8.思いの方向
「分かりやすいよね~」
「へ?」
ダイニングテーブルで肘をつきながら、ホットミルクができるのを待っていた亜貴は──このホットミルクだけは、亜貴たっての希望で、俺がいる時のみ俺が作る事になっている──リビングのソファで話している二人に目を向ける。
俺もつられる様に、小鍋に入れた牛乳をかき混ぜながら、そちらに目を向けた。
話しているのは岳と七生だ。
真琴は今日も仕事で遅くなるらしい。夕飯はなしとなっていた。
それで、リビングにはコーヒーを淹れたついでに話し込んでいる、七生と岳のみがいたのだ。
七生は写真に興味があるらしく、撮り方やどんな機種がいいのか、色々熱心に尋ねている。
「あれ、あからさまに兄さんにアピールしてるよね? 好きですぅって」
「べ、べっつに、普通に会話してるだけだろ?」
俺は気にしない風を装いながら、そう口にしたが。亜貴は流し目で視線を投げかけて来る。
「ふーん…。大和、余裕だね?」
「余裕もなにも、な、七生は…違うだろ?」
俺は亜貴の前に、作りたてのホットミルクをコトリと置く。
いや、完璧に岳が好きだ。
それに、俺は実際余裕の余の字もない。
焦りまくり、ハラハラしまくりだが、手の打ちようもなく、ただ見ている事しかできないのだ。
七生に岳は俺のものだから手出しするなと宣言したり、泣いて七生をどう思っているのかと岳を問い詰めたり。そんな事が出来るはずもなく。
今、分かっているのは、岳が七生を好きにならない限り、二人の間に何か展開があるとは思えないと言うことだ。
いくら七生がぐいぐい来たとしても、岳が好きでもない相手に手を出すわけがないのだ。昔とは違う。
昔の岳だったら、速攻、手、出してたよな?
俺と知り合う前の岳。
皆の話を総合すると、過去の岳なら、あそこまで綺麗系な七生を放っておくわけがない──が、これは俺の誤解で、岳は後腐れのない相手のみと付き合っていたらしい。七生は後を引きそうなタイプの為、ないだろう、とは、のちの真琴の談だった──けれど、今の岳は違う。
俺と出会って、好きになってくれて。俺しか眼中にない──はずだ。
岳が他に目を向けるというなら、それは俺を好きでなくなった時だけ。
今の所、それはない。だから、何も不安になることはないのだが。
「七生は兄さんにぞっこんだって。見てれば分かるもん。…けど、兄さんも倖江さんの手前、冷たくあしらえないしね。七生もいい奴だし。…でも、あれはないよね」
「仕方ない…。承知の上だ。岳がモテんのはな…」
「あ! やっぱ、大和、よゆー」
ホットミルクに口をつけながら、亜貴が意地悪くニッと笑む。俺はその向かいでフン! と腕組みすると。
「岳と俺は、強ーくて深ーい絆で結ばれているんだ。他の奴と話しているくらいで動揺なんかしねぇ!」
嘘だ。
がっつり動揺してる。
「いいよ。別に兄さんが他に手を出したって。そしたら、大和は俺のものだもの」
「亜貴…?」
「そんな冗談って思ってるだろうけれど、誰も未来の事なんてわからない。決まってなんていないもの。大和が兄さんとだけなんて、そんなこと分からない。だから、俺との未来だってあるはずだよ?」
亜貴は本当にブレない。
身近にもっといい奴がいるんじゃないのかと思うが、自分の気持ちに気づいてからは、それをストレートにぶつけてくる。
俺はいつもはぐらかしたり、宥めたり、それで胡麻化しているのだが、まったく効かないのだ。
もちろん、亜貴に告白してくる女子やなんとなくアプローチしてくる男子はいるらしい。
黙ってりゃ、それなりだしな。ない方がおかしいって。
そんな彼女彼らをふって、俺を見てくる。
いやいや。亜貴。人選を間違えている。俺は亜貴がそこまで思うほどの相手じゃない。
きっと執着の一種だと思っている。初めて意識した同性だから、気になってしまうのだろう。
てか、亜貴のクラスメートとか部活仲間とか。結構、いい線行ってるやついるぞ?
いつか、見せて貰った修学旅行の写真は、女子も男子も粒揃いだった。そこから相手を選んで付き合えば楽しい青春が過ごせるだろうに。
亜貴はこの頃また身長が伸びた。それまで肩まで伸ばしていた髪もバッサリ切って、すっかり凛々しくなっている。
将来有望。周囲が放っておくはずないのだ。
「亜貴…。何度も言っているが、俺は岳と付き合ってる。他に目を向ける余裕はない。こんな俺を思っていても、時間を無駄にするだけだ。もっといい奴が傍にいても見逃している可能性もある。だから──」
「それ、もう聞きあきたって」
亜貴は飲み終えたカップをテーブルに置くと、つまらなそうに前髪をくるくると弄ぶ。
「そうは言うけどな──」
「俺が誰を好きでいたって、これは自分で選んだんだし、俺の好きでいいはずだよ。時間を無駄にしてるかどうかだって、俺がそう思っていなければ、そうじゃないし。無駄かどうかは自分で判断するもの。──大和に言われたくない」
「まあ、そうだけどさ。俺としては心配なだけで…」
「俺は大和が好きだし、大和だって、兄さんには及ばないまでも、俺のこと好きでいてくれるでしょ?」
「…ま、まあな…」
「なら、ゼロじゃない。──あんまり、受験生をいじめないで欲しいな。これでも結構追い詰められているんだからさ」
「ご、ごめん! つい──」
焦り出す俺に、亜貴はにっと笑むと。
「ごめんって、思うなら、お休みのキスしてよ。頬っぺたでいいからさ」
「──!」
「外国のひとたち、良くしてるじゃない。頬にちゅって。あれくらいなら挨拶なんだし平気でしょ? ストレスも一気にふっとぶんだけどなぁ…」
亜貴は上目づかいで見上げてくる。
くそ。ぶち可愛いな…。
いや、見た目だけだが。
挨拶って、確かにそうだけど、俺がやるのはなんか違う。けど、ストレスがふっとぶ、か…。
確かに受験を控え、ピリピリした空気は亜貴から感じてはいる。医学部を狙う亜貴はそれなりに神経をとがらせている様で。
頬っぺたにキス──。頬なら──いいのか?
と、突然、背後からぬっと影がさし、背中にズシリと重みが加わった。
「なしだろ? 頬だろうと頭だろうと、手の甲だろうと。キスは禁止だ」
岳だ。いつから聞いていたのだろう?
岳の腕が俺の首筋にくるりと廻り、背後から抱きすくめてくる。
「ケチ。大和がするならいいじゃん」
「余計にダメだ。こいつのストレスを考えろ。大和は外国人じゃない。キスの習慣なんてないんだ。それを、無理強いするってのは──エゴだな?」
「…ふん! 兄さんは勝手だよ。自分のことは棚にあげて、大和を独占しようとするんだから」
「それはどういう意味だ?」
岳の声音が幾分低くなる。
亜貴はちらと背後のソファをみやった。そこにははらはらしたようすでこちらを見つめる七生がいる。
「分かってるはずだけど…。まあ、いいや。なにかあっても、俺がフォローするから。──おやすみ」
それだけ言い残すと、亜貴はリビングを出ていった。
+++
入れ替わりに帰ってきた真琴が、リビングに入ってくる。
「なんだ? なんの騒ぎだ?」
「…別に。イラついてるだけだろ?」
岳は俺を更に抱きしめると、そう答えたが。その表情はどこか暗い。まさか、俺のことで兄弟喧嘩してましたとは言えず。
俺は空気を変える様に、別の話題を振った。
「真琴さん、お腹減ってないか? 簡単なものなら作れるけど」
言いかけた所を七生が会話に加わってきた。
「大和さんはもう休んでください。岳さんも。僕、代わります」
あのやり取りだ。七生なりに気を使ったのだろう。真琴は空気を気にかけながらも。
「ああ…。そうか。すまないな。実は飲みに付き合ったお陰で食べそこねてな…。お茶漬け程度でいいから何か食べられれば──」
「お茶漬け…?」
七生は小首をかしげる。そうか、七生にはまだ教えていなかった。
「今日は俺がやる。隣で見てて次から同じように作ってくれれば──。って、岳、いい加減、腕離せよ。先に部屋で休んでろって」
俺がぽんぽんと腕を叩くと、ふうっと大きなため息をつき、ようやく腕をほどいた。
「部屋で待ってる…」
「了解。じゃ、七生、そこのどんぶりとって」
「はい!」
すごすごと部屋に帰る岳が気になりながらも、俺は七生へすぐできる簡単お茶漬けレシピを伝授した。
青じそと白いりごまが肝の簡単お茶漬けだ。サケのフレークや蒸した鶏ささみを乗せ、お茶ではなく、鳥の顆粒スープを使う。ショウガやわさびを添えてもいい。煮込めば雑炊になる奴だ。
「ありがとう」
出来上がったものをテーブルの前に置くと、真琴は嬉しそうに笑んで手を合わせてから口をつける。久しぶりに誰かに作った気がした。
「…美味しい。ほっとするな」
「そうか? 誰が作っても失敗なしのレシピだけどな?」
時にはキムチを乗っけたりするから何でもありなのだ。
「大和が作ったからいいんだ。疲れが取れるよ」
「ふ、ふーん…」
微笑む真琴に、照れて頭をかく。
傍らでそんな様子をじっと見ていた七生は、片付ける段になって。
「いいな…」
ぽつりと呟いた。
俺はどんぶりを洗っていた手を思わず止め、傍らに立つ七生を見る。真琴は既にリビングを離れシャワーを浴びに行っていた。
「なんだ? どうしてだ?」
「僕の時は皆、美味しいって言ってくれますけど。あんな風にほっとしてくれないなぁって…」
「ああ? って、七生の作ってくれる料理は全部美味しいって。同じだよ。皆、喜んでる。要は過ごした時間の問題だろ。な?」
真琴はただ、美味しいと、ほっとすると言っただけだった。それが特別だとは思わなかったのだが、七生は違うらしい。
「ううん…。まだまだ、僕は馴染めてないんだなぁって思います…」
「そんなこと、ねぇって! 一緒だって。考えすぎだ。七生のご飯、美味しいって」
必死に言葉を言い募るがいい言葉が見つからず、ただ美味しいを繰り返すことしかできない。そんな俺に七生は悲しげにクスリと笑うと。
「やっぱり、大和さんは──いい人ですね…」
うわ。切なげに笑うのまで絵になってる…。
可愛いって得だよな?
七生の可愛いのはあざとい奴じゃない。素だから余計に響くのだ。これで頼られたら堕ちない奴はいないんじゃないだろうか?
ん? って七生はストレートか…?
そういえば、聞いてはいない。というか、聞くべきことでもない気がして。
なんとなく、岳への態度から気にしないタイプ、もしくは同性への思いが強いタイプかと思い込んでいたが。
七生はつけていたエプロンを外すと、それをギュッと握った。そうして、意を決した様に口を開く。
「…あの、僕──」
「大和」
七生が言いかけたそこへ、部屋に戻ったはずの岳の、恨みがましい声が重なった。
なかなか戻ってこないのにしびれをきらしたのだろう。リビングへ顔だけ見せた。
「今、行く! 七生。続きはまた明日な? あんまり思いつめるなよ?」
「うん…。ありがとう、大和さん」
七生は笑顔で俺と岳を見送った。
部屋に戻った途端、岳が抱きついてきた。
「うお…!」
全体重をかけているのではと思うほど。
結構、苦しいんだが──。
「…大和。どっかに閉じ込めていいか?」
「岳?」
「誰にも、触れさせたくない」
「んだよ。俺に触るのは岳だけだろ?」
「誰にも、やらない──」
言うと、ぎゅっと抱きしめ、身体を抱え上げてしまう。流石に様子がおかしい。
「岳…っ」
俺はギブギブと岳の背を軽く叩くが。
「大和。俺から離れないでくれ。──頼む」
突然、切なげな声でそう口にした。
な、なにをバカな。
何でそんな事を言うのか分からない。俺はあっぷあっぷしながらも。
「岳。俺をみくびるな。岳が俺を嫌わない限り、俺は離れない。ハブクラゲの触手並みだ。しつこいぞ?」
それでようやく岳は吹き出した。
「…ったく。これだから──」
言うと俺を抱えたまま、ベッドへダイブする。
「おわっ!」
岳は俺を腕の中に閉じ込めると。
「…絶対、離さないし。誰にもやらない」
「ん──っ…!」
いつになく長く深いキスだった。
その時の俺は、どうして岳が突然そんな事を言い出したのか、全く分からなかった。