45.キラキラ
「あー…。やっぱ、海。いいなぁー」
俺は岳の撮影の仕事のアシスタントとして、伊豆諸島、父島の近海に貸し切りボートで出ていた。
岳は船長とは顔見知りで。気兼ねなく過ごすことが出来た。
外洋にも出られるボートだが、数十人は乗れるそこに、俺と岳、船長とそのアシスタントしかいない船内は、かなり広々と感じられる。プライベート感が半端ない。
今は休憩中。昼も過ぎ、午後の日差しがゆっくりと傾いて行く所だ。
「山もいいけれど、海もまた違った解放感があるだろ?」
「ん。のびのびする感じ…。だらーんって、さ」
そう言って、俺はボートの舳先の縁に座ったまま、手摺に肘を乗せ、足をばたつかせながら海を眺める。
深い色を湛えた海原は、何処までも続き、終わりがないように思えた。
昼過ぎの日差しにキラキラと海面が輝く。冬場の日差しはそう強くはないのだろうけれど、それでも、こうして浴びれば温かい。
身体がほぐれて、ユルユルとゆるんでいく。そのうち海に溶けてしまうのではないか、そんな心地だ。
「大和は自然の中にいるのが、一番合っているな…」
岳はそう言って、デッキの中央に手すりに腰をあずけこちらを見下ろす。座った俺は、逆光に近い位置に立つ岳を眩し気に見返しながら。
「岳も、だろ? 都会で颯爽と肩で風切って歩いてるのも似合ってる…けど、やっぱり、自然の中にいた方が、らしいよな? 一生懸命、ファインダー覗いてる姿。結構、好きだぞ?」
「そうか。俺も自然の中でカメラを構えている方が性に合っているな…」
それが本来目指していた場所なのだ。
岳はかなり特殊な回り道をして、やっとここへたどり着いた。
その回り道が決して無駄だったとは思わない。でなければ、俺とは出会わなかったのだから。
親父の一件がなければ、岳がヤクザの息子でなければ、俺たちは出会わなかった。
色々弊害もあるけれど、乗り越えられない壁はやってこない。
「いろいろ、これからもあると思う。けど、もう、逃げない。…何かあれば、岳がいてくれるもんな?」
俺はどうも頼ることに慣れていなくて。つい抱え込んでしまうのだ。
それが今回の件にもつながった。
一人で考えると、ろくな事にならないことの見本だ。
岳の事で思い悩むなら、それを口にすればいい。どうすればいいか、解決するのか、意見を出し合って二人で考えるのだ。
二人でいると言う事はそう言うこと。
へへと笑えば、岳はちらと操縦席を見た後、俺の傍らにすっと座った。なんだ? と思えば、唇にキスが落ちる。
「船長もアシスタントも、ザトウを探してる…」
「へぇ…、そ、そうか」
頬に手が添えられ、顔を傾けた岳が今度はかなりマジなキスを仕掛けてくる。
ちょっと待てって。ここでそんなキスは──困るだろ。色々。
反応してしまったら、どうやって処理するのだ。
流石に狭い船室のトイレに二人籠ることはできないし、周囲も大いに気を遣う。
ちなみに、船長もアシスタントも俺たちの関係は知っている。他にもそんな友人知人がいるらしく、特に気にした様子はなかった。
だから、そこまで人目を気にすることはないのだが──やはり、気にはなる。
「た、ける──、待てって」
広い胸板に手をついて押し返すが、
「大和が嬉しいことを言うからいけない」
「お、俺の所為かよ…っ」
「そうだ。俺を惚れさせたのがいけない。…責任、取るんだろ?」
「…っ!」
しっかりと瞳を覗き込まれ、そんな事を言われれば、何も言えない。
うぐっとなったところに、またキスが落ちかけて。
ふと、海面が白く泡立った気がした。同時にプシューっと大きな呼吸音がする。
あ──。
「岳! あれ…っ」
「大和、往生際が──」
「違うって! ほら──」
言い終わるか終わらないうちに、海面がぐぐっと盛り上がり、あっと思った時には、船のすぐ横でザトウクジラがジャンプしてみせた。ブリーチングと言うらしい。
まだ子どもらしいが、形はすでに大人のそれだ。いっちょ前にブリーチして見せる。
どっと立ち上がった水煙がこちらにも風で降りかかった。バシャン! と海に戻ると同時に、かなりの海水が巻き上がる。
「っ!」
「凄いな…」
「って、せっかくのシャッターチャンス…」
すると岳はぐいと俺の腰に腕を回し引き寄せる。
「もう、充分撮ったからな? それに、ファインダーからだけじゃなく、大和とこうやって見たかった。ほら──また来る」
言う間にまたすぐ近くでブリーチを見せる。船に興味を持って遊んでいるのかもしれない。その度にしぶきがかかった。
「うわっ、つめて!」
立ち上がって手摺につかまり、それを見ていると、諸に海水を受けた。
それを見た岳が、俺の背後に立つと、すっぽり着ていたレインコートの中に俺を包み込む。ふわりと香る岳の匂い。温もりが心地いい。
「また、あいつ、ブリーチするぞ」
「あ…、本当だ」
ひれを幾度か叩いて見せた後、少し離れた所でブリーチする。
大きな白い腹がこちらに向けられた。風に乗ってきらきらと日を受けた飛沫がこちらに向かってくる。
穏やかな海原。背後にある岳の存在。
きっと、何があっても、もう大丈夫だ。
俺がだめなら、岳が。岳がダメなら俺が。
それぞれが、お互いを支えあう。
俺と岳は似ていないようで、よく似ている。放っておくと突っ走る。
なら、仲良く手を取り合って、互いのバランスを取って行けばいい。それが俺たちの関係だ。
これからも、岳と一緒に──。
俺は手摺ごと、岳の手を上からしっかりと握り締めた。
岳がいる。
そう思えば、もう怖くはない。
岳が控えていてくれるなら、鬼に金棒、弁慶に薙刀、かけ馬に鞭。
──後はなんだ?
とにかく、更に強みが増すだけだ。
一緒にいるからこそ、発揮する力。一緒にいなければ、発揮できない力。
安心して側にいればいい。岳に何かあれば、俺が止めるから。
──岳の錨に。
そう言ってくれた磯谷の言葉が蘇る。
岳が何処かへ流されない様に、俺がどこかへ飛んでいかない様に、互いが互いのアンカーになる。
それでいいんだ。
更にギュッと握ると、背後の岳が笑った気配。ふうっと岳が背を屈め、耳元で。
「キスより来るな…」
ひそめた声でそう言った。俺はビクリと肩を揺らす。と、子クジラの向こうで親もブリーチングして見せた。
「う…、わぁ!」
まきあがった水飛沫に日が当たり虹色に輝く。
跳ね上がった巨体は、そのまま海面に尾尻を最後にゆっくりと沈んでいった。
深く潜るのだろう。
キラキラと輝く光景は、ずっと見ていても飽きなかった。
エンジンを止めた船上は、ゆっくりと海面に揺れ、大きなゆりかごに乗ったよう。海の上は思った以上に静かだ。
「岳、連れてきてくれて、ありがとな?」
手すりに持たれながら、ザトウクジラの競演を見つめていた俺は傍らの岳を見上げる。
すると、岳は、
「まだまだだ。これからもっと、沢山、連れていく二人でずっと見ていこうな。こんな景色をもっと沢山…。約束だ」
まともに見られて真剣な告白を受けて、俺の顔は真っ赤になる。照れくさくて、俺は目を泳がせつつ。
「お、おう!」
「こら、目を逸らすな」
ぐいと顎を取られ、むりやり上向かされる。
「…みんな、見てる。キスはすんなよ?」
「ったく。雰囲気がないな。──でもそう言う所が、好きなんだ」
ぐ。全開の笑みで言うなよ。照れるだろ?
と、再び間近で子クジラがブリーチした。綺麗に弧を描く背中。大きなむなびれ。黒々とした巨体。その力強さに圧倒される。
「大和、もうどこにも行かせない。…お前もこの手を放すなよ?」
俺は岳を見上げると。
「勿論!」
照れ臭くなってふへっと笑って、それでもしっかり返事を返し、長い指に自分の指をしっかり絡め握り締めた。
別の親子が、また側でブリーチングを始めた。大きく胸ビレで海面を叩くペックスラップもして見せる。
その度に歓声が上がった。
二人でいる理由。俺はそれを今回の件で深く胸に刻んだ。
親子クジラ。傍らに親がいるから子クジラは安心して元気に跳ねる。俺も岳も、子クジラであり親クジラであり。
この先もきっと壁は待ち受けている。けれど、二人でいれば大丈夫。
そうだろう。岳。
俺は傍らでクジラの饗宴を、子どもの様に目を輝かせて見つめている岳に目を向けた。
この笑顔がずっと続くように。俺は岳の傍を離れない。
この先も、ずっと──。
再び、今度は親子共々、ブリーチしてみせる。
水飛沫の中、キラキラ輝く岳を、俺は一生、忘れないと思った。
ー了ー