7.いつものレシピ
「あの、いつも食べてるおかずのレシピ、教えてもらえませんか?」
山小屋から降りて来たその日、出された麦茶を飲みつつリビングのソファで一休みしていると、七生が思い切った様に尋ねて来た。岳は隣の棟で仕事中だ。
「俺の、作ってる?」
「ハイ! 僕のレシピばかりだと、どうしても洋食に偏ってしまって。それにやっぱり、普段食べてたものの方が食も進むだろうし…」
七生のここの所の悩みは、皆がお代わりしてくれない、というものだ。
残さず食べてくれるのに、お代わり、と聞かないのだと言う。
確かにここ最近、食べ盛りの亜貴もお代わりを口にしない。なぜだろうと思えば、七生のいう通りなのかもしれない。
七生の作る料理はかなりのものだ。素人の俺が食べたって、このままレストランに出してもいいのでは? と、思うほど。丁寧だし飾りつけも見事だ。まるでプロの料理の様で。
ただ、俺があまりに素人臭い料理を出すうちに、そっちに舌が馴染んでしまったらしく。素人然とした俺のハンバーグやコロッケ、煮魚にシフトしてしまったらしい。
七生の判断は正しかった。
「おう、分かった。で、何がいい?」
「この前、リクエストありますかって聞いたら、岳さんが麻婆豆腐食べたいって。真琴さんはコロッケで、亜貴さんはトマトカレーって」
「んじゃ、冷蔵庫見て今日作れそうなの決めるか」
最近、買い出しにも出ていないため、すっかり冷蔵庫の在庫がどうなっているか分からない。休憩を切り上げ、腕まくりしつつ冷蔵庫に向かえば七生が。
「えっと、その…絹ごし豆腐と豚ひき肉はあります!」
「じゃ、岳のリクエストからって──、初めからそのつもりだったのか?」
「…はい。実は。まずは胃袋を掴まないとって」
掴む。うむ。掴むね。そうだよな?
雇い主の機嫌を取るのは大事な事だ。この家の家主は今のところ岳となっている。その岳の不興を買うわけには行かない。
で? 胃袋掴んで、その後は?
…余計な事を考えるのはよそう。俺の考え過ぎだ。真琴や亜貴に対しても同じ様にするのだし。岳限定じゃない。
「岳、麻婆豆腐好きな癖に、豆板醤の辛いの苦手なんだよなぁ。意外にお子様なんだ。舌が」
「…みたいですね」
クスリと笑んだ七生の頬が赤く染まっていた。既にリサーチ済みか。
うーん。可愛いのが頬を染めると余計にかわいさが増すな。
「舌だけじゃなくてさ。あんなに大きな図体してんのにさ、子どもっぽい所が多くて──」
「誰が子どもだ? お子様に言われたくないな」
ぽすりと大きな掌が頭の上に降ってきた。
「岳さん?」
隣の七生が驚く。
俺も驚いて背後を振り返ろうとすれば、背中から抱きすくめられ身動きが取れなくなった。
「岳。これから夕飯の支度だ。邪魔すんな」
「今、クライアントが帰って休憩中」
「なら、そこのソファに座って休めよ。コーヒー飲むか?」
「いい。すぐに戻る」
言いながら抱きしめたまま頭に頬を寄せて来る。
一応、隣に七生がいるんだが。
恐る恐る傍らを盗み見れば、七生はこちらを見てはいなかった。
視線を伏せ手元を見つめている。その唇はきっと引き結ばれていた。まるで何かを堪えている様で。
俺は首をかしげる思いでその様子を見つめていたが、
「なに、ぼうっとしてるんだ? よそに気を向けるなよ。俺がいるのに」
「岳。七生が困ってるだろ? 亜貴にも良く怒られてるし。皆のいるまでいちゃつくなって」
前はこんなふうに、七生の前でおおっぴらにスキンシップしてこなかった。岳は傍らの七生を見やった後。
「すまないな。七生。俺は大和に触れていないと禁断症状が起きるんだ。そう言う病気でね」
「あ! いいえっ、その、僕は──気にしないんでっ! 大事ですから。スキンシップは…」
顔を真っ赤にした七生はこちらをちらとも見ずに、冷蔵庫から豆腐を取り出し準備に取り掛かった。
と、慌てていたせいで、取り出したばかりの豆腐が手から滑り落ちる。
「あっ!」
七生は声をあげた。しかし、床に落下するかと思われたそれは、人の手の上に着地する。
落としかけた豆腐を、岳が見事背後から手を伸ばし受け取ったのだ。
「…セーフ。落としたら、夕飯は絹ごし豆腐の白和えだったな?」
うーん。それだと主菜を考えないとな。俺は目を細める。
「あ、ありがとう──ございます…」
岳は背後から七生を支えるようにして立っている。まるで先ほどまでの自分と岳のよう。七生の顔は真っ赤だ。
てか、俺より。
絵になってる。カッコいい岳と可愛い七生。まるでべたなドラマの一場面だ。新婚さんのいちゃつきの図。くそう。
俺は気を沈めるように一つ深く息を吐き出した後。
「──じゃ、作るか?」
「あ、あっはい! 岳さん、有難うございました!」
急いで岳から離れると、豆腐を受け取り俺の隣に戻ってきた。岳はなぜかそんな七生を見つめていたが。
「いや。じゃ、俺は戻る。──大和」
「なんだ?」
顔だけ声のした方に振り返れば、すっと、腕が伸びて俺の顎を捉えてきた。そうして、あっという間に唇にキスが落ちてくる。
軽い奴じゃない。うちゅと音がしそうなくらいの奴だ。
たーけーるー。
「っ──岳…!」
俺はなんとか岳の胸を押し返すと。なぜか真剣な眼差しを向けてきて。
「大和…。愛してる」
「はっ?!」
な、七生もいるのに…! なぜ、今。ここで? どのタイミングだ? そんな雰囲気だったか? いや、違うだろ?
夕食の支度をしようって段階だ。包丁もって、まな板に向かうって時に、どこにも、ロマンスのかけらもなかったはず。
人前でこんな事を言われたのは初めてだ。
岳は怒り出した俺に笑いかけると。
「じゃあな。また後で…」
額にキスを落としてから、漸く腕の中から俺を解放してくれた。
「岳っ!」
俺は去って行く背中に抗議の声をあげたが、岳は片手を上げて見せただけで、取り合わなかった。
もう、なんなんだ!
「ごめん、七生。岳の奴、ふざけすぎだ…。いつもはあんなんじゃないのに」
「い、いいえ! 大丈夫です。好きなもの同士なら、当たり前ですから…」
七生は平気そうに笑いながらも、その表情がひきつっているのが分かった。
俺は思った。
七生はもしかして──?
その後、七生はすぐに俺のレシピを習得し、俺の味を再現してみせた。
というか、俺の作る料理のレシピは本やネットで見つけた、誰でも出来る簡単レシピだ。回数をこなすうち、食べてくれる人の好みに合うように少し変化はつけるけれど。
今回の麻婆豆腐は、豆板醤は控えて、少しだけ山椒を多くしている。岳が辛いと言いつつも、山椒の味は好きらしく。変化はそれくらい。これなら、俺が作ったのか七生が作ったのか分からないくらいだ。
皆の、特に岳の反応も良く。七生はほっとした様子で、次回からも頑張りますと笑顔を向けていた。
俺のレシピなんて、そのうち全て作れるようになるだろう。それも完璧に。
これだと、ますます、俺の存在価値が──。
失われる。
岳にしてみれば、俺が俺であればいい、それだけだろう。洗濯炊事をやらなくなったからと言って、俺が変わる訳じゃない。関係ないのだろうけれど。
俺は──気にするんだよなぁ。
俺の取りえはそれくらい。あとはちょっと腕が立つ位で。その腕だって、ちょっと危うい。岳の危機に直面すると、セーブが効かなくなる。
こうなると全てまともに機能していないようで。俺的にはまったくの役立たずになってしまった感が拭えないのだ。
それに。
ずっと気になっていることがある。
それは──。
夕食が始まる少し前。亜貴はまだ部屋にいて。真琴は今帰ってきてシャワーを浴びている。リビングにはすでにシャワーを浴び、一息入れている岳がいて。
俺は隣の棟に干していた洗濯物を片付けに行っていた。
それも終わり、俺もリビングへ行こうとすれば、その戸口に立っている人間がいた。
階段を降りてきた俺からその横顔が少し見える。薄暗い廊下から、少し開いたガラス戸の向こうにある、リビングを見ているようだった。
七生? なんで中に入らないんだろう。
不思議に思って声を掛けようかと思った時。その表情がなんとも切ない表情なのに気が付いたのだ。
中にいるのは岳で。きっとソファに座って新聞か雑誌を読んでいるはず。
それをなんでそんな顔で見つめているのだろう?
それがどういう意味か、いくら鈍い俺だってわかる。
「大和! なにしてんの?」
「!?」
びくりと肩を揺らし振り返る。同じく二階から降りてきた亜貴が声をかけてきたのだ。
「な、なんでもないっ」
「へんなの…」
亜貴の訝し気な視線を受けつつ、すぐさま視線をリビング前に戻したが、そこに七生の姿はなかった。
しかし。これではっきりした。
七生は──。
「岳さんて、カッコいいですよね…」
夕食後、七生と二人で食器を片付けていれば、ぽつりとそう漏らした。俺は焦りつつ。
「そ、そうだな。岳はカッコいいぞ。…ほ、ほ、惚れたか?」
バカだ。何をきいてんだ。自分で墓穴を掘ってどうする!
と、もう一人の俺が心の中でしかりつけるが。七生ははっとして、
「ち、違うんですっ! 一般的に見ても格好いいなって。それだけです。大和さんがいるのに、惚れるとか、ないですっ! 羨ましいなっては思いますけど…」
「そうか。羨ましいか…」
それは、岳と付き合っている俺が──と、言う事に他ならない。
「岳さんみたいに格好良くて、大人で素敵で。いいなって素直に思います。だから、大和さんは好きになったんですよね?」
「ま、まあな…」
確かに初めて会った時、格好いい奴だと思った。その容姿に惹かれたのも事実。
けれど、それだけじゃなく。
岳といると、リラックス出来たし、安心もできた。岳といると自分がちゃんと自分でいられて。気が付いたら離れられなくなっていた。
俺は傍らの七生を見つめる。今は懸命に皿についた泡を流していた。
七生は間違いなく岳が好きだ。
俺は七生の視線や行動、言葉にそれを感じ取っていた。
亜貴や真琴、俺の好物もさりげなく作ってくれている。けれど、一番は岳のそれが多くて。
本人は全否定したけれど。
俺は心の中で、深いため息を一つ吐き出した。