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いい加減な剣術師範代

 今日も元気だ、旅カモメ

 流れ流れて港町

 いつまでたっても逃亡奴隷

 たまにゃ羽でものばしたい

 剣術道場にやってきて

 きれいな娘と恋をした

 剣士でスケベでお調子者の

 我らがサムトー、今日も行く

 時に、神聖帝国暦五九八年四月。

 春の風が優しく頬をなでる。

 青い空、白い雲。うららかである。

 ざんばら頭の茶髪が柔らかくゆれた。

 彼の名はサムトー。年の頃は二十くらい。それなりに端正な顔立ちで、一応は美男子に属するだろう。比較的長身で細身だが、衣服の内側には鍛えられた肉体が隠されている。猫科の肉食獣のような、しなやかな筋肉の持ち主だ。剛力と言うほどではないが、見た目以上に敏捷で膂力がある。背には刀身九十センチほどの長剣を負い、腰には刀身六十センチほどの反りのある短刀を下げている。

 長剣はやや細身の普通の鋼鉄の剣だが、短剣の方は鏡のようにきれいに磨かれている。地金を重ねて良く鍛え上げた上に、魔道士が呪術を封じ込めたものだ。血の曇りどころか、刃こぼれもしないという。寝刃を合わせる必要のない逸品であった。

 要するに、彼は、若年ながら一応は剣士であった。

 木々の間を抜けると、眼の前が大きく開けた。小高い丘の上だった。

 はるか遠くに、空と海の境がゆるやかな弧を描いている。

「あれが海か……」

 何という広さだろうか。果てしなく、どこまでも続いている。陳腐な感想だが、生まれて初めて海を見たのだから、仕方ないだろう。

 足下には港町があった。ケープガルという、人口十万ほどの大きな都市である。ここ神聖帝国と、地方の小諸国を結ぶ内海貿易の中継地として栄えている。

 サムトーはのんびりと丘を下っていった。


 さすがは大きな港町だ。

 遠めに見ても建物はみな大きく、複数の煙突から盛んに煙が立ち上る。一つの建物に何家族も住んでいるようだ。街路には石畳が敷き詰められている。

 港に出ると、見事な船舶が所狭しと並んでいる。荷揚げや荷下ろしが行われ、船乗り達が良く日に焼けた逞しい肉体に汗を流しながら、黙々と働いている。

 間近に海を見た。

 潮の匂いがした。

 寄せては返す白い波。桟橋にぶつかって砕けた。

 港から離れた砂浜では、波が浜を洗っていた。


 街中に入ると、まず大通りに出た。

 ここには立派な店構えの豪商がいくつも並んでいる。酒場や賭場までいくつかあった。高級な店ばかりで客層も富裕層ばかりのようだった。サムトーは素通りする。

 外れの広場には市が立っている。露店行商の売り声が響く。猥雑な感じのする、こちらは庶民の街だ。大勢の買い物客で賑わい、あちこちで値段の交渉が行われる。

「うーん、やっぱ、こう賑やかでなきゃ」

 ここ最近放浪の旅を続けてきた。山の中で猟師たちとも過ごしたし、旅芸人の一座で用心棒を務めたこともある。だが、元々彼は都会の貧しい通りの育ちだったから、こういう雰囲気が好きだった。

「こういう時って、何かしらゴタゴタに巻き込まれるんだよな」

 楽しそうに不吉な予言をした。

 その言葉が引き寄せたのでもあるまいが、少し離れた路地で、喧騒が起こったようだ。怒号が聞こえ、野次馬が集まっていく。

 口笛を一つ吹くと、サムトーも彼らの後に続いた。彼も野次馬はかなり好きだった。明らかに、先程以上に楽しげな表情を浮かべている。

 着いた先は、いわゆる横町だった。その少し開けた場所で、大勢の野次馬が群がっている。中で何が起きているかは良く分からない。

「はい、ちょっとごめんよ」

 サムトーは、何の遠慮もなく人垣を押しのけ、前へ出た。

 えらく派手な服装をした若い男が四人、誰かに難癖をつけているようだった。この平和な時代、神聖帝国の帝都を始めとした都会では、金と暇を持て余した連中が、こんな風に派手な服装をしていることが多かった。その上、なりふり構わず喧嘩を売って回る。自分の強さを誇示することをカッコイイと勘違いしている、ただの迷惑な存在である。

 対するは、剣術着の少女で、年の頃は十七、八くらいだろうか。その背後には十才くらいの少年がかばわれている。

「……だからよぉ、そこのぼくちゃんが悪いんだぜ」

「そのことは、もう謝ったでしょう」

「口で謝られてもなぁ。誠意を見せる気なら、一緒に来いよ」

「お断りします」

 少し成り行きを見守っていると、どうやら、少年が男達にぶつかるか何かして、それを口実に少女に難癖をつけているらしい。

 よくよく見ると、清らかな感じの、かなりの美少女だ。空のように青く澄んだ瞳。それより濃い色の艶やかな髪を無造作に後ろで結わえている。顔立ちは凛々しく、くっきりとした目鼻が活動的な印象を与える。もちろん、男共の容貌などには目もくれないサムトーである。

「うーん、かわいい娘だなぁ」

 声に出したおかげで、対決している当人達が視線を向けてきた。

 愛想良く、手を振って応えた。

「何だ、てめぇはっ!」

 矛先が向いても、サムトーは動じない。

「見りゃ分かるだろ。ただの野次馬だよ」

「おめぇ、俺達をバカにしてんのかぁ?」

 サムトーは凄んでみせる男達を一通り見回すと、涼しげに言った。

「当たり前だろ」

 余裕たっぷりである。その泰然とした様子が男達の逆鱗に触れた。

「この野郎、ふざけやがって!」

 彼らは武芸の修練帰りなのか、割った竹を革袋に入れた剣、つまり道場で使う竹刀を持っていた。なまじ腕を磨いているので、自分が強いと錯覚している感じである。男達はサムトーに襲いかかろうとしたが、少女が横槍を入れた。

「余計なことしないで、あなたには関係ないわ」

「悪い悪い。でもな、俺、余計なことするの好きなんだよ」

 サムトーが大げさに謝って見せると、男達が憤慨した。

「てめぇ、ケンカ売ってんのか!」

 怒号を浴びると、よけい生き生きとするのがこの男だ。不敵な笑みを浮かべて、挑戦的な言葉を吐いた。

「売ってもいいけどよ、あんたらに買えるか? ……高いぜ」

「どこまでもふざけた野郎だ、前へ出な!」

 男達に言われるまでもなく、サムトーはふざけていた。

「それじゃあ、ま、お言葉に甘えて」

 前に歩み出ると、男達がどよめいた。サムトーが背と腰に剣を下げていたからである。彼らに真剣で人と渡り合った経験はない。気付くのが遅いのもやむなしであろう。

「……あ、そうか。悪い悪い。俺は剣を使わねぇから、安心してかかってきな」

「そうかい。じゃ、遠慮なく行くぜ」

 男の一人が竹刀を構えて進み出てきた。

「ちょっと、待ちなさい」

 という少女の制止も、もはや何の役にも立たない。

「俺達ボードウィン道場の剣を、素手で受けようとはな……」

 威嚇しながら迫る男。

 相変わらず楽しそうに迎え撃つサムトー。

 ふと、急に何かを思いだしたように、ポン、と手を叩く。

「なあ、お前さん、このかわいいお姉ちゃんに惚れてんのかい?」

「な、なんだよ、急に」

「いや、隠さなくてもいいぜ。すげぇかわいいもんな、分かるよ」

「い、いや、確かにかわいいけどよ……」

 と、その一瞬の隙に、サムトーが軽く踏み込み、手刀を振るった。強烈な一撃が正確に延髄を見舞い、男はあっさりと地に倒れた。

「見たか、これぞ、秘剣『お姉ちゃんに気を取られるな』だ」

「何て、卑怯な奴……」

 男達だけでなく、野次馬達までがブーイングを発した。

 非難の嵐に軽く肩をすくめると、サムトーは、倒れた男の傍らに転がっていた竹刀を取り上げた。

「しょうがねぇ。じゃ、これで一つ芸でも」

 言うなり、竹刀を高く放り上げた。観客達が呆気にとられる間に、地に落ちてきたところを後ろ足で蹴り上げ、再び天に舞わせた。また落ちてきたところを前蹴りに、次は横に蹴り、また後ろで蹴りと、足だけで見事に操って見せた。

 いくらかして、最後は後ろ宙返りを決めながら、見事に空中で竹刀をつかんだ。

 そして、陽気な声で問いかけた。

「どう?」

 拍手と歓声、それに口笛が沸いた。バカウケである。

 こうなると男達の立つ瀬がない。

「この野郎、今度は俺が相手だっ!」

 次の男が突進した。さっきの男より出来そうである。体格も良い。

 そこへ、竹刀を構えた少女が割って入った。

「こちらも、今度はわたしが相手よ」

 一瞬、男の腰が引けたが、逃げたら恥をかくだけである。

「しゃらくさい!」

 猛然と襲いかかる。

 少女は、容赦ない打ち込みを一つ一つ丁寧に受け止め、あるいは受け流し、その全てを見事にさばいた。結わえた髪が柔らかく揺れる。きれいな横顔は真剣そのもの。サムトーは遠慮なく見とれた。

「このアマーっ!」

 男が大きく振りかぶった一瞬に、小さく踏み込み、竹刀を横薙ぎに振るった。脇腹を痛打し、男が苦痛にのけぞる。

 さらに水月を一突き。男の身体がくの字に曲り、倒れた。

「ひょーっ、強いねぇ、お姉ちゃん」

 サムトーがまぜっかえす。

 少女はこのふざけた男をキツくにらみ返した。

 そこへ、城の兵隊達が駆けつけてきた。

「おっと、こりゃヤバイ」

 サムトーは尻に帆かけて逃げ出した。野次馬達も散り散りになる。少女も男達も、あっという間にいなくなった。

 逃げながら、サムトーは失敗したような表情でつぶやいた。

「あ、見物料、取るの忘れちまった……。ま、いいか」


   §


 小腹が空いたところで、市の露店でそばを取った。そばと言っても、そばの粉とは限らない。穀類などの粉を麺状にしてゆで、温かいつゆをかけた食べ物を指す。ここで食べたのは、どちらかというとヌードルないしスパゲティに近いものだ。

「腰はしゃっきりぃ~」

 などと言いながら、うまそうにズルズルやっていると、さっきの少女が目の前を通った。男の子は一緒でなく、一人であった。向こうはサムトーに気付かなかったようだ。

 大急ぎで残りを平らげ、勘定を払うと、少女の後を追った。

 何気ない風を装って、少し離れたところから様子を窺う。

 こういうのを『ストーカー』と呼ぶらしいが、この時代にそんな概念はない。サムトーにしても単なる好奇心だけである。

 少女はいくつかの買い物を済ませると、街外れの方へ向かった。

(なるほど、生活雑貨ね……)

 サムトーはまだ後をつけている。

 夕暮れ近く、人通りが途切れたところで、少女が急に振り向いた。

「わたしに何の用?」

「あらら、バレてたか」

 サムトーに屈託はない。陽気に笑って見せた。

 だが、少女の方は真剣な表情で尋ねた。

「あなた、剣士のようだけど、どこの流派なの?」

 この時代、どの国にも、武芸の道場が数多くあった。槍、剣、弓など武器ごとに数多くの種類があり、また庶人などが通う町道場のようなものから王族や貴族だけを対象にしたものまで様々だった。技を極めた一流の武芸者が創始し、後継者に伝えていく長い伝統を誇るものから、独自の技を編み出した弟子が新たに分派したものまで、流派はそれこそ星の数ほどあった。それぞれに独特の工夫があり、そして奥義があった。

 サムトーは少し口ごもった。はっきり言えない理由がある。

「我流……だな」

 言ってから、陽気な口調で付け加えた。

「強いて言えば、『いい加減流』ってとこだ」

 少女が笑った。大輪のひまわりを思わせるような、どこまでも明るく、元気良く、そして美しい笑顔だった。

 サムトーは頬を少し赤らめた。

「さっきはありがとう。『余計なことしないで』なんて言ったけど、本当はうれしかったの。……だって、この街の連中と来たら、わたし達が困ってるのに、助けようって気が全然ないんだもの」

「いや、いや、どういたしまして……」

「ところで、あなたの名前は?」

「サムトー。旅から旅に流れる、いい加減流の剣士さ」

 少女がまたクスッと笑った。

「わたしはエレナ。家は剣術の道場なの。すぐそこだから、お茶菓子くらいなら出せるわ。ちょっと寄ってみない?」

「ほんと? こんなかわいい娘に誘われるなんて、うれしいなあ」

 調子のいい奴である。

「ス・ケ・ベ」

 エレナがサムトーを小突いた。

「……」

「さ、行きましょう」

 サムトーはエレナの後について歩き出した。視線がやや下を向いているのは――彼女にバレると、今度は張り倒されることだろう。


   §


 道場はそう大きくはなかった。

 百メートル四方ほどの敷地に、いくつかの家屋と倉庫、それに道場の建物がある。敷地の半分ほどは庭である。表側は池や植木、置き石などに趣向を凝らした、それなりに見事なものだった。だが、裏庭にはニワトリがいて、放し飼いにされていた。畑もあり、いくばくかの野菜が作られていた。

 エレナは家でなく、道場の方に足を踏み入れた。

 買い物の荷物を渡した。先ほどエレナにかばわれていた少年だ。どうやら弟らしい。一言二言交わし、靴を脱いで板の間に上がった。

 サムトーは驚いた。これまで靴を脱いで建物に上がるという習慣を知らなかったからだ。すね当て兼用の頑丈なブーツを履いていたので、脱ぐのは一苦労だった。

 引き戸を二つばかり開いて、稽古場に出る。中には道場主らしき男が一人いるだけだった。

「父上、ただいま戻りました。客人を一人連れております。危ないところを助けて頂きました」

 エレナの言葉に、道場主は眉を曇らせた。

 そんな様子に構わないのがサムトーという男だ。遠慮一つない陽気な表情で挨拶する。

「あ、どうも。サムトーって言います。よろしく」

「道場主のロドニィだ」

 そう名乗りながら、四十才前後くらいと思われる精悍な男は、射抜くような鋭い眼光をサムトーに浴びせた。

 当の本人は平然としていたが、意外なことの成り行きに、娘の方が驚いた顔をしていた。

「どうなさいましたか、父上」

「お前もまだ修行が足りぬようだな。この男、人を殺したことがある」

 エレナはドキッとしたが、口を鋭くして言い返した。

「そんなはずはありません。ボードウィンの連中と対決していたときも、この人は相手をからかってばかり、とても人を殺せるような人には見えませんでした」

「だから、修行が足りぬと言っておる。この男からは、明らかに血の匂いがする。いや、死の匂いと言うべきか……」

 厳しい眼光のまま、ロドニィはおもむろに立ち上がると、壁に掛けてあった竹刀を取って、放った。

「サムトーと言ったな。それを取れ。立ち合ってもらおう」

「でも、教授料は無料ですよね」

 サムトーは茶化したが、見事に切り返されてしまった。

「ケガの治療代も持ってやる。安心しろ」

 ロドニィが隙なく剣を構える。

 こりゃ、大マジだな……。サムトーは無造作に剣を流した。

 父の実力をエレナは良く知っている。高名な聖騎士でさえ、剣技では彼に及ばないと言われるほどだった。無論、ケープガルの街では随一の腕前だろう。こんなお調子者に勝てる相手ではない。

 エレナが固唾を飲んで見守る中、ロドニィが静かに間合いを詰めた。

 サムトーは動かない。

(このおっさん、結構な使い手だな。……まぁ、顔を潰すわけにもいかねえだろうし、わざと斬られるか)

 だが、達人相手では、竹刀でも相当なダメージを受けるだろう。

(太刀筋が分かれば……。そうか、あれだな。エレナが使ったやつ)

 思い定めると、サムトーも小さく間合いを詰めた。

 間境を超えた刹那、ロドニィが小さく鋭い斬撃を送った。サムトーの脳天を正確に狙っている。

 サムトーはそれを受け流し、上段に振りかぶる。

 その隙を道場主となったほどの剣士が見逃すはずがない。

 ロドニィは小さく踏み込むと、竹刀を横薙ぎに振るった。サムトーの脇腹をしたたかに斬る。確かに、エレナと同じ技だった。太刀行きの速さが段違いだが。

 サムトーが派手に転がって倒れた。

「父上、そこまでなさらずとも――」

 言いかけたエレナがハッとした。

 勝ったはずの父が額に汗をかいている。しかも、脂汗か冷や汗か、ともかく恐怖からくるものらしい。これほどの腕前を持つ父上が、このお調子者の何を恐れたというのだろうか――?

 片や、サムトーの方は、痛そうに脇腹をさすりながらも、無事に立ち上がってきた。明るい表情で言う。

「いやぁ、さすが剣術道場のご師範、俺なんかじゃかないませんよ」

 どうして無事でいられるのだろう。エレナは不思議に思った。彼女の一撃でさえ、ボードウィン道場の男が悶絶するほど痛烈だった。父の技ならなおさらである。それで父は怪訝そうな顔をしているのだろうと推測した。

 ロドニィは知っている。脇腹に喰らう瞬間、サムトーが竹刀の柄で受け止め、さらに横に飛んで威力を削いだのだと。派手に転がったのはそのためである。受け止めた後、反撃をしようと思えばできたはずなのだ。真剣であれば、当然ロドニィは死ぬことになる。娘のエレナに分からぬほどの早業で、ほとんどダメージを受けずにわざと負けて見せる技倆は、超一流の剣士でなければできないことだ。娘と同年代でここまで剣を極めたという事実に、ロドニィは戦慄したのである。

 ロドニィは大きく息をつき、娘に向き直った。

「サムトー君の夕食も用意するよう、ハンナに言っておきなさい」

 そう言い残して、ロドニィは道場の奥に下がった。ハンナというのは、ここの使用人で、中年の女性である。

 この厳格な父が初対面の相手に食事を御馳走するなんて、エレナにはとても信じられなかった。しかも、人を殺したことがあると知りつつ、勧めたのである。一体、何者なのだろうか……。

「え、いいんすか? 悪いなぁ」

 深刻な雰囲気になってきたので、お調子者ぶって言ってはみたが、すでにエレナの眼光は険しくなっている。

「あなた、一体、何者なの……」

 これはマズい。身元を詮索されては困る。自分は何とでもなるが、彼女達に迷惑がかかるかもしれない。

 サムトーは、もったいぶったように、サッと前髪をかき上げた。

「ふっ、ならば本当のことを言おう。……私は、君を救いに来た白馬の王子……。さぁ、ためらわずに、私の胸に飛び込みタマえっ!」

「何、バカなこと言ってんのよっ!」

 エレナの右ストレートが、見事にサムトーの鼻を捉えた。

「ああ、美しい私の顔に、はなぢが……」

「あ、ご、ごめんなさい!」

 慌ててハンカチを取り出し、血をふき取る。

(こんな奴、どうせ大したことないわ。きっと思い過ごしよ……)

 そんな考えとは裏腹に、心の底には暗く重いしこりが小さいながらも残った。

 暗くなったエレナの隙を衝いたか、サムトーが彼女の手を取った。

「ああ、何という美しい手だ。私の姫よ……」

「スケベっ!」

 今度は横っ面を張り飛ばされたサムトーである。


   §


 夕食を御馳走になったはいいが、ロドニィは相変わらず重たい沈黙で、気まずい雰囲気だった。

 ここの家族は三人だけだった。

 道場主のロドニィ、四十才。熟練の剣士だけあって、実年齢に比べて見た目は若い。娘のエレナは十七才。息子クリストフ十一才。元気盛りの年頃で友人も多いそうだ。なお、エレナ達の母親は五年ほど前に病没したという。

 その代わり、庭や畑の面倒を見ているベンという爺さんと、家事一切を切り盛りしているハンナという中年の女性が一緒に食事していた。

 道場主の暗さが座に蔓延したようで、誰も口を利こうとしない。

 サムトーもさすがに押し黙っていると、エレナが何とか場を盛り上げようと、奮闘を始めた。

「この道場はね、私のおじいさんのおじいさんが開いたものなの。百年ほど前の大きな戦争で多くの人が死んだの。だから、街の人が自分の身を守れるよう、剣を教え始めたんだって」

 流派はバイバルス流と言う。エレナの祖父の祖父の名を冠したものである。『己を活かし、他人を活かす』という活人剣を理想とし、エレナの祖父の代には、剣術、槍術、弓術など、ケープガルに十いくつかあった武術道場の中で一番の勢力を誇っていた。

「ところが、ボードウィンの連中が来てから……」

 今から二十数年前のことだ。ボードウィンという男がやってきた。神聖帝国中部にある伯爵領の三男坊だが、そこそこに腕が立ち、他人を利用するのがうまかったため、騎士団内で出世を重ね、聖騎士として王宮に仕えたほどだった。最終的に男爵位まで授かったが、こちらはコネのおかげであった。しかし、素行不良で、何人もの娘や人妻に手を出し、困り果てた身内の者に領地を追い出されていたのだった。

 ボードウィンは、方々を巡った後ケープガルに流れ着いた。男爵の位をふんだんに活用し、あちこちの商人から資金を借り、剣術道場を開いた。腕前は悪くなかったし、『男爵直伝』という看板もあって、たちまち門下生が集まった。街の有力な家や城の貴族や騎士の子弟まで、この道場に通うようになった。

 ボードウィンは、そうした弟子達をうまくおだて上げ、彼らの親を取り込んでいった。人脈が広がると金も集まる。その力を背景に、他の道場を少しずつ乗っ取っていった。十年ほどで、街中にある道場は、みなボードウィンのものとなった。唯一、街外れにあったバイバルス道場が残された。

 ボードウィンの暮らし向きは贅沢で、何人もの妻妾を抱え、毎日が酒池肉林という有様だった。彼の息子達も、そうした贅沢三昧にどっぷり浸かった、ろくでなしである。そこの長男がエレナの美貌を見初めた。名をアーノルドと言い、二十一才。貴族の血ゆえか、端正な容貌をした男である。弟はノーヴィス、十五才。二人とも父の威光もあって騎士に叙されており、その上サムトーよりも美男子だった。

 しかし、エレナは相手にしなかった。見かけはともかく、性格が悪すぎるからだ。だが、何度こっぴどく振っても、執拗に迫ってくる。この日、買い物に出たとき、弟のクリストフが彼らに嫌みを言われた。そのしつこさに腹を立てたクリストフが、竹刀で打ちかかったのである。それを理由に、からまれたというわけだった。

 その説明が終わるのを待ち構えていたのか、ロドニィが口を開いた。

「サムトー君、娘から聞いたが、君は旅をしていると言ったね。どこか、行く当てでもあるのかな」

 唐突な質問に、少し驚きつつサムトーは答えた。

「別にないですけど」

「そうか。もし君が良ければ、しばらくこの道場に滞在しないか」

「え……?」

「そのつもりで娘の後をつけたのだろう?」

「ち、違いますよ。ちょっと話してみたかっただけで……」

 サムトーは珍しく慌てた。ロドニィが初めて笑顔を見せた。

「まあ、それはどちらでも良い。……我がバイバルス流も、ずいぶん寂れてしまった。門下生も少ないゆえ、師範代を抱える金もない。私一人では手が足りないので、娘が師範代として弟子に稽古をつけているが、まだまだ修行不足だ。君に手伝ってもらえると助かるのだが」

「父上っ!」

 エレナとクリストフが同時に大声を上げた。驚いているのは同じだが、一人は多少の期待と反感を、もう一人は断固たる拒絶を示している。

 使用人のベンとハンナも黙って目をむいた。素性を知れない者を置いて、もし何かあったらどうする――そんな表情をしている。

「……」

 サムトーはしばらく沈黙した。

 やがて、静かに答えた。

「せっかくのご厚意ですが、止めておきましょう」

 またもや、お調子者にしては珍しい固い意志であった。ロドニィはわずかに落胆の色を示し、同時に娘の青い瞳に似た色が浮かぶのを見た。

「分かった。……だが、二、三日なら構わないだろう?」

 決してごり押しするわけではない。少しで良いから、自分たちのためにいてくれないだろうか。柔らかな懇願だった。

 サムトーは断ろうとして、負けた。せっかくの誘いだ。それに美少女エレナと多少のおつき合いはできるだろう。……そんな不純な動機はおくびにも出さず、格式張って答える。

「私のような、どこの馬の骨とも分からぬ者に、かような温情をお示し下さるとは、断るも不義。あつかましく、お世話になり申す」

「へぇ、サムトーって、いいとこのご子息だったの?」

 言い方に驚いたエレナが尋ねた。

「んにゃ、ただの旅ガラスだよ。……港町だから、旅カモメかな」

「白馬の王子様じゃなかったの?」

「ああ、それは、さっきの張り手で、廃業することにしたよ」

 二人が笑った。何のことか分からない家族に、エレナがスケベサムトーの経緯を説明すると、みな大笑いした。

 ただ一人笑わなかったのは、ロドニィの息子、クリストフである。

 憤然として立ち上がった。

「姉さんにおかしなマネしたら、承知しないぞ」

 捨て台詞を吐いて、自分の部屋に戻っていく。

 あちゃ~、シスコンだったのね、この子……。サムトーは苦笑した。悪意ではなく、家族の絆に対する配慮の不足を自分の中に感じたからだ。

「幼くして母を亡くしたゆえ、エレナになついてな。あれがもう少し大人になってくれると、道場も安泰なのだが……」

 ロドニィが弁解するように言った。平凡な父親の顔だった。

 サムトーは、それをうらやましく感じた。


   §


 サムトーは目を開いた。見知らぬ天井が飛び込んできた。快適な睡眠だった。気分はさっぱりしていた。

 軽くため息をつくと、自分の身の上を思い起こした。

 サムトーは元奴隷剣闘士だった。

 闘技場における剣闘は、この時代最大の娯楽だった。神聖帝国建国の六〇〇年ほど前、数多くの都市国家が隆盛を競った時代から存在していたから、ざっと千二百年の伝統があるわけだ。平和な時代、人は強い刺激を求めるものらしい。死刑の執行が大勢の人間が集まる広場や市で行われるのも、そのためだった。

 闘技場で、人間同士、または人間と猛獣とが殺し合う凄惨な戦いを、人は好奇の目で見、それを楽しんでいた。賭博であることも人気の理由で、観客は手に汗握り、自分の金の行く末を見守る。二つの刺激と興奮があるわけだ。闘技場はほぼ毎週開催されていた。一日に数多くの試合が行われ、金貨数百枚という莫大な掛け金が動く。

 その殺し合いの消耗品、それが奴隷剣闘士だった。

 所有する奴隷剣闘士や猛獣を出場させ、金を稼ぐ親方が数多く存在した。子供の奴隷を買い取り、子供の頃から剣を仕込む。幼いほど有利で、経験を積ませるほど強く出来る。子供の方が飲み込みが良く、食糧も少なく、能率が良い。弱い奴隷剣闘士ではすぐ殺されてしまうので商売にならない。強ければ、敗れても致命傷を被らない可能性も高い。ケガが治れば、また稼げる。だから、親方達は躍起になって奴隷を鍛えようとした。

 サムトーは養護施設の育ちだった。十才の時、人買いにさらわれ、とある奴隷剣闘士の親方に売り飛ばされた。以後八年間奴隷剣闘士として過酷な環境を生き抜いてきた。だが、ある大きな剣闘大会が開催された折、百名ほどの奴隷達がひそかに結託し、大規模な反乱を起こした。半数近くの奴隷が逃亡に成功したが、残る者は捕まるか殺されるかしてしまった。サムトーも逃亡に成功したうちの一人だった。素性がバレれば、間違いなく残酷な方法で処刑されるだろう。実際、逃亡した者の半数近くが発見され、処刑されているのだった。そして、サムトーを引き留めたこの道場の一家も、きっと罪に問われるだろう。

 もちろん、サムトーとて、素性がバレそうになったら素早く逃げ出すつもりである。むざむざ死ぬつもりは毛頭無かった。生きるための理由などありはしないが、雲のように気ままに生き、気ままにくたばれば、それで十分だと思うのだ。それが一番気楽だった。

 サムトーは、大きく深呼吸して、寝床から起き出した。

 外へ出て、井戸で顔を洗った。

 背後から、物音を立てずに近付いて来た者がいる。

 竹刀で打ちかかってきた。サムトーはひょいとかわした。

「何だ、シスコン息子か」

 竹刀を取り上げながら、楽しそうに笑った。

 悔しがるクリストフ。

 彼にとって間の悪いことに、エレナがやってきた。もし、背後から打ちかかったなどと知れたら――。姉に嫌われるのが一番恐かった。

「何やってるの、朝っぱらから」

 マズい、何とかごまかさなくちゃ――。クリストフは思い切り焦った。

「ああ、朝の稽古だよ」

 サムトーが平然と答えた。

「何でまた、こんなところでしなくてもいいじゃない」

「俺が頼んだんだ。いつでも打ち込んでこいってね。どんなに不意を衝かれても対処出来なきゃ、一流になれないからな」

「ホントなの、クリス?」

「そうだよな?」

「う、うん。そうなんだ、姉さん」

 薄々の事情をエレナは察した。だが、それをおくびにも出さなかった。サムトーの好意を無にしたくなかったからだ。

「クリスにもいい修行になるわね。ありがとう、サムトー」

 それだけ言うと、桶に水を汲んだ。

「俺が運ぶよ」

「ありがとう。じゃあ、台所までお願いね」

 二人は並んで歩き出した。

 嫉妬心で曇った弟の目には、仲睦まじく見える。

「ちくしょう、これじゃ、逆効果じゃないか……」

 地団駄踏んで悔しがり、思い切り井戸に足をぶつけた。足も心も痛かった。


   §


 朝食が終わると、しばらく畑やニワトリの世話をした。

 腑に落ちない。剣術の教授料は高額なはずだ。なぜ、こんな自給自足をしなければならないのか。

「活人剣を目指しているからね。誰でも学べるよう、安くしているの。それに、門下生も少ないから、出来ることをしていかないとね」

 サムトーは疑問に思った。それでは食べていけないのではないだろうか?

「西の農村に、少しだけど土地を持っていて、農家に貸し出しているの。地代は大したことないけど、干上がらない程度には収入があるわ」

 何で土地を持っているのだろう?

「バイバルスひいひい爺さまは、戦争後、一度は爵位を授かったんですって。でも、平民にも剣を教えたいと爵位を返上したの。その時の皇妃さまが感心なされてね。生活に困らないようにって、土地を下さったの。優しくて聡明な皇妃様だったけど、その後すぐ、お亡くなりになってしまわれたの。ひいひい爺さまは、それはお嘆きになったそうよ」

 なるほど。納得。

 それが終わると、道場や家の掃除。

 それから自分の修行をする。

 サムトーには、美しい額にうっすらと汗を浮かべたエレナが、着飾って化粧をした女性よりも美しく感じた。

 小休止したところで、ふと思い出したように尋ねた。

「クリストフの姿が見えないけど……」

「ああ、弟なら街の学院よ。勉強しに行ってるの」

 なるほど。どうりで静かなわけだ。


 昼食時になって、クリストフが帰ってきた。

「よぉ、勉強してたんだって。偉いなぁ」

 サムトーは学問などしたことがない。養護施設時代に習ったのと、奴隷剣闘士の仲間内で教え合ったこととで、読み書きが出来る程度だ。だから、心底感心して言ったのである。

 しかし、クリストフにしてみれば、バカにされたようにしか思えない。しかも、彼は勉強が嫌いだった。剣術は好きだが、父のように活人剣を目指しているわけでもない。騎士になって、物語のような活躍をしたいという夢を持っていたのである。

「別に、大したことじゃないさ」

 ふてくされたように答えながら、サムトーの横を通り過ぎる。

 その瞬間、クリストフは素早く動いた。

 隠し持っていた棒を、脇腹めがけて振るう。

 スカッ!

 またもや空振りである。サムトーはわずかに横に動き、かわしていたのだ。

「早いとこ、メシにしようぜ」

 サムトーはクリストフの肩を軽くたたくと、背を見せて立ち去ろうとした。

 隙だらけである。クリストフは、持っていた棒を投げつけた。狙い違わずサムトーの背を直撃するはずだった。

 だが、驚いたことに、サムトーは、振り向きもせず棒をつかむと、何事もなかったように、食堂へ消えた。

「ばけもんだ、あいつ……」

 クリストフは呆けた顔で、しばらく立ちすくんでいた。


 昼食の後、食休みを取ってからが稽古の時間である。

 門下生達が続々とやってきた。

「何だよ、ガキばっかりじゃねぇか」

 小さい子は五、六才くらいか。大きい子でも十二、三というところだ。全部で二十五人。女の子も十人ほどいた。確かに門下生は少ない。仇敵のボードウィン道場は、十いくつかある道場に合計で千人近い門下生を抱えているという。

 それにしても、なぜ子供ばかりなのだろう。全ての技を修得したと認可されるまで、いわゆる『免許皆伝』にはかなりの時間がかかる。だから、十五、六から二十才前後までは道場に通うのが普通だ。

 やはり、戦争が近いと噂されるだけに、活人剣には魅力がないのだろうか。

 だが、手を血で汚していない者が、なぜ好きこのんで、戦争という殺し合いの場を求めるのだろう。人を殺すということは、深い奈落に落ちることである。二度と這い上がることは出来ない。心の弱い者なら、まず人格が一変する。優しかった者が残酷になり、思慮深い者が粗暴になる。それほど心に強い負担を与えるものだ。瞳に映る風景は、鮮やかに彩られた花畑さえ枯れた荒野に見えるほどに激変する。それが分かっているのだろうか。否、知らないからこそ、戦場で活躍する自分といった勝手な理想像を描き、都合のいい部分を見て判断するのだろう。

 そんなことを考えている間に、門下生が全員整列していた。

 礼儀正しく、深々と頭を下げる。礼から全てが始まるのだ。

 うらやましかった。

 何と平和な光景だろう。これこそ光の世界だ。剣を人殺しに使わず、自分の心と力を高めるのに使う。素晴らしいと思った。

 最初に素振りをして、それから剣術の型に入る。

 剣を構え、振り下ろし、突いては引く。ゆっくりと正確な動作をするのがポイントらしい。確かに、動きは理にかなっている。体で覚えれば、いざというときに役に立つだろう。

 次は寸止めである。

 相手の構えた剣に向けて思い切り剣を振り下ろし、当たる寸前で止める。止める方も受ける方も真剣だ。竹刀とは言え、一歩間違えば大ケガするから、一瞬たりとも気を抜けない。見切りのための練習である。

 続いて、二人一組になって撃ち合いする。

 門下生が、みな頭と喉、胸、手首には革製の防具をつけた。竹刀とはいえ、まともに当たればケガをするからだ。

 そうした練習の間、ロドニィとエレナが、一人ひとりの様子を見て、細かく教えている。良くできると、うれしそうにほめている。逆に、悪いところがあると、こう直すといい、と優しく教えている。

 感心せずにはいられない。

 サムトーの習った剣はただの暴力だった。

 親方に雇われた教師役の用心棒が、力任せに殴りつけてくる。それをかわし、受け止め、受け流せるようになるまで、この過酷な練習が続く。それから仲間内で修練を積むのだが、生死がかかっているので、互いに容赦がない。相手を殺さずに勝つ方法や、自分が死なずに上手に負ける技も必要だった。

 サムトーが物思いに耽っている間に、撃ち合いは終わっていた。

 次は、師範ロドニィか師範代エレナと手合わせをするのだ。

 だが、この日は勝手が違った。

「紹介が遅れたが、この人は新しい先生だ。名前はサムトー、凄腕の剣士だ。今日は、このサムトー先生が立ち合ってくれる」

 道場に不思議な空気が流れた。

 こいつ、そんなに強そうに見えない。悠然としてるから、よほど腕が立つんだろう。いや、エレナ先生に負けて、代わりに立ち会うんだよ。……などなど。年頃の娘達、十二、三の女の子達などは、けっこうカッコイイ先生よね、と喜んでいた。評価も複雑だ。

「では、サムトー先生、よろしく」

 ロドニィがサムトーを促した。

 俺が先生ねぇ……。悪い気分ではなかった。

「ほんじゃま、いってみましょうか」

 のんびりと立ち上がる。

 最初の相手は十一才の男の子だった。

 名をアウグストという。クリストフとは大の仲良しである。当然、サムトーの話を聞いていたから、どのくらい強いのか興味があった。

 アウグストが基本通り中段に竹刀を構える。

 サムトーは、珍しく上段に振りかぶった。そのまま、よどみない足取りで間境を越えた。

 いつの間にか間合いに入られ、アウグストは驚いた。慌てて竹刀を振るが、簡単に受け流されてしまう。焦って、大きく下がった。

「なぁ、君の名前は?」

 突然、名前を聞かれて、いぶかしげに答えた。

「アウグストだ」

「お前さん、好きな女の子、いるのか?」

「え……?」

「ほら、そこにいる娘なんか、かわいいよな」

 言葉に釣られて、アウグストが一瞬横を向いた。

「あ、サティちゃんのこと?」

 視線を戻した時にはもう遅い。サムトーの竹刀が振り下ろされていた。いつの間にか、また間合いに入っていたのだ。アウグストの脳天にピシリと当たった。

「名付けて、秘剣『サティちゃんはかわいいな』だ」

「ず、ずるいよ、そんなのっ!」

「心が動じては隙が出来る。何事にも動じない心を育てよ、少年」

 アウグストの抗議に、サムトーは利いた風な口を叩いた。

 うなだれて下がるアウグスト。

 今度は女の子だった。サムトーをカッコイイと言っていた女の子の一人である。

 先ほどと同じ、中段と上段の対決になった。

「君の名前は?」

「クラリス」

 答えながらも、女の子は隙を見せない。アウグストの二の舞を踏まないよう、かなり気をつけている様子だ。

「いい名前だね。かわいい君に合っているよ」

 歯の浮くような世辞に、一瞬ポーッとなる。

 やはり、その隙に打たれた。

「秘剣『おだて言葉に気をつけよう』」

「……」

 うなだれてクラリスが下がる。でも、お世辞がまだ効いていて、少し頬が赤かった。

 今度も女の子だ。クラリスの友達である。

「君の名は?」

「セリアよ。いい名前なのは知ってる」

 相当に神経を使っているようだ。

 サムトーは無造作に間合いを詰めた。

 竹刀を振ったら間に合わない、そう思ったセリアは、中段のまま、素早く真っ直ぐに竹刀を突き出した。

 サムトーが竹刀を手放した。宙を舞って、セリアの両腕の上に落ちる。

「え……?」

 突然の出来事に驚き、思わず竹刀を見つめた。

「え、な、何っ!」

 セリアは背後から肩に手をかけられていた。

「これぞ、秘剣『武器が剣とは限らない』だ。相手から目を離すと危ないってことさ」

「……」

 あまりの出来事に、言葉を返すこともできず引き下がった。

 ……とまあ、サムトーは全員をこんな調子で負かしたのである。もちろん、その中には、クリストフも混じっている。

 師範ロドニィは、そんな様子を楽しそうに見ていた。時々、大きな声を出して笑った。確かに、サムトー先生の言う通りだよ、と時には口を出したりもした。

 エレナは、サムトーの悪ふざけに呆れ返りつつ、心に温かな感触を感じていた。なぜ、そう感じたのだろう。

(……そう言えば、父上がこんなに楽しそうに笑ったの、母上が亡くなられてから、初めてじゃないかしら……)

 エレナがその事実に気付いたのは、稽古を終えてからであった。


   §


 翌日、再び昼過ぎである。

 またもや稽古の時間、サムトーは立ち合いをさせられた。

 門下生達は嫌そうな顔をしていた。それはそうだろう。剣術を習いに来てるのに、あんな剣術と関係ないやり方で負かされては。

 そのくせ、ヒソヒソと、あれには気をつけないとな、などと対策を半分真面目に、半分面白そうに話していた。

(なるほど)

 サムトーは少し趣向を変えることにした。

「ちょっと、失礼」

 竹刀を袋から取り出し、いつも腰に下げている短剣を抜くと、三分の一だけ斬り落とし、もう一度袋に収めて短い竹刀を作る。

「今日はハンディキャップ戦だ」

 先生が板に付いたか、偉そうに宣言した。

 ロドニィが慄然としたのに気付いたのは、娘のエレナだけだった。

 彼女もまた、サムトーの剣の凄さを知ったのである。

 あんなに簡単に、無造作に竹を切断するなんて、それも狙いと寸分違わずに――。父は彼の技倆を知り、剣士としてその技を見極めたいと考えているのではなかろうか。そんな風に感じた。

 エレナの推測はほぼ当たっていた。ロドニィは、長き修練の末に聖騎士さえも凌ぐほどの使い手になっている。だが、このサムトーという若者は、そんな自分さえ超えた腕前を持っていると、はっきり感じていた。その秘密はどこにあるのか。なぜ、この若さで死の匂いをまとわらせているのか。その理由を知りたかったのだ。

 その間にも、話は進んでいる。

「やりたい人からどうぞ」

「じゃあ、おれやる!」

 リナルドという少年が一番に声を上げた。クリストフやアウグストの友人である。

「行くぜ、先生!」

 剣の長さの違いを活かし、サムトーの剣が届かないところから、猛然と打ち込んでくる。だが、サムトーはその全てを防いだ。

「ちくしょう!」

 業を煮やしたリナルドが、思い切り振りかぶった。

「あっ、しまったっ!」

 気付いたときにはもう遅い。サムトーは懐に飛び込んでいた。リナルドの脇の下を思い切りくすぐる。

 リナルドは竹刀を落とし、笑い出した。

「やめてくれよ、先生、くすぐったいよ」

「分かっただろう。これぞ、秘剣『長いのが有利とは限らない』だ」

 サムトーが偉そうに言う。

 しかし、実際のところ、その通りなのである。

 二番手はサティである。アウグストのお気に入りだ。

 果敢にも挑戦したが、やはり完璧な防御に直面し、なすすべもないまま、こちらは頭をなでられてしまった。ついでに、

「ホント、君もかわいいね」

 などと言うものだから、サティは頬を赤らめ、アウグストは渋い顔になった。

「分かったわ! 短いだけ小回りが利くのね」

 それに気付いたのは、三番手のセリアである。

「ご名答。じゃあ、どうしたらいいと思う?」

「答えは、こうよっ!」

 セリアは、小さく鋭く、サムトーの手首ばかり狙って打ち込んだ。間合いさえ取っていれば、延々と攻撃し続けることが出来る。それに、手首への攻撃は防ぎにくいから、いずれは当たるはずだった。

「いい狙いだね」

 しかし、サムトーは余裕しゃくしゃくである。

「そんなのんびりしてられるのも、今のうちよ」

「そう思うでしょ。ところがどっこい」

 サムトーが大きく下がった。あまりの速さに、セリアは目標を一瞬見失った。間合いを詰めると、同じタイミングでサムトーも間合いを詰めてきた。驚いてセリアが突き出した竹刀に、自分の竹刀をこするようにして、サムトーが懐に飛び込んだ。

 セリアが気付いた時には、頭上に軽くこつんと一撃。

「狙いは良かったよ。でも、まだまだだね」

「次こそ、絶対負けないかからっ!」

 憤然としてセリアが下がると、エレナが立ち上がった。

「私にも一本稽古つけてもらえる? お父様、いいですよね?」

 ロドニィがうなずくと、エレナが竹刀を構えた。

「参ります!」

 師範代を務めるだけあって、エレナの剣は素早く正確だった。間合いに入ると頭や胴、手元を鋭い一撃が見舞う。足捌きも見事で、間境をこまめに出入りし、左右から揺さぶりをかけることもあった。

 しかし、サムトーは丁寧とも言える防御で、いとも簡単そうにその攻撃全てを受け止め、あるいは受け流していた。

「すげえ、一発も当たらねえ……」

 門下生たちが驚きの声を上げた。彼らにもエレナの攻撃のすごさは十分伝わっていた。それを防ぎきる技量に素直に感嘆したのだった。

(それなら、これで!)

 エレナは大きく踏み込むと、連続して竹刀をふるった。微妙に角度を変えながら頭部への七連撃を放った。しかし、攻撃は通らず、全て受け止められてしまった。

 エレナは大きく下がると、竹刀を下ろし、一礼した。

「私の負けです。ありがとうございました」

「いやいや、ひやひやものでしたよ。さすがです」

 サムトーが礼を返した。この若さで見事な腕前だと、本気で感心していたのである。

「ありがとう、サムトー先生。門下生たちにもいい手本となったことと思う。みな先生のように強くなれるよう、頑張っていこう」

 ロドニィが締めくくり、この日の稽古も終わった。


 この日の夕食はやけに豪勢だった。

 内臓を抜いたニワトリを丸ごと焼いたローストチキンをメインに、前菜が二つ、手間のかかったコンソメスープ、山盛りのパン、その上にワインとデザートまでついた。ロドニィの手配だった。

 サムトーは好意を素直に受ける方だ。ずうずうしいと言っても良い。だが、さすがにこれには参った。好意の度が過ぎていると感じた。俺は一生この道場にいるわけではないんだよ――。

 そろそろ潮時だろうと思った。

「明日あたり、ここを発とうと思います。いや、こんなにお世話になってしまって、何とお礼を申し上げて良いやら……。本当にありがとうございました」

 深々と頭を下げる。彼にしては神妙だが、八割方は本気だった。

 ロドニィが引き止めにかかった。

「いや、礼を言うのはこちらの方だ。君が稽古をつけてくれたおかげで、道場にも活気が出てきた。私も、君には学ぶことが多い。出来れば、もうしばらくここにいて欲しいのだが」

 みな目を丸くした。このいい加減な男に一体何を学ぶのだろうと、いぶかしがったのである。

 口に出して反対したのは使用人のベンだった。

「ですがね、先生。あっしゃあ、稽古の様子をチラホラ見てましたがね、子供達は真剣に剣術を習ってるてぇのに、あんないい加減に教わったんじゃ、子供達がかわいそうでさぁ」

「でもな、ベン、あれはあれで、門下生はみな楽しそうだったぞ」

「でも、あんなんで、剣術が身に付くんですかい?」

「そ、それは……」

 ロドニィが口ごもった。

 それはそうだ。いくらか剣を使えるようにはなるだろうが、剣術を修めるとなると話は別だ。技はあっても心がなければ剣術とは言わないのだ。子ども達は面白がっているが、結局それだけのことである。同感、とばかり、サムトーもうなづく。

「いや、ベンさんの言う通りですよ、先生。これ以上、ご迷惑はかけられません。明日、お暇いたします」

 重ねて、出立を促した。ロドニィが困った顔を浮かべる。

 エレナは口出しをしなかった。彼女自身、複雑な心境である。いればいたで、彼の調子の良さに呆れ、時には腹立たしくも思うだろうが、いなくなれば、さぞ寂しくなるだろう……そう思うのだ。

「ホントに行っちゃうのかよ……」

 クリストフがボソッとつぶやいた。

「お前なんか、スケベで、お調子者で、いい加減で、好きなんかじゃないけどさ……、だけど、でも……、勝ち逃げなんて、ずるいじゃないかよ!」

「……」

 サムトーは返答に窮した。

 このシスコン息子、確か俺のことを嫌っていたはずだよな。

 しかし、この言葉には心情が籠もっている。ここにいる全員がそう感じ取れた。本気で行くなと言っているのだ。

 剣士としてではなく、父親の表情をしたロドニィが、さもありなんとうなづく。父として息子の真意を理解していたのだ。

 他の三人はただ驚くばかり。いろいろな意味で、サムトーは人を驚かせる男らしい。

「息子もこう言っているし、門下生もきっと同じ気持ちだろう。もうしばらく、ここにいてもらえないだろうか」

 これは困った。正体がバレて、彼らに迷惑をかけては……。

 サムトーは迷ったが、それも数瞬のことである。

(でも、まあ、いいか。そん時はそん時だな)

 そんな風に思うのがこの男の魅力なのだろう。だからこそ、クリストフもロドニィも、彼を引き留めようとしてしまうのだろう。

「俺なんかに、そこまで言って下さるとは、感謝の言葉もございません。あつかましく、ご厚意に甘えさせていただきます」

 サムトーは丁寧に謝辞を述べた。口は達者である。

「ハッハッハ……」

 突然、ベンが大笑した。豪快な笑いっぷりだった。

「そうと決まれば、新しい先生を迎えた前祝いといきましょうや」

 彼もサムトーを嫌っていたわけではなかった。何となく、憎めない魅力を感じていたのである。この一家に共通した気持ちだった。

 ベンに勧められて、サムトーはワインを干した。自分のグラスを掲げて見せ、ベンのグラスにワインを注ぐ。ベンが同じようにグラスを干して掲げる。相手に対して敬意を表す、乾杯の儀礼だった。

 いい男じゃないか。父と息子は思った。

 まあ、手伝ってくれれば、文句はないけど。ハンナは妥協した。

 そして、エレナは軽い嫉妬を感じた。何と男らしい爽やかな振る舞いなのだろう。女の自分には出来ない。うらやましくもあり、また魅力的だと感じていたのである。


   §


 一週間ほどがあっという間に過ぎた。

 バイバルス道場には活気が溢れていた。

 その一方で、ここボードウィン剣術道場では、息子達が不穏な相談をしていた。

「クソッ、あのサムトーって奴、エレナんとこに居座りやがって。生意気にもほどがあるぜ」

 そう言ったのは、ボードウィンの長男アーノルドである。『たらしのアーノルド』の異名を持ち、父親に似て、手当たり次第に女の子を毒牙にかけるというとんでもない奴だった。

「まったくだよ。あそこはかわいい娘が多いから、みんなまとめてぼくのモノにしようと思ってたのに、人のモン横取りするなんて許せねぇよ」

 こちらは次男のノーヴィス。しっかり父や兄に似て、こちらも十五才の少年でありながら、見事なろくでなしに育っていた。

「十日も居着いてるってこたぁ、このままずっといるつもりかよ。冗談じゃねぇ。あの気の強い女、絶対俺のモノにしてやろうと思ってたのによ。トンビにアブラゲたぁ、このことだぜ」

 道場主の息子らしく、二人ともそれなりに腕が立った。貴族の血を引くためなのか、容貌は繊細かつ秀麗。本来なら結構年頃の女性にもてるはずだ。だが、剣の腕より、女性に手を出すことと、かわいい娘に目を付けることの方が優れているため、まともな女の子は相手をしなかった。

 だが、そこを金と力でモノにするのが彼らの楽しみなのだ。ろくでなしというのは彼らにふさわしい形容詞だろう。長男はもうすぐ二ケタ、次男も二人ばかり、女の子を力ずくでモノにしている。

「ネッケル、何かいい方法はないのか?」

 兄が尋ね、弟は満面に期待を浮かべた。

 ネッケルはボードウィン道場の師範代で二十六才。この道場一番の使い手である。傭兵時代に実戦の経験があり、何人もの人間を斬り、その分身体に傷を負い、戦場の証と門下生に自慢していた。見かけも剣も剛勇という感じの精悍な男だが、金と女を融通してもらって、ボードウィン道場の用心棒役を務めていた。ならず者のなれの果てだった。

「そうですねぇ……。一発、殴り込みに行きましょうか」

「ちょっと、そりゃ、マズいんじゃないか?」

 アーノルドはお坊ちゃんだけに度胸はない。

「ヘヘ、大丈夫でさ。ボードウィン道場に出稽古を申し込むンですよ。父君に手紙書いてもらやぁ、向こうも断れないでしょうよ」

「確かに、そうだな。だが、勝てるのか?」

「どうせ、大した腕の奴じゃありやせんぜ。坊ちゃん方でもきっと勝てやす。エレナの見てる前で、ボコボコにしてやんなせぇ」

 媚びを売るようにネッケルが言う。

 そういうおだては大好きな息子達である。

「なるほどねぇ……。さすがネッケル、対した悪党だぜ」

 アーノルドがニヤリと笑う。ノーヴィスも楽しそうである。ネッケルも同じ笑いを浮かべた。

「いえいえ、お坊ちゃん方には負けますよ」

 三人が声を立てて笑った。何とも下卑た笑いだった。


 その日のうちに三人は動いた。

 早速とばかり、バイバルス道場へ出稽古に行きたいと父に訴えた。

 豪奢な部屋で、父は息子達の話を聞いた。ボードウィンは人並み外れた悪党だったから、息子達の考えなどお見通しで、サムトーという奴を叩きのめし、自分の株を上げようという魂胆だろうと察した。

 それでも、何と言っても息子達はかわいい。当然のように、あっさりと息子達の願い事を聞いた。

 書状をしたため、門下生の一人をバイバルス道場へと走らせた。

 明日、息子達が出稽古に行くので、お手合わせ願いたい。出来れば、新しい師範代に実力のほどを披露していただき、息子達をご教授してもらえると有り難い。そんな内容である。

 二時間ほどして、使いが戻った。

 お待ちしている、との返答である。

 ボードウィンは息子二人を呼び、送った書状の返答を伝えると、息子達以上に残忍な笑いを浮かべて言った。

「門下生を二十人ばかり連れてきな。先に相手させて、奴を疲れさせちまえば、万が一にも負けるこたぁねぇ。それに、奴を叩きのめしたときの証人にもなるしな」

「さすがオヤジさまだぜ。そうさせてもらうよ」

 親子と師範代の四人がニヤリと笑った。


   §


 翌日、長男アーノルド、次男ノーヴィス、師範代ネッケルの三人が、門下生を二十五人も引き連れてやってきた。父に言われた人数より多めに連れてくるあたり、彼ら兄弟も見事な小悪党である。

 相手の注文で、サムトーは全員と立ち合うことになった。三人を入れると二十八人。過酷な条件だが、ロドニィはあっさりと承知した。

 エレナには父の態度に納得がいかない。

 こんなつまらない連中の顔を見るだけでも嫌だが、それが自分の道場に上がり込むのはもっと嫌だった。まだ来て日の浅いサムトーが、一門の代表として立ち合うことも嫌だったし、ましてやネッケルの腕は父と紙一重だと言われている。確かにサムトーも凄腕だが、もし負けたりすれば、バイバルス道場の看板に傷がつく。

 そう思いつつ父を見やると、表情を消している姿が映っただけだった。瞳だけは鋭い光を放っている。何か考えがあるのだろう。エレナは追求をあきらめた。

「負けたら承知しないぞ」

「絶対勝ってね、先生」

 クリストフやその友人、門下生の全員が激励した。緊張と不安、そして強い信頼が伝わってくる。

 サムトーは心に暖かいものを感じた。

 ずいぶんと好かれたものだ。我ながら大したものだと思う。内心、とてもうれしかった。この連中をかなり気に入っていた。だが、そんな気持ちを表に出すのは、さすがに気恥ずかしい。

「ま、適当に相手してくるよ」

 サムトーはいつもの調子で進み出た。

 ノーヴィスが一番手の男に耳打ちする。奴は卑怯な手を使うから気をつけろ、とでも言っているのだろう。

 サムトーは辛辣に評した。やってることが、この道場のガキ共といっしょだぜ。情けない奴らだと思った。

 互いに防具もないまま、距離を取って対峙する。防具をつけた方がいいとロドニィは言ったが、アーノルドが首を振った。わがボードウィン道場門下に、防具を必要とするような軟弱な者はいない。その返答には、サムトーを思いきり痛めつけたいというのが本音だと、誰でも分かる表情をしていた。

 一礼して、竹刀を構える。サムトーは最近の定番である上段、相手は下段である。

 サムトーは例の如く、無造作に間合いを詰めた。

 距離が詰まったところで、いきなり大声を上げる。

「あっ、いけねぇ!」

 本当に驚いた様子だったので、相手は何事かといぶかしがる。

 その瞬間、サムトーの竹刀が振り下ろされた。脳天を一撃。加減してあるが、それでも相手は簡単にのびてしまった。

「出たぁ! 秘剣『あっ、いけねぇ!』だっ!」

 師範代の勝利に門下生が沸いた。どうにも、サムトーの色に染まっているようだ。いいんだか、悪いんだか。

 二番手。背後に竹刀を隠したまま迫るサムトーに、相手は狼狽し、簡単に隙を衝かれた。秘剣『見えない剣にご注意』である。

 三番手。珍しく中段に構えたサムトーが、無造作に間合いを詰め続け、そのまま相手を一突き。秘剣『ただ突いてみただけ』。

 四番手。セリアがやられた秘剣『武器が剣とは限らない』。放り出した竹刀が男の腕の落ちるのとほぼ同時に、手刀を首筋に打ち込んでいる。

 ……と、いつもの調子で、サムトーは二十五人を見事に片づけた。疲れた様子一つない。誰がどう見ても、完全に遊んでいる。これではボコボコにするどころの騒ぎではない。

「では、私の出番ですな」

 ついに、元傭兵、戦場往来の剣士ネッケルが登場した。

 強く気合いを入れて、大きく上段に振りかぶる。

 なるほど、これは出来る相手だ。

 攻撃をかけようとした瞬間、それよりも早く、痛烈な一撃を頭上からお見舞いするのだろう。相手が技を出すときにこそ最大の隙が出来るので、そこを狙うのだ。並の腕では出来ない相談である。間合いの見切り、それに一撃の速さと威力に自信があるということだ。

 恐らく戦場の刀法だろう。サムトーは珍しく感心した。

 さて、どうしようか。

 この男は負の心の持ち主だな。瞳に凶悪な光を放っている。人にはどんなことをしても平気だが、自分がされるとどこまでも恨みを持つタイプだ。ここで勝つと、後が厄介そうだ。

 サムトーはそう感じた。

 まあ、負けておこう。――そう決めた。

 無造作に歩み寄り、間合いに入ったところで竹刀を振り上げる。

 刹那、それが来た。

 脳天ではなく、右の肩口を狙った一撃だった。確かに戦場の刀法である。頭は滑ることがあるので、確実に切れる肩を狙うのだ。

 サムトーは竹刀の向きを変え、それを受け止めようとした。だが、相手の勢いが勝り、受け止めた竹刀ごと肩口に喰らった。身を沈めながら、後ろに倒れ込んでダメージを減らしたが、それなりには痛い。大したことはないが。

「先生が負けた……」

 やんやと声援を送っていた門下生達が、元気をなくしてしまった。信じられないといった表情の子、悔しそうに床を叩く子、無念さに歯がみする子、目に涙を浮かべる子、様々だったが、サムトーの敗北を悲しんでいることに変わりはない。

「所詮、この程度か」

 言い捨てて、ネッケルが下がる。

 続いて、アーノルドが前に出た。ネッケルの勝利を見て、サムトーを見くびったようで、唇の端に意地の悪い笑みが浮かんでいた。

 サムトーは彼にも負けた。返す刀という言葉があるが、それで敗れた。アーノルドは右下からの切り上げを放ち、サムトーがかわして反撃しようとしたところを、そのまま切り下げた。これも竹刀で受け止めたが、やはり勢いに押されるようにして、左の肩口に一撃喰らった。もちろん、竹刀を使って威力は十分に削いであるが。

 残るノーヴィスとは不戦敗となった。両方の肩口に痛烈に喰らい、戦闘不能になった、ということである。

「今日はありがとうございました。いい練習になりましたよ」

 アーノルドが言ったのは、完全に嫌みである。

 ボードウィン道場の二十八人は意気揚々と帰っていった。

「先生、何で負けちゃったんだよ……」

 門下生達が涙を浮かべて詰め寄ってきた。

 サムトーはそんな門下生達を見回した。

 いい子たちだな、と思う。悪党共の執拗さを避けるためとは言え、負けて見せたのはかわいそうだったか。少し胸が痛んだ。

「ほら、先生の治療しなくちゃ。そこで上だけ脱いで」

 エレナの言葉に、サムトーは慌てた。ここで肩を見せては、わざと負けたことがバレてしまう。

「ここでぇ~? あたし、イヤよ。みんなに玉の肌見せるなんてぇ」

 肩口をわずかにはだけて、なよなよとして見せる。

「気色悪ぅ~」

「だから、エ・レ・ナちゃわ~ん」

 エレナが大きくため息をついた。

「……しょうがないわねぇ。じゃあ、こっち来なさい」

 二人は奥の部屋へと下がった。

 残された門下生達もため息をついた。

「あれじゃあ、負けても当たり前だよな……」


   §


「これ、どういうことなの……?」

 別室でサムトーのケガを見たエレナはいぶかしがった。少し赤くなっているだけで、これではケガと言えない。

「いやはや、俺の身体は、どうやら鋼鉄のように硬いらしいな」

 ごまかしてみたが、さすがに通用しない。

 エレナがサムトーを睨みつける。

「やっぱ、ダメ?」

「当たり前でしょっ!」

 何を怒っているのか自分でも分からないまま、エレナは大きな声を出した。無事だったのだから、むしろ喜ぶべきじゃないだろうか。そう思わないでもなかったが、やはり疑念を質したかった。

「まともには受けなかったのね」

「ああ。あんなの喰らってたら、身が持たねぇからさ」

「つまり、わざと負けたのね……」

「そういうことになるかな」

 エレナは真剣を振りかざしたように追求した。

「相手が男爵だから?」

「それもある」

「でも、本気を出せば、簡単にやっつけられた」

「まあね。……ガキ共にはナイショだぜ」

 サムトーの平然とした様子が、エレナの癇に障った。ついに憤懣が爆発し、厳しい怒りの視線を投げつけた。

「何でそんなことしたの、あいつらがつけ上がるだけじゃない!」

 サムトーは背後を見やってハラハラした。

「お、おい、ガキ共に聞こえちまう」

「いいじゃないの、本当のこと言えば」

 それは出来ない相談だ。実力を見せると、それをどこで身につけたかという話になる。逃亡奴隷だということがバレでもしたら面倒だ。そうなれば、エレナ達もゴタゴタに巻き込まれる。

 サムトーは少し考えてから、真剣な表情で言った

「そうはいかねぇよ。あの連中、本物のワルだぜ。ま、小悪党ってとこだが、それでも悪党には違いねぇ。あの種の連中はな、細けぇことまで根に持つんだ。しつこくつきまとって、隙を見て恨みを晴らす。そんな面倒はゴメンだ。負けときゃ甘く見てくれる。その方が楽だ」

 これもウソではない。とにかく、正体だけは彼女にも教えられない。

 エレナはサムトーの心情を理解した、と思った。それでも門下生のために追求する。

「そうかもしれないけど、みんなあなたのこと応援してたのよ。それに応えようとは思わないの?」

(……そっか。ありがとう)

 そう思いながらサムトーはエレナの矛先をかわした。

「エレナちゃんも応援してくれたのかい?」

「え……、も、もちろんよ。だって、うちの師範代だから……」

 エレナは口ごもり、サムトーから視線をそらした。少し恥ずかしげにうつむいている。

 サムトーは仰け反るような驚きを覚えた。

(こりゃ、脈ありかよ。まいったね。俺がこんな色男だとは、自分でも知らなかったぜ。この艶やかな蒼色の髪。透き通る空のような瞳。美しく繊細な容貌。ホント、この娘、すっごい美人だよ。あ、よだれが……)

 エレナの心根は優しい。気丈で気が強く見えるけど、本当は誰かに甘えたいと思ってる一人の女の子に過ぎない。だから、サムトーとしても、心底彼女の気持ちに応えてやりたいと思う。しかし、それは出来ない相談だった。逃亡奴隷でお尋ね者である以上、いずれは絶対にここを出なければならない。それも、遠い先のことではない……。

 そう思いながら、サムトーは優しく答えた。

「ありがとな、エレナちゃん」

 サムトーは背を向け、そのまま部屋を出た。

 エレナはそんな彼を見送ることしかできなかった。

 そして、隣の部屋では、ロドニィが聞き耳を立てていた。


   §


 この殴り込みの後、サムトーは、ボードウィン道場の連中と出会う度に、からまれるようになった。

 特に、エレナと買い出しなどで街に出たときは最悪である。どこかで偵察しているようで、必ずアーノルドが寄って来ては傍若無人に振る舞い、エレナを口説いてくるのだ。

 連中はしつこく、嫌みで、悪辣で、タチが悪かった。普通の人間なら、どんなに相手しないようにと思っても、えらく腹が立つだろう。

 だが、所詮は遊びだ。生死がかかっているわけではない。サムトーはそう思う。遊びならこちらも遊んでやればいい。それだけのことだ。

 ごまかして逃げ出したり、嫌みを言い返して絶句させたり、エレナの代わりに口説かれようとしたこともある。さすがのアーノルドも、サムトーに迫られては気色悪く、慌てて逃げ出したほどだ。

「あなたにはプライドがないの?」

 エレナが厳しく詰め寄ったこともある。

 サムトーは鼻で笑った。

「そんなもん、この俺にあると思うかい?」

 軽い口調の裏側に、何か触れてはいけない影があるのを、エレナは感じた。父の言った死の匂いなのだろうか……。暗闇を感じて、背筋が凍るような思いだった。

 そんな感情を振り捨てるように言う。

「まあ、いいわ。あんな連中相手にする時間、もったいないものね」

「そうそう。せっかく二人きりの楽しい時間なんだしさ」

 ニヤリとサムトーが笑うと、エレナもつられて笑ってしまった。

「またそういうこと言って」

 それにしても不思議な男だ。

 単なるお調子者ではない。人には優しく、しつこい嫌みにも平然としている。いつだって陽気さを失わない。剣は凄腕で、ルックスも悪くない。ベンと乾杯した時のような、男っぽい爽やかなところもある。そして、見え隠れする心の影。どれが本当の姿なのだろうか。どれもが本当の姿なのだろうか。

 まるで雲のような男だと、エレナは思う。

 自由気ままで、いろいろな姿があって、そして、いつかはどこかへ消え去ってしまうのだろう……。

 本当に自分の目の前からいなくなるのだろうか。心がどうにも落ち着かない。こんな奴――と思うのに、気がつくと目で追っている。一体、どうしちゃったんだろう。そんな自分が不思議に思えた。

 結局、アーノルド達の企みは、かえってエレナの気持ちをサムトーに寄せてしまったようだった。


 そうこうしているうちに、結局二週間も居着いてしまった――サムトーは自分で自分を呆れていた。

 本来なら、いい加減出立するべきだが、どうにも腰が重い。

 正直、迷っていたのである。

 このまま居着きたいという気持ちと、いてはいけないという気持ちが入り交じっている。

 しかし、旅に出たいと心がウズウズしていた。まだ見ぬ世界をこの目で見たかった。

 サムトーは旅が好きだった。

 好きになったと言うが正しい。

 奴隷剣闘士の生活から命懸けで逃げ出して得たのが自由だった。

 それまでの過酷な生活に比べ、旅は何とも良かった。あてもなくブラブラして、好きなものを喰い、好きなことをして、好きな所に寝る。生きるだけ生きたら、後は死ぬだけだ。守るものも背負ったものもない。何とも気楽だった。

 でも、今のように守るべき存在がいるのも悪くない。エレナはかわいいし、ガキ共も好きだった。ロドニィのおっさんも、ベン爺さんも、小うるさいハンナおばさんさえ好きだった。

 ……迷うのは苦手だ。心にしこりが残る。

 こりゃあ、何とかしないとな。

 となると、気晴らしに出かけるのが一番だ。

 朝方、ロドニィに話した。一、二週間ばかり、山でもぶらついてきたいと願い出た。

「やはり、君は平和に耐えられないのか」

 つぶやくような言葉が、サムトーの肺腑を凍り付かせた。

 ついに正体を見破ったのだろうか。生と死が隣り合わせの自由を欲する心は、消耗品としての生命しか持たない奴隷剣闘士だったことから生まれたものだ。だから、そんな世界でなければ生きられないという、因果とも言える性分が……。

 だが、そうではなかった。

「一度旅に出ると、二度と戻って来ないような気がしてな……」

 ロドニィの言葉に、サムトーは内心の安堵を押し隠して答えた。

「いえ、とりあえずは戻ってきます」

 ロドニィは腰を据えた。ぐいと押し出すように言った。

「君はさぞ不快に思うかも知れないが、聞いて欲しい。……君はよほどの修羅場をくぐってきたようだね。だから、平凡な暮らしに退屈してしまうのだろう。だが、人間誰しも平凡な幸福こそが一番尊い。君にもそれを分かって欲しかったのだ……」

 人生の重みを感じさせる言葉だった。

「余計なお世話だということは分かっている。ただ、この道場でのんびり暮らすのも悪くないと思ってもらいたかった。……本音を言えば、君が道場の跡を継ぐか、でなければ、息子の後見になって欲しいと思っているがね」

「……」

 何と返答したらよいのだろうか。

 活人剣の師範はダテじゃない。俺の正体を知らずして、良くもここまで俺のことを、大切にすべきことを語れるものだ。年齢の差もあるだろう。人生経験というのもやはり大きなものである。

 しばらく、サムトーは口を開くことが出来なかった。

「いや、今は何も言わなくていい。いずれ、のんびり酒でも飲みながら話をしようじゃないか」

「ありがとうございます」

 サムトーが神妙に答えたのを見て、ロドニィは安心したようだ。

「それから、山に行くことについては、少し考えさせて欲しい。そのうちに返事をしよう」

「分かりました」

 ロドニィが奥に下がった。

 やっぱりすごいな、師範は。サムトーは深くため息をついた。


 ロドニィの返事が来たのは、夕食の時である。

「山へ行くなら、道場のみんなも連れていってもらえないか」

 それを聞いた瞬間、サムトーは、頬張っていたものを危うく吹き出しそうになった。

「はあ?」

「いや、突然で済まない。……実は、君が山へ行きたいというのを道場のみんなに話したら、みんなもぜひ一緒に行きたいというのだ。野山を巡るのは、体を鍛えるだけでなく、心の修養にもなるだろう。この機会に行かせてやりたいと思うのだが」

 いやはや、そんなこと考えてたとはねぇ……。

 サムトーは感心した。

 やっぱり、さすがだな、この先生は。こんなことにさえ、まず第一に門下生のことを考える。偉いよなぁ。

 大勢連れて行くと好き勝手は出来ない。サムトーのぶらぶらしたいという願望は叶えられないことになる。子供連れで行くのでは、近くの山地までが精々だろう。

 ……でも、仕方ないか。これはこれで面白そうだし。

「分かりました。……で、どこに行きます?」

 すぐに同意されて、ロドニィは安堵したようだ。クリストフは目を輝かせて喜んでいる。エレナは関心がないように、黙々と食べていた。

「いや、ありがとう。君にもやりたいことはあっただろうに、承知してくれてうれしいよ。行き先は君に任せる。明日、道場のみんなに伝えるから、出発は三日後ということでいいかな」

 サムトーが少し考えこんで言った。

「そうですね。なら一番近いカルデア山地あたりでどうでしょう。……ただ、そこまで足をのばすとなると、往復するだけでも二日は確実にかかりますが、いいんですか?」

「もちろん構わない。せっかくの機会だから、一週間ばかりのんびり行こうじゃないか。……済まないが、ベンとハンナは、留守中のことをよろしく頼むよ」

 話を振られた使用人二人は、それぞれの表情で答えた。

「へぇ、分かりやした。お任せ下せぇ」

「しょうがないわね。気をつけて行ってらっしゃいましな」

 ロドニィは軽くうなずくと、娘に話を振った。

「エレナは準備を頼む。二日しかなくて大変だと思うが……」

 エレナがようやく顔を上げた。

「わたしも……行くの?」

 気乗りしないようだった。表情も暗い。

 ロドニィは驚いた顔で娘を見た。もう行き先のことを想像し、楽しみにふけっていたクリストフなど、不思議そうな顔をしたほどだ。

「当たり前だろう。お前も師範代なんだぞ」

「そうですよね……。分かりました、準備をやります」

 重い口調だった。戸惑いがあった。もちろん、サムトーの存在に対しての戸惑いある。

 エレナは、これまで男になど興味がなかった。正確に言えば、異性としての魅力を感じる相手に出会わなかったのである。あまりに立派な父を持ったこと、父の理想に共鳴し、活人剣を目指してきたこと、それにアーノルドのようなろくでなしに迫られたことなどが原因である。

 だから、これほど気になる男性に出会ったのは初めてだった。サムトーに惹かれていた。生まれてから初めての感覚だった。

 彼女にも騎士物語のような恋愛への憧れはある。白馬の王子さまに迎えられたい、そんな乙女心もあったのだ。剣士としての自覚を持っていてでさえ、時にそんな感情が心に満ちることもあった。理性を越えた、正直な感覚であった。だから、サムトーと同行して旅することに戸惑っているのである。 反面、ならサムトーが白馬の王子なのかと言ったら、ヘソが茶を沸かすほどに笑えるだろう。

 そのヘソ茶が鼻の下を伸して言った。

「こりゃあ、エレナちゃんと二人っきりになるチャンスだぜ。そしたら、あーして、こーして、ムフフ……」

 おいおい、父親の前でそんなこと言うかと、使用人二人は呆れてため息をついた。

 だが、父親は、サムトーがわざとそう言って、娘の気分を変えようとしているのを察して、何も言わなかった。

 直接行動に出たのは娘の方である。

「このスケベッ!」

 グラスの水をぶっかけた。見事、顔面を直撃する。

「これぞ、水も滴るいい男……ってか」

 サムトーの言葉に一家が爆笑した。


   §


 三日後の早朝、バイバルス道場一行は出発した。

 ロドニィ一家の他、アウグストやセリアなど、年長の門下生を中心に総勢で十一名。年少の者十八名は残念ながら親の許可がおりず、涙を飲んで留守番となった。

 輓馬(頑丈な荷を牽く馬)二頭立ての馬車二台に分乗し、サムトーとロドニィが御者を務めた。カルデア山地まではケープガルから東に向かって五十キロほどある。徒歩では厳しいので馬車を借りたが、それでも街道づたいに十時間以上はかかる。

 門下生達は、最初は景色などを珍しそうに眺めていたが、バイバルス一門が所有する土地を過ぎる頃には飽きてしまった。大陸の広さに比して、人の住んでいるのは極小の部分でしかない。いわば点と線の領域である。このカルデア山地西側の一帯は湿地と草原と岩場の繰り返しだから、変わりばえのしない景色が延々と続く。飽きるのも当然だろう。

 おしゃべりをしていても、それほど長続きするわけでもない。いっそ馬車と競争でもしようと思った子もいたが、さすがに止められた。後はボーっとしているか、眠るかのどちらかになる。

 途中、二十分ほどの休憩を三回とった。馬は文字通りの休憩で、水を飲んだり草を食んだり。人間達は逆に動き回り、窮屈と退屈をまぎらわせた。昼食も途中で済ませている。

 山地の近くに来て、街道をそれた。山道を延々と登る。道も悪く、馬車はかなり揺れた。乗り疲れていたところに、これはたまらない。酔って気持ち悪くなる者が何人も出た。――他の何人かはスリルを感じ、かえって元気になったが。

 いくつかの小さな村を通り過ぎ、道の最奥にあるコートの村に着いた時には、すでに日が暮れかけていた。人口百人足らずの小さな村である。この辺の山は雨が少なく、森林も未発達な分、放牧に適している。村人達は山で牛や山羊を飼い、ハムやベーコン、チーズなどを作って暮らしていた。

 訪れる者の少ないこの村に、よそ者は珍しい。好奇の視線が浴びせられた。村の子供達など、馬車を追いかけてきたほどだ。

 村を抜け、さらに道なき道を十分ばかり登ると、村外れの一軒家に着いた。サムトーがケープガルに来る前に立ち寄ったこの村で、世話になった一家である。日はすでに沈み、赤く燃えていた山々が黒く染まっている。

 少し崖になったところの影だった。周囲にはモミの木が何本かそびえ立っている。山に吹く強い風から家を守っているのだろう。道場の半分ほどの土地に、いくつかの建物があった。

 サムトーは母屋の前に立ち、ノックした。

「ごめんくださーいっ!」

 いつもの陽気な声で呼びかけた。

「はーい、どなた?」

 扉が開き、中から十才くらいの女の子が出てきた。

「……サムトー! 来てくれたの!」

「よ、元気そうじゃねえか、レチカ」

 女の子はうれしそうに家に飛び込んだ。

「サムトーが来てくれたよぉー」

「おや、これはこれは、良く来てくれたねぇ」

「いや、本当に良く来てくれたのぉ」

「とにかく、中にお入りよ」

 言葉も様々に、みなサムトーの来訪を喜んでいた。

「連れが十人ばかりいるんだけど、しばらく泊まってもいいかな?」

「もちろん、歓迎するさ。裏の干し草小屋を使うといい」

 一家の大黒柱、サルフという男が答えた。大柄な筋骨逞しい男で、縦も横も優にサムトーを上回る。

「ありがとう」

「晩メシはどうする? 待ってくれれば用意するが」

「ああ、材料を持ってきたから心配はいらない。みんなで作るそうだから、外のかまどを貸してくれ。もし、まだ食べてなかったら、あんた達も一緒に食べないか?」

「わざわざ済まないな。……おい、お前達も手伝ってやんな」

 このサルフ一家は六人。スブ爺、クスタ婆、嫁さんのホトア、それに娘のレチカが十才、息子のマルティが八才。そしてムーンという名の犬が一頭。

 一家全員が外に出てきて、一行の手伝いを始めた。

 スブ爺とサルフに案内され、少年達が荷物を下ろし、干し草小屋に片づける。小屋にはまだ五分の一ほど干し草が残っていたが、それを生かし、シーツを敷いて寝床を作った。その間に、女性達で、小麦粉の袋を開き、ミルクと卵をもらって薄焼きパンを作る。港町らしく、魚の薫製や油漬けなどを持ってきている。それと、同じく持参したいくらかの野菜をパンにはさんで食べるのである。

 門下生達は忙しく立ち回り、馬車に積んであった荷物を干し草小屋に納めた。それが終わる頃には、夕食の仕度も終わっていた。

 総勢十八人で、賑やかな食事となった。

「不思議な味だね。でも、おいしいよ」

 魚をあまり食べたことのないレチカとマルティは、ずいぶん新鮮に感じたようだ。目を丸くしながら、うまそうに頬張る。

 食べながら自己紹介をした。初対面でぎこちなさもあったが、一緒に食事をするのは気分をほぐすものらしい。道場の門下生とサルフ一家の子ども達は、ざっくばらんに話せるようになっていた。

「へぇ、みんな剣術道場の人なんだ」

 この辺鄙な村に武芸の道場はない。どんなことをするのだろうと、二人の子供が目を輝かせた。

 逆に、港町で育った門下生達には、山の暮らしは物珍しく映る。

 互いの興味が、すぐに子供達をうち解けさせ、互いにワイワイと話をするほどになっていた。

 みなが食べ終わった頃、レチカのリクエストが入った。

「ねぇ、サムトー、笛吹いてよ」

 門下生達が目を丸くした。サムトーが笛を吹くなんて、見たことも聞いたこともなかったのだ。

「すっごく上手なんだよ」

 マルティが自分のことのように自慢する。門下生達も一緒になって、サムトーにせがんだ。

「しょうがねぇな。……ほんじゃ、ま、ちょっと一曲」

 懐から銅の縦笛を取り出した。養護施設で暮らしていた頃から縦笛は得意だったが、これは逃亡してから、諸国を流浪する旅芸人にもらった品である。

 明るく元気な音色が山々に響く。旅芸人達が客寄せに使う曲だった。

「……」

 一行は静かに聞き惚れた。

 吹き終えると、拍手が沸いた。

「先生、すげぇや」

「ホント、上手なのね」

 アンコールがかかった。サムトーは続けて二曲ばかり笛を吹いた。


「明日は早いからな。よく寝ておけよ」

 サムトーは、そう言い残して小屋を出た。

 だが、門下生達は最年長でも十三才、要するにノリは修学旅行みたいなものだ。夜中、興奮して騒いでしまう。それに、レチカとマルティの二人も、彼らと一緒に寝たいとせがみ、この中にいた。互いに興味があるので、話題は尽きない。かなり遅くまで話をしていた。

 サムトーはサルフ一家に話があった。ロドニィやエレナと一緒に、しばらく滞在するので、いろいろと頼むことがあったのである。

「まず、これを受け取ってくれ」

 サムトーが革袋を渡した。金貨が三十枚入っている。極上の雌牛が買えるほどの額だ。一家六人が半年以上食べていけるだろう。

「こんなにたくさんは受け取れない」

 サルフが言ったが、サムトーは押し止めた。

「この前、世話になった分もある。今回世話になるのと合わせれば、これでも足りないくらいだぜ。……それに、大声じゃ言えねぇが、こいつぁ賭場で稼いだ金なんだ。元手もかかってねぇし、第一があぶく銭だ。遠慮なく受け取ってくれよ」

 サルフ一家はその好意を謝し、有り難く受け取った。

 ロドニィとエレナは目を丸くした。この用意の良さと、賭場でこれだけ勝てる才能とに。

 だが、驚くのはまだ早かった。

「すまないねぇ。世話になったのは、わしらの方なのに……」

 クスタ婆が言った。嫁のホトアが続ける。

「そうとも。村の恩人さまだよ。あの時、サムトーさんがいなきゃ、村は一体どうなってたことか……」

 去年の終わり頃、サムトーは、ぶらりという感じでこの村に立ち寄った。その前は旅商人の用心棒を務めていたが、その仕事に一区切りついたところで一人旅を再開したのだった。

 冬場、飢えた狼達が集団を作ることがある。この冬がそうだった。普通、狼は村に近づこうとしない。人間の恐ろしさを良く知っているのだ。だが、よほど頭の良い狼がリーダーとなったのだろう。三十頭を超える群を率いて、あちこちの村で家畜を襲った。何頭もの被害が出た。村人達は退治しようとしたが、狼達は統率が取れ、頭も良く、実に強かった。大勢のケガ人ばかりでなく、死者までも出る惨事となっていた。

 サムトーは事情を知ると、誰にも言わず、たった一人で山に分け入った。そこで何が起こったのか、村人達は知らない。だが、それからというもの、ぷっつりと狼達は村を襲わなくなった。

 さすがのサムトーも、大勢の狼との戦いでいくつもの傷を負っていた。何とかコートの村にたどり着くと、血塗れの姿でサルフの家に現れたのである。

 サルフ一家は事情を悟った。彼が群のリーダーを倒してくれたのだと。だから必死で手当し、回復するまでの面倒を見たのだった。

 だが、サムトーは、回復してすぐに姿を消してしまった……。

「その話はくれぐれも内緒で頼むぜ」

 サムトーが言った。目立つとお尋ね者だということがばれるきっかけになりかねない。

 サルフは柔らかく微笑んで言った。

「ああ。お前さんとの約束だからな。子供らにも言ってない」

 サムトーが軽い罪悪感を表情に浮かべて謝った。

「そうか、それならいいんだ。……俺の方こそ、あんた達に命を助けられて、それっきりだったからな。すまなかった」

 エレナが初めて見る姿だった。凄腕の剣士とはこれほどのものかと、初めて知った。何十頭もの狼と戦い、重傷を負ったとはいえ生還するなど、完全武装の聖騎士でも難しいだろう。サムトーの得体の知れぬ強さに寒気を感じながらも、一体いくつの顔を持っているのかと、不思議に思い、また彼に惹かれている自分を感じた。

 エレナの心情を察し、サムトーは陽気に言った。

「ま、そんなつまらない話は止めようぜ。ここに来たのは、楽しく過ごすためなんだ。よろしく頼むよ」

「そうだな、その方が俺達もうれしい。ゆっくり楽しんでいってくれ」

「詳しい話は、こちらの先生から聞いてくれ」

 話に聞き入っていたロドニィは、話を振られて我に返った。

「あ、ああ……。それでは、ご一家に頼みたいのだが……」


   §


 翌日は、日の出と同時に起きた。

 外にある水場で顔を洗う。崖に長い筒が埋め込まれていて、その先から水が流れ出ていた。地下水である。冷たくて気持ちがいい。飲んでみても、実においしかった。

 サルフの姿はすでになかった。サルフ一家が飼っているのは山羊ばかり三十頭である。他に家禽が二十羽ばかり、猫の額ほどの土地で野菜もわずかながら作っている。また、村の山羊達を預かり、一緒に放牧させることでも収入を得ていた。

 一家の用意してくれた朝食を取ると、すぐに出発である。山へ山羊の群れを放牧に行くのだ。

 みんなで外に出ると、サルフが犬のムーンに助けられながら、六十頭を超える山羊を連れて登って来るところだった。

 夜更かししていたが、門下生達は元気十分である。まだ、興奮が醒めないでいるようだった。元気良く、一緒に山を登っていく。ロドニィやエレナ、サムトーも後をついていく。

 緩やかな傾斜をしばらく登る。不思議なことに、山が近づくにつれ、遠くの山々が高くなっていくように見える。遠くに見える山脈の万年雪が、陽光に照らされて美しく輝いている。透き通るように青く澄んだ空。まだ冷たさを残した風に草の匂いが漂う。何とも気持ちのいい朝である。

 一時間ほど歩いただろうか。ようやく草場に着く。

 小高い山の頂上だった。ここ最近の草場である。他にもいくつか草場があり、その時々の状態に応じて場所を変えている。

 ここは一番よく使う草場だった。四方を良く見渡せるため、山羊達の様子が良く分かり、勝手にいなくなる心配もまずない。何かあると犬のムーンが先んじて動いてくれる。また少し下の方には湧水があり、山羊達が水を飲むのにも都合がよかった。

 はるか下の方に、ごまつぶほどに小さくなったサルフの家が見えた。さらにその下にはコートの村が見える。周囲を山々に囲まれた別天地であった。

 サルフが指笛で合図を出すと、山羊達が好き勝手に草を食べ始める。

 子供達も元気よく遊び始めた。

 草の上を走り、転がり、取っ組み合って遊ぶ。子山羊と戯れて遊んでいる子もいた。師範組三人は、危険がないようにそんな子供たちの様子を見守りつつ、山羊達の様子や景色を眺めて楽しんでいた。

 もちろん、レチカやマルティには仕事がある。時々山羊達の様子を見て、遠くへ行きそうなら呼び戻さなければならない。名前を呼び、指を口に当てて吹くと、山羊が戻ってくる。良く慣れていた。

 門下生達も指笛の技を教わった。最初はなかなか音が出ない。何度も繰り返し挑戦する。少しずつ音が出始めた。何人かはすぐに大きな音を出した。一番早く出来るようになったのはリナルド、最後まで出なかったのはクラリスだった。

 昼食は、クスタ婆とサルフの奥さんホトアが作ってくれた弁当だ。と言っても、厚切りのパンとチーズが一切れずつ。足りないかというと、そんなこともない。放牧中の山羊から絞った乳がついてきたからだ。

 陽が傾き始める頃には、早くも山を下り始める。山に夜の帳が下りるのは早いからだ。

 山々が金色に、そして燃えるように赤く、次第に変わっていく。

 家に着くと、サルフと、今度は昼間干し草を作っていたスブ爺も一緒に、村へ山羊を戻しに行った。

 レチカやマルティが一家の山羊を小屋に入れ、乳搾りをする。

 さすがに手慣れている。実に見事な技だった。門下生達も教わりながらやったが、簡単にはいかない。

 夕食は、サルフ一家定番メニューの一つだった。絞り立ての山羊の乳。たき火を起こし、肉と野菜を串に刺したのを自分であぶる。ジャガイモのパンケーキもそこで焼く。バターをたっぷり乗せて食べる。

 その後、風呂に入る。

 燃料代の関係で、一家は毎日入るわけではない。バイバルス一門のために用意してくれていたのである。

 すっきりしたところで就寝となる。

 さすがに、門下生達もこの日は疲れたようだ。昨日の夜更かしもあるだろう。みなすぐに夢の世界に溶け込んでいった。


 放牧だけでなく、干し草作りもした。

 両手で使う大きな鎌を操って、草を刈っていく。これもまた難しい。うまくやらないと、草の上だけ刈ってしまったり、地面に食い込んでしまったりする。

 チーズ作りも大変だった。

 乳をしばらく放ったらかしておくと、発酵して固形物が出来る。カードと呼ばれるその凝固物を大きな釜に満たし、火にかけながらゆっくりじっくりとかきまぜて、乳清を分離させる。それから乳清や水分を除いて型詰めし、塩を加え、熟成させるのだ。

 大体の工程は見せてもらっただけで、やらせてもらったのは、かきまぜるところだけだったが、交代でやったのに腕が痛くなるほどだった。

 その山羊のチーズは実においしかった。トウモロコシや燕麦で作った硬いパンの上に、火であぶったチーズを乗せてかじる。たったそれだけなのに、豪勢な料理などよりおいしく感じる。山の空気はきれいだから、何でもおいしく感じるのだろう、そうクスタ婆は言っていたが、全くその通りだとみな思った。

 石造りで人の多い街と違い、美しい大自然の中で暮らすことは、確かに素晴らしいものに思える。だが、良い面ばかりではない。土地は痩せていて、あまり作物は取れない。物産にも恵まれず、衣類など生活必需品を他から買わねばならないが、収入を考えると贅沢はできない。坂だらけで移動にも面倒だし、雪が積もれば放牧も農作業も出来なくなる。

 門下生達には、何もかもが新鮮で楽しかった。しかし、多くの苦労があることも肌で実感できた。

 ロドニィが門下生達に望んだのは、正にそれだった。

 見聞を広め、他人の苦労や生き方を理解することで、自分も他人も生かせるようになる。活人剣とは、剣術でありながら、そうした人の生きる道を追い求めることでもある。それがロドニィの信念だった。

 ロドニィは、改めてサルフ一家とサムトーに礼を述べた。


 まどろんでいたエレナの耳に、笛の音が聞こえた。

 明るい曲なのに、どこか寂しげな感じがした。

 エレナはそっと外に出た。

 月明かりの下、サムトーが一人笛を吹いていた。

「どうしたの、こんな夜遅くに」

「ん、ちょっとね……」

 表情はいつもと変わらない。陽気なお調子者だった。

「そろそろ、旅に出ようかと思ってさ」

 一瞬、エレナの心臓が凍り付いた。

 表情がこわばるのが自分でも分かった。

「どうして急に……」

「別に急でもないさ。……最初はバイバルス道場をちょっとのぞいてみるだけのつもりだったし、メシ喰わせてもらったときも、それでさよならのはずだった。それが二、三日になって、しばらくになって……、気がついたら三週間も居着いちまった」

 淡々とした口調だった。

「確かにそうだけど、でも、だからって……」

「いやぁ、ホントは迷ってるんだ」

 ロドニィに言われたせいもあるが、このままずっとのんびり暮らしてもいいな、という気になっていた。

 ――しかし、そう出来ない事情がある。

「道場の暮らしは楽しいと思うよ。でも、まあ、やっぱり旅の方が性に合ってるんだな」

 努めて明るく言った。彼の脳天気さは、時には演技を伴う。

 エレナはムキになって言った。

「だったら、ずっといればいいじゃない。わたしも、お父さん……いえ、父上も、クリスだって、道場のみんなだって、いつまでもサムトーにいて欲しいと思ってるのよ!」

「そうかねぇ……」

「そうよ、絶対!」

「ふーん……」

 穏やかな風が流れた。

 またサムトーが笛に口をつけた。

 悲しげな曲が流れた。

 エレナには分かった。死を悼む曲――挽歌だった。

「俺は人殺しだぜ。今までに何人殺したか分からない、凶悪な男なんだよ。先生も言ってただろ、俺からは死の匂いがするってな。活人剣を目指す道場に、こんな男がいつまでもいちゃあ、いけねぇんだよ」

「ウソよ! ……あなたは優しい人だわ。命がけでこの村を救ったじゃないの!」

「ありゃあ、俺が狼と戦ってみたかっただけさ。命のやりとりが好きなんだよ。そんな俺だから、また旅に出ようと思うんだ」

 未練を残しながらも、サムトーは平然と言う。楽しみも苦しみも、全てが生であり、死を迎える準備に過ぎない。屋台で食べ物を注文する程度の、気安い言葉だった。

 エレナはそんなサムトーの陽気さの陰に隠された諦念と悲しみと、そして自由に生きようとする心を感じた。自然と青い瞳から涙があふれ、心情を口からほとばしらせていた。

「でも、わたしはサムトーにいてほしいと思ってる。これは本気よ」

 サムトーが目を大きく見開いた。

 これには参った。真剣な表情で、そして心の底から気持ちを込めて自分を引き留めてくれるとは。こんなに気に入ってもらえるとは思ってもみなかったことだった。思わず肩をすくめる。

 エレナが真っ直ぐサムトーを見つめた。

「わたしのこと、好き?」

「……」

「わたしは、サムトーが好き」

 きっぱり言った。迷いのない真っ直ぐな瞳。

 そう、だからこの娘は魅力的なんだ。今さらのように、サムトーは再確認した。

 それにしても、こりゃあ、すごいことだぞ。

 月の光に照らされて、何ともロマンティックな雰囲気じゃないの。そこにたたずむ美男美女。これで、俺が、このかわいい女の子の告白に応えれば、めでたく恋人達の出来上がり――。

(だけどねぇ。そういうわけにもいかないんだな。俺は逃亡した元奴隷剣闘士だ。見つかりゃあ殺される)

 しかし、逃亡してからもう二年以上も過ぎている。そう簡単に見つかるものでもなく、自由気ままに旅を続けることができたのだった。しかし、お尋ね者という事実は変わらないのだ。

(……でも、まあ、いいか。いずれは別れるにしても、少しくらいはいいよな)

「俺も、エレナが好きだぜ」

 前髪をかき上げながら、格好つけて言ってみた。表情は真剣そのもの。瞳に慕情をにじませている。

(決まったな、フッ……)

「何よ、それ、変なの」

 ところが、エレナは笑い出してしまった。こういうキザな振る舞いは、エレナの思うサムトーらしくなかったようである。

(何だ、何だぁ~。いい雰囲気だったのにぃ~。笑いをとる場面じゃなかったはずなんだがな)

「でも、ありがとう。……さあ、もう寝ましょう。明日も早いし」

 エレナは微笑むと、さっさと立ち上がって家に戻っていった。

 ……そんな彼女の内心は、恋の喜びと嬉しさと、そして恥ずかしさで一杯だなんて、サムトーは知らない。

「あ、あの、ちょっと、続きは……?」

 サムトーの言葉が虚しく星空に吸い込まれる。

 家の扉が閉まった。

 何で? どうして?

 今の顔、すっごく良かった。きれいで、かわいくて、もうブルブル来ちゃうほどだぜ、全く。なのに、それなのに……。

「ちっくしょおーっ!」

 月夜に吠えたサムトーであった。


   §


「ぢくしょう、何でまた、旅行なんて行きやがるんだ! おかげで、エレナが、あのクソ野郎に傾いちまったじゃねぇか」

 例のエレナに横恋慕している、ボードウィン道場は、長男アーノルドである。自分の小悪党な性格を棚に上げているのが、やはり彼らしい。

 サムトー達が道場に戻って三日ほどが過ぎていた。

 エレナとの仲は、端で見ていても変わった様子が見られる。くっついちゃったんじゃないの、あの二人。表面的にはさらっとしてて、口げんかもするが、見ててうらやましい――そんな感じだ。

 もちろん、黙って見ているアーノルドじゃない。例によって、手下共に動向を窺わせ、街に出てくる度にからんでいた。しかし、サムトーは不感症なのか動じないし、エレナと二人一緒の時はなおタチが悪く、仲のいい様子を見せつけたりもしてくる。怒り心頭に発していた。

「お父様、何とかならないでしょうか?」

 猫なで声で訴える。気色悪いが、父から見るとかわいい息子である。

「心配はいらぬ。策はある」

 実は、ボードウィンは、ロドニィのバイバルス道場を乗っ取る機会を虎視眈々と狙っていた。不在だったのを幸いに、留守を預かっていたベンとハンナに好意を示し、いろいろと便宜を図ったり贈り物をして機嫌を取った。ロドニィがいればこの手は通用しないだろうが、留守だったので、見事二人の信用を得ることに成功する。これが第一段階。

 第二段階は、サムトー一人だけで、ボードウィン道場へ出稽古に来させることである。ベンとハンナを抱き込んであるから、疑われる余地はない。安心して送り出してくるだろう。そこでサムトーを斬り刻むのだ。奴が真剣で斬り込んできたので、やむなく殺した、これはあくまで正当防衛だと、城には報告する。証人はボードウィン道場の者だけだし、城の者も男爵の自分を信用するに決まっている。

 こうなると、師範代が無法な斬り込みを行ったとして、道場主のロドニィも連帯責任を問われるだろう。重罪だから、間違いなく投獄されるだろう。

 そこで、抱き込んだベンとハンナを再び用い、ボードウィンが直々に、わしが城のお偉いさんに放免してもらえるよう取りなしてやろうじゃないか、と持ちかける。詳しく話したいので、という口実でエレナを道場に招き、無理矢理奪ってしまえばいい。まんまとアーノルドがエレナを頂いたら道場も乗っ取る。父が放免されないと責められても、取りなしを頼んだがダメだった、ということにすれば済む。これが最終段階である。

「さすがオヤジさま、何て悪党なんだ」

「おいおい、それは誉めておるのか?」

 親子が残忍な笑みを浮かべた。

「ねえ、ボクはどうなるの?」

 次男のノーヴィスだ。

「おお、すまぬ。お前はあそこの女の子を欲しがっておったな。……ならば、無事乗っ取った暁には、お前をそこの師範代にしてやろう。門下生はそのままにするゆえ、手取り足取り、いや胸取り腰取りでも、好きに教えるがいいわ」

「ありがとう、父上」

 嫌らしい笑みを浮かべるノーヴィス。

 父ボードウィンも、それに負けずと残忍な笑みを浮かべて言った。

「それから、ネッケル。サムトーという奴を切り刻むには、またお主の力が必要じゃ。成功すれば、金も女も取らせるゆえ、しっかり頼むぞ」

「ヘイ、分かっとりやすよ、ダンナ」

 美しくない悪党共の笑い声が響いた。


 ロドニィの元に、サムトーを出稽古に寄越して欲しい、という書状が届いたのは、悪党ボードウィン道場の連中が密談した翌日である。

 ベンやハンナが、しきりにボードウィンを見直したなどと言っていたし、書状も理を尽くし、情を述べた、なかなかの文章である。きな臭さを感じつつも、彼もようやく剣術に本腰を入れるようになったのかと、ロドニィは思っていた。

 サムトーの本質を見抜いたほど鋭敏な彼も、やはり活人剣を理想とするだけに、人を信用することこそ本来の姿である。多少の疑念よりもやはり信じようとするのだった。だからこそ、人を殺したことがあると知りつつ、サムトーを受け入れたのだ。

「今度は、絶対負けないでくれよ」

「そうよ、思い切りやっつけちゃいなさい」

 姉弟もそうやって激励してくれた。

(それはありがたいが、何か臭いな)

 ロドニィが疑念を抱いたように、サムトーも今回の申し出に裏があるのを感じていた。生死の狭間をくぐり抜けてきただけに、生命の危機に関しては敏感なのである。

「そうっすね。三日後に行くと答えて下さい。その間、特訓を積んでおきますってことで。今度は負けたくありませんしね」

 やる気十分、そんな感じに見せた。もちろん、ボードウィン道場の内情を探る時間を稼ぐ口実である。

「分かった。そう伝えよう」

 ロドニィが返答を認め、ベンに持たせた。


 その日の晩、サムトーはボードウィン道場に忍び込んだ。元々身軽で敏捷だったし、その上奴隷剣闘士として鍛えられ、さらに猟師や旅芸人達との暮らしで磨きをかけていた。彼にとっては気安い技に過ぎない。

 しかも、権勢を頼みにしたボードウィンの連中は、門番がいる程度で、屋敷の内部には何の警戒もしていなかった。

 サムトーにしてみれば、雑作がないどころか拍子抜けという感じだった。

(もうちょっと、自分の身の回りに気を付けな)

 内心でつぶやくと、天井裏から彼ら親子の様子を窺う。

 ロドニィの返書を見て、ボードウィン達は策が成功したも同然と思い込んでいた。早々と祝杯を挙げ、ベラベラと無警戒に自分達の策を意気揚々と話していた。

「なるほど、よく考えたねぇ……」

 彼らの策謀を耳にして、サムトーは率直に感心した。実に良く考えている。なるほど、悪事にはマメらしい。自分の欲望を果たすためならどんな労も厭わない。悪事のために努力するのは褒められたものではないだろうが、たいがい努力ってのは欲望のためにするものだから、サムトーに別段責める気はなかった。少なくとも、正義の味方よりマシだと思っている。『これが正義だ!』とばかり、有無を言わさず押しつける連中の方が、こうして人を陥れようと画策する連中よりタチが悪いとさえ思っていた。

 だが、どっちも嫌いなのも確かだった。

 逆に、盗賊などには仲間意識がある。彼らの多くは、喰うに困ったか、真っ当な職業に就けなかったため、やむなく盗賊稼業で食い扶持を稼いでいる者が多い。貴族とか騎士とか偉そうにしてる奴らや、金に物を言わせる豪商達は、盗賊や奴隷など賤民を虐げて省みることはない。そんな連中から盗みを働いて、何が悪い。そう思うのだ。

 ……さて、この連中はどうしようか。

 こういう判断に理性は必要ない。それがサムトーという男だ。

 薄ら笑いを浮かべるボードウィン道場の面々。酷薄で残忍な、実に嫌な表情をしていた。

(――気に入らないな。斬ろう)

 決断を下すと、サムトーは道場を出て、賭場へ足をのばした。

 軽く稼いで、道場に戻ったのは夜も更けた頃だった。


   §


「よぉ、今日一日デートしねぇか」

 朝一番、エレナと顔を合わせた拍子に言った。

「え、何なの、突然……」

 エレナは頬を赤らめた。

「昨日賭場でまた稼いできてな。買い物にでも行こうと思ってさ。エレナちゃんにもいろいろ買ってあげられるし、一緒に行かないか?」

「また賭場に行ったの?」

「ああ。金貨十枚あるから、ついでにガキ共にも何か買ってやろうぜ」

 半ば呆れた。道理で昨日の夜、姿が見えなかったわけだ。それにしても、良くこう勝てるものだ。それだけあれば、庶民の一家三月分の生活費を十分賄える。こんなに稼げるのは尋常の才ではない。普通、賭け事というのは、せっかくの稼ぎを無駄にしたり、挙げ句に身代をつぶしたりすることの方が多いものである。

 それでも、エレナには嬉しい申し出だった。サムトーが誘ってくれたのは初めてだった。これまでは、一緒に出かけても道場の用事だったのだ。

「どうだい?」

 サムトーが重ねて促した。

「わたしはいいわよ。父上が許してくれればね」

 喜んでいるくせに、歯牙にもかけない振りをして答えた。


 父ロドニィは快く送り出してくれた。

 午後の稽古も見ておくから、一日ゆっくり回るといい。そうまで言ってくれた。いい父親である。

 サムトーは内心でため息をつき、そして感心した。

 ロドニィはこういう誠実な人柄だから、ボードウィンの策略に気付かないのだろう。……でも、それはそれでいいと思う。いいことだと思う。こういういい人だからこそ、門下生達ものびのびと学べるし、俺みたいな男でさえ楽しく過ごせたのだから。


 朝食後、出発するまでに、いくらかの時間がかかった。

 本当に珍しく、エレナはおしゃれをした。

 いつもは無造作に結わえている髪を、時間をかけてとかし、横の部分だけ丁寧に編んでリボンを結ぶ。クローゼットでいつも眠っている服がようやく日の目を見た。慎重に選んだ末、柔らかな紺のスカートとワンポイントの飾りがついた白いブラウス、薄い黄色の上着を採用する。真紅のドレスなどもあったが、やはり華美なのは性に合わないようだ。清楚で素朴な町娘という印象でまとめた。

 サムトーは目を大きく見張った。やがて頬を真っ赤っかに染めた。スケベなくせに、純情な男である。

 色気の全くない剣術着でさえ、息を弾ませて額に汗を浮かべる姿さえ美しいこの娘である。ちょっとかわいく装っただけで、その美しさが十倍にもなった感じだった。

「うん、すごくかわいい」

 照れていながら、こういうセリフが遠慮なく飛び出すのもサムトーらしいところである。エレナも負けずに頬を赤らめた。

「ありがとう。……じゃあ、行きましょう」

 二人は腕を組んで街に繰り出した。


 立派な店構えの装飾品店。彩り様々な品の並んだ衣服店――。

 エレナが、いつもはただ通り過ぎるだけの店に足を踏み入れる。

 実に新鮮な気分だった。エレナは楽しさを感じた。

 自分が女の子だと改めて実感する。性に合わないとも思うが、やはりこういうものへの憧れがある。エレナは笑顔で見て回った。

 ……でも、どうしても買えない。サムトーが遠慮しなくていい、きっと似合うよ、などと優しく言ってくれたが、何とも買いにくい。服装の選び方でも分かるように、彼女は華美なものが苦手だった。

 結局、先に門下生達に買うことにした。

 こちらはあっという間だった。菓子やら玩具やら、女の子にはちょっとした装飾品や人形、男の子にはナイフや虫眼鏡など。ずいぶんたくさん買ったが、それでも全部で金貨二枚にも満たなかった。

 荷物がかさばったので、一度道場に戻った。夕方まで帰ってこないだろうと思っていたらしく、ロドニィがケンカでもしたのかと筋違いな心配したものだ。

 再び街に出たときには、ちょうど昼飯時だった。

 値の張る豪勢なレストランにでも行こうぜ、サムトーは誘ったが、エレナは首を横に振った。気取ったことしないで、普通に楽しめるのがいい。そう言って、同じレストランでもそこそこの店に入った。ケープガルは港町なので、新鮮な魚介類を売り物にした店が多い。この店も魚料理の種類が豊富だった。味は質朴でいて、良く工夫されている。矛盾するようだが、素材の真価を発揮させるために工夫を凝らした結果、味が質朴になるようだった。それだけに素材の味を楽しむことができた。

 食後、市を見に行った。要するにフリーマーケットであり、露店が数多く開かれ、様々な物が売られている。

 デートにしては猥雑すぎる場所だが、サムトーはこういう雰囲気が好きだった。それを知っていて、エレナがわざわざ行きたいと言ったのだ。

 焼き菓子や串焼き肉を買って頬張り、大道芸に拍手喝采してチップをはずみ、スリの小僧に小銭をあげる。そんなことを楽しむサムトーの姿は、エレナにまた新鮮な気持ちをもたらした。自由気ままでいて、優しくて、そして楽しい人柄に思えた。より強く好きになる。

 お約束だなぁと思いつつ、サムトーはそこで首飾りを買った。旅の商人、諸国を巡る流浪の民の露店で見つけた、大きなアクアマリンがついた物だ。エレナの瞳の色に似た美しさをサムトーは気に入った。値段は金貨三枚まで値引きしてもらい、ついでに見事な装飾の施された小箱をつけてもらった。

 それから市街に戻り、のんびりとお茶を飲んだ。上品なお菓子の店で、オレンジタルトにローズティーを頼んだ。

「今日は楽しかったわ。ありがとう、サムトー」

「いえいえ、どういたしまして」

 いつもならガキ共相手に稽古をつけている時間だ。こうして羽をのばすのは気分がいい。ちょっと、店とオーダーに格好をつけすぎた気もするが、たまにはいいだろう。

 陽が少しずつ傾いている。

 二人を包む光に、わずかな赤みがさした。

「さぁて、そろそろ帰るか」

「あ、待って。最後に海を見に行きましょう。しばらく、こんな風に女の子らしくなんて出来ないから……」

 少し寂しげに言った。

「エレナは、いつだってかわいい女の子だよ」

 顔から火を噴きながらも、やっぱりこういうセリフが言えるサムトーであった。


 海は赤く穏やかな色に染まっている。

 ゆっくりと寄せては返す白い波。

(夕暮れの砂浜にたたずむ恋人達。――って俺達のことか。ずいぶんとロマンティックじゃねぇの)

 サムトーはそんなことを考えていた。

「わたしね、こういうのにちょっと憧れてたの」

 エレナが微笑みながら言う。似たようなことを考えてくれていたらしい。実にかわいい。

「さっき、かわいいって言ってくれて、すごくうれしかった。……わたし、剣術は好きだし、これからもがんばりたいと思うの。でも、そうすると、女の子らしくなんて、出来ないと思ってたわ」

「そんなこたぁねえよ。何してようが、女の子はやっぱ女の子さ」

「ありがとう」

 うれしそうに言うと、サムトーにもたれかかった。

 その長い髪を優しく撫でる。柔らかな感触だった。

 サムトーの肩に頭をのせたまま、エレナが続けた。

「わたし、あなたが白馬の王子さまだったら……」

「だったら?」

「すごく笑えるなあって思ってたの」

「……」

 サムトーが苦笑した。全くだと思う。

「ふふ、悪い意味じゃないの。王子さまが相手じゃ、きっと堅苦しくてたまらないと思うわ」

「俺が相手だったら?」

「もちろん、サムトーと一緒なら何の気兼ねもなく、陽気に楽しく過ごせるわ。だって、『いい加減流の剣士』だもの」

 エレナが弾けるように笑った。

 はるか水平線に夕陽が沈もうとしている。

 二人はゆっくりと唇を重ねた。


   §


 次の日は、ごく普通の一日だった。

 起床、朝食、畑やニワトリの世話、掃除……。

 昼食後は門下生達の稽古。素振り、剣術型、寸止め、撃ち合い。今では、サムトーも一人で教えられるようになっていた。その後は、いつもの如く、怪しげな『秘剣』を縦横に駆使して相手をする。門下生達もずいぶんと隙を見せなくなったが、それでもしっかりハメるのがサムトーである。

 そして夕食。サムトーも一家団欒に加わっている。というより、すでに欠かせない存在になっていた。

 そして風呂。エレナと少し茶飲み話をして、就寝。

 翌日も、昼食まではほぼ同じである。

 昼食の前、最後の最後にエレナと街に出ることが出来た。食糧や調味料の買い出しという色気のない用事だが、それでもうれしかった。

 ずいぶんと、長くこの道場にいたもんだ。

 実に平和だった。楽しい生活だった。エレナみたいなかわいい娘と恋もできた。もう、言うことはない。十分満足だった。

(これでお別れだ。元気でな)

 内心で別れを告げる。

「そんじゃま、ちょっと行ってくるわな」

 言葉はいつもの調子だった。

「行ってらっしゃい。負けないでね」

 エレナに送られて道場を出た。ここに来たときと同じ格好である。背に負った長剣、そして腰に帯びた短剣。足元はブーツ。洗濯してもらったが、まだ薄汚れたままの、旅の剣士にしか見えない衣服。

(さて、修羅場に戻るか)

 生と死の隔たりが、薄皮一枚でしかない世界へ。

 サムトーは表情もそのままに、雰囲気を一変させた。


 ボードウィン道場に着くと、門弟の一人が案内してくれた。ケープガルの街で一番の道場を開いているだけに、男爵の面子もあってかやたらと広い建物だった。

 廊下を長々と抜けて、一番奥の稽古場へ出る。この道場では靴を脱ぐ習慣はない。土足のまま板張りの稽古場へ上がった。

(こりゃあ広いや。バイバルス道場の四倍はあるな。……さっすが貴族様、大金持ちじゃねぇかよ)

 妙なところに感心しながら前に進み、調子よく挨拶する。

「どもども、よろしく頼みます」

「うむ。今日はよろしく頼む」

 ボードウィンの言葉が終わると、門弟達が稽古場を封鎖した。扉を閉め、窓も全て閉じると、中からカギまでかける。

「おや、閉め切って立ち合いですか」

 彼らの策謀を知ってるくせに、サムトーはわざと聞いた。

「ああ。ここはしっかり防音されておってな。カギをかければ完全な密室となる。外に様子が全然漏れないようになっておる」

 ボードウィンが嗜虐的な笑みを浮かべた。アーノルド、ノーヴィス、ネッケルを初めとする、ここにいた十数人がみな同じ表情を浮かべた。他人を惨殺する喜びに満ちた、イヤらしい表情だった。

 彼らの足下には、竹刀ではなく真剣があった。

 そして、道場にいる八人は、前にアーノルドがバイバルス道場に連れていった連中とは違う。ボードウィン道場の元門弟だが、普段は傭兵として神聖帝国軍で仕事をしている連中である。平和な時代ゆえ実戦経験こそ盗賊退治程度くらいしかないが、十分に腕が立った。

「では、楽しませてもらおうか、サムトー君」

 八人が一斉に立ち上がり、剣を抜いた。

「あっさり死ぬなよ。楽しみが減る」

 豪語しながら舌なめずりするように、サムトーにじりじりと迫る。

 心底呆れ果てて、サムトーは言った。

「止めといた方がいいぜ」

 相も変わらず、軽い調子である。

「へっ、何言ってやがる」

 ネッケルもアーノルドも、いつぞやの殴り込みでサムトーに勝っている。ここに集まった八人の傭兵は、みなアーノルドより腕が立つ。一対一でも負けるはずがない。集団でかかればなおのことだ。その余裕と残虐さが表情に現れていた。

 サムトーは小さくため息をついた。仕方がない、そんな表情で。

「仕方ねぇ……。そんなに死にたきゃ、殺してやるぜ」

 サムトーの全身から、凄まじい殺気が立ち上った。死ですら己の一部でしかない、奴隷剣闘士の神髄だった。背筋が凍り付くような殺気に、圧倒的な迫力を感じて、傭兵達がたじろいだ。

「ただのこけおどしだ、やっちまえっ!」

 アーノルドが怒号した。彼は剣を抜いていない。自分の手を汚す気はないらしい。

 次の瞬間、八人が一斉にサムトーを襲った。

 ボードウィンら四人の視界が遮られる。

 怒号と悲鳴、金属音に床を踏みならす音――喧騒が渦巻くこと十秒足らず。

 傭兵達が完全に静止した。

「おい、何やってるんだよ、てめぇらは」

 アーノルドはニヤニヤしていた。勝利を確信した顔だった。

 その直後、糸の切れた人形のように、傭兵達が次々に倒れた。額を割られた者、首が落ちた者、腹部を切り裂かれた者、様々だったがみな一刀受けただけで即死していた。血が激しく噴き出し、床を赤く染めていく――。

 ボードウィン達が茫然自失した。

「……だから言ったろ、止めておけって」

 唯一立っている男が言った。無論、サムトーである。右手に長剣、左手に短剣を下げている。返り血も全く浴びていない。あまりの速さゆえである。

「ば、ばかな……」

 三人が絶句する。腕の立つ門弟十人を、たった十秒足らずで全て倒してしまうとは。しかも、剣を合わせた様子もなく、返り血さえ浴びていない。もはや人間とは思えない。悪鬼羅刹の類と感じた。

 ネッケルだけは、実戦経験があるだけに、一瞬の惨劇に動揺しつつも立ち上がり、剣を抜いた。

「この野郎ぉぉぉ――」

 恐怖ゆえか、絶叫せずにはいられなかった。彼は確かに戦場の剣を使うが、さすがに自分の死を覚悟して戦ったことはない。サムトーほど強い相手と戦うのも初めてだった。

 殺さなければ殺される。ネッケルはその恐怖心からサムトーに襲い掛かった。

 サムトーの長剣が上から下へ、真っ直ぐに振り下ろされた。ほとんど同時に左前方に動きつつ短剣で胴を斬る。

 ネッケルの動きが止まった。

 やがて、十字に切り裂かれ、前に血を吹き出しつつ倒れる。またもや、サムトーは血しぶきを浴びてさえいない。

 冷酷に、そして淡々とサムトーは言った。

「で、あんたらはどうする?」

「う、うわぁぁぁっ!」

 ノーヴィスが逃げ出した。恐慌に駆られて失禁している。あえぐように、もがくように、緩慢な動作で扉へ向かう。

 サムトーが長剣を投げつけ、彼の心臓を貫いた。

 息子の死に、かえってボードウィンの理性が回復した。薄情ではあるが、こうでなければ悪党共のボスにはなれないものだ。サムトーを懐柔しようと、しきりに口を回転させ始めた。

「ま、待て、どうだ、サムトー君、わしの元で働かないか? ……か、金ならいくらでも出す。女も欲しいだけくれてやる。どうだ?」

 こんな奴、金で懐柔できるはずだ、そう信じて疑わない。ボードウィンはそんな生き方をしてきた。それが世界の真実だと思っていた。

「……興味ないな」

 サムトーは冷然と言い放つ。

 だが、ボードウィンもそんな程度ではあきらめない。

「これを見ろ」

 ボードウィンが懐から革袋を取り出した。中身を床にぶちまける。二十枚ほどの金貨が、きらめきこぼれた。サムトーを始末した後、傭兵達に払うつもりで用意した謝礼であった。

「これはわしの資産のごく一部に過ぎん。お前には、手付け金として、この他にも金貨三百枚をやろうじゃないか!」

「……」

 サムトーは答えない。

 心が動いているな……。ボードウィンはそう思った。自分に都合の良い解釈をしたのである。

「どうだ、金貨三百枚だぞ! 庶人風情なら、一生遊んで暮らせる額だ。素晴らしいだろう、目がくらむだろう! これをお前に……」

 ボードウィンは言葉を言い終えることが出来なかった。サムトーの短剣が鋭く空気を切り裂き、額を見事に割った。絶叫を挙げて床に倒れる。鮮血が勢い良く噴き出す直前、サムトーは軽く飛び下がって避けた。

 父が相手している間に、アーノルドはこっそり動いていた。こちらもさすがに悪党である。父の命など知ったことではない、自分の命が助かればいいと本能的に動いていた。

 だが、それを見逃すサムトーではない。その右足めがけ、短剣を投じた。狙い過たずその甲を貫き、床に縫いつける。

「ぎゃあぁぁぁっ!」

 醜い絶叫が上がった。

「こんなかすり傷くらいで、大げさにわめくなよ、みっともない」

 サムトーが冷淡に、ゆっくり歩み寄る。

 その一歩ごとに死が近づくのを感じ、アーノルドは恐怖した。

「くっ……!」

 足に刺さった短剣を引き抜き、サムトーに向き直る。勝利を確信し、敵を惨殺できると思い込んだ、残虐な笑みを浮かべる。

「武器を全て投げてしまうとは、バカな奴め」

 アーノルドは痛みをこらえて大きく踏み込み、サムトーの頭上に一撃を見舞った。

 サムトーは、それ以上の速さで踏み込み、アーノルドの手首をしたたかに打った。

 アーノルドは思わず手を離す。

 サムトーは、その取りこぼした剣を宙でつかむと、流れるような動きで、そのまま柄で腹を突いた。

「うっ……」

 アーノルドが腹を押さえ、後ずさる。

「人の剣を勝手に使うなよ」

 サムトーの平然とした言い方は、アーノルドの恐怖心を倍加させた。喉が急速に干上がり、強烈な乾きと、そして重く暗い恐怖が全身を包んだ。

「た、助けてくれよ……」

 かすれた声で、それだけ言うのがやっとだった。

「お前、そんなに死ぬのがイヤか?」

 サムトーは平然と言った。何の感情も感じられない口調だった。

 アーノルドは必死で肯いた。

「ダメだね」

 これ以上ないほど、あっさりとサムトーは答えた。

「そ、そんな……。イヤだ、死ぬのはイヤだぁぁぁっ!」

 アーノルドが絶叫した瞬間、サムトーが動いた。左手の短剣を横に振るい、その首を見事に両断していた。

 一瞬の後、恐怖と驚愕の入り混じった表情をした顔が、ゆっくりと床に落ちた。鮮血が激しく噴き上がった。

「下らない連中だな」

 サムトーは返り血を避けつつ、いまいましげに吐き捨てると、軽く短剣を振るい、血糊を振り落とした。魔力を込められた短剣は曇り一つなく輝きを取り戻す。拭う必要もない。

 短剣を鞘に収め、長剣を死体となったノーヴィスの身体から抜き取り、その衣服で拭うと、こちらも背の鞘に収める。

 そして、小さな小箱を取り出し、床に置いた。

 炎を司る魔法の道具であった。市場で旅商人から買った貴重な物だ。火をつけると魔力が解放されるようになっていて、凄まじい勢いで炎が噴き出し、周囲を焼き尽くすのだ。文字通りの業火である。旅の魔導士に威力が増すように細工を施してもらった品であった。

「じゃあな」

 サムトーは箱の上に火のついたろうそくを置くと、悠々と天井裏へと脱出していった。


   §


 ボードウィン道場が全焼し、道場主ボードウィン以下、息子二人、師範代のネッケル、高弟八人、それに出稽古に来ていたバイバルス道場の師範代サムトーが焼死、また、消火に当たっていた門弟十数人が重い火傷を、二十数人が軽い火傷を追った。――この事件は、ケープガルの街を震撼させた。近来希にみる大惨事だった。

 その騒ぎは別の方向に膨れ上がる。ボードウィンに酷い目に遭わされていた人々が、その賠償を求める訴えを起こしたのである。結局、死人に口なしの格言通り、道場は取り潰され、没収された財貨により、訴人達の損害は賠償されたのである。


 エレナや父ロドニィ、クリストフなどバイバルス道場の人々は、陽気な師範代の死に心を痛めた。

 質素だが心を尽くした葬儀が行われ、その死を惜しんだのである。

 エレナは悲嘆に暮れながら、サムトーが残したわずかな遺品を、一つ一つ愛情を込めて見ていた。思い出の数々が彼女の心に甦り、涙があふれて止まることがなかった。

 やがて、一つの手紙を見た。どうやら遺書らしかった。

 散々にエレナを褒めちぎった文辞。

 君は薔薇よりも美しいとか、太陽よりも温かな心の持ち主だとか、歯の浮くようなお世辞のオンパレードである。

 それから、彼女を含む道場の人たちへの礼が記してあった。

 エレナは大きなため息をつき、大粒の涙をこぼした。

 ……最初から、こうなることを知っていたのね。

 きっと、あいつらが罠を張っていたんだわ。あなたは、わたし達を守るため、道場に火をつけて、あいつらを道連れにしたのね――。

 そう思うと、悲しみが痛いほどに心に突き刺さる。

 ところが、挙げ句に、門下の少年達へは「スケベは身を滅ぼす」、少女達へは「いい女になれよ」と余計なことが書いてあった。

 文章の最後は、こう結んであった。

「俺がいなくなっても、ずっと賑やかな道場でいてくれよ。エレナ、いつか出会うだろう白馬の王子によろしくな」

「なんて、バカな遺書なんでしょう……。サムトーらしいわ」

 涙を流しながら、エレナは思わず微笑んでいた。


 ――エレナと一緒に買い物をした街の市。相も変わらぬ賑やかなところだ。道行く人々でごったがえしている。

 ある旅商人の一行の中に、フードをかぶり、マスクをして面を隠した男がいた。マントの下に背負った長剣と、腰に下げた短剣が見える。

 サムトーであった。

 一行は、ちょうど出発するところだった。

 十台ばかりの荷馬車がゆっくりと動き出す。

 その先頭の馬車の御者台に、サムトーは座っていた。

 流れ行くケープガルの街並。

 楽しかった日々。そして好きになった人たち。

 思い出が脳裏に浮かんでは消える。

「楽しかったな……」

 馬車は街道を進み、街が次第に遠ざかっていく。

 野山は新緑に満ちあふれ、まぶしいくらいだ。潮風の混じった五月の風が優しく頬をなでている。

「……ゴメンな、今度はもっとマシな奴見つけろよ、エレナ」

 まだ、面影がくっきりと浮かぶ。

 俺が奴隷剣闘士でなかったら、正体がバレる心配がなかったら、彼女と一緒になれたかも知れない。ボードウィンの連中を斬らなければ、もう少し留まることも出来ただろう。

 だが、神聖帝国にいる以上、見つかる危険性はなくならない。彼らの策謀が潮時だったのだろう。ついでにエレナ達の憂いをなくしたのだから、良しとすべきだろう。

「……それにしても、惜しいことしたなぁ」

 大きなため息が出る。

 ホント、いい娘だったよ。あんなにかわいくて、心根のいい娘、大陸中探したって簡単には見つからないだろう。

 いや、欠点があってもエレナはエレナだ。だから、大マジで惚れていた。嘘偽りのない恋だったと思う。それゆえに、生き別れでは未練が残るだろうと、わざわざ死を装ったのである。

「でも、まあ、しょうがねぇよな」

 成り行きで知り合い、成り行きで恋をして、成り行きで別れる。

 それも旅の醍醐味というやつだろう。

 少なくとも、一緒にいる間は楽しかったのだから。

「……次の出会いはどんなだろうな」

 サムトーは大きく背伸びをした。

平和な暮らしをメインに、ちょっと事件が起きる感じのストーリーです。チートのない主人公サムトーですが、圧倒的に強いから、一種のチートかも? 良かったら評価や感想もお寄せください。

2024.10.17読み書きに関して改訂

2024.8.31物価関連の改訂

2024.6.28

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