36.決心
その数時間前のこと、ラルフは夜遅くマンションに帰ってきた。
ラルフは何件かあるマンションをあちこち気まぐれに訪れているらしく、俺の居候するこのマンションにも、何日か日を空けて訪れる。
どうやら、事務所が借りていないものも含まれているらしい。金持ちのパトロンがいるのだろうか。
その内の一つ、俺が今いるマンションには、ハウスキーパーが一度も入っていない。
俺が炊事洗濯をやってしまうせいだ。他にやることがないから、端からやっているうちに、いつの間にかそうなっていた。
七生が家に来てから、ずっと遠ざかっていたために、久し振りに本腰を入れてやると、気がつけば一日が過ぎていて。その間は岳達の事を考えずにいられた。
けれど、何日かそうして過ごすうち、ふと思ったのだ。
俺はここで一体何をしているんだろうと。
確かに帰れないと思ったけれど…。
ここで食事を作って掃除して。洗濯までして、主を迎える。
でも、俺がすべきことは、これじゃない。そう、気付いたのだ。
俺がすべき事は──。
俺はひとつの決心をした。
「あれ? 起きてたの?」
ラルフを待つうち、ソファでうたた寝してしまったらしい。
気付くと、部屋の間接照明がともされ、ラルフがソファの上から見下ろしていた。今日は外で夕食を取ると連絡があったのだ。
俺は目を擦りながら、身体を起こす。
「…ん、いや──。ここで待ってた…」
「僕を? こんな所で寝たら風邪ひくよ? もう季節は冬に向かっているんだし。外が寒いのなんのって」
エアコンは入れてあるが、どこか肌寒い。外の気温が更に下がったのだろう。ラルフが設定温度を上げた。それを目で追ったあと。
「ラルフ──。俺、さ。やっぱり、ここを出ようと思う…」
「出るって…。行き先は? どこにもないって言ってなかった?」
「家に帰る」
「──そう」
俺の言葉に一瞬、間があったもののそう答えた。
「一度…岳と話さないといけない。それで岳と──別れる。その話をつけてから、岳たちの家を出る。行き先は──その後、考える…」
「分かれるって…本気?」
「考えたんだ…。俺が側にいれば、また迷惑をかける。今回の件で良くわかった…。岳の為にも──別れる…」
俺の決心。
それは、岳と別れると言う選択。けじめをつけること。
いや、無理でしょ? と誰もが言うに違いない。確かにそうだ。想像してもそんな未来は想像もつかない。
けれど、そうしないと俺は一生、岳の足を引っ張ることになる。
それくらいなら──。
去るべきなのだ。明るい未来を歩み始めている岳に、俺はそぐわない。
岳がこれからも穏やかに過ごすために、俺のような危険人物と一緒にいてはいけないのだ──。
何処が危険だって?
だって、そうだろ。俺は平気で岳の為に人を殺めることができる。これの何処が危険じゃないと言えるんだ?
だめなんだ。
岳がやられると思うと、どうしても制御できない。勝手に身体が動いてしまう。善悪の判断がつかなくなる。
俺にとって正義は岳だけ。岳を邪魔する奴は──排除する。俺の単純なプログラムにはそう組まれていて、どうにも組み直しが出来そうになく。
岳にしてみれば、爆弾を抱えた様なものだ。いつ爆発して、一生償えない罪を侵すか分からない。
それくらいなら、いっそ、岳のもとを去った方がいい。
できるかな? じゃない。──やるんだ。
どんなに辛くても、それが岳の為。岳になんと言われても、何かあった後じゃ遅いんだ。
もし、罪を犯すようなことになれば、岳も巻き込んでしまう。それだけは何としても阻止せねばならないのだ。
結局、俺自身を排除しなきゃ、なんてな。
岳の幸せを守るため──。
でも、これは俺の描く岳の幸せで。俺は岳の望む幸せを、考えてはいなかった。
この時の俺は、ラルフの言葉に相当追い込まれていて。後ろ向きの選択しか出来なかったのだ。
「そう…。決めたんだ」
ラルフは俺の決心に驚く事はなく。どこかあっさりしている様にも思えた。
「だから、ここを出る──。色々あったけど、今まで…置いてくれてありがとう」
俺はぺこりと頭を下げた。
とにかく、このままではいけない。ここにいては何も進まないのだ。岳だって、先へ進むことができない。
「…わかった。君がそれでいいなら。もう、引き止めないよ。けど、今日は遅い。明日でいいんじゃない?」
「いや。気の変わらないうちに、行こうと思う。ちょっと遅いけど。多分、その方がいい…。服は落ち着いたら後で返す」
「そんなのいいよ。って、本当に今から? もう十時回ってるけど──」
「早い方がいいんだ。…岳にとっても」
俺との関係を終わらせる。
そんなことを言えば、岳はどう出るか。多分、すんなりとは引き下がらないだろう。岳なら、きっと一緒に乗り越えようと言うに決まっている。
けれど、それじゃ、ダメなんだ。
何かあってからでは遅い。手遅れの事故が起こる前に、距離をとるべきなのだ。
岳には、もっと穏やかで血なまぐさいこととは無縁の、七生のような人物と付き合うのが似合っている。
俺だから、こんな事に巻き込まれるんだ。
すっかり後ろ向きになった俺は、リビングを出ようとドアノブに手をかけた、その時。
勝手にドアが開き、ひとりの男が現れた。
「おいおい。お前を捕まえるのに、どれだけ手間がかかったと思ってんだ。行かす訳には行かねぇな。俺の用事は──済んでない…」
行く手を阻む様にそこに腕を組んで立った。
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黒いシャツに、同じく黒の革のパンツ。ラルフよりもさらに背が高い。
日に焼けていない肌は白く、痩せ形の割りに骨格はがっしりしているようだった。髪は襟足のあたりまで適当に伸びている。
頬はこけて無精ひげが生えていた。目つきは鋭くかなり悪い方だ。
匂い的には古山と同じ。とにかく醸し出す雰囲気は一般人のそれではない。
「…誰だ?」
「さて。誰だろうな…」
男は薄ら笑いを浮かべると、そのまま進み、ソファの傍に立っていたラルフの腰を抱き、自分の方へ引き寄せた。
「ちょっと、手、離してよ。今はそんな気分じゃないっ。話もできないだろ? 大体、隆一の用って? 聞いてない──」
「言ってねぇからな。お前の用向きだけで、こんな面倒な事はしねぇよ」
隆一と呼ばれた男はラルフの腰を抱きながら、首筋に頬を寄せる。
ラルフの用向き?
俺は訝しげな視線をラルフに送る。
「言ってないって…。何するつもりだよ? 大和くんは自由にする約束だ」
「そうだったか? …まあ、途中で変わったんだ。こいつは俺の為に役立ってもらう──」
「は? 何言って…」
久我は腕の中にラルフを閉じ込めたまま、こちらを見やった。
「鴎澤岳への復讐だ」
俺はその言葉にハッとして息を呑んだ。
復讐…。
この一帯を取り仕切る、元ヤクザの統領磯谷が、二度と岳たちに害が及ばない様にすると言っていた。あの言葉に嘘はないはず。
だから報復など考える輩はいないはずだったが。
どこにでも、組織からはみ出る者はいる。この男はそれだったのだ。
「…なんて、かっこつけたもんじゃねぇが。俺は久我。古山さんの部下だった人間だ。お前は鴎澤岳の連れなんだろう? だったら奴に痛い目をみせるいいチャンスだと思ってな。古山さんだってこいつが、弱味と分かって使おうとしてた。ラルフから依頼を受け、その相手がお前だと知った時、いい機会だと思ったって訳だ」
「……」
ラルフは押し黙る。
「話って…。俺を、嵌めたのか?」
俺はラルフを見返す。するとラルフは薄く色づいた唇を軽く噛みしめ。
「…だって、慧斗の件、納得したわけじゃない…。あんな話し、都合良くでっち上げられる。現に弟は岳さんと別れたあと、命を絶った…。だから、同じ思いを少しでも味わえばいいと思ったんだ」
「同じ、思い…」
「僕から慧斗を奪った様に、岳さんから君が離れるように仕向けた。それは成功した。そうだろ? 君は鴎澤岳と別れるんだろ?」
「……」
俺は手の平を握り締める。
全ては仕組まれたこと──。
俺はそう思い込まされただけたったと言う事か。
けれど、それは元々俺の中で燻っていた思いで。それが今回の件ではっきりとわかったのだ。
確かにラルフの行為は悪質だ。岳への意趣返しの為に、俺を嵌め岳との別れをもくろんだ。そしてそれは成功した。
けれど、それは俺の気持ちを整理するのに一役かったに過ぎない。
「だから、大和くんが岳さんと別れる決心でここを出ていくなら、そこで終わりのはずだった…。後は放っておいても拗れて、自然に別れるだろ? なのに…」
ラルフは何処かうらめしげに久我を睨みつける。久我はラルフを宥めるようにその首筋にキスをし笑うと、
「あいつを苦しめるのに何が効果的か、よく考えてからお前の身の振り方を考える。それまでここにいてもらう」
「俺は出ていく」
久我を無視して部屋を出て行こうとすれば、その横を通り過ぎざま、ラルフを抱いていない方の空いた手で肩をつかんできた。
「…行かせると思うか?」
それまでののんびりとした口調からは想像つかない低く鋭い声音。掴んだ力は見た目より強い。これでは、振り払う位では外れないだろう。
けれど、もうここにはいられない。
岳と距離を置くにしろ、ここにいては、足を引っ張る事になる。
それこそ、俺の危惧していた事で。
「俺の自由だ」
久我を睨みつける。
俺は肩に置かれた久我の手を掴むと、はがす様にして外した。すると苦笑した久我は。
「…まったく、物わかりの悪い──」
言い終わらないうちに、腕に抱きかかえるようにしていたラルフをこちらへ向かって突き飛ばしてきた。
「あ!」
ラルフが声を上げる。咄嗟に腕を伸ばして抱き留めれば、その隙に久我が脇腹を蹴りつけてきた。
「ふ、っ…!」
避ける間がない。まともに食らって、壁際まで吹っ飛んだ。
ドコンと鈍い音がして、壁に頭や背中をぶつけそのまま床に滑り落ちる。息ができない。
「大和! ちょっと、酷いことはしないって──」
「言ったか? 忘れたな。物覚えが悪くてな」
言いながら、再度近づいてくると、ぐいと胸もとを掴み上げ、何も言わずにさらに数発、腹を殴りつけられた。
抵抗しようにも、一発目のお陰で呼吸もままならず、立ち上がることさえできない。
足先が床につかず、クレーンゲームで釣り上げられたぬいぐるみと一緒だ。
背後でラルフが必死に制止の声を上げるが、聞く耳など持たなかった。久我は俺の胸もとを掴んだまま。
「この程度、殴った所でお前なら平気だろ? …これで済むと思うなよ?」
「…っ…!」
久我はそのまま俺を引きずる様にしてリビングから連れ出すと、廊下を出て俺の使っていたゲストルームへと放り込んだ。
「外に見張りも立たせてある。ここから逃げられると思うな」
「……っ」
「ちょ、離して! 手当しないと──」
ボロ雑巾のように投げ捨てられた俺に、ラルフが駆け寄ろうとするのを、久我が引き留める。
「放っておけ。どうせこの程度じゃくたばらない。──行くぞ。今日はこんな為にここへ来た訳じゃねぇ。久しぶりなんだ。たっぷり楽しもうぜ」
言うとラルフの腰を抱くようにして、部屋を出ていく。
バタンとドアが閉じ、鍵のかかる音がした。ラルフの訴える声は、次第に小さくなっていった。