39.行き先
久しぶりに走ったお陰で息が切れる。口の中に血の味がするよう。
「っ、は…」
隠れる為、路地の物陰、室外機の傍らにしゃがみ込む。
上着など着ていないのに、汗も止まらない。冷えた空気の中、汗で濡れた服が皮膚に張り付き気持ち悪かった。
追手を撒いた後、どこへ向かうか。行き先など、思い当たらない。
岳に関係する者を頼ることは出来ない。
何処に行ったらいい?
本当は、行きたい場所がある。
会いたい人がいる。
今すぐにでも抱きついて、抱きしめて──。
その人の傍から離れたくない、そう思える相手がいる。
けど。駄目なんだ。俺がいたら──。
「いたぞ! 回り込め!」
久我の部下だ。
「くっそ…!」
ざりと砂を蹴って重い腰を上げると狭い路地を走り出す。
前方へ回り込まれた様だ。後方からも追われている。早く抜けないと挟み込まれてしまう。
次、捕まったら、後が無い。
足が笑い出す。カクリと力が抜けそうになって、それをグッと堪えた。
駄目だ。こんな所で──。
次、久我に捕まったら、二度と逃げられない。無事な姿で岳に会うことはないだろう。
久我は容赦しない。そういう部類の人間だ。藤だって本気で消そうとしていたのだから。
そんな事になれば、岳がどんなに苦しむか。
そうならないため、俺は先に別れを告げるつもりだった。捕まってなどいられない。
と、目の前に黒い影が唐突に躍り出た。
久我の部下だ。そう思ったのだが急には止まれない。
「っ!」
急ブレーキを踏むように立ち止まったが、身体が前のめりに倒れて込みそうになった。同時に身体の力も抜けてしまう。貧血が起きたのだろう。
腕が伸びて、捕えられる。
駄目だ。逃げないと──。
必死に腕を突っ張ろうとしたが、強く引き寄せられ、身動きが取れなくなる。
イヤだ! 離せっ!
けれど、敵なのに抱き込まれた途端、涙が勝手に湧いてぽろりと落ちた。
なぜだか分からない。けれど、この温もりを身体は覚えていたらしい。
「大和…!」
あ─…。
耳元に響く、懐かしい声音。低音で幾分、ハスキーな──。
「もう──逃がさない…!」
「…た」
岳。
びっくりするのだが、俺はそこでプツンと張り詰めた糸が切れるように、意識が飛んで気を失った。
いや、意識を失うように眠ってしまった、の方が正しいのかもしれない。
正直、ろくに眠れていなかったのだ。
俺はずっと、追い込まれていて。
自分は危険な奴で、岳の傍にはもいられない。岳と別れる、その思いにずっと取り憑かれていて。正直、しんどかった。
別れなければならない。別れなければ──。
壊れたロボットのように、そう繰り返していた。
本当はそんなこと、微塵も望んではいなかったのに。
+++
藤からマンションの場所の連絡を受けると、直ぐに車で向かった。真琴には既に行き先を告げてある。
大和を必ず取り戻す。
例え大和が前のように逃げようとも、必ず捕まえて、今度こそ逃さない。
いつから大和を抱きしめていないのだろう。
毎晩、夢に見る。
手を伸ばして、伸ばされた手を掴んで握り返して。引き寄せて。腕の中に閉じ込める。
大和はずっと笑っていた。照れ臭そうにこちらを見上げて、キスするともっと笑う。
夢じゃない。
あれは、少し前まで現実にあった事だ。
大和。
夢の中でなく、現実にその名を呼びたい。
深夜近く、藤から再び連絡が入る。一時は捕まったようだが、大和の機転で逃げられたとのことだった。
その報告に安堵したが、大和が藤のもとから逃げたと言う。その理由を聞いて愕然とした。
俺と別れる? ──あり得ない。
迷惑がなんだ。そんな事、一つも感じない。大和を迷惑に思う事などないのだ。
それを言うなら、岳の方こそ大和を巻き込んでいる。
ヤクザだった自分に好かれたばかりに、酷い目にあって来た。今回も、自分のせいでラルフに乱暴を働かれ、久我に捕まり。
とんだとばっちりだ。
岳の方こそ別れるべきなのだ。
けれど、俺はもう、その選択肢を選ばない。
これは前に大和を諦めようとして、それをやめた時に決めたことだ。
二度と手放さない。
もし、大和が去ろうと言うなら、力尽くでも引き止める。有無など言わさない。
大和は俺だけものも。どこにも行かせない。
大和が向かった先へ回り込む。
怒鳴る声を聞いた気がした。路地がある。
もしやと思い、そこで待ち構えると、予想通り大和が走って来た。
あちらからは外灯が逆光になって、顔は見えないだろう。
路地が終わる所で、止まり切れなかった大和が躍り出る。
大和──。
岳は腕を伸ばし捕らえた。
腕に感じたのは、予想以上に軽くなった身体。目に映ったのは、唇の端に血の滲んだ跡。蒼白い顔。
泣きたくなった。
ここまで大和を追い詰めた──。
自分の無力さを呪うと同時に、心に誓う。
もう、逃さない。
+++
岳が大和を抱きとめた後、直ぐに久我の追手が現れた。
十数名程度か。応援を呼んだのか次々と現れた。皆、厳つい容貌。よく鍛え上げられているのが服の上からも分かる。岳を認めて、中の一人が久我に連絡を入れた様。
進み出た一人が口を開いた。
「久我さんの命令だ。一緒に来てもらう」
岳は薄く笑う。
「…一緒に行くつもりは、ないな」
久我の部下らは無言で、岳と意識のない大和を取り囲む。
人気のないビルの裏手。きっと廃ビルだろう。明かりの一つも灯っていない。
好都合だ。
ここなら少しくらい騒いでも平気だろう。
岳は着ていたジャケットを脱ぎ大和を包むと、自分の背後、壁際へそっと横たえる。
それから振り返って男たちと向きあった。
「遠慮なく、やらせてもらう──」
「──っ」
一斉に手下が、じりと詰め寄った。
藤がその場へ到着した頃には、久我の部下は皆、地面に突っ伏していた。誰一人、起き上がれるものはいない。
その向こう、岳は大和を抱きかかえ様という所。先に大和を見つけていたのだ。その様子にホッと息をつく。
岳に連絡を入れてからここへ到着するまで、そう時間はかかっていなかった。改めて、岳の強さを認識する。
と、大和を抱いていた岳が、藤に気が付き声をかけて来た。
「藤、運転を頼む」
そう言って、そばに駆け寄った藤に、車のキーを渡した。岳の拳には血がついている。
「奴のマンションに着いたら、車の中で待機してくれ。…もし、三十分で戻らなければ、楠の下にいけ」
「行きません。迎えに行きます──」
藤は強い意思を持った眼差しを岳に向けるが。
「誰が大和を守る? お前だから託すんだ。──話はこれきりだ。行くぞ」
藤を一瞥すると、後は何も言わず近くに停めてあった車に乗り込んだ。
その間、岳は壊れものでも扱う様に、大事そうに膝の上に大和を抱きかかえていた。




