4.おいしい料理
帰るとすぐに七生は夕食の準備に取り掛かった。
流石に手慣れていて、アッという間に俺が作ると絶対のぼらない、見た目も綺羅びやかなおかずが並ぶ。
「夏野菜のラタトゥイユと、鳥モモ肉の香草焼き、カリフラワーのフレンチサラダ、あとはパンかライスで。ラタトゥイユは祖父直伝なんです。フランス料理なんですよ?」
「うわ、なんか派手…」
開口一番、亜貴が口にした。
非難した訳ではないだろう。素直な感想だ。
いや、それは俺が作るといつも地味な家庭料理もどきが並ぶからだろう。それと比べればとても華やかで。
「あの、ダメですか…?」
七生は覗き込むように亜貴を見つめた。まるで子犬のようだ。可愛い白いポメラニアン。キューンと声が聞こえてきそう。
思わず亜貴は頬を赤くすると。
「そんなつもりは、ないけど…。別に美味しければなんでも…」
そっぽを向く。
こいつ、照れてやがる。
俺の時とは真逆な反応だ。
俺の時なんて睨んで鼻先でふん! って言ったよな? な?
内心の俺の声など聞こえるはずもなく。かくして、華やかなメニューが並ぶ夕食が始まった。
「確かに、美味しいな…。いつも家ではこんな料理を?」
真琴が感心しながら器用にナイフを使い鶏肉を切り分ける。
「はい。料理は好きで家でもやってます。これはフランスの家庭料理なので、一般的なものです」
「確か、母方の祖父がフランス人だって?」
岳が聞き返す。
「はい。たまにしか会えませんけど。あっちに帰るとよく料理を教えてくれます。料理人なんです」
はきはきと応えながら、皆の進み具合に目を配っていた。
俺も美味しくて、モクモクと口にする。どれも作った事がない。後でレシピを聞こうと思ったが。
先ほどから、胸の辺りがムカムカする。
なんでだ? 昼も抜いたし、腹は減っているはずなのに。
結局。あのあと、補給食のバーを齧る気が起きず、シャワーを浴びるとベッドに横になってしまった。
いつもだったら、シャワーを浴び終えれば、なんやかんや家事を行うのだが、既に洗濯物は取り込まれ、掃除も済まされ、夕食の準備が始まり。
手持無沙汰でキッチンに立つ七生に尋ねた。
「なんか、手伝うか?」
「いいえ。岳さんもいますし。今日は休んでいて下さい! せっかくのお休みなんですから。必要な調味料や道具の場所は叔母さんから聞いているので大丈夫です」
すると、傍らで食器を出していた岳が、
「大和、部屋で休むといい。疲れた顔してる…」
「そっか?」
「いいから、休んでろ」
「…分かった」
そこまで言われれば、休まない訳にはいかない。俺はすごすご部屋へと戻ったのだった。
空腹を抱えベッドにひとり転がるのは結構寂しい。
岳は一方の棟で七生の話相手となっていて、盛り上がっている様子。笑い声が時折聞こえて来る。うとうとと微睡んでも、それで目が覚めてしまう。
そんなこんなで、夕食を迎えたのだった。
なんだ。これ。本当。
食べている端から、うっとなる。最後のひとかけのパンをなんとか口に放り込み、咀嚼していると、
「大和さん…。お口に合いませんでしたか?」
俺の手が止まりがちなのに気づいた七生が、しょぼんとしてこちらを見つめていた。俺は慌てて首を振ると。
「んなわけないって。美味しい! ほんと、うまい! 凄いよな? これなら店に出せるって。岳たちも満足だよな? これで家事も任せられるし、安心した──」
言いながらなぜか胸が苦しくなる。これは胃のムカムカとは違う。明らかに切なさを含んだものだ。
いや、ここは喜ぶべき所。七生は見た目も料理も完ぺきなハウスキーパーだ。俺とは比べるべくもない。
「っ!」
途端に、胃の中のものが逆流してきた。
おうっと、ヤバい!
酸っぱい何かが喉元までせり上がって来る。なんとかググッと飲みこんで耐えたが、これ以上は無理だ。岳が不審に思って尋ねて来る。
「大和?」
「ん?」
「なんか、顔青いぞ?」
「そ、そうか? ちょっと食べすぎたみたいだ。大丈夫…」
ふう。何とか乗り切った…。
なんか、暑いなーとか言って、空いた食器を持って席を立つ。冷や汗が米神を伝っていくのを、気取られないようにするのに必死だ。
食べている最中に気持ち悪いなどと言えば、作った七生が心配するし、自分の所為だと責めるかもしれない。間違って粗相をすれば、こちらがなんと言ってもそう思い込むだろう。
「俺、ちょっと先に休むな? やっぱり疲れてるみたいだ…」
「あ、食器はそこに置いておいて下さい! 僕が片付けるんで」
「あんがとな。じゃあお先──」
七生の言葉になるべく軽い感じでそう口にして、食器をシンクに置く。
ゆっくりとした足取りで何事もなかったふりをして、リビングを後にした。
部屋を出た途端、ホッとしたが、同時に気が緩んだせいで吐き気がして。そこから猛ダッシュで部屋に戻った。
「うぐ…」
キケン、キケンだ!
危険信号のサイレンが鳴り響く。
階段を上がり始めた所で、更に胃の中のものが逆流して来る。ふたたび酸っぱいものを感じて、慌てて浴室内にあるトイレに駆け込んだ。
これはつわりか? 俺は妊娠したのか?!
勿論、そんなはずはない。
もう止められねぇ。
蓋を開けたと同時、うぐっと胃の中のものが吐き出された。夕食に食べたものと全てオサラバする。
もったいねぇ。
すっかりそれらを流しながら俺は心の中でつぶやいた。
あんなに美味しかったのに。腹だってへっていたのに。
本来、吐瀉物はトイレに流してはいけない。良い子はマネしてはいけないない。トイレが詰まる可能性があるからだ。
だが、今回は多目に見て欲しい。間に合わなかったのだ。下手に跡を残して、七生に知られても、嫌な思いをさせる。
てか、初めてかも。食ったもん、吐いたの。
空腹だったところに、急に油の強いものを放り込んだせいだろうか? それともやっぱり、疲れていたのか。にしても。
当分、起き上がる気にならねぇ…。
トイレの蓋に抱きついていると、隣の棟から笑い声が聞こえた。まだ楽しい夕食の時間が続いているのだろう。
なんだろな。
本来なら俺もあそこにいて、いつも通り、面白おかしく会話を楽しんでいたはずだ。
なのに、今は。
トイレの蓋を、力なく見つめる。
今日はどうも調子が出ない。いつもと違う状況に戸惑っているようだ。
あと少し休んでから、シャワー浴びるか…。
吐き出してすっきりしたが、匂いが付いて気持ち悪い。寝るにしてもこのままでは気分が悪かった。
しかし、何かするにせよ、暫くは何もする気になれず。トイレの蓋の上に伏せグッタリしていた。気をつけないとこのまま眠ってしまいそうだ。
と、誰かがトイレのドアを軽くノックしてきた。
「大和」
岳の声だ。予想していなかった声にビクリと飛び上がる。
「な、なに…?」
なるべく平気な声を作るが。
「何って、顔色、最悪だったろ? 俺には隠すなよ。…吐いたのか?」
そりゃそうか。
岳が気づかないはずがない。
俺は仕方なく片手を伸ばし、そそっとドアを開けた。カギはかけていない。きっとゴネれば岳は強引に入って来ただろう。
「ちょっと、気分が悪くなっただけだって」
俺はトイレから上体を起こしつつ、座ったまま岳を見上げた。トイレの蓋はしてある。吐いた気配はないと思ったが。
岳は直ぐに傍らにしゃがみ込み、
「吐いたな。口の端」
そう言って、唇の端に僅かに残った唾液を親指で拭われる。岳の前で取り繕えない。
「…ちょっと、な。てか、触ると汚いって」
「大丈夫だ。ほら、熱は」
額に手を当ててきた。
「…少しあるか。辛いだろうけど、身体を起こすぞ」
「ん、てか、岳。マジ汚れる…」
全てトイレに吐き出したが、周囲に飛び散っている可能性はある。それにやっぱりここはトイレで。
けれど、岳は意に介せず、俺を抱き上げると、ドアの向こう、隣の脱衣所に座らせた。
「余計な事は気にするな。シャワーは浴びれそうか?」
「ん…。あとで浴びようと思ってた。もうちょっとしたら──」
「俺が手伝う。イス、座ってろ」
「いいのか? まだ食事中だろ?」
するとため息をついた岳は。
「大和が体調悪いのを分かってて、放っておけないだろ。食べる前からお前の顔色が悪いのは気になってたんだ。もう食事は終わったしな。ほら、いいから少し腕をあげろよ」
「分かった…。ありがと」
俺は素直に岳に従った。
汚れた身体は、拭くより洗い流した方がさっぱりするし衛生的だ。
岳は素早く俺の服を脱がせ、ひょいと抱えて浴室へ移動させるとイスに座らせ、まるでペットトリマーのごとく手際よく洗いだした。
あー楽ちん。
毎日こうしてもらいたいくらいだ。
岳なら言えばそうしてくれそうだけど。
泡を立てると髪も身体も素早く洗い、最後にシャワーで流し、気がつけばふかふかバスタオルに包まれ、ベッドの上にいた。
岳はドライヤーで髪を丁寧に乾かし終えると、
「ほら、おしまい。まだ吐き気はあるか?」
背後から岳が尋ねて来る。俺はタオルから岳愛用のバスローブにくるまれ、すっかり夢見心地だ。自然と岳にもたれながら。
「んん。大丈夫…。ちょっと、疲れてたんだ」
すると、岳はやや咎める様に。
「お前、昼、食べて無かったろ?」
「あ…う…。てか、すいて、なかったし…」
嘘だ。グウグウ唸っていた。
が、本当の事は言い辛い。まるで、悪戯を親に見つけられた時の子どもの心境だ。
「疲れていた上に、何も食べていない。そこに普段、食べつけない油の強いものを食べれば吐きもするだろ。俺も悪かった。気付いてたのに…」
「岳は、悪くない…。俺がちゃんとしてないからだって。それに、来たばっかりの七生を放っておけないだろ?」
俺はどうも、素直に甘えることが不得手で。
昔からひとりで頑張ることに慣れていた所為だろう。少しくらい不都合を感じても、素直に口に出来ない。
それに、七生はまだうちに慣れていない。なにかと気にかけてやらねば、緊張してしまうだろう。俺の我儘は通せなかった。
しかし、岳は。
「大和。俺には素直に甘えていい…。遠慮するな」
そのまま背後から抱きしめてきた。岳の腕が俺の胸元で組まれる。
ああ、なんか気持ちいいな…。
岳の温もりにほっとする。
岳に抱きしめられると、安心できて。ここにいていいのだと言われている様で、余計な身体の力が抜ける。
俺はその腕に手をかけながら。
「俺、甘えんの下手くそでさ。岳に余計な心配かけた。ちょっとずつでも変えられるよう、努力する…」
そう言えば、岳は小さく笑って。
「本当は俺がお前にもっとうまく甘えられるよう、環境を整えるべきなんだ。…すまない」
「いいって。岳は俺をちゃんと見てくれてる。わかってる…」
こうして、気付いてきてくれたのだ。
それに、俺自身が気づいていなかった体調の悪さにも気付いていて。ちゃんと見てくれている証拠だ。
「大和。もう今日はこのまま寝ろ。俺もここにいるから」
「なに言ってんだよ。七生が心配するだろ? まだ八時だし。早々に引っ込んだら、何かあたって──」
すると、岳が俺の唇に軽く指先をあてて。
「もう黙れ。いいから寝るんだ」
「ふぐ……」
そう言って、上から見下ろしてくる。その眼差しは殊の外真剣で。
色々言いたいことはあったけれど、大人しく岳の言うことに従った。
俺は岳に手伝ってもらいながら寝間着に着替え、歯を磨き寝支度を整えると、素直にベッドの布団の中へ潜りこんだ。
横に座った岳を見上げると。
「…ごめん。久しぶりなのに、相手できない…」
「バカ。気にすんな。お前の体調が先だ」
岳は前髪をかき分け、そこへキスをする。
「ん…。俺は──残念…」
へへっと笑って見せると、
「煽るな。それに、やるだけが繋がりじゃない。今晩は大人しく大和を抱いて眠るだけにする…」
「岳…。ありがとな…」
目を閉じて、唇に落ちてきた優しいキスを受け止めた。