33.訪問者
柳木は既に集中治療室を出て、一般病棟の個室に移っていた。警察の方でもあまり一般人と接触させたくはないらしく、この扱いになったのだ。
怪我の回復には最低でも三カ月はかかると言う事だった。ただ、こうして生き延びれたのは、危険な個所は避けて刺された為で。
刺したのは──。
柳木は一度目を閉じて、再び開けると、重いため息を吐き出した。
刺した本人は、悪びれもせずここへやってきて、急所を外したから生きていると思ったと笑った。謝罪はない。
その時、初めてぞっとした。
いや。もともとこういう人間だったのだ。
薄々気づいてはいたが、尊敬する部分もあり。それに畏怖に近いものもあった。
だから大人しく下についていたのだが──。
『お前を刺したのは俺じゃない、別の男だ。それに、お前たちをやったのも──その男だ』
と。そう言い含められ。
拒否できるはずもない。断れば、今ここで再び命を奪われる可能性があった。
過去に傷害罪で服役したこともある。表に出てこなかったものもかなりあるだろう。人を害するのに抵抗を持たない部類の人間だった。
柳木は、男の指示にただ大人しく頷くしかない。
その日、面会時間を過ぎた夜遅く、親族と名乗る者の来訪を柳木は受けた。
親族など縁が切れて久しい。
一体誰なのか。
大抵、そう言ってやって来るのは、同属の連中だ。
何の用なのか。
男の来訪と重なる。
身構えていると、入って来たのは洗練された居住まいの男ひとり。まるで俳優やモデルと見紛うばかりの整った容姿だ。
濃紺のジャケットに白のTシャツ、黒のパンツ。ラフな出で立ちだった。
てっきり男の部下のヤクザ連中かと思ったのだが、どうやら様子が違う。
「あんたは…」
記憶にはない。男は居住まいを正すと、
「驚かせて済まない。俺は鷗澤岳。親族と偽って済まなかった。そうでもしないとここには入れないからな…」
鴎澤と名乗った男は、そう口にすると、近くにあったイスを引いて座った。柳木は身構える。
こいつは同じ匂いがする。──あの男と。
身なりでは隠しきれない何かを感じた。
「あんた、何ものだ? 俺に…何の用だ?」
「俺は──君が刺される直前まで話していた青年の連れだ」
「…確か、──宮本」
なんと言ったか。すると岳は引き取って。
「大和だ。名乗ったんだな? あいつ…」
苦い笑みを浮かべた。
「……」
柳木はじっと岳を見つめた。
確かにあの男と同じ匂いはしたが、決定的に違うものを感じた。
この男には、ひとらしさがある──。
「実はその話の続きを聞きたくてここに来た。大和が襲われた時の話を聞きたくてな。いま、大和は行方不明だ。その行き先を探るには、関係者から話しを聞くのが一番だろうと思ってな」
「……」
柳木は押し黙る。
「警察に大和の件は話していないだろう? その理由を知りたくてな。…本当の所を聞かせてくれないか?」
岳の眼差しは真摯なものだった。本当に知りたいだけの様に思える。
鷗澤岳。どこかで聞いた気もするが…。
「…聞いてどうする?」
「あの時、大和は君を刺したナイフの側に立っていたんだ。手を血まみれにしてね。この目で見た…」
「──!」
岳は柳木の動揺を見逃すまいと、じっと見つめている。
「──だが、大和が人を刺すとは思えない。君ならなにか事情を知っているんじゃないかと思ってね。君は自分を刺した人間を見たんだろう? 警察には自首した男に刺されたと証言したようだが、実際、どうだったのかと思ってね。俺の入手した情報と食い違う…」
肩をすくめる様な素振りを見せる。
「食い違う…。あんたの情報は?」
「俺の得た情報では、警察に出頭した男は君を刺していない。奴の裏は取れてる。その時間、別の場所にいたことが分かった。確認すると、訪れていた店の防犯カメラの幾つかに彼の映像が残っていてね。なら、君を刺したのは誰か──。なぜ、嘘の証言をした? 誰かに何か言われているのか?」
「…言えない」
柳木の言葉に岳は深いため息をつくと。
「俺は大和を取り戻し、嵌めた奴をどうしても突き止めたいんだ。そして、その理由を知りたい。大和が行方不明になったのは、多分そいつが絡んでいることは確かだろう。たとえ大和が戻って来たとしても、はっきりさせないと、また同じことが起こる──。そんな気がしてな…」
柳木は手元を見つめると。
「あいつは…危険な男だ。あんたが、幾ら場慣れしていても、危ない。そいつが何を考えているのか分からないが、関わらない方が賢明だ」
「危険もいとわないさ。そんなもの、気にしない。大切なものを取り戻すためだ。──二年ほど前、潰れたひとつの組を知らないか?」
「二年前…」
「…まあ、下の奴らにはそこまで知られてはいなかったかもしれないが──」
「鴎澤──あの、鴎澤組の…? あんた…」
今は、その後を組長の息子ではなく、当時、若頭補佐の男が引き継いだと──。
「なんだ、やっぱり知っていたのか…。ああ。その鷗澤の息子だ。今はもう、足を洗っている。──というより、元の世界に戻っただけなんだが…。まあ、この話はいい。だから、幾ら危険だろうと、しばらく、そっちの世界にいたこともある。それなりに場数は踏んできた。あんたが言う男が危険でも、それなりに対処はできる。躊躇う事はないと言いたくてな」
それはそうだろう。
鴎澤組。上のものから関わるなと、釘を刺されていた組だった。もし、不貞を侵して、一度でも睨まれれば、つぶすまで追い回されると聞かされていたからだ。
当時、鷗澤組の若頭は切れ者で、この世界には似つかわしくない容姿の持ち主だとそれも有名だった。
実際、目にしたことはなかったが、誰かが撮った小さな画像を目にしたことはある。だが、サングラスをかけ、周囲を部下に囲まれ、ほとんど顔は判然としなかった。
「あんたが…」
それなら、俺に指示を下した例の男にも対抗できるだろう。
柳木は唇を噛みしめた。
あの時の衝撃と驚きと痛みが一気に蘇る。
一歩間違えば、自分は死んでいた。幾ら急所を外したと言え、一時は危なかったと医者も口にした。
自分の命など、道具の一つに過ぎないのだ。いくら忠誠を誓っても、それは男にとって、どうでもいいもの、都合のいい呪文のようなものだ。
俺は、駒の一つ。
「そいつ…とは?」
柳木は俯くと、観念し口を開く。
「…久我って奴だ。俺らを取りまとめてるヤクザだ。…宮本大和を昏倒させた後、油断した俺を刺した」
「やはり、そうか…。それで、久我は君にどう言う話を?」
柳木はため息をつくと。
「最近、俺たちのシマを荒らす連中がいたんだ。どうにかしたくて久我さんに相談したら、そのリーダーを、あの倉庫跡に呼び出したから、仲間もろとも、落とし前をつけて来いって言われて…」
「──そこに大和と七生がいたのか。でも、なぜ君は刺された?」
「…わからない。久我がその後、宮本に何をしたのかも知らない…。ただ、久我は俺が無事だったのを知ると、病室を訪れて俺を刺したのは別の男だと、そう警察にも言えと脅された…。多分拒否したら、そこで俺も…」
柳木はシーツを握り締める。握った拳が震えた。
「そうか…。分かった、ありがとう。無理を言って済まなかった。このことは久我には漏らさない。俺の胸の内にだけ留めて置く。…他に久我の事で知っていることはあるか? 根城にしているマンションはあるのか?」
「最近、付き合いだした連れがいて、そいつにぞっこんなんだ…。今はそいつのマンションに入り浸っている。時々、そこまで迎えに来させられもした…。何カ所かマンションを借りてあちこち転々としている。毎回場所が変わるから、覚えても次は違ってる」
「そうか…」
「その連れがやたら美形なんだ。初めは女だとばかり思ってたんだが、実は男で…。でも、あそこまでいくと性別なんてまるで関係ないだろうな。けど、俺は怖くて手は出せないタイプだった。ちょっと怖いくらいの…」
「その話しは聞いていたが…。男、だったのか」
岳は思案顔になったが、すぐに視線を戻すと。
「所で──この先の身の振り方は考えているのか? 久我の元にまた戻るつもりか?」
「考えていない…」
「そうか。もし、その気があれば、元、鴎澤組の楠という男を頼れ。話はつけてある。まあ、無理にとは言わないが、悪いようにはしないだろう」
「あ、ああ…。分かった…。すまない…」
「大和が君に名乗ったと言う事は、君を不審人物と見てはいなかった証拠だろう。大和が信じる者は俺も信じることにしている…。それでは。夜遅くにすまなかった」
言うと、鴎澤岳は立ち上がった。
と、陰になった闇の中にもう一人、人がいたことに気が付いた。
岳が動いたことでそれも動いたからだ。大柄な体躯なのに、どうして今まで気づかなかったのか。
どうやらボディーガード役も連れていたらしい。その男も音もろくに立てず、部屋を後にした。
のちにここを退院するにあたっての入院費、治療費が全て支払われていたことを知らされ、驚かされた。
支払った人物の風体を看護師から聞かされ、それが岳だったことはすぐに知れた。
+++
「藤、久我の事務所をはってくれるか? 奴の動きを知りたい。大和の件を指示したのが奴なら、奴の行き先のどこかに大和がいる可能性がある」
「はい」
岳は病院駐車場に止めた車に戻ると、運転席に座った藤にそう告げた。
真琴からも、車のナンバーから持ち主が割れたと知らされていた。追っていくと久我と言うヤクザ者の部下の持ち物だった。
その久我は、例の古山の元部下と分かり。
柳木を訪ねる前に、予測はついていたが。
古山のもと部下か──。
やはりろくでもない連中にはろくでもないものが集まるのだ。もうこの世界からは足を洗ったのに、どうしても付きまとう。
それだけ、切ることは難しいと言う事か。
しかし、今はそれが役に立っている。
久我という男の足取りもすぐにつかめるだろう。その居所も交友関係も。
そこで件の恐ろしいほどの美貌の持ち主が出てくる。
怖いくらいの──か。
そうそうある容姿ではないだろう。一般人ではない。ヤクザ連中と付き合うのだ。まともな職業のものではないだろう。
水商売の連中か、そちらにつながるものか。
ふと、ラルフの姿が思い浮かんだ。彼ならそれにぴたりと当て嵌まる。一見しただけでは奴が男だと気付くものはないだろう。
例の薬の件もある。どこかでそう言った連中と繋がりがあっても、おかしくはない。
関係ないとしても、探ってみる必要はあるだろう。関係なければそれでいいのだ。
動きを調べておくか──。
こちらはマネージャーを押さえればわかるだろう。
大和を探すためなら、どんな手間もいとわない。どこにいるにしろ、無事でいて欲しかった。