていて、正しく実践できている。この若さで大したものだと思った。
そこへ料理長のアルトンが出てきた。客に不満がないか、確認しに来たのだった。
「いかがでしたか、アナベルの料理は」
心配しつつも、それを出さないように気を付けて尋ねてきた。店の者同士の確執を客の前で見せる大失態を、繰り返さないよう気を付けていた。そういうまともな神経をしている人物なので、最初にアナベルがサムトーにぶつかった時にも、自分の失敗をかなり後悔していたのだった。
「文句なしだと思います。とは言え、俺の感想ですから、もっとおいしい物に詳しい人だと、意見が違うかもしれません」
サムトーも正直に答えた。確かに舌の肥えた人物なら、違う評価が出るかもしれない。
しかし、サムトーの判定は普通の人の範囲に収まる。つまり、十分に普通の人が満足できる味に仕上がったということだ。合格と言っていい。
「ありがとうございました、サムトーさん」
アルトンが先に一礼する。そして、アナベルに言った。
「良かったな。及第点だ。努力の甲斐があったな」
アナベルも軽く笑みを浮かべ、二人に礼を言った。
「サムトーさん、料理長、ありがとうございます。私、これからも頑張りますね」
元気よく頭を下げる。本当にうれしそうだった。
アルトンは、そんなアナベルを見つめるサムトーの目に優しさを感じていた。少し考え込んで、別の頼みを口にした。
「何度も失礼なことを申し上げて、大変心苦しいのですが、もしよろしければ、後でご相談に乗って頂けないでしょうか」
アナベルがはっとした表情になった。すぐに真剣な顔になり、遠慮すべきだと主張してきた。
「料理長、いくら何でも、今日初対面のお客さんにお願いすることではありませんよ。それに、これは私の問題ですから、料理長がそんな風に気にする必要はありませんし、ましてや、事情を知らないサムトーさんにお話するなんてどうかと思います」
「いや、せっかく頼りになりそうな人に出会えたんだ。お願いするだけしてみようと思う。……いかがでしょう」
何のことやらサムトーには皆目見当もつかない。しかし、何か面倒な事情がありそうだということは分かる。そして、一人旅では結構暇を持て余すので、トラブルもむしろ歓迎である。
「とりあえず、お話だけは伺いますよ」
それだけ返答をした。アルトンがほっとして、付け加えた。
「でしたら、仕事が一段落着いた頃、この宿の女将で私の妻セレナからお話させて頂きます。ご了承下さい」
そして再度一礼して、今度こそ厨房に戻った。客もそこそこ入っているので、本来は忙しい時間だった。
「すみません、料理長が無理言って。でも、お話聞いて頂けるとありがたいです。どうか、よろしくお願いします」
アナベルも一礼して厨房に戻った。
「ふーん、何かあるみたいだねえ」
サムトーはそんなことをつぶやくと、せっかくの夕食が冷める前に食べてしまおうと、手や口を動かし始めた。
女将のセレナがやってきたのは、夕食を食べ終えて、二杯目のエールを飲んでいる途中だった。
「サムトーさん、今からお話してもよろしいですか」
「はい。料理長に聞いています。どうぞ」
「では、失礼しますね」
セレナはそう言って、サムトーの向かいに座った。
「ここからも見えますけど、あそこに一人でエールを飲んでいる客がいますでしょう。彼はハロルドと言って、この店の常連なんです。それだけなら良かったのですが、実はアナベルにしつこく付きまとっているんです」
「はあ。そうなんですか」
そのハロルドはサムトーと同年代に見えた。もしかすると二十代前半かも知れない。人の好みをとやかく言えないが、年下好みなのだろうか。しつこいと言っても、どの程度なのだろう。そんなことを疑問に思っていると、詳しく説明を付け加えてくれた。
「付きまとうようになったのは、ここ最近の事なんです。以前は一杯だけ飲んで、そのまま帰っていました。ですが、この前、一度アナベルが彼に給仕したことがありまして。その一回でハロルドは相当アナベルを気に入ったみたいなんです。店の中で話し掛ける程度なら良かったのですが、ハロルドはアナベルが仕事を終えて帰宅する時、いつも声を掛けてきて、一緒に帰ろうとするんです。アナベルも、自宅を知られると付きまといも酷くなるだろうと、うまく言い繕って途中で別れているのですが、この一週間、毎日ついてくるのだそうです。この種の問題では、警備隊の人も動いてくれませんし、どうしたものかと困っているんです」
宿の立場としては、まだ若い娘を預かって修行させている以上、問題を起こすわけにはいかない。もし、ハロルドが変な気を起こして、アナベルが被害を受けるような事になってはと、困り果てているのが良く分かった。
「なるほど。分かった。じゃあ、俺がそのハロルドに話聞いてみるよ。対策はその後でいいだろ」
セレナの目が点になった。まさか付きまとってくる本人に直接話を聞こうなどとは、思惑の外だったからだ。
サムトーは酒杯を持って、カウンター席にいるハロルドと呼ばれた男の隣へと移った。
「こんばんは、ハロルドさん」
呼ばれた当人は、エールを片手に、カウンターから厨房の中を覗き込もうとしていた。アナベルの姿を見たい、という感じであった。そこへ突然話し掛けられたのだから、驚きを隠せず、サムトーを睨み付けた。
「な、何だい、君は」
「ん、俺はサムトー。旅の剣士だよ。何でも、ハロルドさんが、アナベルにご執心だという話を聞いてね。どんな訳があるのか聞きたくなったんだ」
ハロルドが姿勢を変えて、サムトーに向き直った。
「君には関係のない話だろう」
「まあまあ。でも、気持ちは分かります。かわいいですよね、彼女」
「そうなんだよ。きれいな顔立ちで、真っ直ぐな性格で、笑顔もかわいらしい。本当にいいなあって思って。……って、何でぼくがそんなこと、君に話す必要があるんだ」
自分から話しておいて、急に不機嫌になるあたり、嘘のつけない素直な人柄のようだった。無下にするのもかわいそうかもしれない。だが、本人が嫌がっている以上、そちらが優先だろう。
「いやあ、それがね、アナベル本人が迷惑がってるって聞いて、忠告しに来たんだよ」
ハロルドが胡散臭そうな顔になった。旅の剣士と名乗ったからには、アナベルと面識があるわけがない。なのに本人が迷惑だとか、どうしたらそんな話になるのか。
「本当さ。今だって、女将のセレナさんに聞いたところだし」
遠慮なく本当の事を口にする。サムトーの図々しさも大概だが、さすがに効果的ではあった。
「ぼくのこと、アナベルは迷惑に思ってるのか」
「そうらしいな。本人に聞いてみなよ」
サムトーはセレナに頼んで、アナベルを呼んでもらった。
「忙しいとこ悪いね。アナベルは、ハロルドさんに付きまとわれるのが迷惑だって聞いたけど、本当かどうか、本人に教えてあげて」
サムトーは本当に遠慮がない。それどころか、首を突っ込んだ挙句、本人に止めを刺すよう促すのだから、容赦もなかった。しかも涼しい顔でエールを軽くあおっていた。
さすがにアナベルも、客を相手に厳しい事を言うのはどうかと、ためらっていた。だが、女将のセレナが後ろで黙ってうなずいているのを見て、はっきり言おうと決意したのだった。
「分かりました」
アナベルが真剣な表情で訴えた。
「ハロルドさん、私、お客さんとしては、あなたのことを歓迎しています。ですが、私自身としては、帰り道についてこられるのは迷惑です。私も修行中の身ですから、男性の方とお付き合いする気はないんです」
真っ正面から迷惑だと言われ、ハロルドも相当ショックを受けていた。酔いの回った顔が青ざめ、両肩からは力が抜けていた。
「そ、そんな。ぼくはただ、アナベルと一緒にいたかっただけなんだ」
そして、悲しい顔で言葉を続けた。
「ぼくは卸売市場で日雇いの仕事をしてるんだけど、その疲れた体にここのエールが実においしくてね。そしたら、アナベルみたいなかわいい娘さんに出会えて、すごく気持ちが揺れたんだ。もし、お付き合い出来たら、こんな幸せなことはないって思ってさ。でも、アナベルも忙しくて、話をする時間もないだろう。それで帰る時間なら、一緒にいられるし話もできるだろうって、そう思っただけなんだ」
サムトーがハロルドの肩にぽんと手を置いた。気持ちは分かるよという意思表示だった。しかし、さすがに馴れ馴れしい。ある意味、お調子者の本領発揮だった。
「まあ、その結果、本人に嫌がられたら、本末転倒だろう。ここは、一人の客って立場に戻って、まずはアナベルに認めてもらうといいと思うよ」
ハロルドが目を大きく見開いた。まだやり直せるという希望が見えて、気分も切り替わったようだった。
「どうすればいいんだ、教えてくれ、頼む!」
サムトーにすがりつく勢いで聞いてきた。
「ハロルドが悪い奴じゃないのは分かったけどさ、それが伝わってなくて、ただのしつこい奴になってるのが良くないんだよ。だから、普通の客として店に来て、挨拶するくらいなら問題はないだろう。まず、そこから信用を取り戻せばいいんじゃないかな」
「そ、そうか。……一緒に帰るのを諦めるのは残念だけど、それが良さそうだ。そうするよ。ありがとう」
ハロルドが憑き物が落ちたように冷静に答えた。しつこくして嫌われては元も子もないのだ。当然の判断だった。
サムトーは、こいつもいい奴だなと、話してみてそう思った。ただ、その思いが叶うかどうかは、やはり本人達次第だ。まずはアナベルの好意を得る努力が必要だろう。
「ハロルド、もう一杯一緒に飲むか」
サムトーが尋ねた。だが、ハロルドは首を振った。
「いや、明日も仕事があるし、これで止めておくよ」
そして、アナベルと、近くにいたセレナに頭を下げた。
「ご心配をおかけしてすみませんでした。ぼくがしていたことが迷惑だなんて、考えもしてなかったんです。本当にごめんなさい」
「いえ、分かって頂ければいいんです」
アナベルも率直に返した。無事に問題が解決して、表情も穏やかだった。そして一言付け加えた。
「でも、お客さんとしては歓迎するのも本当ですよ。ですから、普通のお客さんとして、遠慮なくまたいらして下さいね。ですよね、女将さん」
「ええ、もちろん。いつでもお越し下さい」
サムトーも無事に解決できてほっとしていた。話の通じる相手で良かったと思う。まあ、乱闘騒ぎでも何とでもする自信はあるが。
ハロルドが最後に言った。
「アナベル、せめて、今晩だけ、帰り道ぼくに送らせてくれないか。もちろん途中まででいいから。今日で最後にするから」
さすがにその頼みを無下にはできず、アナベルがうなずいた。
「分かりました。もう少しで終わるので、ご一緒しましょう」
両腕を腰に当て、仕方ないですね、と言わんばかりの態度だったが、希望が叶ってハロルドは純粋に喜んでいた。
しかし、セレナが心配そうな表情を浮かべた。確かに話を聞く限り、悪い人物ではなかったが、万が一ということもある。自分も同行すべきかと思ったが、さすがに店を放り出していくわけにもいかない。
その様子を見て取って、サムトーが申し出た。
「なら、俺が少し離れてついて行きますよ。これでも旅の剣士、腕前には自信がありますし」
このサムトーという剣士は今日会ったばかりの相手だ。でも、料理長もハロルドも説得する人柄の良さは信用に値すると、セレナには思えた。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
「お任せあれ。何かあったら、お知らせしますよ」
こうして二人が帰るのについて行くことになったのだった。
「本当にごめんね、アナベル」
「お気持ちは分かりました。ですから、もういいですよ。普通のお客さんに戻ってもらえれば」
アナベルとハロルドが二人並んで夜道を歩いていく。サムトーは話が聞こえない程度に距離を置いて、その後を歩いていた。
「君が料理人として一人前になりたい気持ちも分かった。真剣に努力できるのって、立派なことだと思う。これからも頑張って」
「ありがとうございます。ハロルドさんも仕事頑張って下さいね」
ハロルドが感激したように答えた。
「そんな風に言ってくれてうれしいよ。店でも、時々こうやって話ができるとうれしいな」
「そうですね。時間のある時でしたら、お話させて頂きますね」
平和な会話だった。サムトーには聞こえないが、後ろから見ているだけでも和解したことが分かる。人間、行き違いがなければ、こんな風に穏やかな関係でいられるものだ。自然と、旅芸人の仲間達のことが思い出された。
と、のんびり述懐していた時、不意に人の視線を感じた。通りには何人か歩いている人もいるが、その誰かというわけではなかった。誰かがどこかから凝視しているのを感じた。
約束と違うが、サムトーは二人に走り寄った。
「せっかくの話し中、すまない。ちょっと妙な視線を感じたんだ。その場で止まってもらえるか」
二人が驚いた。ここまで、通行人が少し覗き見るくらいだったし、誰かがの視線を感じるなど、思いもよらなかったから当然である。
「ちょっと待ってな」
サムトーはそう言うと、来た道を戻り始めた。ゆっくりと、周囲を見回すことをせず、まんべんなく周囲を見る。
そして建物と建物の隙間に、不審な人影を見つけたのだった。サムトーがその場所へと向かって走り出した。人影がその姿に驚き、慌てて走り去っていく。
追いかけっこはしばらく続いたが、全く土地勘のないサムトーは、しばらくしてその人影を見失ってしまった。仕方なく、二人の元へと戻る。
「どうだった、サムトーさん」
ハロルドが心配そうに聞いてきた。隣では、アナベルも不安そうな表情を浮かべていた。
「すまん、見失った。でも、二人の跡をつけてきたので間違いないだろう」
得体の知れない人物に跡をつけられる不気味さは、恐怖心を呼び起こすのに十分だった。ハロルドも腕っぷしには自信はない。二人揃って、恐ろしさに身がすくんでいた。
「まあ、そいつにどんな狙いがあるのか分からないけど、今日のところはとにかくさっさと帰るのがいいだろう」
サムトーの言葉に二人がうなずく。
そして、しばらく三人一緒に道を行き、アナベルの家の近くで分かれることにした。さすがにアナベルが、ハロルドに自宅を知られたくはなかったのである。
「じゃあ、ここで別れよう。もう大丈夫だと思うけど、アナベルもハロルドも、気を付けて帰ってくれ」
サムトーがその場に残って二人を送り出す。それにしても、奇妙なことになったものだ。跡をつけていたのはハロルドの方か、アナベルの方か。
「何はともあれ、事実は事実として伝えないとな」
サムトーはひとりつぶやくと、二人の姿が見えなくなったことを確認し、宿へと戻るのだった。
居酒屋が閉店となるまで、まだ少し時間がありそうだった。客もあと五人というところで、かなり空いてきていた。
「サムトーさん、ありがとうございました」
女将のセレナが、戻ってきたサムトーにまずは礼を言った。
「お客さんに、こんなお願いをして、本当に申し訳ありません」
次いで詫びてきた。サムトーは軽く手を振った。
「いえ、お気になさらず。それより、困ったことになりました」
サムトーが小声で伝える。
「二人の跡をつけてきた奴がいたんです。逃げられてしまって、何者なのか確認できませんでした。それに、ハロルドかアナベルか、どっちが狙いなのかも分かりませんでした」
セレナが驚いて目を見張る。今回の付きまといの件も、これで片がつくと思っていたのだ。正体不明の尾行者がいたなど、不穏な話である。
「あの、サムトーさん、申し訳ないんですけど……」
セレナが困った表情を浮かべて、歯切れ悪そうに言ってきた。内容は大体想像がつく。
「俺にもう少し手伝って欲しいと言われるのでしょう。どうせ気ままな一人旅、少しくらいの寄り道もいいものです。お手伝いしますよ。まずは閉店してから、アルトンさんも交えて話をしましょう」
先に承諾の返答をされて、セレナが安堵の息をついた。
「助かります。よろしくお願いします。では、店を閉めますね」
それだけ言って、閉店の準備を始めた。給仕や料理人などの雇い人達も、一斉に片付けや掃除に入った。残った客達も、その様子を見て、勘定を支払って帰っていく。
作業が終わると、雇い人達もそれぞれの自宅へと帰っていく。
残されたのは料理長のアルトンと、女将のセレナ、それにサムトーだけとなった。
「して、何者かが跡をつけてきたということでしたが……」
アルトンが早速話の口火を切った。
「はい。二人の跡をつけてきたので間違いないです。俺が気付いて、そいつに近づこうとしたところ、見事な逃げ足で逃げられてしまいました。ですから、まずはそいつが、今日だけたまたま跡をつけてきたのか、何度も繰り返しているのか、確かめる必要があります。それからハロルドとアナベル、どちらの跡をつけてきたのかも確認が必要ですね」
サムトーが淡々と説明する。これは確かに面倒事である。アルトンがこめかみを押さえて、困り果てた。
「店を閉めるわけにもいかないしな。どうしたもんだか」
ここでサムトーが名乗りを上げた。
「お任せあれ。俺がこの件を引き受けます。解決まで何日かかるか分かりませんが、なるべく早く決着できるよう、尽力致しましょう」
調子の良い言葉を吐く。アルトンとセレナが苦笑した。
「それはありがたいですが、うちもそれほど稼ぎはないですから、報酬など用意できませんよ」
そう言うだろうことはサムトーも予想していた。いくら大事な従業員相手でも、大金を出せるはずはない。
「三食の食事だけ頂ければ、それで十分です。どうせ当てのない旅の途中ですから、最後までお手伝いしますよ」
二人が顔を見合わせた。人間一人の食事代など、たかが知れている。それだけで済むなら、ありがたいことである。
「本当によろしいのですか。サムトーさんはただのお客さんですのに、そんなにご面倒をかけてしまって」
セレナの言葉に、サムトーが胸を叩いて安請け合いをする。
「もちろんです。それにこういうトラブル、解決するの好きなんですよ」
再び二人が苦笑する。頼んで良かったのか悪かったのか。しかし、これだけでは警備隊も動いてくれないだろうし、サムトーを頼るしかないのも事実だった。
「分かりました。では、サムトーさんにお任せ致します」
「任されました。まずは明日の朝、アナベルに話をしましょうか」
かくして、サムトーは、またもや自分から面倒事に首を突っ込むのであった。ある意味、お調子者の本領発揮であった。
翌朝、サムトーは日の出とほぼ同時に起き出した。
まずは部屋を出て井戸端へ。そこで水を一杯飲むと、鞘ごと剣の素振りを始めた。腕が鈍らないように必要最小限の鍛錬である。六種類の斬り方を、左右の腕で百本ずつ、早く正確に振っていく。
しばらく素振りをしていると、アナベルが水を汲みにやってきた。朝食の支度があるので、朝も早くから勤めに来ているのである。サムトーが剣の素振りをしている姿を見て、ちょっと驚いたようだった。
「おはようございます、サムトーさん。朝から熱心ですね」
「おはよう、アナベル。熱心というか、これでも剣士だからね。必要最小限の鍛錬なんだよ」
「なるほど、さすが剣士さんですね」
話し終えると、水を桶に汲んでいく。何往復かして、厨房の水瓶を満たすのである。
その作業より、サムトーの素振りの方が早く終わった。
サムトーが昨日の話を切り出す。
「昨日、二人の跡をつけてきた奴がいただろ。そいつがどっちを狙ってるかとか、この先も続くのかとか、はっきりしないんだ」
アナベルが手を止めてサムトーを見た。さすがに正体不明の尾行者の存在は不気味に感じるようだった。
「だから、今日、一人ずつ帰ってもらって、俺が追跡者を確認する。ちょっと怖いかもしれないけど、危害が及ばないよう、俺もちゃんとついていくから安心してくれ。この話は料理長と女将さんにはもうしてあるから」
昨日のうちに話を進めてくれたのだと分かり、アナベルが目に見えて安堵していた。対策してくれるなら、過剰に怯える必要はない。
「はい、分かりました」
「じゃあ、仕事、頑張ってな」
「はい。ありがとうございます」
一礼してアナベルが立ち去った。本人にも告げたことだし、いよいよ本腰を入れて動く必要があるだろう。
サムトーはもう一度水を飲むと、部屋へと戻り、一息入れるのだった。
朝食後、サムトーはまず市街地へと出て行った。
最初は昨日の道順をたどり、アナベルの家の付近まで。往復して道順を頭に入れる。それからいくつかのわき道に入り、道のつながり具合を確かめていく。何度も同じ場所に出ながら、頭の中に街の地図を作っていった。
午前中一杯、宿やアナベルの家の周辺をうろうろと巡り、道の様子を覚えていく作業に費やしたのだった。
昼食は宿で取る。食事の面倒を見てもらうのが、この労力の報酬だった。
ここでもアナベルが自ら給仕に出てきた。自分が巻き込まれたトラブルを解決してもらうので、自分の手で食事を提供したかったのである。
「昼食なので簡単に。パスタとサラダ、スープになります」
「ありがと。今日もアナベルが作ったのかい」
「はい、サラダを作ったのと、パスタを茹でたのは私です」
「それはありがとな。じゃあ、いただきます」
サムトーが笑顔を見せた。アナベルが作ってくれたこともうれしいが、帰り道に不安を感じているのを和らげたい気持ちもあった。そこで、午前中にしていたことを話した。
「とりあえず、今度は逃げられないよう、この街の道を覚えてたんだ。この宿からアナベルの家のあたりまで、だいぶ道を覚えたな。午後も、もう一回りして、しっかり覚えるつもりだから安心してくれ」
「そうだったんですか。ありがとうございます。助かります」
アナベルがほっとした表情で答えた。
「俺もできることはするから、安心して仕事を頑張ってくれ」
「はい、分かりました」
返答をした後、疑念が湧いたのだろう。不意に尋ねてきた。
「あの、どうしてサムトーさんは、そんなに親切なんですか。昨日会ったばかりの私のために、そこまでしてくれるなんて」
何か裏があるのかもしれないと、そう思ったようにも見えた。サムトーは、肩をすくめて正直に答えた。
「まあ、見返りの少ないことなんだけどさ。俺、単にお節介なんだよ。それに、こういうトラブル解決するのも好きでね。余計なことに首を突っ込みたがるお調子者なのさ」
その様子がおかしかったのだろう。アナベルがぷっと吹き出した。
「お客さんだと分かってますけど、失礼を承知で言わせてもらいますね。すごく変な人ですね、サムトーさん」
軽く笑顔を浮かべて、アナベルがサムトーをこき下ろした。さもありなんと、言われたサムトーが苦笑する。
「でも信用してます。頼りにさせてもらいますね」
そう言って、アナベルが厨房に下がった。
サムトーはその後ろ姿を見送りながら、信頼に応えるべく、まずは腹を満たそうと食事を続けるのだった。
午後も、道を覚えるために長い時間あちこちを巡った。宿からアナベルの家までの間、脇道もかなり覚えてきた。こんな労力をかけることになろうとは、このフルスタの町に着いた時には想像もしなかったことだ。
夕方近く、とりあえず十分だと判断し、一度宿に戻る。
それから公衆浴場に向かい、一休みである。
湯を堪能した後は、再び宿に戻り、エールを一杯。
後はハロルドが来たら話を通して、帰り道の安全を確認するだけである。
のんびりくつろいでいると、アナベルが厨房から出てきた。エールを飲んでくつろいでいるサムトーの姿を見て、緊張感のなさに苦笑しつつ、これだけ余裕があるなら大丈夫なのだろうと、ほっと息をついた。
「サムトーさん、お疲れさまでした」
自分のために、道を覚えようと歩き回ってくれたのだ。アナベルも、礼くらい言うべきだろうと思っていた。
「いいのいいの。道のつながり具合が分かったし、いろんな店や家も見られて面白かったよ」
そんな風に、面倒事なのに、自分が面白いと告げてくれる。根本的に親切な人なんだと、アナベルは改めて思った。
「ありがとうございます。私、頑張りますから、夕食を楽しみにしていて下さいね」
「いいねえ。それじゃあ期待してるよ」
サムトーが親指を立てた。アナベルの腕前を認めた所作であった。
「はい。では、ごゆっくり」
そう言うと、アナベルは厨房に戻った。心なしかうれしそうに見えた。実際、今日も昼食に続き、夕食も出せることがうれしかったのだ。
サムトーが、のんびり酒杯を傾けていると、ハロルドが店にやってきた。いつものようにカウンターに座り、エールを一杯頼むと、厨房に視線を送っていた。あんなことがあった翌日なのに、気にした風はない。
サムトーは、今日もハロルドの隣に席を移った。
「よお、ハロルド。元気そうで何より」
「ああ、サムトーさんか。昨日はありがとう」
付きまといさえなければ、彼も好青年と言えた。気のいい人物だが、自分の熱情を抑えきれなかったのだろう。そんな風に思った。
「いいってことよ。そちらこそ、お仕事お疲れ様」
ハロルドのエールが来たところで、サムトーが酒杯を掲げて見せた。ハロルドがそれに自分の酒杯を合わせて、軽くあおった。
「でさ、昨日ここの料理長と女将さんと話したんだけど」
そう前置きして、サムトーは昨日、あの後で話し合った内容をハロルドに伝えた。まずは目標を特定したいことを強調する。
「狙いがアナベルとは限らないんだよ。もしかするとハロルドかも知れないからな。今日のところは、少し早目に店を出て、帰って欲しいんだ。で、俺がその跡をつけて、怪しい奴がいないかを確認する」
「そうか。なるほど、分かった。面倒かけてすまないな」
ハロルドも素直に言うことに従うことにした。昨日一日跡をつけられただけで実害はないが、繰り返されたり、何事か起こったりしてからでは遅い。
そこで自分のことを振り返ることができたのも立派なことだった。
「考えてみると、アナベルも同じだったんだろうな。ぼくが一緒に帰ろうとするのを、本当は嫌がっていたんだから。悪いことしたなって思うよ」
「ハロルド、あんた、いい奴だったんだなあ」
サムトーがしみじみと言った。言われた方は、ちょっと照れた表情になって答えた。
「ありがとう。でも、気付くの遅かったからなあ。もっと早く、相手の身になって考えられたら良かったよ」
「後からでもそう思えるのは十分立派だって」
そんな会話をしていると、当のアナベルが姿を見せた。
「ハロルドさん、今日もご来店ありがとうございます。それから、今日はよろしくお願いします」
アナベルの方から声を掛けられて、当人はとても喜んでいた。これまでは会話していても、どうしても一方的に話すばかりのことが多かったのだ。
「いやあ、こちらこそ。いつもありがとう。今日のことはサムトーさんに聞いてます。ちゃんと自分の役割をこなしますから、安心して下さいね」
ニコニコと笑顔を浮かべてハロルドが答える。
「夕食を召し上がるようでしたら、声をお掛け下さい。それではまた後で」
それだけ言って、アナベルが厨房へと戻る。ただそれだけのやり取りでも、ハロルドは会話できたことを喜んでいた。
「良かった、まだ普通に話してくれるんだな。あんなこと言われたから、もう話すのも嫌なのかと思ったよ」
「なるほど、そんな風に思ってたんだ。なら良かったな。お客としては歓迎してくれるってのが、本当だって分かって」
サムトーがしみじみと言った。
「ありがとう。ところでサムトーさんは」
「サムトーでいいよ。さんはいらない」
「分かった。サムトーは旅の剣士なんだろ。どんなところを、どんな風に旅してきたんだい?」
「ほう、その話聞きたいかね。……そうだなあ。例えば貴族の領地に行った時のこととか」
妙なきっかけで知り合った二人だったが、年の近いこともあって、すぐに打ち解けて話せるようになっていた。サムトーの愛嬌の良さと、ハロルドの人柄の良さが、いい相性だったようだった。
二人は夕食が終わるまで、楽しく話をしながら過ごしたのだった。
「それじゃあ、普通に帰ってくれ。俺は少し離れて様子を見るから」
「分かった。よろしく頼むよ」
ハロルドが帰宅する時間である。伝えた通り、ハロルドを狙って跡をつけてくる人物がいるかどうかを、これから確かめようとしていた。
ハロルドが少し緊張したように歩いていく。時々振り返って、異常がないか見てしまうのは仕方ないだろう。
すると店を出てすぐ、ハロルドの跡をつけている不審な人物がいるのを、サムトーは見つけたのだった。
「にしても、下手な尾行だな」
そんな感想を抱くほど、その人物の跡のつけ方はひどかった。通行人も振り返って、こいつなにやってるんだ、という視線を送っているほどである。サムトーに観察されていることにも気付いてはいない。
「こりゃ、さっさと片付けちまうか」
呆れたサムトーが即断即決した。
こっそりとその人物に近づき、いきなり肩に手を置いたのである。
「そこの君、ちょっといいかい?」
一応、そんな風に声を掛けた。すると、相手は跳び上がるほどに驚き、悲鳴を上げた。
「きゃーっ!」
何と女性の声だった。これではサムトーの方が悪者である。この事態は想像しておらず、サムトーも慌てた。
「ちょっとちょっと、そんな声を出さないでくれよ。俺はただ、ハロルドの跡をつけてくる怪しい奴、まああんたのことだが、その正体を確かめようとしただけなんだ」
勢い、サムトーの声も大きくなった。何だ何だと、通行人が何人も視線を向けてくる。
「と、とりあえず、ハロルドに合流するぞ」
サムトーはその女性の手を引いて、通りを進み始めた。ハロルドに向かって大きく手を振って呼び止める。
「ちょっと待ってくれ。話がある」
サムトーの呼び声に応えて、ハロルドが足を止めて振り向いた。
「どうしたんだい。……って、ジョディじゃないか」
サムトーが引っ張ってきた女性の名らしい。妙だとは思っていたが、ハロルドの知り合いだったようだ。年の頃は十代後半か。サムトーやハロルドと同年代に見える。栗毛の気真面目そうな女性だった。
「いや、このお嬢さんが、ハロルドの跡をつけていたんだ。それで声を掛けたら、悲鳴を上げられてね。尾行の仕方も素人っぽかったし、やっぱり知り合いだったんだな」
「ああ。ジョディはぼくと同じで、卸売市場で働いているんだ。たまに一緒に仕事をすることもあって、真面目で良く働くいい人だよ」
サムトーが、自分が悪くなかったことを確認できて、とてもほっとしていた。女性に悲鳴を上げさせた悪人にならずに済みそうだ。
「で、ジョディさん、どうしてハロルドの跡をつけていたのか、説明してもらえるかい?」
遠慮もなく尋ねる。当然事情は知りたいし、ハロルドも同じだろう。
ジョディが不機嫌そうな表情をした。ハロルドには知られたくなかったらしい。
「それは、ハロルドが若い女の子の跡をつけ回してるって聞いて、本当かどうか確かめようと思ったんです」
「ぼくはただ、菊水亭さんのアナベルと仲良くしたくて、一緒に帰っていただけだよ。ただ、結果的にアナベルに嫌がられてしまって、悪いことしたなあって思ってるんだけどね」
「でも、他の女の子と一緒に帰っていたのは本当だったんですね」
「そうだね。そうなるね」
「私、それが嫌だったんです」
「そうなんだ。でも、もうそういうことはしないって、アナベルや菊水亭の女将さん達と約束したんだ。だから、そんなこと気にしなくていいよ」
ハロルドの言葉を聞いて、ジョディが明らかに安堵の表情を浮かべた。
「ジョディは、ぼくが女の子と一緒だと嫌だってことだよね。どうしてそんなこと考えたんだい?」
サムトーが肩を落とした。これは素なのか天然なのか。他の女の子と一緒なのを嫌がる理由は一つしかないだろうと、突っ込みたいのを我慢した。
ジョディも目を丸くした。そしてしばらく考え込んでしまった。自分のこれまでの行動が、全くハロルドに響いていなかったことが分かり、多少なりともがっかりしていた。
「ぼく、何か悪いこと言ったかな……」
黙り込んだジョディを見かねて、ハロルドが心配そうな表情になった。
やがて、ジョディは、はっきり告げようと決心した。一人余計な人物はいるが、もうなりふり構っている場合でもないと、踏ん切りをつけていた。
「私、ハロルドが好きなんです。頑張って働いてる姿も、休憩中にのんびりしている姿も、一緒に仕事してて優しいところも、みんな好きでした」
「え、そ、そうだったんだ。ごめんね、気付かなくて」
ハロルドとしては謝るしかない。これまで生真面目な同僚という認識で、彼女を女性として見ていなかったのだ。振り返って考えれば、かなり失礼な事じゃないかと思っていた。
そして、こうなると完全にサムトーは邪魔者である。その自覚もあったから、一声掛けて退散することにした。
「ハロルド、そういうことみたいだから、俺はこれで宿に戻るよ。後は二人で話し合ってくれ。それじゃあ」
軽く手を振って、サムトーは二人と別れた。取り残された二人も、立ち尽くしていても仕方ないので、並んで歩きだしたようだった。ハロルドがジョディを送っていくのだろう。
根はいいハロルドのことだ。断り切れず、かと言って承諾もできず、これまで通り君と仲良くしていきたいから、しばらく考えさせてほしい、みたいな返事をするだろうな、などと考えていた。たった一日の付き合いで、そんなことまで分かってしまうくらい、ハロルドと仲良くなれたんだなあと、しみじみ思っていた。
宿に戻ると、アナベルが待っていた。
首尾を聞かれたので、ありのままを答えた。
「そうですか。ハロルドさんもいい人ですもんね。そんな風に思いを寄せる人がいて、当然かもしれません」
アナベルは、これでハロルドに迫られる心配がなくなった安心が半分、自分に好意を寄せておきながら、他の娘と親しくなろうとしていることへの残念さが半分と、奇妙な感想を抱いていた。だが、それもすぐに切り替え、安心して修行に没頭できることを喜ぶことにしたのだった。
それからしばらくして、アナベルが帰宅する時間になった。
「では、また明日」
「ちょい待ち」
アナベルが一人店を出ようとするのを、サムトーが呼び止めた。
「サムトーさん、何か御用でしたか」
「俺が跡をつけるの、忘れてない?」
「え、だって、それはハロルドさんが相手だって分かったんだし、もう大丈夫なのかと思ってました」
アナベルは本気でそう思っているようだった。
だが、サムトーは首を振った。
「まあ、普通に考えたらそうだよな。念のためついてくから。とにかく、気を付けて帰ってくれ」
実のところ、昨日尾行してきた奴は、逃げ足がすごく早く、明らかにジョディとは別人なのだと、サムトーは気付いていた。だが、正直にそれを伝えても怖がらせるだけである。
アナベルが不思議そうな顔をした。もしかして、自分も狙われているのかと薄々察した感じだった。
「分かりました。信用してますよ、サムトーさん」
そう言って、今度こそ帰路につく。
普段通い慣れた道、通行人も多少いるのだが、それがいつもと違って怖く感じていた。
「何か変な感じ。とにかく帰ろう」
一人つぶやいて、少し速足で道を歩いていく。
サムトーはその姿が見えるギリギリの場所から、周囲を観察していた。
すると、思った通り、跡をつける不審な人物がいたのである。物陰に隠れながら、そっとアナベルの様子を窺い、そっと距離を詰めていく。
アナベルの跡をその人物がつけ、サムトーがその人物の跡をつけるという構図で、尾行の連鎖がしばらく続いた。
「それにしても、こいつ何者だ」
疑念を抱きつつ、気配を消して不審な人物の跡をつけるサムトー。
そうこうしている間に、アナベルは無事に自宅へと帰りついていた。
不審な人物は、家に入るアナベルの姿を見届けると、周囲を軽く見渡して誰かに見られていないかを確認してから、通りに堂々と姿を現し、歩き去っていった。ここでこいつを捕らえても、何の罪にもならないので、サムトーも見逃すしかなかった。
「結局、今日は手出しをしなかったな」
一日無事に済んだことは、実のところあまりうれしくない。明日も同じように尾行する必要があるということなのである。
「とりあえず、宿に戻って、事情を説明しよう」
サムトーは元来た道を戻り、宿へと帰っていった。宿で料理長と女将さんに事情を説明し、不審な人物を見つけたことを伝えたのだった。
「昨日はどうでしたか、サムトーさん」
朝、井戸端で剣の素振りをしていると、またもアナベルが姿を現した。少女の細腕で毎日水汲みの仕事をしているのかと、サムトーが感心する。そのくらい良く働く娘だった。
サムトーは素振りの手を止めず、質問に答えた。
「残念ながら、やっぱり不審な奴がいたんだよ。家までついてきてな。昨日は結局何もしなかったけど、一体何がしたいんだか」
アナベルの眉根が寄った。狙われているのが自分だと聞いて、嫌な気分になるのも当然だ。それでも仕事の手は休めず、厨房と井戸を往復していた。
最後の一回の時、つぶやくように愚痴をこぼした。
「あーあ、気が重いなあ。いつも帰りは、今日も仕事頑張ったって、気分良かったのになあ」
「そうだよな。でも、ちゃんと今日も俺がついてくから、安心してくれ」
「そうですね。分かりました。それじゃあ、朝食で、また」
アナベルが、重い桶を持って厨房へと戻っていく。その姿を見送ると、サムトーも一旦自室に戻っていった。
しばらくして、サムトーが朝食の席に着いた。すると、気分を切り替えたのだろう、アナベルが機嫌良さそうに朝食を持ってやってきた。
「今日はベーコンエッグとパン、野菜スープです」
その様子からすると、また自分で調理したのだろう。
「もしかして、ベーコンエッグはアナベルが?」
「そうです。サムトーさんならいいだろうと、料理長も快く許してくれました。私も修行の成果がお見せできてうれしいです」
笑顔で肯定の返事をしてきた。まだ十四だと言っていたが、そんなに若いのに、客を喜ばせることにやりがいを感じているのは立派だと思う。この先の成長が楽しみである。
「ありがとう。では、早速。いただきます」
黄身は程良く半熟で、白身は底がわずかに焦げ、固い。簡単な目玉焼きであっても、焼き具合に細心の注意を払っていることが分かる。そこにベーコンの油の旨味が乗り、十分においしい料理になっていた。
「上手に焼けてるね。とてもおいしいよ」
サムトーは調子には乗るし世辞も言うが、この時は間違いなく本音であった。たかが目玉焼きでも、焼き方ひとつでうまさが違うと、正直に思っていた。朝からおいしい物を食べられると元気が出る。
アナベルは、自分の目の前で食べてくれる人が喜ぶ様子を見て、心からの喜びを感じていた。
ふと、サムトーは純粋に疑問を感じて、尋ねてみた。
「なあ、普段仕事忙しいのに、いつ料理の練習をしてるんだい?」
「賄い、えっと宿で働く人の分の食事ですね、それを作る時とか。家でも時間のある時は朝食を作ってますし。あと、仕込みや仕上げの手伝いをしながら、料理方法を教わってます」
「そうかあ。忙しい中、合間を縫って練習してるってことかあ。大変だろうに、よく頑張ってるなあ。感心するよ」
本職になりたいという強い希望があるのが分かる。心の底から感心して、褒め言葉を口にした。
「ありがとうございます。では、ごゆっくり召し上がって下さい」
アナベルは軽く微笑むと、残りの仕事をしに厨房へと戻っていった。
サムトーは朝食を味わいながら平らげた。作り手の思いや努力のこもった食事のありがたさを感じていた。
そして食べ終わると、今日も市街地探索に出かけるのだった。
午前中、またあちこちを歩き回る。道もかなり覚えてきた。今度は逃げられても、十分に追えるだろう。そんなことを思いながら道を歩いていると、アナベルが歩いているのを見かけた。どうやら公衆浴場の帰りらしい。
「お疲れ様、アナベル」
「あ、サムトーさん。また道の確認ですね。そちらこそご苦労様です」
「こんな時間にお風呂?」
「はい。夕食の仕込みが始まる前か、午前中くらいしか時間が取れないものですから。今くらいの時間に入る日が多いですね」
なるほど、夕方からはひたすら客の注文を捌く必要があるし、仕事が終わるのも夜遅くだ。確かに風呂に入る暇がない。
「料理人も大変だなあ」
自分が夕方、風呂に入って一杯ひっかけてくつろいでいることを、申し訳なく思うほどだ。
「いえ、もう慣れましたから」
なるほど、確かにそんな感じに見える。いつもの日常をごく普通にこなしている様子だった。
「ところで、今、少し時間あるかい。良かったらお茶でも飲まないか」
サムトーがそんな提案をした。せっかくこんなタイミングで会ったのだ。少しくらいの寄り道もいいだろうと思ったのだ。
「そうですね。昼食の仕込みまで、まだ少し時間ありますし。せっかくなのでご一緒します。でも、サムトーさんのおごりですよね」
意外とちゃっかりしている。もちろん、サムトーもそのつもりだ。見習いの給金は少ないだろうし、誘った側が出すのも当然であろう。
「それなら、一度食べて見たかったケーキがあるんです。そのお店でいいですか?」
「もちろん。ご要望にはお応えするよ」
「やった! 前からずっと狙っていたんですよね。楽しみです」
アナベルはそう言って、サムトーを案内した。
しばらく行って、一軒のケーキ屋の前で立ち止まる。
「ここです」
少し古びているが、それくらい長いこと営業できているということでもある。老舗と言っても良かった。
店員に案内され、二人掛けの席に座る。
「私は栗のケーキと紅茶を」
アナベルが、すぐに目当てのメニューを注文する。季節柄、やはり栗が旬である。なるほどとサムトーも思った。
「じゃあ、俺も同じ物を」
注文を聞いて、店員が下がる。
「ところでサムトーさん、一人旅なんですよね」
「そうだけど」
「どのくらい旅をしているんですか」
「えーと、そうだな、丸一年というとこだな」
「その間の旅費とか、どうしてるんですか」
「ああ、貴族様や商人さんの手伝いをして、報償をもらってた」
決して嘘ではない。だが、さすがに賭場で路銀の大半を稼いでいたとは、さすがに真面目に働くこの娘に言うのをはばかられた。
「ですよね。なのに、お金も出ないのに、私を助けてくれるのは、どうしてだろうって思って。やっぱり気になってしまって」
話はそこに落着するらしい。まあ、当然の疑問だろう。
「この前も言ったけど、俺、お節介なんだよ。それに、こういうトラブル解決するのが好きだしな。あと困ってる人がいたら、見返りとかなくても、助けたくなるもんなんだよ」
本当のことを話しているのに、なぜか嘘くさく聞こえるなあと、サムトーは自分のことながらそんな風に思っていた。アナベルも同様らしい。
「そうなんですか。でも、なんか変ですね」
「うん。俺もそう思った」
思わず二人で笑い出してしまった。
ちょうどそこへ、注文していたメニューが届いた。
「さて、どのくらいおいしいのか楽しみ」
そう言って、アナベルがフォークでケーキを切る。一口大に取って、口へと運ぶ。そして眼を大きく見開く。
「旨味の濃い甘さ、だけどしつこくない。スポンジもいい香り」
どうやら想像していたよりおいしかったようだ。
「栗を雑味なく仕上げてるのが見事だわ。それに、サツマイモも使って、両方の素朴な甘みを上手に引き出してる。そこに生クリームを合わせて、甘味として調和させてるのね」
さすが料理人志望、見事に味を分析していた。
紅茶を軽く飲んで、続きを口にする。
「こんなにおいしいケーキ、味わえるなんて幸せ。ありがとう、サムトーさん。うれしいです」
アナベルが心からの笑顔を浮かべていた。この表情を見て、ハロルドはこの娘に惚れたんだなと、サムトーは思った。そのくらい純真なかわいらしい笑顔だった。
「礼には及びませぬ。喜んで頂いて何よりでございます」
ここでサムトーのお調子者ぶりが炸裂した。右腕を胸に当てて、軽く一礼してみせる。貴族相手への略式の礼だった。
本人的には、何格好つけてるんですかと、突っ込みを入れて欲しい場面である。しかし、アナベルは物珍しい所作に逆に感心し、サムトーを褒めた。
「さすがサムトーさん、そんな礼の仕方も知ってるんですね」
ボケが滑った後を、自分でフォローするのは難しい。恥ずかしげに頭をかきながら、適当な返事を返した。
「まあ、一人旅で、いろんな所に行ったからね。こんな礼をしてるのを、見たこともあるんだよ」
「それそれ。いろんな所へ行ったのなら、いろいろとおいしい物、食べたこともあるんでしょ。いいなあ。私も食べてみて、自分で作ってみたいな」
少女の外見で、中身はしっかりと料理人だ。大人になる頃には、一人前の料理人にきっとなれるだろうな、サムトーはそう思う。滑った結果、こんな風に前向きの発言が聞けたのだから、良いことにしておく。
「南の方で食べた、米の料理がおいしかったよ。粒のまま料理する穀物で、炒めたり煮たりして食べるんだ。いろんな具材との相性も良くて、味付けも自由にできる感じだったな」
「聞いたことあります。うちの宿では仕入れたことはありませんが、この街の料理屋でも、使ってる所があるとか。一度食べてみたいですね」
さすがアナベル。そういう情報もすでに耳にしていたようだ。
「あ、いけない。そろそろ戻らないと」
アナベルが残りのケーキを急いで食べ始めた。それでもせっかくなので、なるべくじっくりと味わっている。サムトーもそれに倣って、少しずつ食べていく。なるほど、言葉では言い尽くせない、おいしい甘味だ。
しばらくして、アナベルが最後の紅茶を飲み干した。表情はすっかり満足気であった。この表情が見られただけでも良かったと思う。人を喜ばせてうれしくなるのは、サムトーも料理人と同じだ。
サムトーが勘定を支払い、二人揃って店を出た。
町の教会で十一時の鐘が鳴る。そろそろ昼食の仕込みを始める時間だ。余談だが、神聖帝国では時計が普及していない。町の教会が帝国の支援を受けて高額な時計を所持し、それに合わせて一時間ごとに鐘を鳴らしている所が多い。鐘を鳴らすのは、午前八時から午後八時までという町が多かった。
「では、仕事に戻りますね。サムトーさん、ごちそうさまでした。おいしい物をありがとうございました」
二人は店の前で別れ、サムトーはまた町巡りに、アナベルは宿へとそれぞれ向かった。
昼食時、ケーキを食べたことで、アナベルが賄いの昼食を少なめにしていて、料理長に怪訝に思われたという。サムトーにおごってもらった経緯を聞いて、面倒見のいいことだと、呆れ半分感心半分にこぼしていた。
そのサムトーは、宿に戻ってきっちり昼食を取り、午後も元気に出かけて行ったものである。
その日の夕方、サムトーは、風呂や洗濯などを済ませて、いつものようにエールを一杯。夜に備えて夕食もしっかり取った。この日もアナベルが料理の仕上げをしていて、とても機嫌が良かった。二年以上修行してきたのは伊達ではなく、この日も十分においしく仕上がっていた。
二日目の夜、またも尾行である。
先に店を出たサムトーは、近くの物陰に人の気配を感じた。店が見える位置だが、こちらからは良く見えない。昨日もそうだったが、隠れて跡をつけるのは上手なようだった。
サムトーが一旦店から離れ、アナベルが出てくるのを待つ。
「では、お先に失礼します」
しばらくして、明るい挨拶の声がした。アナベルが帰路についたのだ。
不審な人物は、やはり昨日と同様、その跡をつけている。これで偶然ではないことがはっきりした。明らかに何かを狙っている。身代金が取れるような家ではないので、そうすると体が狙いということになる。もっと妙齢の女性を狙っても良さそうだが、この年代の少女が好みなのかもしれない。そんな余計なことを考えながら、サムトーもその跡をつけて行く。
やがて、人通りの途切れた場所に来た。
不審な人影が音を立てないように走り始めた。
見る間にアナベルに近づくと、片手で口を押え、空いた拳でみぞおちを一撃、見事に一発で気絶させた。そのまま肩に担いで、静かに走り出す。
ここまではサムトーも想定の範囲だ。とりあえず誘拐未遂で、警備隊に突き出すことができる。だが、それではすぐに解放され、また新たに事件を起こすかもしれない。はっきりと罪を犯すところを取り押さえるべきだと思っていた。
サムトーが、走っていく人物の跡を、気付かれないように物陰を伝いながら追いかけていく。見失ったら終わりだ。慎重に、かつ素早く行動する必要があった。
しばらく走っていた不審者は、アナベルを肩に担いだまま止まった。周囲を窺い、誰もいないことを確認する。そして、一軒の家に入っていった。
扉が閉まり、ガチャリと鍵のかかる音がした。
以前にもあった状況だ。サムトーはポーチから金属製の工具を取り出し、鍵穴としばらく格闘した。さほど時間も掛からず鍵は開き、そっと扉を開けて中の様子を窺う。
奥の部屋から人の気配がした。近寄ると、何かごそごそとかすかな物音がする。
サムトーがその部屋の扉を開くと、部屋の中にあるベッドに横たえられたアナベルがいた。どんな手際の良さか、衣服はすでに脱がされていた。その傍らに、同じく衣服を脱ぎ終えた男が一人。年の頃は三十過ぎくらいか。正に事に及ぼうとする瞬間だった。
鍵を掛けたはずの家にサムトーが現れたのだから、男の驚きようもかなりのものだった。
「兄さん、悪いがそこまでだ。大人しく観念しな」
男の様子には構わず、サムトーは冷たく言い放つ。
だが、男も往生際が悪かった。手近にあった筆記具や食器などをサムトーに投げつけてくる。サムトーがそれをあっさりとかわす。
物がなくなると、今度は自分の拳を振るってきた。アナベルを気絶させたことからしても、そこそこの腕前で、思ったより鋭い拳が飛んできた。
「無駄だって。と言っても分からねえよな」
サムトーは、その拳を何発か打ち払うと、この男のみぞおちに痛烈な一撃を見舞った。男が息を吐き出し、意識を失う。
その男の両手両足を拘束し、床に転がす。
「さて、アナベルには悪いが、このまま警備隊を呼んでこないとな」
アナベルは衣服を脱がされたまま、ベッドで意識を失っている。さすがに寒いだろうと、毛布だけはかぶせた。内心申し訳ないと思いつつも、本来なら起こして服を着せるべきところをあえて放置した。警備隊員に現状を見せる必要があるからだ。この有様が決定的な状況証拠なのである。
部屋を出ると、サムトーは迷いなく走り出した。二日間の街巡りがここで役に立った。近くの警備隊詰め所を脳裏に浮かべ、最短距離でそこまで走っていく。
夜だが、詰所には当直の隊員が二人いた。サムトーが強姦未遂の事件が起こったことを告げた。その二人がサムトーに同行して現場へと向かった。
現場に到着すると、警備隊員達が、服を脱がされてベッドに横たえられた少女と、両手両足を拘束されて、裸のまま床に転がされた男がいることを、しっかりと確認した。これでサムトーの言葉が事実だと証明された。
「ご苦労様です。強姦未遂の現行犯と確認致しました」
警備隊員が生真面目に答えたところで、サムトーが問いかけた。
「ところで、そろそろこの娘に服を着せてもいい?」
「そ、そうですね。お願いします」
警備隊員達も、少女のあられもない姿を見て、今頃になって慌て出した。
とりあえず、全裸の男を連行しようと、男を揺り起こし始めた。
サムトーも同じようにアナベルを揺すって起こした。
しばらくして、アナベルが目を覚ました。
「あれ、サムトーさん……」
そこまで言って、妙な寒気を感じて身震いした。それはそうだ。秋も深まる季節で、室内とは言え服を着ていないのである。
しかも、腹の辺りが妙に痛い。それに見知らぬ室内だ。一体何が起きたのだろうかと、アナベルが不思議そうな表情をしたまま考え始めた。
「アナベル、ちょっといいかな。落ち着いて聞いて欲しいんだけど」
アナベルが記憶をたどるより、先にサムトーが説明しようと声を掛けた。
「え、あ、うん」
「本当に落ち着いてね。アナベルは、そこの男に連れ去られて、暴行されるところだったんだよ。だからこの部屋にいるんだ。で、ギリギリ俺が追い付いて、そいつを捕らえたと。それでな、暴行直前だったわけだから、アナベルは今、服を着ていないんだ」
アナベルはそう言われて、自分が全裸であることにようやく気付いた。ということは、つまりサムトーや、警備隊員達二人、そしてそこで服を着せられている男、みなが自分の裸を見たことになるわけだ。そこまで気付いて、アナベルの顔が真っ赤に染まった。
「み、見たんですよね、サムトーさん。わ、私の……」
相当に気恥ずかしいようだ。つっかえながら、見られて恥ずかしかったことを訴えようとしていたが、うまく言葉にならないようだった。サムトーにも、その気持ちは分からないでもない。
「ごめんな。犯人確保が優先だったからな。とにかく、俺はあっちを向いてるから、早く服を着て欲しいんだけど」
サムトーはそう言って、集めた服をアナベルに手渡し、後ろを向いた。
そのままでいたら余計に恥ずかしくなるだけである。アナベルはそそくさと自分の服を着始めた。下着まで見事に脱がされていたのだから、改めて恥ずかしさが湧いてきて、動悸を激しくしていた。
「着ました。それで、あの……」
「もういいかな。とにかく無事だから。それは間違いない」
サムトーが振り向いて、暴行はされずに済んだことを、繰り返し伝えてきた。アナベルが自分の体を確かめたが、お腹が痛いだけで、他は無事なことに間違いはないようだった。
「もう少し余裕だと思ったんだけどな。結局間一髪になってしまって、怖い思いをさせてごめんな」
「いえ、無事だったんですから、気になさらず」
「でね、ここからがまた大変なんだけど。これから警備隊本部に行くことになるから」
「そうなんですか」
「調書作成があるんだよ。……隊員さん達、お待たせしました」
警備隊員達も、二人のやり取りが終わるのを待っていたようだった。確保した男にも服を着せてあり、連行する準備はすでに整っていた。
「では、申し訳ないが、お二人にも同行して頂きます。よろしいですか」
「はい。こちらこそ、お手数をかけます」
夜もだいぶ更けてきていたが、強姦未遂犯を連れた警備隊員達と共に、サムトーとアナベルも本部へと向かった。さすがに結構距離がある。時々通行人が、何か捕り物があったみたいだなと、好奇の目を向けてきた。そんな視線に晒されて、サムトーはさすがに慣れていたが、アナベルはかなり恥ずかしがっていた。
「まあ、嫌かもだけど、ここは我慢してくれな」
サムトーがそう言って励ましてくれたが、だからと言って恥ずかしさが消えるわけではない。二十分ほど歩いて、警備隊本部に到着した時には、これで変な目で見られずに済むと、ほっとしたものだった。
着いてすぐ、警備隊員達が、当直の騎士を呼びだしてもらい、事の顛末を報告した。この日の当直は三名。うち一人は初老の騎士だった。
若い騎士が警備隊員を一人連れて、連行してきた男を別室へと連れ去っていった。そこで厳しく尋問するのである。
初老の騎士が優しげな表情を浮かべ、サムトーとアナベルを別の一室に案内した。
「今晩は災難でしたな。まず、名前を聞かせてもらえるかな」
サムトーとアナベルが名乗ると、それを用紙に記録していく。
「では、何が起こったのか、まずはお嬢さんの方から説明して頂こうか」
促されて、まずアナベルが説明をした。しかし、意識を失って、サムトーに起こされるまでの記憶はない。お腹を殴られてまだ痛みのあることや、気が付いたら服を脱がされてベッドにいたことくらいしか話せない。
「では、サムトーさん、事情を聞かせて頂こう」
サムトーがあまりに都合よくアナベルを助けているので、その辺も含めて説明しろということだ。
最初に、数日前に尾行者の存在が分かり、アナベルが勤めている宿の料理長や女将と相談し、サムトーがその安全確保のために尾行していたと説明した。昨日も不審な尾行者が彼女の跡をつけていたが、帰宅するまで何事もなかった。だが、今日になって行動を起こし、人気の途絶えたところで彼女を気絶させ、連れ去った。その一部始終を見たサムトーは尾行を続け、一軒の家に入るのを確認した。事が起きてからでは遅いので、その家に入り込み、様子を窺うと、正に暴行する直前だった。驚いた男が殴り掛かってきたのを撃退し、拘束して警備隊員を呼んだ。そんな一部始終を丁寧に説明した。
「なるほど、良く分かった。つまり、サムトーさん、あなたは男を一人気絶させられるくらい、腕が立つと言うことですな。一体何者なのかな」
サムトーには想定された質問だった。当然の疑問だろう。返事はもちろんいつもと同じである。
「俺は旅の剣士でね。元々、それなりに腕が立つんですよ」
「ほう、隊商などの護衛をして、稼ぎを得るというあれかね」
「そうです」
「ほう。では、その腕はどこで磨いたのかな」
「カターニアです。そこの剣術道場で、子供の頃から手ほどきを受けておりました」
この辺の口実は、一人旅に出てから創作したものだ。さすがに逃亡中の奴隷剣闘士だと知られるわけにはいかない。逃亡奴隷は例外を除いて処刑されるのである。
余談だが、神聖帝国には絶対的な身分制度がある。王族、貴族、騎士、平民、奴隷といった身分が存在し、上の者に逆らうことは基本許されない。騎士以上の階級の者は、武芸を嗜みとして身に付けるよう教育される。だが、平民が剣の腕を鍛えるには、道場に通う以外にはない。武芸の腕で食べていくなら、そこから警備隊に入ったり、旅の剣士になったりするのである。ちなみに、このフルスタの町からカターニアまでは、歩けば二月はかかる距離がある。サムトーの身元確認のために、わざわざ人を派遣したりはしないだろうと、そういう予測もあっての口実であった。
実際、この初老の騎士も、それで納得したようだった。
「なるほど、強いのも納得した。ではこれでおしまいだ。長々と、調書の作成に付き合わせて悪かったな」
「いえ、こちらこそ、悪漢の捕縛をして頂き、感謝しております。これでアナベルも安心して帰れます」
サムトーが愛想よく返事をする。これ以上の追及を避けるためだったが、その必要もなく、初老の騎士は快く解放してくれた。
「では、気を付けて帰りなさい」
「はい。失礼致します」
サムトーは、アナベルを促して帰路についた。
それまで、事の成り行きを見守るだけだったアナベルが、ここでようやく我に返ったかのように、尋ねてきた。
「ねえ、サムトーさん。さっき警備隊本部で話してたことが本当なら、私、かなり危なかったのかな」
「そうだね。俺が来た時には、事に及ぶ寸前って感じだったよ」
恐怖心が後から込み上げてきたようだ。軽く身震いして、両腕を抱える。
それでいて、今度は羞恥心が湧いてきた。無事だったのはいいが、素肌を全身晒していて、サムトーもそれを見ていたのである。多感な年頃だけに、恐怖心を気恥ずかしさが上書きしたようだった。
「それで、ね、サムトーさん、見た、んですよ、ね」
「うん。危ないところだったよ」
「だから、それじゃなくて、私の、その、裸、です」
サムトーにもアナベルの羞恥心が伝わってきた。何を恥ずかしがっているのか、しばらく見当がつかなかったのだ。言われてみて、年頃の少女に対して、悪いことをしたなあと、改めて思った。
「ごめんな。悪気はなかったんだけど、目に入ってきたと言うか、どうしようもなかったというか。でも、すぐ毛布掛けたから。そんなに長くは見てないよ」
サムトーの弁明は当然なのだが、それはそれで、また引っかかるようだった。魅力がないと言われている感じがしたのだ。
「じゃあ、サムトーさんは、私の裸に興味なかったんですか」
本当に難しい年頃である。見られれば恥ずかしいから嫌だし、見てもらえないのもプライドに関わるという。
サムトーも困り果てて、一言だけ返事をした。
「いや、とてもきれいだったよ」
こんなので納得のいく答えになっているのだろうか。もちろん否である。今度は恥ずかしさが前に出てきた。
「やっぱりしっかり見てたんですね。やだ、恥ずかしい」
事件の直後だというのに、こんなやり取りである。サムトーもどう対応してもダメだと見切りをつけた。こういう時は、調子に乗るに限る。
「いいかい、アナベル。君はきれいだ。本当に美しかった。だから、今夜の嫌な出来事は、何かの悪い夢だったと思うんだ。実際、何事もなく、君はきれいな体のままだからね。家に帰って、ゆっくり休んで、また元気な姿を俺に見せてくれ」
精一杯格好をつけて、そんなことを言ってみる。すると、きれいだの美しいだのと持ち上げられて、アナベルの気分も上向きになった。珍しく空振りにならずに済んだようだった。
おかげでアナベルの意識も切り替わったようだった。思い起こせば、サムトーに礼を言っていない。危ういところを救ってもらって、礼の一つもないとは、何という恩知らずだろうかと、自分に呆れるほどだった。
「ありがとう、サムトーさん。そんな風に言って頂いてうれしいです。それから、危ないところを助けて頂き、本当にありがとうございました。お礼が遅くなってごめんなさい」
「ん、やっと普通に戻ったみたいだね」
「はい。ご心配をおかけしました」
「じゃあ、家に帰ろう。送っていくよ」
「はい。よろしくお願いします」
ハロルドの時と違って、送ってくれるのを素直に受け入れていた。何より救ってもらった恩義がある。裸を見たことも謝っている。警備隊でもしっかり話をしてくれた。本当に自分のために頑張ってくれた恩人なのだ。
アナベルは、サムトーに対する意識が変わったのを感じた。自分の料理を褒めてくれたし、貞操を守ってくれたし、今も優しく励ましてくれている。食事だけの報酬で、ここまで力を尽くしてくれたのだ。そう、他ならぬ自分のためにである。こんなに親切で強くて優しい人物に、アナベルはかつて出会ったことがなかった。
そう意識すると、隣を歩いているサムトーに、今までと違う感情が湧いて出てくる。頼りたくなるような、安心できるような、ずっと隣にいて欲しいような、そんな感覚だった。
「あ、あの、サムトーさん」
「あいよ」
「繰り返しになっちゃうけど、本当にありがとうございました」
「約束したからな。危害が及ばないようにするって」
「わ、私のためにここまでしてくれて、本当にうれしいです」
アナベルが頬を赤くした。自分を守るという約束を果たしてくれた、年上の少し格好いい男性。意識するなという方が難しい。
「手、つないでもいいですか。ちょっとまだ怖くて」
「そうだよな。分かった」
サムトーが手をつないでくれた。手の平は思っていたよりごつくて固い。さすがに旅の剣士として鍛えているだけのことはあった。素振りも速くて正確だったことを思い出す。これが剣士の手なのかと、改めて感心し、そしてサムトーの優しさに包まれる感じがした。
「アナベル、家の人に、ちゃんと事情を説明するんだよ。俺も料理長や女将さんに話しておくから」
そういうところもサムトーはしっかりしている。何せ、これだけ遅くなったのだから、心配して事情を知りたがるのも当然だろう。
「はい。分かりました」
二人が手をつないで夜道を歩く。大きな町でも特に街灯などはなく、通りの家から漏れてくる光と、月明り、星明りだけが頼りである。暗い空間の中で、互いの体温を感じながら、二人きりで歩くのは悪くないと、アナベルは思っていた。
歩くこと十数分、アナベルの家の前に着く。
「じゃあ、おやすみ。ゆっくり休むんだよ」
「はい。サムトーさん、おやすみなさい」
アナベルが家の中に入っていく。無事に務めを果たして、サムトーもようやく安堵の息をついた。
「料理長と女将さんも驚くだろうな」
そう思いながら、宿への道を一人戻っていった。
宿では、遅くなったサムトーを二人が待っていた。事件のあらましを聞いて、ひどく驚いていたのも、予想通りの出来事であった。
翌朝。例によって、サムトーは井戸端で剣の素振りをしていた。
しばらくして、アナベルが姿を現した。昨日、あんな大変なことがあったのに、しっかり仕事に出てきて立派なことだと、サムトーは思った。ただ、さすがに熟睡仕切れなかったようで、少し眠そうな感じだった。
「おはよう、アナベル。今日も頑張るね。立派だよ」
「おはようございます。サムトーさんこそ、日課を欠かさないのは、さすがですね」
アナベルは返事をすると、こちらも日課の水汲みをする。重い桶を下げ、厨房へと何往復もして水を運ぶ。
途中、サムトーが声を掛けた。
「なあ、アナベル。昨日はあんなことがあったけど、後をつけてくる奴があいつ一人とは限らないと思ってる。だから、本当なら今日旅に出るところなんだけど、あと三日ばかり確認をしておきたい。料理長や女将さんにはこれから話すつもりだけど、迷惑じゃなかったら、あと三日、帰り道、跡をつけてもいいか」
それを聞いて、アナベルがあっという顔をした。サムトーが旅の剣士だと知っていたはずなのに、ずっと宿にいるものだと錯覚していたのだ。今日いなくなるのが当然のところ、あと三日もいてくれるのは、最大限の配慮をしてくれたということだ。余分に時間を割いてまで、自分の安全を守ろうとしてくれることを、涙が出るほどうれしく思っていた。
突然涙を流したアナベルを見て、サムトーが慌てた。
「ごめん、嫌なら無理にとは言わないから」
涙を拭きながら、アナベルが本当の気持ちを答えた。
「いえ、そうじゃないんです。うれしいんです。ぜひお願いします」
「そっか。それなら良かった。じゃあ、後で少し詳しく話そう」
「はい。よろしくお願いします」
アナベルが頭を下げ、二人はそれぞれの作業に戻ったのだった。
「そりゃまた、ご親切に、ありがとうございます」
料理長のアルトンが頭を下げた。隣では妻で女将のセレナも同じように頭を下げている。
「でも、一旦事件は解決してるから、食事代はちゃんと払うよ」
サムトーがそう言った。ただ飯のために尾行の延長を提案したようで、心苦しさを感じていたからだ。お調子者ではあるが、こと金銭に関しては、やはりきっちりとするべきだと考えていた。
「そんな、うちのアナベルのために、タダで働いてもらうなんて、申し訳なさすぎますよ」
「では、半額でどうですか。これまでの宿代も含めて、銀貨二枚だけ頂くのではいかがですか」
女将のセレナの提案が現実的だと思われた。サムトーはそれで納得して、銀貨二枚を支払った。
「じゃあ、あと三日、よろしくお願いします」
こうして、アナベルの安全を確認するため、あと三日尾行を続けることになったのだった。
そこでサムトーは、朝食を頼みつつ、合わせてアナベルにも説明したいことを伝えた。二人が承知し、一旦それぞれの場所へと下がる。
やがて、朝食を持って、アナベルがやってきた。
「お待たせしました、サムトーさん」
「いつもありがとう。それじゃあ、いただきます」
今日も元気に腹が空いている。朝食がうまい。食べ始めてからしばらくして、サムトーが口を開く。
「それで、夜の件なんだけど。今話してもいい?」
「はい、もちろんです」
「今日から三日、他に後をつけてくる奴がいないか、確認を取ろうと思う。だから、アナベルは一人で帰ることになる。あんな事件の直後で怖いと思うけど、ちゃんと警戒しながら、俺も跡をつけるから安心してくれ」
他の尾行者がいる可能性は、かなり低いが零ではないのだ。旅を中断してまで、自分のために面倒を見てくれるのはとてもうれしい。こんなことを喜ぶのは不謹慎だが、アナベルはどうしても顔がにやけてしまうのだった。
「どしたの。何か、笑ってるみたいだけど」
「あ、いえ、サムトーさんの気持ちがうれしかったんです」
「そうか。そう言われると、しっかりやろうって気になるな」
サムトーからすると、怖い事件の後なのに、そんな風にこちらの気持ちを汲み取れることがすごいと思っていた。そして、他人の事まで気を配れるのは大したものだとも思った。
「でも無理しなくていいからな。帰り道の途中、怖くなったら、その場で止まってくれ。そしたら一人で帰れない合図だって分かるから、俺が一緒に行くようにするから」
これもサムトーなりの配慮で、むしろ一番重要な点だった。
「ありがとうございます。それなら怖くなっても大丈夫ですね」
アナベルが、そこまで考えていてくれたことをさらに喜び、一層の笑顔を浮かべたのだった。心底安心できる配慮だった。もし、まだ尾行者がいたとしても、何の心配もない。
そこで、アナベルが少し考えこんだ。三日間、夜の帰り道は安心だが、肝心のサムトーと交流する時間があるわけではない。せっかくだから一緒にいる時間を作りたい。それは切実な願望だった。
時間が作れるのは、朝食の片付けが終わってからの休憩時間と、昼食の片付け後、夕食の仕込みが始まるまでの、どちらも短い時間である。午前中は公衆浴場にも行きたい。昨日のように風呂の後の短い時間でも、話ができるとうれしいが、それはちょっと難しいだろう。午後の限られた時間だが、せめて町の名所にでも行ってみたい。もちろん二人きりで。
不意に考えこんだアナベルを見て、サムトーが少し心配そうになった。やはり恐怖心がまた湧いたのかと思ったのだ。
だが、口から出てきた言葉は、予想もしていないものだった。
「あのですね、午後、もし時間があるんでしたら、一緒に町一番の公園を見に行きませんか。大きな金木犀の木が何本かあって、とてもいい匂いがするんですよ」
そう言いながら、顔を少し赤くしてうつむいている。相当勇気を振り絞ったようだった。
せっかくの誘いである。サムトーに断る理由はない。しかし、この反応を見る限り、アナベルが好意を寄せてきたと見て間違いなさそうである。これはちょっと予想外だった。もうじき旅に出るのに、こんな真面目でかわいらしい少女の心を捉えてしまうとは、自分のことながら、罪作りなことだと思う。正直に問い返した。
「なあ、俺、もうすぐまた旅に戻るんだ。本当に、別れの決まった俺なんかと一緒に行きたいのか?」
ハロルドは一方通行だったが、まだ同じ町で暮らしていて、いつでも会える可能性がある。そういう相手の方がいいのではないかと思うのだ。
アナベルは、それでもぎゅっとエプロンを握りしめ、固い決意を思わせる口調で言った。
「だからこそです。私の人生を救ってくれた恩人に、少しでも何かお返ししたいんです。サムトーさんが、この町にいてくれる間にしかできないことですから」
何と健気な娘だろうか。その望みを叶えなければ、さすがに人として問題ありすぎだろう。
「分かった。せっかくのお誘いだ。一緒に行こう」
サムトーは改めて快諾を伝える。
メイベルがぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、昼食の片付けが終わったら、一緒に出掛けましょう。すみませんが、昼食の後、少し待ってもらえますか」
「ああ。そのくらい大丈夫だよ」
「ありがとうございます。では、私は仕事に戻りますね」
うれしそうにアナベルが厨房へと下がっていく。
「俺も罪な男だな。あんないい娘に惚れられるなんてな」
後ろ姿を見送りながら、サムトーがつぶやく。しかし、誰も突っ込みを入れてくれないので、かなり不毛だった。
「飯食おう」
サムトーは朝食の残りに手を付け、おいしそうに平らげたのだった。
約束の時間まで、サムトーは宿の食堂で待っていた。アナベルは気合を入れて片付けをしていて、料理長のアルトンが何事かと思ったほどだった。
「お待たせしました」
料理人の白衣を脱ぎ、普通の町娘の服装でアナベルが現れた。
「じゃあ、案内、よろしくな」
「はい、お任せ下さい」
そうして二人は町の公園へと出かけて行った。
「サムトーさんは、いろんな町でいろんな景色を見てきたんですよね」
「そうだね。春の花がきれいな場所もあったし、夏の緑が気持ちいい場所もあったな。それを言うと、旅の間、一人歩いていて、野原や森をのんびり眺めるのも悪くなかったな」
「この街の景色はどうですか。住んでる自分が言うのも、どうかと思いますけど、いい街並みだと思うんです」
「町ごとに良さってあるものだから、この町はこの町でいいと思うよ」
そんな会話をしながら、二人で歩いて行った。
宿から歩くこと二十分。目当ての公園は思ったより広かった。
秋の青空に、黄色の花で包まれた大きな木が三本、目に染みるような美しさだった。ほのかに良い匂いもする。なるほど、秋のこの時期、お勧めの場所なのは間違いない。見事な大木だった。
「いいね、こんなに小さな花でも、たくさん集まるといい匂いがするし、とてもきれいだ」
サムトーが感想を言うと、アナベルがうれしそうな表情を浮かべた。
時折、花が上から落ちてくる。それが幾度も繰り返され、足元が金の絨毯を敷いたようになっていた。
この花が目当ての人々も公園に来ていて、美しい光景を目に焼き付けるようにのんびりと眺めていた。その客を目当てに、食べ物の露店が三つ開かれていたほどだった。さすがは町の名所である。
「ドーナツでも食べようか」
買い食いの好きなサムトーは、昼食を食べてさほど経っていないのに、そんなことを言い出した。アナベルが半ば呆れ、半ばうれしそうに答えた。
「悪くないですね。ちょっと早いけど、おやつにしますか」
「お、賛成してくれてありがと。じゃあ買おう」
二人は露店に並び、ドーナツを一つずつ買った。公園にいくつも設置してある長椅子の一つに腰掛け、大木を眺めながら食べる。
「きれいな景色を見ながらだと、間食もよりおいしく感じるな」
「そうですね。ありふれたドーナツが、ご馳走みたいです」
「今日は誘ってくれてありがとな。二人でのんびり景色眺めて、おやつ食べて、話をして、おかげで楽しい時間になったよ」
その言葉を聞いて、アナベルがうれしそうな表情を浮かべた。思いを寄せた人が、自分と一緒にいることを楽しんでくれている。こうやって寄り添える時間が貴重だった。結構いい感じの仲になれたのも良かったと思う。
隣を見ると、おいしそうにドーナツを食べている横顔が目に入った。美形と言えないまでも、鍛えられた精神と肉体を持つ、精悍な男の人の顔がそこにあった。改めて見て、十分に格好いい顔だと思った。
「ん、どしたの。何かついてる?」
じっと眺め過ぎただろうか。定番の返答が来た。アナベルは軽く笑うと、これまた定番の返しをした。
「うん。目が二つに、鼻が一つに、口が一つ」
「お、やるねえ。良い切り返しだなあ」
「ありがとう。うん、ちょっと格好いいなって見とれてた」
そこまで言って、アナベルの顔が真っ赤に染まる。そうなると分かっていても、自分の気持ちを正直に伝えたかったのだ。
言われたサムトーの方は、いじらしくもかわいらしいアナベルの姿に、気持ちが揺らいでいた。かなり年下だが、いい娘でもあるし、好意を寄せられていることにも気付いているので、無関心ではいられなかった。大抵の若い男なら、ぐらつくのも当然なくらいだ。
「ふ、格好良すぎるのも、罪なことだな」
こういう時は、調子に乗るに限る。手を額に当てて、目を閉じ、いかにも格好をつけてます、みたいなポーズで、サムトーはつぶやいた。
アナベルがぷっと吹き出す。今回は滑らなかったようだ。
「ほんとに罪作りですよ。仕方のない人です」
急に真剣になって、正面から言ってきた。
「でも、そういう面白いところも、私好きですよ」
冗談に対して返した言葉だが、明らかに本音が入っている。これはこちらも誠意をもって返すべきだろう。サムトーも真剣に答えた。
「ありがとう。俺も、頑張り屋のアナベルは好きだな」
聞いた瞬間、アナベルが急に身を乗り出してきた。
「ほんと? 本当に私のこと、好き?」
「もちろん。こんな事で嘘ついても始まらないしな」
「うん、ありがとう。私がサムトーさんを好きなのも、本当なの。料理の味を見てくれて、危ないところを助けてくれて、私のためにいろいろ頑張ってくれて、どれもすごくうれしかった。優しくて、強くて、格好良くて、まだ会って三日しか経ってないけど、気が付いたら好きになってたの」
真剣な告白だった。精一杯、自分の気持ちを話してくれた。とてもありがたいことだとサムトーは思う。だが、これをハロルドが聞いたら、嫉妬で大激怒しそうだなと、余計な感想を抱いたことは内緒だ。
「悪いな。あと二日で旅に出るような奴で」
好きだと言われても、同じ場所に居続けるわけにはいかない。ここの騎士は一度誤魔化せたが、長く滞在しては、本気で素性を詮索される危険が出てくる。命が懸かっている以上、どうしても旅に戻る必要があった。
「いいんです。それは承知しています。いえ、サムトーさんが旅をしてたおかげで、こうして出会えたんですから、良かったのかもしれません」
「分かった。あと三日、一緒にいる間は、アナベルのこと大事にするよ。それしか、その気持ちにお返しできないしな。……というかまあ、アナベルも思い込んだら一直線だな。そこがいいところでもあるんだけどさ。何はともあれ、あと三日、よろしく」
サムトーが手を差し出す。アナベルは精一杯の笑顔でそれに答えた。
「うん、ありがとう。こちらこそ、よろしく」
二人は固く握手を交わした。
それから二日間、昼の間は、時間のある時に話をしたり、アナベルの仕上げた食事を食べたりと、平穏だが心温まる時間が続いた。夜はサムトーがきちんとアナベルを尾行して、安全を確保していた。さすがに跡をつけてくるのは前回の不審人物だけだったようで、帰り道に異変は起こらなかった。
そこで勘の良さを発揮したのが、女将のセレナだった。彼女はサムトーとアナベルの仲が変化したことを敏感に感じ取っていた。まあ、アナベルの視線を見れば、嫌でも分かるというものである。とは言え、料理長のアルトンは全く気付かなかったのだが。
二日目の夜、セレナは、アナベルが帰る前に呼び止めた。
「サムトーさんがうちにいるのも、あと一日だけになったわね」
それはとても寂しいことだったが、仕方のないことでもあった。その気持ちを表情に出しつつも、努めて明るくアナベルは答えた。
「そうですね。本当にサムトーさんにはお世話になりました」
「それだけじゃないでしょ。私、アナベルの気持ち、分かってるから」
「え、そ、そうなんですか?」
「好きになる気持ちって、相手が誰でも、別れが目の前でも、関係のないものよ。私も、相手がアルトンだったから、好きになったわけだしね」
すでに二児の母だが、若い娘の気持ちは失っていないのだろう。アナベルの背中を押してくる。
「だからね、明日一日、お休みしなさいな。それで、最後の一日、サムトーさんと一緒に過ごすといいわ」
「え、でも、そんなこと、いいんですか」
「いいのいいの。ここでデートでもしておかないと、絶対後悔するから。一生の思い出になるくらい、楽しんでいらっしゃい」
そう言うと、セレナはアナベルを連れて厨房に行き、明日一日休みを取らせることをアルトンに伝えた。ついでに、サムトーと一日過ごすよう勧めたことも。
アルトンはいくつもの意味で驚いたが、こういった機微に関しては妻の方が細やかなのを知っている。そういうことならと、むしろ積極的に賛成してくれた。
そうなると、後はサムトー本人次第である。
そのサムトーは、約束通り、この日もアナベルの帰り道、跡をつけて安全を確認していた。
そしてアナベルが、家の前で止まった。サムトーがどこにいるのかは分からないが、手を振って呼んでみる。
手を振ってきたからには、何かがあったのだろうと、サムトーが姿を現した。小走りに駆け寄っていく。
「どうした、何かあったか」
特に怪しい気配もなく、尾行者もいなかったことは確認済みである。一体何事だろうかと思いつつ、サムトーが尋ねる。
「あのですね、明日一日、お時間頂けませんか」
「明日? 構わないけど。どうしたの、急に」
不思議がるサムトーに、アナベルが事情を話した。
「女将さんが、明日でサムトーさんがいるのも最後になるからって、一緒に過ごせるようにお休みをくれたんです。ここでデートでもしておかないと、絶対後悔するって言われて。私も、ああそうだなって思って。どうか、一緒に出かけてくれませんか」
なるほど、そんなことがあったのか。サムトーは女将さんの見立ての見事さに感心した。どの道、夜の尾行以外は暇である。むしろ、ありがたいお誘いであった。
「よろこんで。誘ってくれてうれしいよ」
率直に返答すると、アナベルはぱっと表情を明るくした。
「ありがとう。うれしいです。じゃあ、明日、宿に迎えに行きますね」
「ああ。楽しく出かけような」
「では、また明日。おやすみなさい」
「おやすみ、アナベル」
アナベルが家の中に入ると、サムトーもまた宿へと戻る。
「粋な計らいだねえ。女将さんに感謝だな」
そんなことを思いながら、宿への道を歩いて行った。
翌日、サムトーは、日課をこなし、朝食を済ませると、出かける支度をして食堂でアナベルを待っていた。
すると、白いブラウスに浅黄色のカーディガン、膝までのふわりとしたスカートという、いつになくかわいらしい服装をしたアナベルが姿を現した。相当気合を入れて服を合わせてきたらしい。
「お待たせしました」
支度に手間取って走ってきたのか、少し息が上がっている。そんな生真面目なところがかわいらしい。
「今日はいつにも増してかわいいな。その服、良く似合ってる」
まずは服装を褒めたものだろう。サムトーが正直に言うと、装うための努力が実って、アナベルが喜んでいた。料理長と女将も出てきて、二人の外出を応援していた。
「それでは、料理長、女将さん、行ってきます」
アナベルはうれしそうに言って、サムトーの手を引いた。サムトーも軽く笑顔を浮かべて、引かれるままに宿を出る。
「いってらっしゃい。楽しい時間を過ごしておいで」
二人に見送られて、楽しそうに出かけていく。
まだ商店は開いていない時間だった。
まずは、この前と違う公園へと足を運ぶ。芸術家として名を上げた者が、塑像などを飾っている場所だった。女性像や男性像など写実的な作品の他にも、希望や幸福といった抽象的な作品も飾られていた。
芸術作品には全く縁のなかったサムトーである。もちろん、どこがいいかも分からない。それでも、作者が何かを伝えようと、努力して造形したことだけは伝わってきた。それだけでも、見事な作品だと思える。
「これが希望を形にしたものだって言われても、分かるような分からないような、不思議な感じだな。でも、何となく、希望をもちたくなるような、そんな形をしてるな」
サムトーが正直に答える。片やアナベルの方も似たり寄ったりで、芸術に造詣があるでもなく、頑張って作ってあるんだな、程度であった。
「そうですね。何となく、気分の良くなる形ですよね」
そう答えるのが精々だった。
互いにそんな感想だったから、思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
それが写実的な作品になると、細かい所まで良くできてるな、となる。男性像を見て、サムトーが腕の形などを自分の腕と見比べていたほどだ。
「こういうのだと良く分かるな。本物そっくりに作るのに、すごく苦労したんだと思う」
「そうですね。きっと料理と一緒で、たくさん研究したり練習したりしたんだと思います」
「なるほど。芸術の道にも、相応の苦労があるんだな、きっと」
そうやって塑像をのんびりと見て回った。アナベルは上機嫌で、二人きりで同じものを見て楽しむという行為に、喜びを感じているようだった。ずっとニコニコと笑顔で、見ているサムトーまでうれしくなるような表情をしていた。
公園でかなりの時間を使った後は、定番の商店巡りに行った。アナベルも料理の修業で忙しく、あまり商品などを見ない生活をしていたので、久しぶりに見て回れることを喜んでいた。
雑貨屋で小物をいろいろと見てみる。清潔さ重視で、余計な物を身に付けたり持ち歩いたりしない、料理人稼業である。サムトーが、アクセサリーを合わせては、良く似合う、かわいいよ、などと褒めてくれた。しかし、だからと言って、買おうという気は起きないのであった。修行の邪魔なのだろうと思い、サムトーも無理に買ってやろうとはしなかった。
代わりに、道具屋では目の色を変えた。やはり調理器具の上級の物に、羨望の眼差しを向けていた。
「すごい、いいお鍋。頑丈だし、口回りの広さも底までの深さも、すごくいい。あ、この包丁、すごく切れるやつ。鋳造じゃなくて、手で打った逸品なんだ。すうっと切れるんだろうなあ」
たかが鍋や包丁に、金貨一枚したりする。金貨一枚は銀貨二十枚に相当するから、宿屋で二十泊できる計算だ。とても高価なのが分かる。
「まだ私じゃ、こんな立派な道具は使いこなせないけど、将来一人前になったら、使ってみたいなあ」
アナベルがそんなことを言う。現実的な夢だが、それはそれでかわいらしいとサムトーは思った。
「でも、結局は使い慣れるのが一番なんです。自分の身の丈に合った、使いやすい道具を使いこなすのが、上達への早道ですから。例えば、この辺の道具とか」
そう言って、中程度の商品を指す。なるほど、それも良く分かる話だ。剣士だって、斬れる剣を持てば強くなれるわけではない。日々の鍛錬と、武器の相性が大事である。
「やっぱり、アナベルといると、楽しいな。道具の目利きしてる姿が、とても楽しそうで、見てるだけでもかわいい」
サムトーの言葉は本気だと分かった。さすがにこれは恥ずかしかったようだ。真剣に見入っていたのを褒められて、顔を真っ赤に染めた。うつむきながら、何とか返事をする。
「そ、そうですか。ありがとうございます」
「いやなに。本当の事だからな。うん、かわいいよ」
そこで調子に乗って追撃してくるのがサムトーだ。さすがに耐え切れず、アナベルが悲鳴のような文句を言った。
「もう、サムトーさんの、女ったらしー!」
アナベルがポカポカと叩いてくる。サムトーが笑ってそれをいなした。
「はは、ごめんな。でも、本当だよ。俺、こういうの嘘つけないから」
「ふう、もう。そんなに言われたら、恥ずかしいよ」
「悪い悪い。さて、そろそろ昼飯行こうか」
「そうですね。そろそろいい時間ですね」
アナベルもそう答えて、矛を収めた。
今度は二人で料理店を巡る。
「あ、ここにしましょう。メニューは基本的な料理ばかりだけど、料理人の腕前のおかげで、おいしいって評判なんです」
アナベルの勧めで、一軒の料理屋に入る。ハンバーグにオムレツ、ソテー類など、確かに基本メニューばかりである。二人はその中から、ソーセージとポークのソテーに、サラダ、スープ、パンのセットを頼んだ。
「それじゃ、いただきます」
サラダから順に、提供された料理を味わっていく。なるほど、評判がいいだけあって、作りも丁寧だし、味もしっかりとうまい。ソーセージは自家製のようで、しっかりとした歯ごたえと旨味のバランスが絶妙だった。ポークソテーも、一手間かけて下味をつけているらしく、旨味がうまく引き出されていた。
「なるほど、アナベルが勧めるだけのことはあるな」
「そうなの。話には聞いていたけど、下ごしらえからきちんと丁寧に作ってあるのが分かるから、すごく勉強になったわ。来て良かった」
こんな時でも料理の修行を忘れない。さすがだと思う。
「それに、サムトーさんと一緒に食事できてうれしい。今まで、ずっと別々だったから」
言われてみればそうだ。いつもアナベルは厨房で賄いを食べていたのだ。
「そうだな。一緒に食べてると、余計においしく感じるな」
「うん。私もそんな気がする」
二人で笑顔を向けあい、和やかに食事は進んだ。
食事の支払いはもちろんサムトー持ちである。店を出て、また町巡りを再開する。
いくつもの店で、いろいろな商品を眺めた。それだけでも十分に楽しかったのだが、サムトーがここで一つ提案をした。
「せっかくだから、何か記念に買わないか」
午前中とは別の雑貨屋に入る。あっても邪魔にならない物ということで、サムトーも頭を絞って考えた。
「これならどうだい。髪を結わく紐。いくつあっても問題ないだろ」
サムトーに勧められて、アナベルもうなずいた。確かに邪魔になる物でもないし、いくつあっても困らない。
「うん。ありがとう。うれしい」
アナベルにしてみれば、生れて初めてのデートである。その相手から記念の品を貰えるのは、とてもうれしいことであった。
そして、またもケーキ屋で間食した。アナベルは仕事で忙しく、休憩の時も焼き菓子が精々だから、ケーキは中々食べる機会がない。前回と同様、とても喜んでいた。
ケーキとお茶を楽しみながら、アナベルが感想を話した。
「デートって、こんなにいいものだとは思わなかったの。サムトーさんが一緒だからっていうのもあるけど、何をしててもすごく楽しい。本当にありがとう、サムトーさん」
「喜んでもらえて、俺もうれしいよ。何より、一緒に楽しんでくれる相手がいるっていうのがいいな。俺もすごく楽しい。ありがとう、アナベル」
二人の気持ちがきれいに重なった。互いに楽しいと思える時間を過ごし、相手の大切さを実感することができたのだった。
夜になって、サムトーは最後の尾行をした。この日もまた、跡をつけてくるような不審な人物はいなかった。これで役割を果たしたと、サムトーも安堵の息をついて、アナベルの自宅の前で合流した。
「この三日、全く異常なしだ。この先、新たに不審な奴が出てくるかもしれないが、帰り道、人通りのある所を選ぶとか、工夫すれば大丈夫だろう」
そう告げると、アナベルはほっとして、そのままサムトーに抱き着いてきた。誰も見ていないので、思いを伝える行動をしたのだった。
「ありがとう、サムトーさん。何度も言ってるけど、サムトーさんに会えて本当に良かった。誰か一人をこんなに大事に思えるって、とてもうれしいことだって分かって良かった。明日、最後にまた会えるけど、こんな事ができるのも、今日が最後だから」
純真な少女の思いを正面から受け止め、サムトーも優しく抱き返した。
「そんな風に言ってくれて、俺もうれしい。旅に出てからも、アナベルと一緒に過ごして日々は忘れない。楽しい思い出をありがとう」
優しく言われて、アナベルが涙を流した。サムトーの胸に顔をうずめ、その体温を感じながら、しばらく泣き続けていた。
やがて、アナベルが名残惜しそうに体を離した。
「うん、もう大丈夫。ありがとう。また明日ね」
「ああ。また明日」
アナベルが軽く笑顔を浮かべて、家へと入っていった。
サムトーはそれを見送ると、宿への道を一人戻っていった。
翌朝、日課の素振りをしていると、いつもと同じようにアナベルが水汲みにやってきた。
「おはようございます、サムトーさん」
「おはよう、アナベル」
サムトーは素振りを、アナベルは水汲みを続ける。視線を交わし合い、笑顔を向けあう。
最後の朝食も、仕上げはアナベルが行った。この数日、サムトーに何度も食事を作ったことで、料理の技術も、作る時の気配りといった内面的な部分も、大きく成長していた。
それはサムトーも感じていたことだった。
「アナベル、ちょっと腕が上がったみたいだね。日に日においしくなってる気がするよ」
アナベルが微笑みを浮かべた。
「そうでしょ。大切な人においしい物を作るためだからだよ」
「それは、きっと料理の奥義だな」
「そうだね。だから、私、もっと上達する。絶対に」
明るい表情で前進を宣言する姿は、とてもまぶしかった。きっと一人前の料理人になることだろう。
朝食を終え、部屋で支度を済ませて外に出る。
料理長と女将、そしてアナベルが見送ってくれた。
「今回は、本当にお世話になりました。またいつでもいらして下さい」
「こちらこそ、おいしい食事をありがとう」
「サムトーさん、これからも良き旅を」
「ああ。じゃあ、いってきます」
本当に偶然の出会いだった。とても楽しい時間だった。その思いを胸に抱いて、菊水亭の人達に大きく手を振って、別れを告げる。
そうして、また見知らぬ町へと、サムトーは旅立ったのだった。
──続く。
今回は修行中の料理人。いわゆるストーカー事件なわけですが、意外な展開になっているので、その辺はお読み頂ければと思います。相変わらず、まったりした展開で、性加害問題は発生しますが、無事に落着するのがサムトーらしいところです。テーマとして、おいしい食事を作ることや取ることの良さが出るように描きました。そんなところをお楽しみ頂ければ幸いです。