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序章Ⅸ~居場所をなくした少女~

 転んだ少女を助けたら

 怯えた態度が気になった

 宿の女将に嫌われて

 それでも働く健気な娘

 叱責ばかりの日々を捨て

 居場所求めて旅に出る 

 のんびり旅行くお調子者の

 我らがサムトー、今日も行く

 時に神聖帝国歴五九七年四月十日。

 短剣とポーチを腰に付け。やや長身の背には長剣と荷物。春の風が茶色のざんばら髪を揺らす。のんびり一人街道を歩いていた。

 彼の名はサムトー。旅の剣士である。

 広大な神聖帝国の領内で、あてもない旅を続けていた。

 景色に畑の占める割合が増え、民家も所々に見られるようになった。

 小さな集落をいくつか過ぎると、やがて町の中心である市街地が見えてきた。フリントというこの町は人口一万人程度、中規模の町だった。

 街を貫く街道から離れ、商店街のある通りへと出る。今夜の宿を物色するためだ。買い物客でそこそこに賑わう通りを一人行く。

 こういう時、かなりの高確率でトラブルに巻き込まれるサムトーだが、今回は勝手が違った。少し先で、女の子が一人転んだのを見かけたのだ。

 サムトーは駆け寄って、女の子を助け起こした。肩より少し長い栗色の髪を一つ結わえにした、十代前半と思われる少女だった。

「大丈夫か。って、少しケガしてるな」

 膝頭に血がわずかににじみ出ている。

「ちょっと痛いけど我慢しなよ」

 水筒でタオルを濡らし、膝をふき取る。ポーチから傷薬を取り出し、薄く膝に塗り込める。薬が染みたらしく、少女が少し顔をしかめた。

「それより、荷物は」

 少女が手に持っていた布袋の中身を改める。紙袋に入った調味料の類がいくつか入っていた。どうやら無事のようだった。

「よかった。これなら怒られないで済みそう」

 自分のケガより荷物が優先とは。よほど叱責を恐れていたのだろう。安堵の仕方が大げさに見えるほどだった。

「あ、ごめんなさい。手当までしてもらったのに、お礼も言わず、失礼をしました。本当にありがとうございました」

「いえいえ、どういたしまして」

 話ができたついでに、この少女に聞いてみた。

「ところで、旅の途中で宿を探してるんだけど、どこかいい宿知らない?」

 すると微妙な反応が返ってきた。

「うちは宿屋です。睡蓮亭といいます。いい宿……だと思います」

 勧めるのに自信がないのは、さっき叱責を恐れていたのと関係があるのだろう。十代前半の少女に厳しく当たっているのは、人としてあまり褒められたことではないだろう。泊り客には親切かもしれないが、勧めかねるのはそんな理由ではないかと思った。

 だからこそ、その理由が何なのか知りたくなるのがサムトーだった。相変わらず野次馬根性旺盛である。

「丁度いいや。じゃあ、案内して」

 一人旅を始めて、最初に泊まった宿屋の女将さんの娘さんが、丁度この年頃だったなと、まだ半年経っていないが、懐かしく思い出した。あの娘さんは、自分の両親と仕事に誇りをもっていたが、この少女はどうやら違うようだ。その違いも知りたかった。

「分かりました。一緒に行きましょう」

 そうして二人でしばらく歩く。いくつかの道を曲がって進むと、やがて目的地の睡蓮亭に着いた。

 中に入ると、それほど大きな声ではなかったが、いきなり叱責の声が出迎えた。

「リーシア、表から入ってくるんじゃないよ。ちゃんと裏に回りな」

 四十代半ばと思われる金髪の女性だった。この宿の女将らしい。

「ご、ごめんなさい。すぐ裏に回ります」

 リーシアと呼ばれた少女が踵を返し、宿を出ていく。サムトーは一人残されてしまった。

 それに気付いた女将が、急に愛想を思い出したように取り繕った。

「いやだ、ごめんなさいね。お客さんがいると気付かないで。失礼したね、剣士の兄さん。酒かい? 泊りかい?」

 こりゃいい宿かどうか、微妙に歯切れが悪くなるわけだ。そんな思いを顔には出さず、しれっと答える。

「一人一泊頼むな」

「あいよ。記帳よろしく」

 サムトーは宿帳にサインすると、一泊二食付きで銀貨一枚支払う。

「洗濯できるかい?」

「ああ。裏の井戸を使っておくれ」

 鍵を受け取り、二階の部屋へ荷物を置きに行く。どこの街でも、宿屋は一階が居酒屋になっていることが多く、泊りは二階から上の部屋だった。

 そして先程のタオルも含め、着替えを一式洗った。

「それにしても、出入り一つで、やけに厳しくないか」

 洗いながらそんなことを考えていると、先程の少女が姿を現した。手に水汲み桶を持っている。厨房に運ぶのだろう。

「リーシアちゃん、だよね。俺はサムトー、旅の剣士だ。一泊世話になるから、よろしくな」

「は、はい。よろしくお願いします」

「ついでだから俺がやろうか?」

 十代前半の少女に水桶は重かろうと申し出たのだが、リーシアはかぶりを振った。

「いえ、お客さんに手伝わせたって、また怒られてしまいますので」

 そう言って井戸から水を汲み、水桶へと入れる。それを持って厨房の出入り口へと、ちょっとふらつきながら歩いていく。厨房の水瓶に入れて、また水を汲みにやってきた。

「大変そうだな。手伝えないけど、応援するよ。頑張れ」

 洗い終わった服を絞りながら、サムトーが言った。

「あ、ありがとうございます」

 仕事に必死で、受け答えもきつい様子だった。サムトーはそっとその場を離れ、自分の部屋に向かった。

 洗濯物を宿の部屋に干しておく。明日の朝には乾くはずだ。

 今度は風呂だ。女将に一声かけて、公衆浴場へと向かった。


 サムトーは、元奴隷剣闘士である。

 十才までは養護施設で育ったが、ある日人買いにさらわれ、奴隷剣闘士を抱える親方に売り飛ばされたのだった。以後八年間、奴隷剣闘士として過酷な環境を生き延びてきた。

 昨年、神聖帝国歴五九六年五月、百名ほどの仲間と共に反乱を起こした。半数ほどの仲間が逃亡に成功し、そのうちの一人がサムトーだった。逃亡奴隷は例外を除いて処刑される。生きるためには、とにかく逃げ続ける必要があった。

 逃亡直後、山中を逃げている時に猟師達に救われ、三月ほど彼らの村で暮らした。その後、素性を知られる危険を避け、旅芸人の一座に身を寄せる。ここでも三月ほど同行したが、事件をきっかけに素性が明らかとなりそうになったため、一人旅を始めた。

 十二月、北にある城塞都市グロスターで、事件に自ら首を突っ込み、その解決のために奔走。結局、新年祭までその街の雑貨屋で世話になった。二月には町中から疎外されていた少女を助け、二週間ほど旅の相棒にしていた。三月の上旬は伯爵令嬢の手助けをした。中旬は親友となった女騎士と楽しく過ごし、下旬には自分に悩む侯爵家の侍女を救った。

 そして今、フリントの町の公衆浴場にいる。


 今回は、おじちゃんなんで傷だらけなの、と小さい子に言われずに済んだ。周囲の視線にはちょっと好奇心があったようだが。

 睡蓮亭に戻ると、エールを一杯頼んだ。風呂上がりの一杯は格別である。

 今度は給仕に回ったリーシアが、サムトーのエールを運んできた。失敗を恐れてどこかぎこちない。堂々としていた方が失敗はしないものだが……と思っていたら案の定、バランスを崩しかけた。

 サムトーが手を伸ばして、リーシアとエールを押さえた。手助けも叱責の材料になるだろうから、それには触れず、単に礼を言った。

「ありがとね、リーシアちゃん」

 軽くエールをあおって、大きく一息つく。

「女将さん、ちょっとリーシアちゃん借りていい?」

 大声でそう呼ばわった。女将はいい顔をしなかったが、短い時間ならと許可をくれた。

「ちょっと話をしたいんだけど、いいかな」

 極力穏やかにサムトーは言った。女将の声が聞こえたのだろう。少しならという返事があった。

「宿の仕事は大変かい?」

「……そうですね。失敗が多いものだから、いつも怒られてばかりです」

「失敗が多いのは、多分気持ちが縮こまってるせいだと思うんだよな。気持ちが固くなっちゃう理由、何か心当たりない?」

 リーシアが身を固くした。よほど言いにくい事柄のようだった。裏を返せば、サムトーの推測が当たっていたことになる。

 しばらくして、ちょっとずれた回答があった。

「身寄りのなくなった私を引き取って、面倒を見てもらっているんです。そのご恩をお返ししようと、頑張っているのですけど……」

 その返答でおおよその事情が垣間見られた。何かの理由でリーシアの両親が亡くなり、この宿に引き取られたのだろう。十代前半なら、見習いとして働き始めてもおかしくない年だ。ちょうどいい働き手だと仕事させたのはいいが、慣れない環境に慣れない仕事で失敗が多いのだろう。後は、叱責すればするほど失敗が増えるという、負の連鎖が起きたに違いなかった。

「分かった。言いにくいこと言わせてごめんな」

「いえ、謝って頂くようなことでは……」

「最後に一つだけ。難しいと思うけど、緊張しないで肩の力を抜いて、なるべく落ち着いて。それで少しは失敗が減るから」

「は、はい。分かりました」

「じゃあ、夕食とエールのお代わり頼むな」

 そう言って、サムトーはリーシアに頼んだ。リーシアは一礼すると厨房へと戻っていく。残りのエールを飲み干して、サムトーはどうしたものかと少し考えてみた。

 一番いいのは、女将が思い直して、育てる目線でリーシアに接することだろう。リーシアも、叱責が激減し、逆にうまくできたら褒められるという経験を積むことで、段々と仕事も上手にこなせるようになるはずだ。しかし、部外者にそう言われて、すぐに直るようなら現在の状況にはなっていない。

 次にリーシア自身の失敗が減れば、叱責が減らせるはずである。しかし、叱責と失敗の悪循環を、よほどの覚悟で乗り越えなければ、のびのびと仕事はできない。あまりにも難しすぎる。

 そんなことを考えている間に、夕食とエールが届いた。運んできたリーシアは、先程のアドバイスをよく聞いて、気持ちを落ち着かせて運んできたようだった。

「上手に運べたね。ありがとう」

 自分のことのように、うれしそうにサムトーは言った。

「こちらこそ、ありがとうございます」

 固かった表情が少しだけ和らいでいた。ほとんど褒められることのないリーシアは、たったこれだけでも十分に安堵していたのだ。褒めて伸ばすという正の循環に変えるだけで、彼女も相当伸びるに違いなかった。

「もったいないなあ」

 夕食を頬張りながら、サムトーはそう思った。良い娘だと思うが、このままでは潰れてしまうだろう。何とか助けてやりたいが、自分はただの通りすがり、口を出すのもおかしな立場である。

 そんなことを考えながら食事を取っていると、急に向こうのテーブルが騒がしくなった。

「何だと、もう一回言ってみろ!」

「そっちこそ、余計なお世話だって言ってんだ!」

 酔った勢いでか、まだ若い男が二人立ち上がると、胸ぐらを掴み合っていた。殴り合いになるのも時間の問題だろう。

 珍しくサムトーがイライラしていた。考え事の邪魔に感じたからだ。

 立ち上がると、その男二人の元へ歩み寄る。そして、声を低め、本気で脅しをかけた。

「うるせえぞ。静かにできないなら、俺が二人共叩きのめす」

 だが、そういう脅しを聞かないのが酔っ払いである。

「何だてめえ、邪魔すんな」

「てめえには関係ねえだろ」

 矛先が完全にサムトーに移った。うっとうしさを感じて、サムトーがさらに不機嫌になる。

「分かった。表に出な」

 そう言い捨てると、サムトーは先に宿の外に出た。男達二人が後に続く。

「サービスだ。先に殴ってきていいぞ」

 サムトーが思い切り挑発する。ここまで言われては、男二人も引っ込みはつかない。力任せに拳を振るってきた。

 サムトーには見切るのも簡単だった。軽くかわすと、順に男達のわき腹を鋭い拳で打ち抜いた。気絶させると面倒なので、わざと急所を外していた。男二人が傷みに悶絶し、地に膝を着いた。

「大人しくする気になったか」

 拳を空振りさせられた上に、一撃でこれだけの痛みを受けては、抵抗する気も失せたようだった。二人の男は痛みをこらえながら、しきりにうなずいていた。

「じゃあ、勘定払って、今日は家に帰んな。少し頭でも冷やしてこい」

「わ、分かった」

 男達は傷む腹をさすりながら店に戻り、荷物を取って勘定を払うと、そそくさと家路についた。

 サムトーが店に戻ろうとすると、店の前には、野次馬の見物人が大勢並んでいた。客だけでなく、女将もリーシアも、厨房の者達までいたのだった。

「ひょお、兄ちゃん強いねえ」

「いやあ、すごいもん見せてもらったよ」

 口々に言いながら店の中へと戻る。サムトーはやりすぎたかと、頭をかいた。頭を冷やす必要があったのは、自分も同じだったようだ。

「ありがとね。おかげで店の物、壊されずにすんだよ」

 戻って最初の一声がこれだった。女将が破顔している。

 もしかして、丁度いいきっかけではなかろうか。サムトーはそう思い、率直に聞いてみた。

「そいつは良かった。……ところで、リーシアの件なんだけど、何であんなに冷たく当たるんだ?」

 機嫌の良かった顔が、一気に冷たくなった。あんな娘のことは、考えるのも口に出すのも嫌だという風情だった。

「あれはね、両親を病気で亡くしたのが五か月ほど前なんだけどさ、両親の兄弟も祖父母も、みんな所在が分からないときたもんだ。それで同じ街にいた旦那があれの父親の従兄だったから、仕方なくうちで引き取ったんだよ」

「そっか。女将さんたちも親切心で引き取ったんだな」

 事情は分かった。こういう場合、まずは相手を持ち上げた方が、続きの話が聞きやすい。サムトーもその程度の小技は使う。

 女将の機嫌が多少戻り、聞いて欲しそうに話を続けた。

「それが愛想のない子でね。いつも固い表情で、分かりました、とか言うんだけどさ。受け答えも歯切れ悪いし、仕事させても失敗は多いし、こっちも大弱りさ」

「女将さんも苦労してるんだな」

「ああ、そうさ。ただ一人、あれの母親の妹が、ここから五日ほど行った先にある、スニフトって町に住んでるってことが分かってね。引き取りに来て欲しいって手紙出したんだけど、遠くて行くのは難しいとかいう返事でさ。仕方ないから、ずっとうちで面倒見てるのさ」

 たまに愚痴をこぼすと気が楽になるものだ。女将の口も軽くなっていた。

「遠くて行くのは難しいって返事が来たってことは、リーシアを引き取ってもいいと、向こうは思ってるのかな?」

「大事な姉の娘さんだから、引き取りたいのは山々だけど、とか書いてあったね、確か」

「女将さんは、今でもリーシアをその家に引き取って欲しいのかな?」

「できることならね。けど一人じゃ行けないだろうし、送り届けるのはうちだって無理さ。困ったもんだよ、全く」

 なるほど。本当に邪魔者扱いしていることが良く分かった。これでは苛立ちを常にぶつけているのも、納得はできないが、あり得る話だと思った。一度気に食わないと思い込むと、人間そこから離れるのは難しい。今後も女将は、リーシアをずっと憎らしく思いながら過ごしていくことになる。叱責が収まることは、まずないと思って良さそうだった。

「俺が連れて行ってもいいぞ。どうせあてのない旅人だし」

 初対面でここまで言うのはどうかと思わないでもないが、困っている人には手を差し伸べたくなる性分だった。これまでも散々似たようなことをしてきている。

「本当かい? そりゃうちとしては大助かりだよ」

「もちろん。……と言いたいとこだが、リーシア本人の気持ちを確かめてからだな。女将さんが聞くと『こんなに面倒見てやったのに、出ていきたいとか、この恩知らず!』って話になるだろうから、俺が連れて行くことになるんだし、俺が話を聞くよ。仕事が一段落着いたら、俺の部屋にリーシアをよこしてくれ。あと、エール代と話の対価だ」

 サムトーは銀貨一枚を取り出して、女将に渡した。

「話の分かる兄さんだね。分かった。後で部屋に行かせるよ」

 ほくほく顔で女将がうなずいた。

 それを見届けると、サムトーは、中断していた食事を再開するのだった。


 さて、どう話したものかと、サムトーが思案しながら待っていると、しばらくして扉をノックする音がした。どうぞ、と中に入るよう促す。女将に頼んだ通り、リーシアを来させてくれたのだった。

「こんばんは。おじゃまさせて頂きます」

「ああ、こんばんは。改めて自己紹介。俺はサムトー、旅の剣士で十九才。今日はよろしくな」

「サムトーさん……ですね。私はリーシア。十二になります」

 お互い名乗ったところまでは良いが、リーシアは何かもじもじした様子だった。サムトーはそれを怪訝に思いながらも、椅子に腰かけるようにと声を掛けた。それでも身を固くして動こうとしない。

 代わりに口を開いた。

「あ、あの、優しくして下さい」

 サムトーの疑念が強くなる。乱暴したり罵声を浴びせたりするように見えるのだろうか。ともあれ、落ち着かせようと穏やかに言った。

「大丈夫。心配いらないから」

 その言葉を聞いて、リーシアがようやく動いた。部屋を突っ切り、靴を脱いでベッドに入り込む。

 ここまでされて、サムトーはようやく理解した。女将に渡した額が多過ぎたらしい。体を買うのだと完全に誤解し、リーシアにもそう吹き込んだのだろう。それにしても、十二で体を売られる覚悟で男の部屋に来るなど、健気すぎて涙が出そうだった。

 失敗に気付いたサムトーは、大きくため息をつき、頭をかいた。

「ごめん、俺の言い方が悪かったみたいだ。話をしたいから、椅子に座ってくれないかな」

「されないのですか」

「当たり前だよ。俺はそんな鬼畜じゃない」

 リーシアが明らかにほっとしていた。思い起こせば、以前旅の相棒だったエミリーも、最初にこの種の誤解をしていた。まだ三月と経っていないが懐かしい。

 ようやくリーシアが椅子に座ってくれた。これで話ができる。

「今日はな、リーシア……もう呼び捨てにするな。女将さんから聞いた事情を説明するけど、リーシアのお母さんの妹さんの話なんだ。ここの女将さんはリーシアを、その叔母さんの所で引き取って欲しいと思ってる。けど、そのスニフトって町までは五日もかかるから、叔母さんはリーシアを引き取りに来られないそうだ。もちろん、リーシアが一人で行くのも難しい。ここまでの話は、聞いたことがあるかい?」

 リーシアが暗い表情を浮かべた。好かれていないと知ってはいても、改めて言葉として聞くのは辛いものだ。両親を亡くした後、面倒を見てくれている恩人相手なら、なおのことである。

「はい。何度か女将さんから、はっきりそう言われたことがあります」

 サムトーは辛い心情を思いやりつつ、言葉を続けた。

「そっか。いらない子だって言われるのは辛いよな。そこでだ。その叔母さんの所へ、俺が一緒に行こうかって話になった。まあ、ちょっとした寄り道だから、俺は全く問題ない」

「え、えっと、叔母さんの所、ですか。五日かかるっていう」

 突然の申し出に、リーシアが目を丸くした。

「そうだ。で、ここで問題が三つある。一つは、その叔母さんが、本当にリーシアを引き取ってもいいと思ってるかどうかだ。手紙には、引き取りたいのは山々だけど、と書いてあったそうだが、直接会って確かめたわけじゃない。もし違ってたら、とんだ無駄足になるわけだ」

「そうですね……」

 叱責に怯える毎日が、リーシアをすっかり暗い性格にしていた。こんな自分では断られても仕方ない、そんな風に考えてしまうのだった。

「かと言って、今から手紙で確かめるのは日がかかりすぎる。それなら直接確かめに行く方が段違いに早い」

 手紙や荷物の輸送は、月に一回の定期便だけである。送るのに一月、戻りも一月、最低でも二月はかかる。

「そうなると次の問題だ。リーシアが、俺みたいな奴と、一緒に旅してもいいって思えるかどうかだ。会ったばかりなのに、こんな家族の話に立ち入るような奴、信用しろというのが土台無茶な話だしな」

「そう……ですか。サムトーさんと一緒に旅をするんですね」

「そ。五日だけとは言え、歩き詰めの旅、初めてだろうし。こんな得体の知れない男が一緒じゃ、相当の覚悟が必要だと思うよ。俺が悪人だったら、取り返しのつかないことになるしな」

 リーシアが考え込んだ。それはそうだ。こんな急な話、しかも相手は初対面、戸惑わない方がおかしい。

「そして三つ目。もし叔母さんが引き取るのを断った時だ。ここの女将さんにも話さなきゃいけないけど、ここに戻るのか、別の道を探すのかっていうことだな」

「別の道……?」

「まあ、女将さんがダメなら戻っていいと言えば、それで済むんだけどね。それに、これは実際に会ってみてから決めてもいい。俺からの話はこんなところだ。でな、急な話で悪いけど、俺と一緒に行くかどうか、結論を明日中に出してもらえるかな」

「……はい。分かりました」

 急な話で多少の混乱はあるようだが、リーシアはひとまずのところ納得できたようだ。

「よし、じゃあ、女将さんに話を通しに行くか」

 そうして二人で女将さんの所に戻り、話がついたことを知らせた。

 女将は怪訝そうに二人を見て言った。

「あんたたち、しなかったのかい?」

 見事に誤解したままだった。面倒だが、リーシアの母の妹の所へ行くかどうかをきちんと話したと説明した。もちろん、引き取ってもらえなかった場合、ここに戻って良いかどうかも確認した。

「あたしだって鬼じゃないからね。でも、本当にどうしようもない時だけにして欲しいんだよ。リーシアには悪いが、別の所で幸せになっとくれ」

 それが女将の回答だった。よほどでない限り、戻るなという意味だ。後は叔母さん次第ということになる。それを覚悟で見知らぬ男と旅に出るか、叱責されることの多い毎日に甘んじるか、リーシアは難しい決断を迫られることになった。

「分かった。ありがとう女将さん。じゃあ、話の続きは明日に。その分、一泊追加頼むな」

 銀貨一枚追加で支払い、そう言い残して、サムトーは部屋に戻った。


 朝は明るくなったら適当に起き出す。日の出より少し早い。

 まずは井戸端へ行き、水を一杯飲む。体を覚醒させるためだ。その後、鞘ごと剣を素振りする。基本の型だけ六種類、左右百本ずつ。一人旅ではいつ何が起こるかわからない。自衛のための鍛錬は毎日欠かしていなかった。素振りを終えると、また水分を補給する。

 部屋に戻って一休みした後、一階に下りて朝食をもらう。給仕は女将自らがしてくれた。

「今日の夕方には返事すると思うけどね。連れて行ってもらえることを期待してるよ」

 女将がそう言って立ち去る。正直なのは美徳なのだろうが、それが叱責という形で表われもするから、人というのは難しいものだ。

 朝食を終えて、サムトーは時間つぶしに出かけて行った。リーシアは掃除などの仕事をしているらしく、姿を見かけることはなかった。


 夕方、風呂を済ませ、宿に戻ってエールを注文する。

 今度はリーシアが給仕に現れた。エールを置いて、返事をしてきた。

「とても悩みましたが、叔母さんに会ってみようと思います。ですので、私をフリントの町まで連れて行ってください。女将さんとも話をして、そう決めました」

 まだ若干の迷いがあるのだろう。表情が少し暗かった。それでも覚悟を決めた口調だった。

「分かった。旅支度の方は大丈夫かな」

「はい。着替えと水筒、財布、鞄、五日ならこの位でいいですよね。女将さんからも、給金として銀貨十五枚頂いています」

 昼の時間のある時に支度をしたのだろう。つまり、朝のうちには結論を出していたということだ。たった十二才の女の子が短い時間で、この先の生き方が大きく変わる決断を良くしたものだと思う。

「タオルと櫛、紐もあるといいな。あと布袋も」

 足りない物を指摘すると、分かりました、と返事して一旦家屋の方へと下がった。言われた通りの物を詰め込むのだろう。

 サムトーはエールをあおると、大きく息を吐いた。

「こりゃ責任重大だな。無事に送ってやらないと」

 そんなことを真剣に考えるなど、自分らしくないことだと思いつつ、それでもできる限りのことはしてやるつもりでいた。気分的にも、たまに他人と旅を共にするのは楽しみである。

「用意してきました。他に何か気を付けることとかありますか」

 リーシアが戻ってきて、質問してきた。初めての旅に、相当気を遣っていることが分かる。立派な覚悟だと思った。

「靴だな。長い時間歩いても平気な靴、持ってるか?」

「外出用に一足持ってます」

 そう言って、靴を持ってきた。靴底も丈夫で、足首まで守る靴だ。これなら問題ないだろう。

「よし、準備は良さそうだな。後は明日だ。もう仕事に戻って大丈夫」

「ありがとうございます。明日、よろしくお願いします」

 リーシアが仕事に戻る。サムトーはエールを飲みながら、気持ちの準備の方を心配していた。決意したとはいえ、分からないことだらけできっと不安だろうと思う。

 その後、夕食を済ませると、サムトーも自分の荷物を確認するのだった。


 翌朝、日課と朝食を済ませると、サムトーは自分の旅支度をして、一階のテーブルに座った。

 しばらく待っていると、リーシアが旅支度をして現れた。スカートの下にズボンをはき、大き目の鞄を肩から下げている。きっちり準備した裏には、後には引けない覚悟が感じられた。健気なことだと思った。

「おはようございます、サムトーさん。今日からよろしくお願いします」

「おはよう、リーシア。じゃあ、出発するか」

 サムトーが立ち上がり、リーシアを連れて宿の外に出る。

 女将さんとその夫が見送りをしてくれた。

「その叔母さんと仲良くやるんだよ」

 別れ際になって、普段叱責ばかりしていても、本当に憎んでいるわけではないのが分かった。リーシアにとって、多少の救いにはなったが、ならば優しくして欲しかったという、恨みを感じずにはいられなかった。

「これまで本当にお世話になりました。では、行ってきます」

 これで完全に別れることになるだろうが、今さら話すこともない。淡々と挨拶を口にすると、深々とお辞儀をした。

「ああ。気をつけて行っておいで」

 そうして二人は西に向かって歩き出した。地図に寄れば、目的地のスニフトの町は、サムトーが通り過ぎた町から北に進んだところにあった。

 歩調をリーシアに合わせて、ゆっくりと歩いていく。

 街道は、市街地を抜け、畑地の間を貫くように通っている。家の数がまばらになり、やがて草原の広がる景色へと変わった。ここまで小一時間と行ったところだ。

 少し早いが一旦休憩を取ることにした。リーシアの具合も確認したかったからだ。街道脇に並べられた石に腰掛け、水分を取った。

「どう、歩いてみて、足が痛いとか疲れるとかない?」

 リーシアが自分の具合を確かめてみる。痛みは特にない。疲れもこの程度の距離なら問題はなかった。

「はい、大丈夫そうです」

「気分的にはどう? 景色眺めてるだけだと退屈だな、とか」

「いえ、初めて通る場所なので、新鮮です。気を遣って頂いて、ありがとうございます」

 不安もあるだろうが、母の妹に会える楽しみの方が大きいようだった。叱責に怯えずに済むということもある。案外気を楽にしている様子で、サムトーも安心した。

「分かった。じゃあ、次の話は、歩きながらしようか」

 そう言って立ち上がると、リーシアもそれに倣った。

 またゆっくりと歩き出す。

「最初は宿の件からだな。別々の部屋にするか、一緒でもいいか、まずそこから。宿屋で働いてたんだから知ってると思うけど、普通は部屋が別でも一緒でも値段は同じで、大体のとこは一人銀貨一枚だな」

 同じ話を以前の相棒ともしたなあと、思い出す。さて、リーシアは何と答えるのだろう。

 すると顔を赤くして、もじもじし始めた。

「えっとですね。私、一人だと不安で。できれば一緒の方が……」

「着替えとかも一緒なんだけど、平気?」

「へ、平気です。困るのってそのくらいでしょう。一人でじっと部屋にいる方が怖いです」

「ふーん」

 あまりにも恥ずかしそうにしている様子を見て、ちょっとからかってみようかと、サムトーは悪戯心を出した。

「男女が二人きりの部屋って、問題あると思わない?」

「え、え、えっと、それは……」

 その種の知識はちゃんとあるようだった。以前の相棒といい、リーシアといい、一体どこでそういう知識を学んだのだろう。

 顔をこれ以上ないほど赤くして、リーシアは返事に窮してしまった。

 さすがにやりすぎたかと、サムトーも反省した。

「ごめんごめん、かわいかったからね、ついからかっちゃって。本当に何にもしないから。剣士らしく、剣に誓って約束するよ」

「そ、そうですか。良かったです……」

 リーシアは、安堵したのか残念なのか、判別の難しい表情をしていた。それを見たサムトーは、年頃の女の子は上手に扱わねばと、改めて考え直したのだった。

「本当に悪かった。冗談はさておき、次は宿代の件ね。これは俺が出すから心配しないで。こう見えても、金貨で三十枚以上持ってるから」

 金貨一枚は銀貨二十枚である。宿代に昼食代、風呂代の出費など、五日くらいならどうということはない。

 その金額の多さに、リーシアが目を丸くした。手持ちはこれまで蓄えた銀貨五枚と餞別代りの給金十五枚、金貨一枚分しかない。

「そんなに持ってるんですか。とてもそうは見えないです」

「そりゃそうだ。その方が安全だしね」

 とは言え、手出ししてくる輩は、よほどの相手でなければ返り討ちにする自信はある。

「それから、せっかく一緒に旅をするんだから、肩の力抜いて、気楽に話してくれていいからね。俺もそうするし」

「はい。分かりました」

「それじゃあ、俺の話からね。一人旅に出る前は猟師達の所で世話になっていて、その後旅芸人達と一緒に旅をしてたんだ。事情があって旅芸人達と別れて、それから一人旅をするようになったんだ」

 それから、サムトーは一人旅の楽しみをゆっくりと語った。いろいろな出会いがあって、一緒に楽しんでくれた人達がいたこと。別れるのは寂しかったが、また新たな出会いがあること。

「今回、リーシアと旅を一緒にできるのも、何かの縁。だから、一緒に楽しく旅をしていこうな」

「そうですね。ありがとうございます」

 そうこう話をしている間に、リーシアの表情から緊張が解けていた。安心したようで何よりだと思う。

「さて、昼飯にしよう。旦那さんからサンドイッチもらってある」

 サムトーが剣と荷物を下ろし、街道の脇にある石に腰掛ける。鞄から紙袋に入れてもらった大振りのサンドイッチを二つ取り出した。一つをリーシアに手渡す。

「それじゃあ、いただきます」

「いただきます」

 かぶりつくのにも一苦労する大きさだった。大口を開けてかじり、ゆっくりと咀嚼する。

「外で食べるのって、また一味違う感じがするでしょ」

 サムトーの言葉に、リーシアが黙ってうなずいた。口の中が一杯で、話ができなかったのだ。しばらくして、口の中が空いてから返事があった。

「そうですね。ピクニックみたいで気分がいいです」

「それは良かった。休憩がてら、のんびり食べてから行こう」

 二人はゆっくりと昼食を取るのだった。


 それから休憩を挟みながら三時間少々歩いて、モルナンという町にたどり着いた。フリントと同程度の規模だった。郊外の農村を経て、市街地に入る頃には、空の一部が赤くなり始めていた。

「さて、まずは宿を取ろう」

 サムトーが街道から外れて、市街地の通りを先導する。何軒かの宿屋を見つけて、そのうちで比較的落ち着いた雰囲気の宿に入る。リーシアが後に続いた。

「二人一部屋で一泊お願いします」

 二人で記帳を済ませ、鍵をもらうと部屋へ向かう。

 荷物を置いて、布袋に風呂の支度をする。

「いつもは泊める側でしたから、客になるのは不思議な気分ですね」

 リーシアには初めての宿泊まりだった。自分が仕事していた睡蓮亭と比べているのだろう。部屋のあちこちを見て回っていた。

「当たり前ですけど、造りは似た感じですね」

 その新鮮な反応が微笑ましい。

「ベッドは二つですね。どちらを使いますか?」

「このランプ、うちにあったのより、油の入る量が多いです」

 そんな感じで、そわそわしていたのだった。

「あ、そろそろお風呂行きましょうか」

 しばらくしてから、ようやく本題に戻ったようだった。

「それじゃあ、行こうか」

 宿の外に出て、また通りを歩く。どこの町でも、個人の家で風呂を持つのは相当な金持ちだけである。水を汲んで風呂を焚く手間と金は、普通の住人には負担できない。だから、公衆浴場は、町にもよるが、何軒もあることが多かった。

 そのうち宿から一番近い浴場へと入る。サムトーが代金銅貨五枚を支払い、貴重品を預けて、男女それぞれの風呂場へと向かう。

 脱衣所で衣服を籠に入れ、タオル一枚を持って洗い場に行く。髪と体を一通り洗って、湯船につかる。たくさん歩いた体に湯が染みる。

 のんびりつかったら湯船を出て体を拭く。脱衣所で服を着て、窓口で貴重品を受け取ると、入り口近くのロビーでリーシアが出てくるのを待つ。

 それほど待たずにリーシアは現れた。気分も表情もさっぱりしたようだ。いい表情をしていた。

 それから宿に戻る。

 サムトーはエールと蜂蜜水を頼んだ。以前旅の相棒にしてやったように、蜂蜜水はリーシアの分である。

 風呂上がりの一杯をやりながらのんびりするのは気分がいい。リーシアも同じようで、くつろいだ表情で蜂蜜水を飲んでいた。

「お客になってくつろいでると、何か悪いことしてるみたいですね」

 仕事をしなくていいことに罪悪感を覚えるのか、リーシアがそんなことを言った。気持ちは分かる。

「いいんだよ。スニフトに着くまでは、こういうのんびり生活だ」

 サムトーの言葉にリーシアが苦笑した。忙しくもない、叱責されることもない、のんびり生活という言葉が、実感できたようだった。

 しばらく休んでいると、丁度日が暮れた。少し早いが夕食をもらう。

 シチューとベーコンと野菜のソテー、パンと定番のメニューだった。この種の料理に外れはなく、これも十分うまかった。

 サムトーがのんびり食事をしている様子を見て、リーシアも慌てて食べる必要のないことに気付いた。宿に引き取られてから、賄い飯を急いで食べることが多かったのだ。のんびりと食事ができることを純粋に喜んでいた。

「今日はたくさん歩いて疲れただろ。しっかり食べときなよ」

 サムトーが余計なお世話を口にする。リーシアは素直な質らしく、額面通り受け取っていた。

「はい。明日に備えて、しっかり食べておきますね」

 十二才ともなると、育ち盛りに入ることもあり、大人の一人前でも丁度良いくらいの量だった。ゆっくりだが、着実に食べていて、手が止まる様子はなかった。食欲があって何よりだと思う。

 食べ終わる頃、追加のエールとお茶を頼んだ。食後の一杯もまたうまい。日も沈んで、周囲も夕方一杯飲みに来た客でそこそこ賑わっている。仕事の話、家での話など、いろいろな話が聞こえてくる。

「サムトーさん、今さらですが、私なんか連れて、足手まといじゃないですか。一人旅の方が楽だったんじゃ」

 リーシアがそんなことを言い出した。歩いている間も、頭をかすめていたのだろう。はっきりと言っておくべきだったかと、少し反省する。

「どうせ当てのない旅だから大丈夫。こうやって誰かと一緒の方が楽しいから、むしろありがたいくらいだよ」

 そう言ってエールをあおる。

「こうやって話せる相手がいるのは、本当にいいもんだ。ありがとな」

 その言葉を聞いて、リーシアが目に見えて安堵していた。

「それなら良かったです」

 ほっとした表情でお茶を飲む。

「こんなに親切にしてもらって、うれしいです」

「そう思ってもらえて、俺も良かったよ」

 そんな話をしているうちに、やがて飲み物も片付き、部屋へと戻った。


「寝る前に、少し地図でも見ないか」

 サムトーが、この前仕入れたこの周辺の広域地図を取り出した。ここから行程はあと四日である。

 三日間、街道に沿って西へと向かう。三つ目のマルサラの町から街道を逸れて北に向かう。そこから一日行くと、目的地のスニフトの町があった。

「とまあ、地図だとすぐ近くに見えるけどね。あと歩いて四日だな」

 リーシアは地図を見るのは学舎以来だった。八才から十才まで、町の学舎で基本的な読み書きを習うのだが、その学習の一環として、地名を覚えるために地図を見たことが何回かあった。その時は、物珍しく見ていただけだったが、こうして実際に用立ててみると、その便利なことに感心し、じっと地図を見つめて、いろいろと思いを巡らせていた。

「地図で見ると、フリントの町も小さいんですね。こっちの大きな街は、タルストですか。侯爵領って書いてありますね」

 サムトーも通ってきたノイスタット侯爵領だった。本当に地図で見ると近く感じる。城下町タルストを出て、もう一週間以上が過ぎた。地図の北東の方にトルネルの町が載っていた。そこを出発してから九か月。いつの間にやら月日も経ったものだと思う。

「侯爵領は通ってきたな。城壁に囲まれてて、建物も多くて、立派な城があるんだ。すごく大きな街だったよ」

「ちょっと想像つかないですね。旅をしてると、そういう珍しいものも見られるんですね」

「そうだね。大きな街だといろいろな工房もあって、皿とか紙とか布とか、いろんな物を作ってたな」

「そういうのも見たことあるんですね。サムトーさん、すごいなあ」

 一人で旅するのは心細そうなのに、そんな感じは微塵もない。むしろいろいろな場所を見るのを楽しんでいる様子のサムトーに、思った以上にすごい人なんだと、リーシアは感じていた。

「さて、初めての長歩きで疲れてるはずだし、そろそろ横になるといいよ。リーシアが寝るまで付き合うから」

「ありがとう。そうします」

 リーシアは言われた通り、ベッドに横たわった。顔をサムトーに向けて、自分の話を始めた。

「小さい頃から、私怖がりで、よく父と母に慰めてもらってました。夜、寝られない時も、今のサムトーさんみたいに近くにいてくれて、私の話をずっと聞いてくれていたんです。だから、とても懐かしい感じがして、うれしいです」

 それからリーシアは、幼い頃、両親に連れられて川遊びをしたことや、料理や裁縫を教わったこと、家の庭で育てていた野菜の世話を手伝ったことなど、思い出話を続けていた。宿に引き取られてからできなかった話を、誰かに聞いてもらいたかったのだ。

 話は意外と長く続いたが、それでも疲れと眠気には勝てず、いつの間にかリーシアは眠りについていた。

「さて、俺も寝るかな」

 明かりを消すと、サムトーもベッドに体を預けて眠るのだった。


 翌朝はサムトーの方が先に起きた。

 いつもなら素振りに出るのだが、その間にリーシアが一人で起き出すと、不安がるかもしれない。かと言って、起こすのもかわいそうだろう。

 仕方なく、リーシアの寝顔を見ていた。悪い夢にうなされることもなく、安らかな寝顔だった。

 その視線に気付いたわけではないだろうが、そこでちょうどリーシアが目を覚ました。まだ寝ぼけていて、ここがどこなのか、目の前の人物が誰なのか判然としないようで、ちょっと驚いた顔をしていた。

 しばらくして、やっと自分の状況を思い出し、体を起こした。

「おはようございます、サムトーさん」

「おはよう、リーシア」

 挨拶を返すと、サムトーは立ち上がって、いつも腰に帯びている剣を手に取った。わずかに反りの入った刃渡り六十センチほどの片刃の短剣である。

「旅の剣士としての日課でね。朝は剣の素振りをすることにしてるんだ。井戸端にいるから、安心していいよ」

 そう伝えて部屋を出ようとすると、リーシアも慌てて靴を履いた。

「私も行きます」

 二人で部屋を出て、井戸端へと向かう。

 まずは井戸で水を飲む。寝ている間に失った水分が補給され、体が覚醒してくる。リーシアもそれに倣った。

 サムトーは鞘ごと剣を振り始めた。基本の型を六種類、左右の腕でそれぞれ百本ずつ。

 リーシアはその光景を黙ってみていた。剣の軌道も速度も一定でずれることがない。よほどの修練を積まないとこうはいかないことが、素人目にも分かった。酔っ払いを一撃で退散させた強さは、こうやって磨かれたのだと感心していた。

 素振りが終わると、また水分を取る。

「ごめんな、退屈だっただろ」

 リーシアが首を振った。感心したままの表情で言った。

「いえ、サムトーさんの強さが分かった気がします」

「そう? ありがと」

 そして二人で部屋へと一旦戻り、部屋着を旅の服装へと着替える。お互い相手の方を見ないようにしていたが、ついリーシアはサムトーの方を見てしまった。体中に古傷がいくつもあったのに驚いた。

 その視線に気付いて、サムトーが苦笑しながら説明した。

「俺も剣士だから、ずいぶんといろんな相手と戦ったもんさ。そのおかげで傷だらけってわけなんだ」

「ご、ごめんなさい。悪気はなかったんです」

「いいって。それより朝飯に行こう」

 本当に気にしてないのが分かり、リーシアがほっとしていた。待たせては悪いと着替えを急ぎ、サムトーに声を掛ける。

「お待たせしました。行きましょう」

 二人で階段を降り、夜は居酒屋になる食堂のテーブルに着く。

 給仕が朝食を運んできた。スクランブルエッグと鶏肉のソテー、サラダとパン、スープだった。

 リーシアは朝からよく食べていた。昨日の疲れも特には見られない。これなら今日も順調に行けそうだと、サムトーは安心した。

「どうかしましたか?」

 サムトーの視線に気付いて、リーシアが尋ねてきた。

「食欲もあるみたいだし、元気で何よりと思ってね」

「はい。これもサムトーさんが、昨日の夜、ずっとついていてくれたおかげです。ありがとう」

 リーシアが少し頬を赤くした。怖くてついていてもらったというのは、年齢的に少し恥ずかしさがあった。それでもうれしかった気持ちの方が勝り、礼を言ったのだった。

「どういたしまして」

 返事をして食事に戻る。

 今度はリーシアがパンを咀嚼しながら、サムトーを見つめていた。この人は、思った以上にいい人だった。これなら無事に叔母さんのところに行けそうだ。でも……。

「どうしてこんなに親切にしてくれるんですか?」

 何の見返りもないどころか、宿代などまで出してもらっている。一昨日会ったばかりなのに、なぜなのか不思議だった。

「理由なんて特にないなあ。強いて言えば、人助けする方が気分がいいというか、放り出すと気分が悪いというか。あと、一人旅してると、人と関わるのが楽しくてね。リーシアみたいなかわいい娘と一緒に旅ができるなら、こんなにうれしいこともないしな」

「サムトーさんって親切な人なんですね」

 とにかく困ってる人に手を差し出したくなる、そんな人なんだとリーシアも納得した。それにしても、私ってかわいいのだろうか。両親はかわいがってくれたが、叱責の多い毎日を送ってきたので、自分がかわいいなどとは思えない。まあ褒めてくれたのだから、魅力があることにしておこうと思った。

 朝食を終えると、旅支度をして出発である。

「じゃ、元気に出発だ」

 二人は次の町に向かって歩き始めた。


 それから三日間は平穏な旅だった。

 日を追うごとにリーシアも旅慣れてきて、二人並んで歩くのを楽しんでいた。のんびり景色を眺めていてもいいし、暇になれば話もできる。肩の力を抜いて、自然体で話せるようにもなった。

 宿の暮らしにも慣れ、仕事がない生活の気楽さに浸っていた。公衆浴場の後の一杯を楽しみ、夜はサムトーとのんびり話をする。なるほど、一人旅だと話などはできないのだから、サムトーが一緒でうれしいと言ってくれたのは本当だったと、リーシアにも分かったようだった。

 一つだけ問題があった。初めて洗濯した服を部屋の中に干すとき、下着も干しっぱなしになることにリーシアが気付いたのだ。サムトーの目に嫌でも入ってしまうことが恥ずかしかったのだった。まあ二回目からは、これも普通のことと割り切り、気にするのを止めたようだったが。

 そして今、三つ目の町、マルサラの宿にいた。いよいよ、明日はリーシアの母の妹がいる、スニフトの町である。

 夕食まで済ませ、部屋でのんびりとくつろいでいた。

「行く前は大変そうだと思ったのに、過ぎてみればあっという間でしたね。サムトーさんといると楽しいからですね、きっと」

 リーシアもすっかりサムトーとなじんでいた。仲良しになれたと、彼女自身も感じていた。初めての旅がこんなに楽しいとは思いもよらず、連れ出してくれたサムトーには、本当に感謝しかない。

「こんな親切にしてもらって、何かお返しできるといいんですけど……」

 サムトーは首を振った。気持ちは本当にうれしい。

「お返しならもうもらってる。一緒に旅すると楽しいだろ。一人旅だと退屈する時もあるからな。一緒にいてくれたことだけで十分だよ」

 笑顔でそう答えるサムトーに、リーシアも笑顔になった。

「本当に優しいですよね。私、好きになっちゃいそうです」

 どこまで本気か、リーシアがそんなことを言う。こういう時は調子に乗るのがお約束というものだろう。

「おう、いくらでも好きになってくれ。いやあ、格好良過ぎるのも罪なもんだなあ」

 リーシアがぷっと吹き出した。これだからこの人は退屈しない。

 しばらく笑ってから、リーシアは急に真面目になった。心配事が一つだけあったのだ。

「サムトーさん、叔母さんは私を引き取ってくれるでしょうか」

 手紙には、引き取りたいのは山々、と書いてあったという。だが、それが本当かどうかは別問題だ。

 さすがのサムトーも即答できない。こればかりは相手の都合次第だ。もし引き取れないと言った時、リーシアはとても傷つき、悲しむことだろう。そうならないことを祈るしかなかった。

「まあ、考えても仕方ない。きっと叔母さんもいい人だと思うよ」

「そうですね。お母さんの妹さんだから、きっといい人ですよね」

 リーシアが両手を組んで祈るような仕草をした。今は信じるしかない。

 サムトーも下手に慰めはせず、努めて明るく言った。

「さて、明日一日、目的地までがんばろう」

「はい、そうですね」

 二人はその後、とりとめのない話をして休むのだった。


 翌日、街道を逸れて北に向かう。

 この道は街道と違って舗装されておらず、踏み固められた土の道だった。馬車の轍の跡がくっきりとあり、往来が盛んなことが分かる。

 町までの途中、何度か荷馬車とすれ違い、また追い越された。スニフトの町とマルサラの町とで、互いに商品を運んでいるようだった。逆に徒歩の旅人はほとんど見かけなかった。やはり街道から外れているからだろう。

 この日も順調に歩いて、空の色が変わる前にはスニフトの郊外へと到着していた。まずは市街地を目指す。

 そう大きな町ではなかった。人口は五、六千人程度だろう。それでも市街地にはそれなりに店があり、宿もあった。

 一旦宿は後回しにして、まずは町の役場へと向かう。納税事務や自警団の運営、施設設備の管理などを行っている建物だ。そこで叔母の居場所を尋ねた。役場に登録してあるのは、この町に定住している人間だけである。その台帳を基に、収入に応じた税を収めるよう、事務処理を行うのだ。

 役人は神聖帝国の雇い人である。給与も帝国からもらっている。だから、帝国民には基本的に親切だった。台帳をくまなく見て、住んでいる場所を教えてくれた。

 まだ、空が赤くなり始めた時間だった。今からなら、訪問しても良いだろうと考え、サムトーとリーシアは、教わった家へと向かった。

 市街地の外れに近い、古びた家屋が目的の家のようだった。

 ドアをノックすると、まだ三十才くらいの女性が顔を出した。

「ごめんください。シンディさんのお宅ですか?」

「はい、そうですが」

 サムトーが剣を帯びているのを見て、訝しげな表情で答えた。

「俺は旅の剣士サムトー。この娘の付き添いです」

「こ、こんにちは。私、リーシアと言います。シンディさんのお姉さん、ジョディの娘です」

 シンディと呼ばれた女性が口を覆った。驚きに目を丸くしている。

「姉さんが亡くなったという手紙を以前頂きましたが……、その娘さんなんですね。確かに姉さんの面影があります」

「あの、お話してもいいですか」

 リーシアが本題を切り出そうとしたが、立ち話もどうかと、シンディが仲へと招き入れてくれた。

「中でゆっくり話しましょう。どうぞお入りください」

 二人は中に入ると、食卓らしいテーブルの席を勧められた。

 腰掛けると、部屋の隅で二人の子供が興味深そうにこちらを見てきた。年は六才、四才といったところだろう。

「それでリーシアさん、今日はどうしてここへ?」

「はい。実は……」

 リーシアが事情を説明した。五か月ほど前に両親が亡くなったこと。両親の兄弟も父母も別の町に住んでいるのだが、所在が分からないこと。そのため、父の従兄にあたる宿屋の亭主と、妻の女将が自分を引き取ってくれたこと。唯一母の妹がこの町に住んでいることが分かり、女将が手紙を出したこと。宿では、リーシアが仕事をうまくできず、女将の叱責が多かったこと。女将は当てがあるならそこで引き取って欲しいと思っていること。サムトーがこの町までリーシアを送ってくれて、こうして会うことができたこと。

「それで、もしできるなら、私をこの家に住まわせてもらえませんか?」

 懸命に説明を終えて、リーシアはそう結んだ。

 シンディはずっと難しい顔をしていて、リーシアの言葉にもすぐに反応しなかった。

 やがて、歯切れの悪い言葉が返ってきた。

「手紙を読んで、わざわざここまで来たんですね。そうですか……」

「……」

 リーシアには何も言えない。好反応を期待していたが、どうやら外れたようだった。サムトーも渋い顔をしている。

「ごめんなさい、すぐに返事はできません。夫が帰ってきてから、相談してみます。また、明日来てもらえませんか」

 そこまで言われては、引き下がるしかない。

「分かりました。行こう、リーシア」

 サムトーは先に立ち上がると、未練の残るリーシアに声を掛けた。残念な表情を隠すこともできず、リーシアがその後に続いた。

「では、また明日来ます」

 そう言い残して二人が立ち去る。最後に、大きなため息をつく母の元へ、子供達が近寄っていく様子が見えた。


 その晩、宿屋では、リーシアがずっと暗い表情をしていた。

「私、すぐ引き取ろうって、言ってもらえるとばかり思っていました。シンディさんにも事情があるんですよね。考えが甘かったみたいです」

 自分を納得させるように言う。その言葉も、やはり残念さを隠すことはできなかった。せっかくここまで来たのに、という思いが強い。

「そうだなあ。俺も悪かったよ。考えが足りてなかったな。ごめん」

「そんな、サムトーさんは悪くありません。もし引き取ってもらえなかった時のことまで、サムトーさんは考えてくれたじゃないですか」

 自分で言葉にして、リーシアは引き取ってもらえなかった場合、どうするかを考える必要があることに気付いた。今日の反応では、引き取ってもらうのは望み薄だろうと分かってしまったのだ。

「どうしよう、サムトーさん、私、行く所がないかもしれません……」

 リーシアが涙をこぼした。

「女将さんは、別の所で幸せになっとくれって言ってました。戻ってはダメとは言いませんでしたが、戻って欲しくないと思ってるのは確かです。私も女将さんの元に帰りたくはありません。もし、シンディさんに引き取ってもらえないなら、私はどうすればいいんでしょう」

 涙ながらにそう訴えるリーシアがあまりにも哀れで、さすがのサムトーも返す言葉がなかった。代わりに優しく頭を撫でてやった。

「どうしよう、サムトーさん……」

 リーシアは一向に泣き止む気配がない。そのくらい絶望的な状況だと思っているのだった。代わりの行き先を考えてやり、希望の光が見えなければ、ずっと悲しみに暮れたままになってしまうだろう。

 代わりの行き先を考えてみても、リーシアの親戚筋は消息不明だ。元の宿に戻る以外なさそうに思える。まして旅人のサムトーには寄る辺はない。

 そう自分にはないが、この前、侯爵家の使用人だったアスリが、いつでも人手不足気味だと言っていた記憶がある。こちらも望み薄かもしれないが、次の候補として考えても良いのではないかと思った。

「なあ、リーシアは、侯爵家の使用人として働くっていうのは嫌か?」

 突然の言葉に、リーシアが泣き止んだ。

「使用人として働く、ですか」

「ああ。この前、ノイスタット侯爵領の城下町タルストに立ち寄ったんだけど、そこで城の使用人達と知り合いになってな。もしかすると、そこで住み込みで働いていいって、言ってもらえるかもしれない。確実じゃなくて悪いんだけど」

 一瞬期待する表情を見せたリーシアだったが、すぐ暗い顔になった。

「居場所があるならどこでもいいです。でも、もしそこもダメだったらと思うと、怖いです」

 その気持ちは十分に伝わった。これ以上の涙は見たくない。サムトーが真剣な表情で答えた。

「そこがダメなら、また別の所を考える。居場所が見つかるまでは、俺が面倒を見る。だから、心配するな」

 リーシアがすがるような目つきで、サムトーを見つめた。

「本当に? 本当に、私の面倒を見てくれるんですか?」

「ああ、本当だ。絶対何とかしてやる」

「まだ知り合って間もないのに、本当にいいんですか?」

「もちろんだ。安心していい。どうせ当てのない旅をしてるんだ。リーシアの居場所を見つける間の寄り道くらい、どうってことはないさ」

 こういう時のサムトーは肝が据わっている。本気でどうにかなるまで面倒を見るつもりだった。実際、二週間旅の相棒だった娘エミリーは、引き取り手が見つからなければ、まだ相棒のままだったかもしれない。

 リーシアにも、サムトーの本気が伝わっていた。この人は本当に信じられると、心の底から思えるようになった。涙を拭くと、決意を口にした。

「分かりました。サムトーさんを信じます。いつまでも悲しんでいないで、その先を考えることにします」

「偉いな、リーシアは。……とにかく明日だ。シンディさんの話を聞いてみよう」

「そうですね。今日はもう寝ます。おやすみなさい」

 そう言って、リーシアはベッドにもぐりこんだ。とは言え、そう簡単には寝付けないだろう。リーシアの頭を少し撫でてやり、明かりを消して、サムトーもベッドにもぐりこむ。

「眠れないと思うけど、目を閉じて体だけでも休めておくんだ。明日は俺が起こすから、寝坊していいからな」

 それだけ声を掛けると、サムトーは眠りに就いた。その間、リーシアが眠れずに身じろぎしているのを感じていた。


 翌朝、サムトーが目覚めると、案の定リーシアはまだ眠っていた。

 言葉通り、朝の素振りを一人で済ませ、もうすぐ朝食という時間にリーシアを起こした。

「おはようございます。サムトーさん」

 リーシアのサムトーを見る目が変わっていた。今までは目的地までの旅の同伴者という感じだったが、世界で唯一頼れる存在を見るような感じになっていた。そのくらい依存する相手がいなければ、叔母のシンディに会うことも難しい心境になっていたのだった。

 その変化に気付いたサムトーだったが、さすがにどうこう言えるものでもなかった。いつも通り、明るく言うだけだった。

「さ、朝飯食べに行こう」

「はい」

 着替えを済ませて一階に下りる。

 食堂のテーブルで朝食を取りながらも、リーシアは緊張していた。もしかすると引き取ってくれるかもという、一縷の望みを抱いていたのだった。無理からぬことである。

 やがて食事を終えると、旅支度をして、シンディの家へと向かった。

「朝早くからすみません。昨日来た、ジョディの娘リーシアです」

 戸をノックしてリーシアが名乗ると、すぐに扉が開かれた。

「どうぞ中へ。わざわざ出直してもらってすみません」

 そうして昨日と同じくテーブルの席を勧められた。また客人が珍しいようで、子供が二人覗き見をしている。夫はすでに仕事に出た後で留守だった。

 二人が腰かけると、シンディも向かいに座る。

「それで、結論はどうなったのでしょうか?」

 気が急いたリーシアはすぐに尋ねた。問われた側は、申し訳なさそうな表情をして、それでもはっきりと答えた。

「夫とも良く話しました。姉さんの娘なら、本来私達にあなたの面倒を見る義務があるのだと思います。ですが、夫は勤め人で、商店や農家の手伝いをして給金をもらっているのですが、あまり収入がありません。私もまだ子供が小さく、内職のわずかな稼ぎしかありません。ですから、一家が暮らしていくのがやっとで、リーシアさんの面倒を見られるだけの、金銭の余裕がないのです。わざわざここまで尋ねて頂いて、本当に申し訳ないのですが、引き取ることはできないのです」

 昨日の態度からも想定できた答えだった。その後、散々リーシアは泣いたものだ。だから、この場でこう言われても、動揺せずに済んだ。

「そんなに生活が苦しいんですか?」

 そう尋ね返す余裕があった。これもサムトーのおかげだった。

 シンディが恥を忍んだように言った。

「そうですね、恥ずかしながら、ほとんどその日暮らしで、子供二人養うのにも苦労する有様です。蓄えも少ししかありません。それでも、お金を貯めて、いつかは独立した商人になるのが夫の夢なのです。果たしていつになることやら」

 自分だけが苦労しているのではないと、リーシアは思った。このシンディさん達も、苦しい生活に耐えながら、日々の暮らしのために頑張って働いているのだ。無理に義務を主張して、押し通すこともできただろう。だが、この暮らしを壊すことは、リーシアにはできなかった。

「分かりました。わがままを言ってごめんなさい。私は別の場所に行くことにします。それで、私の両親の家族のことで、何か知っていることはありませんか?」

 シンディが真剣に記憶をたどった。引き取れないなら、せめて引き取り先の候補を伝えるべきと考えたのだ。だが、出てきた結論は、かえってリーシアには酷な事柄だった。

「私は父母が亡くなってから家を出ました。だから、リーシアさんの祖父母はもういないんです。先に家を出た姉さんが、フリントの町にいるのは知っていたので、一度だけ連絡を取りました。それでその宿の女将さんも知っていたのでしょう。私達姉妹には他の兄弟はいません。それから姉さんの夫の両親や兄弟についても知らないんです」

「そうですか。宿の亭主さんがお父さんの従兄なんですが、お父さんの両親や兄弟については知らないそうです。シンディさんが知らないのも無理はありません」

「本当にごめんなさい。何の役にも立てずに……」

「いえ、いいんです。仕方のないことですから」

 そう言うと、リーシアは財布から銀貨五枚を取り出した。

「お母さんの妹さんに会えてうれしかったです。せめてものお礼に、こちらをどうぞ。少しですが生活の助けにして下さい」

「そ、そんな、こんなお金、受け取るわけには……」

「叔母が苦労してるのを見過ごすわけにはいきません。遠慮なくお使い下さい。私には、このサムトーさんがいるので大丈夫ですから」

 きっぱりと言い切る態度は見事なものだった。だが、叔母からすれば、かえってこの旅の剣士が胡散臭く見えたようだった。サムトーに直接疑問をぶつけてきた。

「失礼ですが、リーシアとはどんな関係で?」

「旅の行きずりです。でも、必ず居場所を見つけると約束しました」

「はあ……」

 シンディは、リーシアを売り飛ばしたり、ひどいことをしたりするのではないだろうか、そんな目で見てきた。

「そんな目で見ないで下さい。サムトーさんは、本当に親切で良い方です。旅の路銀もみな支払ってくれましたし、ノイスタット侯爵領で知り合った使用人の方に、私のことを紹介してくれるとも言ってくれました。ですから、安心して下さい」

 シンディも、リーシアにこうきっぱり言われては、引き取れないという事情もあり、それ以上口を挟むことはできなかった。むしろ、赤の他人のこの剣士に、よくよくお願いする立場だと自覚し直した。

「ごめんなさい。事情は分かりました。リーシア、引き取ってあげられなくてごめんなさい。それからサムトーさん、リーシアのこと、くれぐれもお願い致します」

 そう言って、シンディは深々と頭を下げた。

 頭を下げられた二人は、その謝罪を受け取ると、立ち上がった。

「こちらこそ長々とお邪魔してごめんなさい。私達はこれで失礼しますね。シンディさん、元気でお過ごしくださいね」

 期待を裏切った相手にも、心から親切な言葉を掛けるリーシアだった。

 シンディの目から一筋涙が流れた。姉さんの娘は、こんなに立派なお嬢さんに育ったんだよと、そんな思いが籠っていた。

「リーシアこそ元気で。今日は本当にありがとう」

 二人が立ち去るのを見送って、シンディはまた深々と頭を下げていた。


「さあ、サムトーさん、まずはマルサラの町まで戻りましょう」

 リーシアは思いの外元気だった。昨日十分に泣いて、覚悟ができていたのが良かったのだろう。サムトーも安堵しながら隣に並んだ。

「よく頑張ったな」

「ありがとう。サムトーさんのおかげ」

 引き取ってはもらえなかったが、叔母一家が息災だと分かったのは収穫だった。血縁が頑張って生活していることを知り、自分もどこかで落ち着けるといいなと思う。隣のサムトーは相変わらずのんびりした様子で、見ているとほっと気が休まる。

 行き先を見つけてくれると言ったサムトーは、とても優しく、本当に頼れる存在だった。全てを預けることに不安は微塵もなかった。

 二人は南への道を歩いていた。とりあえず街道に戻り、侯爵領を目指すことになる。サムトーにとっては二度目の訪問だ。

「侯爵領って、どんなところなんですか?」

「そうだなあ。一番上に侯爵閣下っていう身分の高い人がいてな。その人の家族が領地全体を取り仕切ってるんだ。その下に、これまた身分が上の騎士様達が大勢いる。その人達が立派な造りの城で仕事をしていて、領内を治めてるんだ。それ以外は、規模の大きな街と、周辺の町や農村って感じで、他の土地とはあまり変わりはないかな」

「大きな街というのが想像できないですね。あと、立派な造りの城というのも、何がどう立派なのか思いつかないです」

「そりゃあ見てびっくりだよ。楽しみにしてな」

「分かりました。楽しみにしてます。それで、サムトーさんは、城で働いている人に知り合いがいるんですね」

「まあ、そういうことだ。百人からの人が働いてるんだけど、それでも人手が不足気味だって話を聞いたんだ。だから、話の通りなら、引き取ってもらえるかも知れないと思ってね」

「そうなんですね。そうなるといいなあ」

 そんな会話をしながら、道を進んでいく。

 時々すれ違う馬車に挨拶しながら、夕方になる前にはマルサラの町に戻ってきた。

 宿を確保し、洗濯を済ませ、室内に干したら、公衆浴場へと向かう。下着が見える場所に干したままになるのも、リーシアは気にしなくなっていた。

 入浴を済ませ、宿に戻って一杯やるのも定番になっていた。リーシアもこの穏やかな時間が好きになっていた。

「考えてみると贅沢ですよね。風呂に入って一杯飲んで。それから夕食を食べて部屋でのんびりくつろぐ。気分いいですけど、仕事を何もしてなくていいのかなって、ちょっと悪い気もします」

「そうだよな。俺なんかこの暮らしに慣れちゃったけど、それでも頑張って仕事してる人に申し訳ない気もするよ。だから、せめて困ってる人の助けになろうと思ってるのかもな」

 ああ、だから自分のことも助けてくれたのか。リーシアには、サムトーの考えが納得できた。それでも、ただ助けるだけでなく、ここまで親身になってくれるのは生来持つ気質なのだろう。こんな人と出会えるなんて、自分は幸運だとしみじみ思った。

 夕食を済ませ、部屋に戻ると、サムトーがまた地図を広げた。

「この前見た時、リーシアが見つけてたけど、ここから西へ四日くらいで侯爵領に着く。またたくさん歩くけど、頑張って行こう。もちろん、無理はしないで、痛かったり疲れたりしたら、ちゃんと言ってくれ」

 本当に頼りになる人だと思う。その好意に甘えるだけでいいのだろうか。リーシアはついそんなことを考えてしまう。

「どした、知らないところ行くのが心配か?」

 考え込んでいるのを見て、そんな言葉を掛けてくれる。リーシアは首を振って、前にも言ったことを繰り返した。

「そうじゃないんです。私、何もお返しできないのが心苦しいんです」

「一緒に旅してるだけで楽しいから、それだけで十分なお返しだって、前にも言っただろ。本気でそう思ってるから、余計な心配しなさんな」

 サムトーが笑顔で答える。まだ気が晴れない様子のリーシアに、続けて言葉を掛ける。

「そんな気になるなら、少し遊ぼうか。この前、雑貨屋でカードを買ったんだよ。こいつは二人以上じゃないとできないからな。遊べるのも、一緒にいてくれるおかげってことだ」

 カードの遊び方は、賭場でポーカーしかしたことがなかったが、買うときに店の主人に話を聞いて、簡単なババ抜きという遊び方を教わっていた。そのルールをリーシアにも説明して、二人でゲームを始める。

 当然だが、最後は必ず一人が二枚、もう一人が一枚残ることになる。サムトーは視線や表情をうまく作って、必ずリーシアにババを引かせた。

「えー、また負けたー!」

 十二才の娘にも容赦ないサムトーだった。悔しさのあまり、リーシアは繰り返し勝負を挑んできた。少し興奮していて顔が赤い。

 何度も繰り返した挙句、そろそろ時間もいいかという頃に、サムトーはわざと負けてやった。

「あー良かった。やっと勝てたー」

 安堵の息を漏らすリーシアは、とてもかわいらしかった。そんな姿が見られただけで、十分なお返しだと、サムトーは思った。

「ありがとう。楽しかったー」

「な、リーシアが一緒にいると楽しいって、嘘じゃないって分かっただろ。だから、しばらくの間よろしくな」

「はい。お役に立ってるのが分かって、良かったです」

 心から安心して、リーシアは笑顔を浮かべた。

「さて、寝るかね」

 そうして二人はベッドに潜って眠りにつくのだった。


 四日間、西に向かって旅を続けた。リーシアも、すっかり肩の力が抜けていた。時々サムトーがからかうが、それもうれしいようで、わざと膨れてみたり、笑い飛ばしたり、余裕のある反応を返してきた。お互いに気兼ねなく接することのできる仲になっていた。

 四月二十二日、二人はノイスタット侯爵領の城下町タルストに到着した。城壁に囲まれた、人口十三万に届こうかという大都市だ。騎士隊も一個大隊二百人もの人数を抱えている。サムトーにとっては二度目の訪問だった。

 門をくぐり、城下町を縦断している街道の端を歩いていく。

「こんなに広かったんですか! 普通の町の何倍なんだか……」

 リーシアも目を丸くして、周囲の街並みを見ていた。街道では馬車が行き交い、大きな建物が所狭しと立ち並んでいる。初めて見る大都会の光景に、完全に目と気持ちを奪われていた。

 サムトーはリーシアがはぐれないよう気を付けながら、ゆっくりと城への道をたどっていく。出発して二十日弱。まさかこんなに早く戻ることになろうとは、さすがに想像の外だった。

 結構歩いて、ようやく城が見えてきた。今度もまた、リーシアが驚きの表情を浮かべていた。立派な造りとは聞いていたが、実物は想像以上に大きく立派なものだった。

 その城の北東にある通用門へと向かう。そろそろ夕暮れも近い。

 荷馬車が入れる広さの門に、門番が二人立っていて、周囲を警戒している。サムトーは遠慮もなく、その方へと向かう。

「いいんですか、こんな立派な場所に入っても」

「ああ。城の公子様やご令嬢から許可証をもらってるんだ」

 ついこの前、ここには一週間ほど滞在したのだ。門番もサムトーの顔を覚えていて、気安く声を掛けてきた。

「よお、サムトー、戻ってきたのか。何かの用事か?」

「まあね。こちらの娘さんのことで、頼みごとをしに来たんだ」

「分かった。カーラ様、いるかな。使用人棟で聞いてくれ」

 そんな具合で顔パスだった。そして、サムトーが向かった先の使用人棟というのが、また大きな建物だった。リーシアはとにかく驚きっぱなしだ。

 その使用人棟の中にも遠慮なく入る。さすがに使用人達は、仕事中か部屋で休憩してるかで、入り口近くには誰もいない。サムトーは食堂へと向かった。厨房では夕食の仕込み中で、誰かいるはずだ。

「こんにちは。お久しぶり」

 サムトーが声を掛けると、料理長ハルマン以下、厨房にいた五人がぞろぞろとやってきた。

「おお、サムトー。元気そうじゃないか。こっちのお嬢さんは、知り合いか何かかい?」

「まあ、そんなとこ。で、仕事中悪いんだけど、カーラ様に会いたいんだ。どうすればいいかな」

「そうだな、夕食の仕込みの塩梅を確認しに来るから、ここで待ってるのが確実かもな。麦茶でも飲みながら、待っててくれ」

 そう言って、カップに麦茶を二杯用意してくれた。

「じゃあ、俺達は仕事に戻るな」

 料理人達が仕事に戻るのを見送り、サムトー達は入り口近くの開いている席に腰掛けた。用意してもらった麦茶を飲みながら、言われた通りに待つことにした。

「ここの食堂も、厨房も、うちの宿の何倍あるんだか。何から何まで大きくて、驚きすぎて疲れたくらいです」

 リーシアの感想ももっともだ。生まれて初めての大都会、そして大貴族の城。厨房では、すごい人数分の食事が作られている。確かに何でも規模が大きい。サムトーも最初はとても驚いたものだった。

 しばらく待っていると、三十代半ばと思われる女性が現れた。使用人達を取り仕切る女官長のカーラである。サムトーを見かけて、うれしそうに声を掛けてきた。

「まあ、サムトーさん。また会えてうれしいですよ」

「カーラ様もお元気そうで。実は、大事なお願い事があるんです。話をする時間を頂けませんか」

「あらあら、何か大変そうですね。そちらのお嬢さんに関係することみたいですが」

「そうなんです。さすがですね」

「分かりました。夕食後に時間を作りましょう。では、私は夕食の確認など、まだ仕事があるので、また後で会いましょう。……そうそう、アスリは昼番だったはずなので、そろそろ戻ってくると思いますよ」

 そう言ってカーラは厨房へと入っていった。

「アスリって誰なんですか?」

 カーラの言葉からすると、相当サムトーと仲が良いのだろうと思われた。それがリーシアには気になったようだった。

「この城で、一番仲が良かった女の子。と言っても、もう十六才だから、女性と言う方がいいかもだけど」

 サムトーも嘘偽りなく答えた。

 それを聞いたリーシアの胸中に、何かもやもやしたものが湧いた。だが、まだ十二才では、それを嫉妬とは自覚できなかった。それに、サムトーほどの素敵で優しい人なら、好きになる人がいても当然だろうと、思い直した。

 お茶のお礼を言って食堂を後にした二人は、使用人棟の出入り口へと移動した。ちょうど頃よく、仕事終わりの時間になっていた。仕事を終えた使用人達が次々に帰ってきて、サムトーを見かけると挨拶した。

 しばらく待っていると、やや小柄で、肩までの赤毛を二つ結わえにした、まだそばかすの残る少女が現れた。その表情が驚きに、そしてすぐに喜びへと変わった。

「サムトーさん!」

 言うなり、少女はサムトーに力一杯抱き着いた。

「また会えてうれしいです」

 周囲の目も気にせず、顔を胸に押し付けている。お互いに好き会っているのがありありと分かり、リーシアが小さくため息をついた。こんなにかわいい相手なら仕方ないかと思ったのだった。

 やがて、その少女はサムトーから離れると、背後に控えていたリーシアに気付き、言葉を掛けた。

「驚かせてごめんなさい。私はアスリ。侯爵令嬢クローディア様付きの使用人です。あなたは?」

「リーシアです。サムトーさんに面倒を見てもらっています」

 アスリが軽く目を見った。一週間とは言え、互いに分かり合えた仲だ。なるほど優しいサムトーらしいことだと思った。きっとこのリーシアという娘も、何か困ったことになっているのだろうと察した。

「カーラ様にはもう会った?」

 今度はサムトーに問う。

「ああ。夕食後に時間もらった」

「そっか。さすがサムトーさん。じゃあ、着替えてくるから、一緒に夕食食べましょう」

 そう言って自室へと戻っていく。その後ろ姿を見送りながら、リーシアはつぶやいた。

「本当に仲がいいんだ。いいなあ」

「そうだね。アスリはいい娘だし、リーシアとだって、仲良くなれるよ」

 サムトーの返答は、リーシアの思いとずれていた。見られないように小さくため息をついて、小声で愚痴をこぼす。

「そうじゃないんだけどなあ。まあ仕方ないか」

 そしてじっとサムトーを見つめた。

「サムトーさん、かっこいいですし、いい人の一人や二人、いても当然ですよね」

「そう? リーシアも十分かわいいよ。何年かしたら美人になるよ」

 そっか、何年か先かあ。自分の年齢は変えられない。それを自覚して、落胆したリーシアだった。

 そのタイミングでアスリが戻ってきた。

「おまたせ。……って、どうかした、リーシアさん」

「いえ、何でもないんです。……あ、食事一緒にって、私達も食べていいんですか?」

「サムトーさんは、ここで食事したり寝泊まりしていいって、侯爵令嬢の許可を頂いてるんですよ」

 以前、手合わせの褒賞として授かったのである。こんなにすぐまた使うとは思ってもみなかったが。

「じゃあ、三人で行きましょう」

 食堂でそれぞれ夕食をもらい、一緒に食べることとなった。

 アスリはリーシアの事情には触れず、サムトーとの旅の様子を聞いた。いろいろと出来事を話しながら、和やかに食事は進んだのだった。


 食後、応接室でカーラがリーシアの事情を聞いてくれた。サムトーだけでなく、アスリも同席を求め、一緒に事情を聴いていた。

 両親が亡くなり、引き取られた宿で叱責ばかり受けていたこと。叔母が存命で、自分を引き取ってもらえないかと話しに行ったが、生活が苦しくで無理だといわれたこと。元の宿には女将も戻って欲しくないと思っており、自分も戻りたくないと思っていること。そのため今は居場所を失い、どこか住まわせてくれるところを探していること。以前、サムトーが、ここが人手不足気味だと聞いて、一人くらい雇えるのではないかと考えて訪問したこと。それらの事情を説明した。

「なるほど。事情は分かりました。それは大変でしたね」

 カーラが納得のいった表情で答えた。

「一人雇うくらいは問題ありません。侯爵閣下にご許可頂いて、執事頭のハインツさんに話を通せば、あとは契約を交わすだけです」

 あっさりと言われ、リーシアは安堵の息をついた。こうなることを予測して、サムトーはここを勧めてくれたのだろう。信頼が一層深まった。

「問題はリーシアさん自身ですね。ここの仕事も楽ではないですから、それに耐えられるかどうかが一つ。百人いる使用人達と一緒の生活になじめるかが二つ。一番重要なのが、サムトーさんはまた旅に出てしまうことです。置いて行かれることになりますが、大丈夫ですか?」

 リーシアははっとした。居場所を得る代わりに失うものがあることを失念していた。せっかくここまでの旅で仲良くなれたサムトーと別れるのは、確かに辛いことだった。

 しかし、サムトーの好意に、いつまでも甘えるわけにはいかない。それに居場所を見つけてくれる約束で、一緒にいてくれたのだ。その約束が果たされたら、別れるのは当然のことだろう。

 アスリが言葉を引き取った。

「私の場合は、両親に売られてここで働くことになったんですよ。道の選びようもなかったんです。選べるなら、違う場所を求めても良いと、私は思いますよ」

 暗にサムトーと旅を続ける選択肢もあると言っているのだ。リーシアの心情を思いやり、本当は自分こそが一緒にいたいだろうに、そんなことを言えるアスリは、実に優しい女性だった。正確には、サムトーのおかげでそうした長所が開花したのだが。

 しばらくの間、リーシアは悩んでいた。誰も返事を急かそうとはしなかった。しかし、結論は一つしかないだろう。元々、居場所を求めていたのは自分自身なのだから。自分を奮い立たせるようにして、覚悟を決めた。

「せっかくのご厚意、ありがたくお受けします。ここで働かせて下さい」

 きっぱりと答えた。迷いを振り切った表情だった。

「分かりました。では、ちょうどアスリの隣の部屋が空いていましたね。今日からそこで暮らしてもらいましょう。とりあえず、リーシアには、明日からアスリに付いて、クローディア様のお世話から始めてもらいましょう。ここの暮らしに慣れたら、担当の仕事を正式に決めたいと思います」

「分かりました。アスリさん、よろしくお願いします」

「こちらこそ。新しい仲間は大歓迎ですよ」

 二人が握手を交わした。サムトーという妙な縁でつながりのあることが、互いに親しみを感じさせた。

「それからサムトーさんは、何泊されますか」

 それまで黙って推移を見ていたサムトーは、リーシアが居場所を得たことに安心していて、自分のことをすっかり忘れていた。せっかくまたここに来て、一晩で去るのも惜しい気がする。何より、アスリやリーシアとは、もう少し一緒にいたいし、いるべきだろうと思った。

「そうですね。三泊ほどお世話になろうかと思います」

 アスリが口を挟んだ。サムトーがいてくれる、この機会を外すわけにはいかない。

「サムトーさん、私、明日夜番、明後日昼番、三日目が休日なんです。また一日ご一緒しませんか? リーシアの観光案内も兼ねて」

「そうなんだ。じゃあ、あと四泊、お世話になってもいいですか」

「もちろん、ご令嬢の許可がありますから、何泊でも。この前と同じ、三階の東奥から三番目の部屋をお使い下さい」

 カーラの許可も下り、サムトーはまたここで世話になることとなった。喜んだのはアスリとリーシアである。とりあえず、同じ場所にいられると思うだけでもうれしいのだった。

 その後、三人はアスリの案内でリーシアの部屋へと向かった。二階西側の中央付近である。宿の一人部屋より広い立派な作りの部屋を見て、リーシアは新しい自分の住居を喜んだ。

「じゃあ、一緒にお風呂に行きましょう。私も支度してきます」

 アスリがそう言って部屋の扉を閉める。そのわずかな隙に、アスリはサムトーと唇を重ねた。初めから機会を窺っていたようだった。

「リーシアも、サムトーさんのこと好きなんだと思います。まあ、サムトーさんは素敵な人だから仕方ないですけど、罪作りですね」

 そんなことを言われてしまった。肩をすくめるサムトーを見て、アスリは笑顔を浮かべて、自分の部屋へと入っていった。

「参ったなあ。……まあ、俺も風呂入るか」

 サムトーも用意された部屋へと向かうのだった。


 翌朝。日課の素振りを終えて一休み。

 頃合いを図って食堂に向かうと、ちょうどアスリとリーシアも下りてきていた。

 三人で朝食を食べる。そこにアスリの友人、マーシャとロッティも一緒になった。

「そっか。新しい子が入るんだ。私、マーシャ。よろしくね」

「私はロッティ。私達、アスリと同じ十六才なんだ。仲良くしようね」

 そんな出会いもあった。

 食後は料理長のハルマン達、厨房の料理人を紹介してもらった。

 それからカーラが使用人の服を二着、持ってきてくれた。リーシアの分である。一度着てみたが、不具合もなく、大きさもちょうど良かった。今日の昼から、これを着て仕事をするんだと、リーシアが気持ちを引き締めた。

 この使用人棟では、洗濯は全員分を一括して担当者が行う。取り込んだ服は部屋番号を見て届けることになっている。なので、服に部屋番号を記しておく必要があった。アスリがそう説明し、リーシアの服に、部屋番号を縫い取った布を着けてくれた。

 その後は、アスリから提案があった。

「今日は遅番で、昼食後からクローディア様のお世話に入るから。それまで城の案内をするね」

 アスリの案内で城内を順に見て回った。サムトーとリーシアが後に続く。

 石造りの立派な建物が並ぶ間を、三人で歩いていく。庭園もあって、花壇や樹木などがよく整備されている。

 政務棟は侯爵一族が政務や謁見などに使用する建物である。騎士棟は、騎士が執務などを行う場所で、訓練場所や書類の保管庫もある。防衛棟は軍事施設で、戦闘時の作戦指揮を行う場所であり、倉庫や武器庫もここにある。居館は文字通り貴族の住居である。これらの建物で、清掃などの整備管理を行うのは、騎士が自ら当たる場合もあるが、大半は使用人達である。そして使用人棟。使用人の大半、百人ほどの人間が暮らす建物である。

 一通り見て回ると、昼食にはやや早いといった時間だった。庭園の長椅子に腰掛け、小休止となった。

「お城はどうだった?」

 アスリが優しく尋ねてきた。

「すごく素敵な場所ですね。私、ちゃんと仕事できるか不安です」

「クローディア様はお優しい方だから、大丈夫。失敗しないかとかは考えないで。落ち着いて振る舞うことが大事だから」

「そうですね。ありがとうございます。アスリさん、これからもいろいろと教えて下さいね」

 昨日風呂に入りながら、いろいろと話をしたのだろう。同じ住む場所を追われた者同士、同じ人を好きになった者同士、共感する何かがあるようだった。まだ会って二日目だが、すでに仲も良いようだった。

 この調子なら、他の使用人達になじめるだろうと、サムトーはほっと胸を撫で下ろした。アスリともリーシアとも偶然の出会いだが、巡り巡って今度はその二人が出会い、仲良くなっている。人の縁とは不思議なものだとしみじみ思う。

 しばらく景色を眺めてから、三人は昼食を取りに戻った。一番乗りで、他の使用人達はまだいなかった。


「この娘が新しい使用人なのですね。話は聞いています」

 午後一番で、侯爵令嬢クローディアの私室に仕事に向かい、アスリがリーシアを紹介した。

「リーシア、十二才です。ご令嬢にはご機嫌麗しく存じます」

 さすがに相手は雲の上の身分である。リーシアもかなり緊張していた。

 クローディアの方は、まだ幼い使用人を温かく見つめている。緊張されるのに慣れていることもあり、穏やかに尋ねてきた。

「まずは、うちで働くことになった事情を聞かせてもらえますか」

「はい、分かりました」

 かいつまんで事情を説明する。聞き終えた時、クローディアがため息をついた。

「虐待とまでは言えないかもしれませんが、叱責ばかりとはひどい話ですね。それに生活に苦しむ人はまだまだ多いのですね。我が侯爵領でも、一層民の暮らしに気を配ることに致しましょう」

 この日の遅番はアスリとリーシアの他、テルマという中年の侍女が一名である。三人が令嬢に無言で一礼した。同意を示す礼だった。

「それにしても、またサムトーですか。今滞在してるのですね。これはお兄様にもお知らせしなくては」

 嬉々として立ち上がり、兄の所へと向かう。この時間は騎士棟で訓練の監督をしているはずだった。三人の侍女がそれに従う。

 それなりの距離を歩いて、訓練場に着く。

「ローレンツ兄様」

 呼びかけると、サムトーと同年代の公子が振り返った。貴族の若様だが、この城では騎士隊長に次いで二番目に強い凄腕である。

「どうした、クローディア」

「サムトーが来ているそうですよ。また一戦したくありませんか」

「したいのはお前だろう。だが、せっかくいると言うなら、私ももう一度手合わせしたいな」

 この令嬢も城で十指には入る腕前なのだった。凄腕の兄妹二人が、顔を見合わせて笑い合った。

「明日の午前中、ちょうど訓練の時間だ。そこにサムトーを呼ぼう」

 公子の言葉で再戦が決まった。貴族の言葉は限りなく絶対に近い。

「アスリ、明日の午前十時に、この訓練室にサムトーを呼んで下さい」

「はい。確かに承りました」

 意外なことの成り行きに、リーシアが驚く。貴族のご子息とご令嬢が、旅の剣士と手合わせするなど、身分差を考えれば普通はあり得ない。だが、剣を極めるためなら、身分差などお構いなしなのがこの二人だった。

 その後は、クローディアの後について、視察のお供をしたり、図書室での読書に付き合ったり、お茶汲みをしたり、そう大した仕事はなかった。その後、入浴や着替えの世話、食事の給仕が大変で、テルマの指示を受け、アスリに教わりながら何とか仕事をこなしたのだった。


 翌日、午前の学習を切り上げ、訓練服に身を包んだクローディアは、楽しそうに訓練室へ向かった。アスリやリーシア、テルマも一緒である。

 訓練室内では、ローレンツ公子以下直属の騎士五人と、二個小隊二十人が訓練中だった。交互に基本の型を打ち合う基礎訓練だった。

 そこに入ったクローディアは、木剣を手にすると軽く素振りを始めた。約束の時間まであと少しである。

 ローレンツが全員に休憩の指示を出した。次いで、サムトーという噂の旅の剣士が来て、クローディアとローレンツが手合わせするから、それを見学するようにという指示も出している。水を軽く飲んで渇きを癒すと、体を伸ばして寝そべり、体力を回復させる。やる気満々だった。

 しばらくして、十時の鐘と同時にサムトーが現れた。こちらはいつもの格好に手ぶらである。のんびりした感じが、いつものサムトーだった。

 ローレンツが立ち上がり、嬉しそうに挨拶する。

「意外と早い再会でうれしいぞ、サムトー。事情はすでに聞いている。新しい使用人を紹介してくれたこと、礼を言う。それから、今回も手合わせに来てくれたこと、感謝する」

「ありがたきお言葉。ご期待に沿えるよう、尽力いたしましょう」

 話した後は、妹に座を譲る。クローディアも闘志を燃やしている。

「二十日程度ですが、訓練は怠っておりません。どのくらい迫れたか、楽しみにさせてもらいます」

「分かりました。お手並みのほど、僭越ながら拝見させて頂きます」

 サムトーが木剣を取る。前回と同様、長さや太さが同じ物を選んだ。

「では、構え。始め!」

 ローレンツの合図で、二人は剣を構え、動き出した。今回はサムトー自ら間合いを詰め、軽く攻勢に出ている。クローディアの防御は完璧で、三撃目の後、鋭い反撃を放ってきた。ギリギリのところで打ち払うと、攻守交代となり、クローディアの猛攻が始まった。

 打ち下ろし、横薙ぎ、突きなど基本通りなのだが、精度と速度が上がっていた。一つ受け流しても、すぐに次の攻撃に移ってくる。足も小刻みに使って、左右から揺さぶりをかけてくる。確かに上達していた。

 三十合ほど打ち合っても決着がつかず、猛攻を加えていたクローディアの息が上がり始めていた。その隙を逃さず、サムトーは突いてきた剣を体ごと避け、素早く踏み込むと、クローディアの喉元の手前で寸止めした。

「そこまで。勝者、サムトー」

 周囲の騎士たちから驚きの声が上がった。これほど高度な攻防は滅多に見られるものではない。二人の腕前に、心から敬意を抱いた。

「さて、次は私だな」

 ローレンツ公子が前に出る。サムトーは木剣を公子と同じ物に持ち替えた。クローディアが号令をかける。

「双方、構え。始め!」

 先程と同じく、サムトーから攻勢に出た。妹以上に防御が上達していて、何発打ち込んでも全て受け流されてしまう。サムトーの剣先がそれた一瞬の隙を突いて、ローレンツが反撃に出た。重く早く鋭い斬り下ろしに、受け流せば剣がもたないと感じたサムトーは、体ごと横に動いてそれをかわした。

 そこからまた攻守交代である。この兄妹は、攻め手の時の方が生き生きとしている。自由自在とも言える連続攻撃を加えてくる。それをギリギリで見切って、全て受け流していく。

 同じように三十数合打ち合い、決着はつきそうにない。公子が攻撃を切り替え、一撃の重さ重視で打ち込んできた。うかつに受ければ木剣が折れそうな勢いである。

 五撃目に斬り下ろしてきたわずかな隙をサムトーが突いた。踏み込みながら体ごと右前方にかわし、突きをローレンツの喉元の手前で寸止めした。

「そこまで。勝者、サムトー」

 またしても騎士達から驚きの声が上がる。何せ、城で二番目に強い公子を負かしたのである。その実力に感服していた。

「相変わらず見事な防御だ。そして、攻撃に移る僅かな瞬間に回避に入り、体ごと避けて反撃するのか。見事だ。良いものを見させてもらった」

 ローレンツがそう評すると、騎士達に向き直った。

「諸君にも良い学びとなったであろう。一手一手の攻撃と防御を極めることや、また相手の攻撃を予測し、回避することの重要性が理解できたことと思う。今日、これからの訓練に生かして欲しい」

「は。了解致しました!」

 騎士達が訓練に戻る。今度は双方での打ち合いになった。相手にけがをさせないよう、寸止めで打ち合うのである。

「いやあ、それにしてもサムトーは強い。楽しかったぞ」

 ローレンツが声を掛けてきた。

「今回もかないませんでしたね。上には上がいると分かると、訓練にも一層身が入りますね」

 クローディアも同じようにうれしそうである。

「剣士として、恐悦至極に存じます。お役に立てて幸いです」

 サムトーも大仰な返事を返す。

 ここまで黙って見守るしかなかったアスリとリーシアだが、サムトーが強いと知っていても、明らかに当たれば大ケガする一撃の応酬だったから、ハラハラしながら戦いを見守っていた。それを事も無げにこなし、見事に勝って見せる強さに心底驚いていた。戦いが終わって、大きなため息をついてしまったくらいである。

「今日はご苦労でした。今回の褒賞です」

 クローディアがテルマから金貨三枚を渡させた。サムトーが拝謝して受け取ると、侍女三人を連れて立ち去って行った。

 ローレンツが直属の騎士にも教えてやって欲しいと頼み、サムトーはその後昼食まで剣の手合わせをすることになった。公子の強さに追い付くべく、どの騎士も真剣で、サムトーはその姿勢と腕前とに感心しながら、稽古をつけるのだった。


 アスリとリーシアが使用人棟の食堂に戻ったのは、一時の鐘が鳴る少し前である。昼番だったので、クローディアの昼食の給仕があったのだ。

 サムトーもそれを知っていて、二人を待っていた。せわしないが、昼食を手早く済ませ、二人は令嬢の元へ戻るのである。

「ご苦労様。さ、一緒に食べよう」

 サムトーに明るくそう言われて、二人共うれしそうな表情を浮かべた。

 三人で昼食をもらい、一緒に食べ始める。サムトーとしても、やはりこの二人と一緒に食べた方が、一人よりおいしく感じるのだった。

「本当にびっくりしました。本気で撃ち合うんですから。ケガしないか心配でしたけど、サムトーさん、物凄く強いんですね」

 リーシアが食事の合間に、先程の感想を言う。

「そうなんですよね。私も初めて見た時、びっくりでした」

 アスリも似た感想だったようだ。

 サムトーは心配かけたことを詫びた。

「ごめんな、驚かせて。でもまあ、剣士だから、あのくらいは当然」

 なぜそこまでの腕前があるのかは、二人に限らず、城の誰にも話していない。素性が知れたら大事である。旅の剣士だから、という口実で通しているが、この侯爵領では案外すんなり受け入られていた。

「それより、リーシアは、仕事が順調そうで何よりだな」

「はい。アスリさんのおかげですね。それに、ここはクローディア様も含めて、みな良い方ばかりでありがたいです」

 宿で叱責を恐れていた頃は失敗ばかりだったが、やはり気持ちが解放されると、何事にも落ち着いて取り組めるので、うまくいくだろうという見込みに間違いはなかった。年の近いアスリが教えてくれることも大きい。

「そっか。ありがとな、アスリ」

 頼れる娘と知り合っていて、心の底から良かったと思った。

「こちらこそ。リーシアみたいないい人を紹介してくれて、クローディア様も喜んでおられましたよ」

「それは良かった。二人共、午後も頑張ってな」

「うん」

 二人の返事が被った。思わず顔を見合わせ、笑顔を浮かべた。

「そろそろ戻りましょう」

 アスリがそう言って、食事を急ぎ始めた。リーシアもそれに倣う。まるで姉妹のようで、サムトーも顔をほころばせた。


 夕食の時間までは、水汲みや薪運び、洗濯物配りなどの仕事を手伝って過ごした。お調子者らしく、手伝う相手に冗談などを飛ばしながら、楽しく仕事をしていた。何事も楽しいのが一番、というのがサムトーらしい。

 夕方、五時の鐘が鳴ると、あちこちで仕事をしていた使用人達が戻ってくる。アスリとリーシアも同じである。サムトーは出入口で待っていた。

「お帰り。お仕事お疲れ様」

 サムトーが二人を労うと、笑顔が返ってきた。

「無事終わりましたよ。リーシアもよく働きました」

「出迎えてくれたんですね。ありがとう。今日も頑張れました」

「じゃあ、風呂の後、夕食でまた会おう」

 二人は使用人服を着替えに部屋に戻る。そのまま風呂に直行である。サムトーも同じように風呂へと向かった。

 百人以上が生活する場所なので、風呂の広さも公衆浴場に匹敵する。他の使用人達に混じって、サムトーものんびり湯に浸かる。この旅の剣士が傷だらけなのを皆知っていて、好奇の視線を向けられることもない。

 夕食も三人で食べたが、そこでサムトーの顔を見知っていた使用人達が、次から次へと声を掛けてきた。お調子者のこの剣士は皆に好かれていた。合わせて新人のリーシアに挨拶していく。おかげで中々食事が進まなかったほどである。

 夜はサムトーの部屋に集まり、ここを出てから戻ってくるまでの旅の話をした。リーシアの事情はもう知っていたので、それ以外の事を話した。リーシアが景色を物珍しそうに眺めていたこと。たまに寄り道をして珍しい草花を見たこと。宿の生活で、リーシアが一人を怖がったので、二人同室だったこと。夕方宿の室内に洗濯物を干した時、下着が丸見えでリーシアが恥ずかしがっていたこと。そんなちょっとした出来事を楽しそうに話した。

 アスリもサムトーに救われた話をした。両親に売られて、ここタルスト城で働くようになってからも、自分には価値がないと思い込み、休日には何もする気が起きなかったこと。サムトーと出会って、自分は、いやそれ以外の他人も、そこにいていい存在なのだと気付けたこと。仲間と一緒に楽しい時間を過ごすことの大切さを知ったこと。二人で城外の丘まで出かけたこと。

「私やリーシアが救われたのは、サムトーさんのおかげですね」

「本当にそうです。もし会ってなければ、今頃どうしていたか……」

 二人はサムトーに深い感謝の念を抱いていた。だが、サムトー自身は、成り行きに任せて、自分のしたいことをしただけなのだ。それでも二人の役に立てたことは意味のあることだったし、良かったとも思っていた。

「俺の方こそ、二人に出会えて良かったよ。……そうそう、明日は休日だったよな。三人でリーシアに街の案内をするのでいいのかな」

「いえ、お二人のお邪魔になるのは、ちょっと……」

 リーシアが珍しく遠慮した。サムトーとアスリが、ただならぬ仲なのに気づいたからだ。

 アスリが立ち上がり、サムトーの唇に自分の唇を重ねた。リーシアの見ている前である。リーシアが目を丸くした。サムトーもアスリのこの積極的な行動には、さすがにびっくりしていた。

「いいの。私達、このくらい仲いいから大丈夫。リーシアだって、明日一日で、サムトーさんとお別れになるんだから、変な遠慮はしないでね」

「わ、分かりました。……何だか妬けちゃうなあ。私も、あといくつか年上だったら良かったのに」

 リーシアも、自分の気持ちにあった、もやもやの正体が分かったようだった。そう自覚して、怒りにも似た嫉妬が湧いてくる。だが、頼りになる先輩のアスリの良さも十分知ったので、嫉妬の行き先に困るのだった。

「私だって、リーシアは二人で旅できて、いいなあって思ってるんだから、お互い様ですよ」

 アスリの口から、実は軽い嫉妬心のあったことが話された。この人もそんなことを思っていたのか。旅の間はリーシアがサムトーを独占していたわけで、それを申し訳なく感じてしまった。確かにお互い様だった。

 当のサムトー本人は、これほど二人から好かれていると知って、本当にうれしいと思っていた。自分も二人のことは、形の違いはあるが、好きなのは間違いなかった。同時に、こんないい加減な自分を好きになって、今後大丈夫なのだろうかと心配にもなる。

 とは言え、明日は三人で目一杯楽しく過ごせればいいかと思う。いい加減さに磨きがかかり、旅に出る以外のことは、考えも結構適当だった。

 三人は結構な長話をしていたようだった。ちょうど消灯の時間になった。担当が一部を残して、廊下の燭台を消して回っていた。

「じゃあ、また明日だな。朝食で会おう」

「うん。また明日」

 アスリとリーシアは自分の部屋へと戻っていった。

「いい娘達だよなあ」

 二人が楽しめるように、明日も頑張ろうと思うサムトーだった。


 翌日。約束通り、三人で朝食を済ませると、さっさと身支度を済ませて城下町へと出かけた。

 最初は西にある工房街を訪ねた。侯爵領周辺で必要な物資の生産を行う場所なので、様々な工房が軒を連ねていた。紡織、被服、陶器、金属加工、ガラス加工、木工、製紙、製糸、醸造など、多岐に渡る工房があった。リーシアのいたフリントの町にはエールの醸造所くらいしかなく、製品を生産する作業の様子を初めて見て、圧倒されていた。この町出身のアスリでさえ、小さい頃に数回しか来たことがなく、物珍しそうに見て回っていた。

「あんな熱いところで、ガラスって作られるんですね」

「布や糸を作るのが、これほど大変だとは知りませんでした」

「物作りの大変さを知ると、大事に使わないとって思いますね」

 リーシアの感想はもっともだった。アスリもしきりに同意していたし、サムトーも同感だとうなずいていた。

 頃合いを見計らって、昼食を取りに商店街に向かう。

「最初からすごいもの見ちゃいましたね、アスリさん」

「本当ですね。ここまですごいとは思わなかったです」

 まずは満足してもらえたようだ。サムトーも良かったとばかり、軽い笑みを浮かべた。

 昼食は少し張り込んだ。簡易メニューだが、一応はコース料理になっている店を選んだ。食事は銅貨十枚程度の店が多いが、ここは二十枚だった。その分、前菜、主菜が別々に二皿、デザートとお茶が付く。

「コース料理は初めてです。サムトーさんにはいつも驚かされます」

「私も貧しかったから、こんな贅沢、初めてです」

 昨日サムトーが、金貨の褒賞をもらったところは二人とも見ているので、この程度の出費が造作もないことは承知していた。なので、純粋に好意に甘えたのだった。

「パスタって、作り方でこんなにおいしくなるんですね」

「鶏肉のロースト、香ばしくて旨味もたっぷりで。付け合わせの野菜で余計に味が引き立ちます」

「デザートのフルーツケーキ、こんなに果物が一杯で、贅沢な味わいです」

 おいしい物を食べている時、人は幸福を感じるものだ。リーシアもアスリも、二人共食事の間、ずっと笑顔だった。

「サムトーさんは、こういう店によく来るんですか」

 リーシアの疑問ももっともだ。二人旅の間、昼食はパン屋で買ったものを道端で食べていたし、朝と夜は宿の食事だったから、昼食を料理屋で食べたことはなかったのだ。

「まさか。せっかくの機会だし、二人の喜ぶ顔が見たくてさ、ちょっと贅沢してみたんだよ」

 サムトーらしく調子の良い言い草だった。見込み通り、二人とも喜んでくれたし、自分もうまいものを食べられて満足気であった。

「そういう気遣い、すごくうれしいです」

 アスリが満面の笑みを浮かべて言った。自分のことを好いていてくれることも良く分かったからだった。そして、リーシアにもずっとこの調子で優しかったのだろう。サムトーらしいと思うのだった。

「ありがと。贅沢した甲斐があったよ」

 サムトーも笑顔で応え、食後の紅茶をすすった。


 食事の後は、商店街を見て回った。

 アスリの得意な手芸の店や、アクセサリーなどを扱う雑貨屋などを冷やかして回る。アスリには散々世話になったこともあり、サムトーがお礼として何か買おうと提案した。アスリは遠慮したが、こんな機会もないのでと押し切り、本人の希望で、髪を梳かす櫛を買ったのだった。

 その後、リーシアも住む所が決まったのだから、もう少し衣服を持っていてもいいのでは、という話になり、服屋へと向かった。古着屋と比べ値段が三倍以上になるが、褒賞もあるし、一着くらい仕立ててもいいだろうと考えたのだった。

 見本を手に取り、ああでもない、こっちがいい、などと話をしながら服を選んだ。リーシアにとっては、自分に合わせられていく服はどれも素晴らしく、姿見に映る自分が別人に見えるほどの感覚だった。アスリも自分の服はたいがい使用人仲間のお下がりだったので、妹分にも等しいリーシアに、新しい服を選ぶことをとても楽しんでいた。

 結局、アクセントにリボンをあしらった、薄黄色のワンピースにすることとなった。置いてあるのはあくまで見本で、採寸した後、客に合わせて見本と同等の服を仕上げることになる。リーシアが成長途上ということもあり、多少大きさに余裕を持たせて作ってもらうことにした。銀貨三枚、これもサムトーがきっちり支払った。仕上がりは一週間後である。

「サムトーさんに、着たところを見てもらえなくて残念ですね」

「そうですね。でもこんな良い物頂いて、本当にうれしいです。ありがとう、サムトーさん」

 サムトーは真剣にうなずいた。

「リーシアは、叔母さんの生活が苦しいからって、銀貨を分けてあげてただろ。それと同じで、俺だって、リーシアは服をあまり持って来なかったんだから、一着くらい用意してやりたかったんだよ。旅に付き合ってくれたお礼代わりさ」

 言い終えてから、ちょっと格好つけすぎたかと思った。リーシアもアスリもすごく感心していて、ちょっと照れ臭い。

 それから大広場に向かい、露店で煮た果物とクリームの入ったクレープを買った。三人で長椅子に腰掛け、景色を眺めながら食べる。普段の生活では甘い物を口にすることは少なく、二人共顔を緩めて喜んでいた。

 ふと、そこでリーシアが、気にしていたことを口にした。

「サムトーさんは、一つ所に住もうとは思わないのですか。私が雇ってもらえたみたいに、ここの侯爵家に勤めてもいいでしょうに。でなくても、これまでだって、居場所はあったと思うんです」

 確かに、以前いた猟師の所でも、旅芸人の所でも、そこでずっと過ごしていくものだと思っていた。だが、素性が知れる危険が生じて、止む無く一人旅を始めたのだ。その後、引き止められることは幾度もあった。だが、長居が危険なことに変わりない。そして、その事情を話すことは、さすがにこの二人にもできないことだった。

「そうだな。でも話せない事情があって、旅を続ける必要があるんだ。それに、もう旅は俺の一部みたいなものだから」

 それも本当の気持ちだった。こうして旅を続けるうちに、いろいろな人との出会いが素晴らしく感じられるようになった。別れは寂しいが、新しい土地や人との巡り合わせへの期待も、今は大きい。

「ずっと一緒にいられたらいいのに。アスリさんもそう思いませんか」

 アスリにも、リーシアの気持ちは良く分かる。彼女も同じことを思っているからだ。しかし、旅の途中、自分のために足を止めて、親切にしてもらえただけでも、幸運な事だとも思っていた。

「そうですね。私も一緒にいたいです。サムトーさんは大事な恩人です。だけど、きっとサムトーさんは次の旅先でも、新しく出会った誰かを助けると思うから、私は旅を続けるのを応援します」

 アスリの言葉は、リーシアの心に染みた。偶然の出会いがなければ、助けてもらうこともなかった。幸運な出会いだったと思う。サムトーには、そんな出会いがこの先もあるのだろう。

「そうですね。アスリさんの言う通りかも。この先も、私みたいに、誰かが助けてもらえるかも知れないですよね」

「ありがと。俺も二人の期待に応えるよう、旅先でも頑張るよ」

 サムトーがそう締めくくった。

 その後は、他愛のない話をしながら、クレープを味わうのだった。


 夜は三人でカードをした。一人増えるとより熱が入るらしく、リーシアが夢中で楽しんでいた。アスリも初めてのババ抜きを心から楽しんでいた。サムトーも適当に手加減して、勝ったり負けたり、楽しくゲームしていた。

 やがて消灯時間も近くなり、三人で過ごせる時間もあとわずかとなった。二人は明日は早番で、また朝食後にお別れとなる。

 アスリがサムトーにキスをした。これで最後だろうと、唇を重ねている時間がいつもより長かった。そのままサムトーに抱き着き、思いの丈を一言に込めた。

「本当に大好きです」

「ありがとう。俺も大好きだ」

 サムトーが優しく抱きしめ返した。伝わってくる体温が、互いを大切な存在だと感じさせてくれる。それでも二人は別れを覚悟し、この瞬間だけの幸福を味わっていた。

 しばらくして、二人が体を離す。

 アスリはリーシアを促した。これで最後なのだと、言外に伝えていた。

 リーシアも同じようにサムトーに抱き着いた。

「私も大好きです。本当にありがとう、サムトーさん」

「こちらこそ、一緒に旅して、楽しかったよ」

 サムトーが優しく抱きしめ返す。リーシアの瞳に涙がにじんでいた。恋心は届かなかったが、自分を救ってくれた恩人の存在を、体中で感じていた。それは幸福な時間だった。

 そして消灯の時間になり、別れを惜しみながら二人が部屋を去る。

 二人の好意は、サムトーの心に温かなものを残してくれていた。


 翌四月二十六日。サムトーが旅立つ日である。

 三人は朝食を一緒に取り、ほんのわずかな残された時間を共有した。早番の二人はすぐに仕事だ。貴重な時間だった。幾度も視線が絡み合い、その度に微笑み合った。

「サムトーさん、ありがとう。元気で、良い旅を」

「アスリこそ、ありがとう。元気で、良き日々を」

「何度でも言うね。本当にありがとう」

「リーシアも頑張ってな。楽しい毎日が送れることを祈ってる」

 短く言葉を交わして、食事を済ませる。

 いよいよ、これでお別れである。最後は握手だった。固く手を握り合う。

「サムトーさん、いってらっしゃい」

「ああ。いってきます、アスリ、リーシア」

 そして手を振り合って、それぞれの場所へと向かう。

 旅立ちは寂しくて、それでも新しい期待に胸が膨らむ。

 また新たな出会いがあるだろう。

 サムトーは荷物を担ぐと、城を出て、のんびりと歩き始めた。


──続く。

今回虐待がテーマでしたが、主人公がサムトーなのであまり重い話にはなりませんでした。行き先を失う想定で書き進めるうちに、サムトーが、そうだ、こうしよう的な感じの発言をしだして、気がついたら姉妹のような関係もできて、めでたしな話になりました。希望が持てるような結末にしたいという、筆者の好みがそのまま出た話です。お楽しみいただければ幸いです。よろしければ、評価、感想などもお願いします。

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